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キリスト教はイエスの復活がその信仰の根拠となっていて、それを検証する(本当に復活したかどうか)ことが弟子たちの残した文書(新約聖書の四福音書、使徒の働きなど)等によって出来ますが、同じように何かただ信じるだけでなく、信仰の根拠となるものが検証の余地のある宗教はあるでしょうか?

たとえば、イスラム教は天使ガブリエルがムハンマドに現れたことなど、第三者の証言等があるのでしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

 回答No.10にも 補足要求をもらっていますが 回答内容に対してのお応えであるように考えられる部分はありません。


 よって ここでわたしは降ります。
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日蓮の仏法を正しく信仰すると言う事は、大聖人以来の血脈に随順して根本のある法体である本門戒壇の大御本尊を信受することあり、その信仰こそ真実の功徳と成仏があるのです。

heisenberg様はどのようなお立場の方かは存じませんが、恐らく本門戒壇の大御本尊すら拝む事すら出来ないお立場の方と存じます。当然、そのような方には血脈も御座いませんし、「日蓮の教え、御書が正しいと検証できるものは?」とここでいくら私と議論を致しましても貴方の満足いく回答は出来ないと思います。ですから学会の時に耳にされたでしょう。「理証、文証、現証」、これに尽きます。
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 ★ (No.8補足欄)主観以外の根拠を求めています。


 ☆ 主観も 根拠にならないと言えば ならないのだと言っています。

 主観以外のものは あくまで誰かの主観をとおして認識されるものであると言っています。






 信仰の根拠 これは ありません。
 
 たとえば《義無きを以って 義とす》る(親鸞)のが 信仰です。

 あるいは 神は 《既知でも未知でもなく あるいは不可知(知りえないと知った)でもなく そうではなく 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)である》として 想定することにおいて その言葉を人びとは共有する。ということまでしか 有効性はありません。

 つまり 世界のものごとは いわゆる客観と言っても 事実認識としてはつねに或る人の主観において成立したと見なされる。ということにしか過ぎません。

 事実認識の内容を誰もが共有し得れば 科学的真実であるとなります。

 主観内面における心のことは よほどの事実認識として皆に共有されるのでなければ 科学真実であるとは見なされません。

 言いかえると 思想などにかんしては 複数の人間が同意する内容をもって ある種のかたちで主観共同だと捉えるまでです。

 ただし 主観は――誰のものでもない自由意志にもとづき思惟し行動するということに自然本性として成っているので―― その内面にいだいた思想内容は おのれの真実であると 正当にもかたくなに思っています。





 ところが 信仰の対象(非対象)である神の想定内容としての《真理》は 主観がそして科学がいくらがんばっても それを知ることは無理です。知り得るか知り得ないか それが知り得ないナゾです。これが 真理です。


 すなわち 真理は 根拠があるか無いか それすら人間には分かり得ません。ふつうは これを 根拠がないと言って了解します。無根拠を根拠としているとして 神についてそしてそれを心に受け容れる信仰について それとしてじつは《現実》であると見なしていますし そのようにしておのが主観を語ることもある。


 こういった事態であると考えます。



 聖書という文書は あくまで聖書記者〔たち〕の主観内容を言葉にして書き表わしたものです。そのどこが根拠になりますか?

 人間の発言ないし文章は いかに神について真理について信仰について明らかにしていたとしても すべては 主観の内面をみなさんに紹介したものです。

 神についての代理表現であると捉えるべきです。聖書は 神を問い求めるときの補助線です。けっして根拠ではありません。


 言いかえると 神は・真理は むしろ《根拠》を必要としていない。こういうことです。

この回答への補足

たとえばナポレオンが存在し彼がエジプトで戦ったということをどのようにして知ることが出来ますか?主観的思考によってですか?様々な文献や資料によってですよね。例えば新約聖書の福音書は哲学思考ではなく目撃証言として書かれています。それを信じるかどうかは別ですが。
以下の本が参考になります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82 …

補足日時:2014/05/06 23:28
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/09 00:30

こんばんは



>刷り込みは検証出来ないと考えますか?

人間の赤ちゃんでも刷り込みはあるようです 
アメリカの小児科医であるデズモンド・モリスによると 生まれたばかりの赤ちゃんが1時間ほど母親の顔を一心に見つめるという現象(新生児覚醒状態)がある

また 新生児人見知りは刷り込みがある証拠だと考えられているようですよ

自閉症と刷り込み 1 - Biglobe
http://www5b.biglobe.ne.jp/~ssiraisi/2.html

遺伝子レベルでのゲノム刷り込みもあるようです
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82 …

私は 宗教には集団心理が強く働くのではないかと考えています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3% …
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 ★ (No.2補足欄)..というあなたの回答が正しいという根拠、検証材料は何かありますか?


 ☆ 回答は 言うまでもなく おのれの主観内容をのべるものです。

 その内容に妥当性があり全体として整合性が確認されるならば その主観はひとつの見解であるとみとめられます。

 ほかにもそういうかたちで認められる見解があり得ます。


 相対的な内容として 妥当である・そしてその意味でただしい というまでの認めや受け容れは 可能であるはずです。


 そういうひとつの回答を〔確信を持って〕寄せました。




 検証する場合には 反論すればよいわけです。

この回答への補足

主観以外の根拠を求めています。

補足日時:2014/05/06 01:01
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「信仰の根拠を検証できる宗教?」について、又先ほどのheisenbergさんの「日蓮の立正安国論や弟子に宛てた数々のお手紙が正しい真理と検証出きるものは?」との事を含めて書きますが、私も学会員ではありませんが南妙法蓮華経を唱えています。

ですが日蓮宗身延でも同じように南無妙法蓮華経を唱え、また身延にも御書がありますが、私達とは全く違います。なぜ違うのか、それは身延には血脈が無いからです。heisenbergさんもご存知でしょうが血脈には「法体の血脈」と「信心の血脈」があります。某宗教団体のホームぺージを見てみますとこの「法体の血脈」が出て来ないです。御書に「生死一大事血脈抄」があります。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所詮妙法蓮華経是なり」と仰せであります。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極あるとの意味であります。この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第日蓮日興」との仰せのごとく、第二祖日興上人にすべてが受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。ですから貴方が言われる「信仰の根拠を検証できるもの」「日蓮の立正安国論、弟子に宛てたお手紙が正しい真理と検証できるか?」については私がここで言わなくても、唯授一人の血脈相承を伝持あそばされている本宗の代々の御法主上人猊下によってすべての面に検証されそれを我々に教えて下さっている訳で、こんな事は破門された団体の方々には到底理解出来ないことだろうし、分からない事だと思います。

この回答への補足

「日蓮の立正安国論、弟子に宛てたお手紙が正しい真理と検証できるか」どうかについて、あなた自身その検証内容を知っていますか?それとも、検証した御法主上人を信頼しているということですか?
その場合、御法主上人の検証が正しいという根拠は何でしょうか?

補足日時:2014/05/05 23:35
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heisenbergさんの回答を時折見ておりますが、今度は「日蓮の教義にも根拠は無い」と言われています。

では「立正安国論」とか数々の弟子に宛てた手紙とか、その原本が今もなお現存していますが、それでも「根拠は無い」と言い切れますか?

この回答への補足

「「立正安国論」とか数々の弟子に宛てた手紙」に書かれた内容が正しい(真理である)と検証出来るものが何かありますか?

補足日時:2014/05/05 11:10
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ドイツの動物学者コンラート・ローレンツは、動物のひなが、生まれて初めて見たものを”自らの生においてもっとも必要な存在”とみなし、無条件にそのものに追従する現象を見出し、これを”刷り込み”imprintingと名付けた



http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%88 …

この回答への補足

刷り込みは検証出来ないと考えますか?

補足日時:2014/05/05 11:08
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基本的に、No.2さんと同じ考えです。


信仰には「根拠」などというものはありません。
僕は元創価学会員ですが、日蓮の教義にも根拠はありませんね。
日蓮は、その「御書」でさまさまなことを言って、「これは、わたしが言っているのではない」「これこれしかじかの経典に書いてあるのだ」と主張しますが、その経典自体が根拠のないファンタジーですので根拠には成り得ないのです。

結局、信仰というものは、ただ、「信じなさい」という世界ですね。
「根拠は提示できないけど、信じなさい」・・・。
理性のある人なら、とても、受け容れられないことです。
創価学会の幹部だった人は、「自分の頭で考えられる人間、考える人間は、創価には向いていない」と言っていましたが、学会員は、根拠がなくても信じるような人間の集団です。
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この回答へのお礼

創価学会の信仰に関して最終権威は「経典」で、その経典自体には根拠がない、ということですね。ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/05 06:38

 信仰の根源は「畏れ敬う心」なんだと思います。



 人の心には、神仏に惹かれる善的心と、煩悩悪に惹かれる悪的心、が生じます。

 多くの人、あるいは大抵の人は“その心に反映した神仏の「良心」”が自身の行為に可否と云う反応を示し、神仏の思いに叶えば納得して迷いません。。また叶わなければ後悔や懺悔の気持ちが現れます。こうした反応は神仏の反応なのであって、煩悩悪の反応ではありません。

 神仏の思いに合致すれば、わたくし心の「良心」は納得しても、後悔はしないのです。

 そう思うので、信仰の根拠を検証するのは自身の「好ましい方の心・良心(やさしさとか)」なのだと受け止めてください。
 好ましい信仰は他者に在るのではなく自身の「良心」に在るのですから。

 もっともこの「良心」を育てるには仏典とか聖書も、大いに役立つことでしょう。
 

この回答への補足

「畏れ敬う」対象は何ですか?それをどのように知ることが出来ますか?

補足日時:2014/05/05 11:06
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