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 どうでしょう?

 知るのは 楽しみにみちびかれているなら 利己志向の自己満足としてある。か?

 

A 回答 (32件中21~30件)

こんばんは、ブラジュロンヌさん。


命題を読んで、ちょっと以前読んだだれかのエッセィを思い出しましたね。
古本屋で珍しい本を見つけたある文人が、店主からその本はすでに売約済みであるといわれ、その当人の名を聞いて文人の知人だったので気安さと利己主義から無理やり自分のものにした、という実話でした。
まあ、
まさしく”利己志向の自己満足としてある。”例ですが、あとそれがどうなったのか、不幸な結末になったのか、どうかはわすれてしまいましたのでなんともいえませんが。
”馬の鼻先のにんじん” ?
知識欲自体はまず平和な人間のささやかな楽しみとして許されるものだと私は思います。確かに私の解釈としては食っても食っても実際は空気を食っているようにたいした腹の足しにもならず、さほど賢くなっているわけではない、かってに功名心から難しいものばかりを渉猟して下痢ばかりしているという馬鹿さ加減という現状ですからおっしゃることが必ずしも的外れではないのかもと思ったりします。ぜんぜん哲学論議にならず失礼いい足しました。
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この回答へのお礼

 こんばんは こういちろうさん。ご回答をありがとうございます。

 
 ★ おっしゃることが必ずしも的外れではないのかもと思ったりします。
 ☆ いえいえ。このしつもんは すでに反省しています。

 知識欲や好奇心の欲があってもよいし ただしそれだけではない。ということ。
 欲求や欲望を満たすことだけでは ないものがあるからこそ おもしろい。
 といった全体観に立ちたいという話になって来ています。


 ○ ”馬の鼻先のにんじん” ?
 ☆ これも 馬は必ずしもその人参を食べることが出来るとは限らないとか いろんな話も添えられて タトエとしてやや出来損ないでもあり またそれゆえに笑って済ませると言えるかも知れない。


 こういった情況になって来ていると思います。

 《文人の知人》のお話も 知り合いどうしということで おもしろいものがあります。



 知るはたのしみをめぐるエピソードをつのってもよかったかも知れませんね。
 ほかにも さらにこれはどうしても言いたいというお話がありましたら ふるってどうぞ。
 みなさんも どうぞ。

お礼日時:2014/07/11 21:50

お礼、ありがとうございます。



分かりやすい所では、パラドクスを含めシッカリ学ぶことと
それを摘要することで回避出来ることも多いと思います。

学びが無ければ、海図も磁石もコンパスも無いまま
人生の大海原に投げ出される可能性も決して少なくはないと言うことだと思います。

今、手にしているものを使うことと
自分に必要なもの(学び)が何であるのかを知ること。
活用を工夫すること。

生徒・学生時代に得たものが、ガラクタだと思っている人も少なくないでしょう。
私も以前は、そう考えていました。
愚かな目線で勉強していたので、学び直しの毎日です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 そうですね。
 質問者としましては:
 
 知るはたのしみというとき 知識欲あるいは好奇心といった目で捉える側面もある。と考えられるとき この欲望や欲求が どのようにはたらいているか? 欲というものをどのように扱いどう処理しつつ 知るなら知るをおこなうか?

 このあたりに焦点を当てていました。そのあと 利己や自己満足の部分から そしてささやかにでもその狭い主観から 抜け出すことが出来るか? あるいは 抜け出せなくても 少なくとも内に閉じこもるのではなく 外にも開かれているようになれるか? こういった問いに関心がありました。



 まなびのあり方について 一般論として妥当なところを――だからと言って 決して月並みだというのではなく 基本原則を確かめながらのあゆみとしてだと確認しますが――述べていただきました。

 いまのところは やはり同じまとめになるかと思います。
 ☆☆ (No.11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    >知るのは 楽しみにみちびかれているなら 利己志向の自己満足としてある。か?

  それも含まれるでしょうが、生きることは
  そこだけにとどまらないと言うことだと思います。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ どうも このあたりに落ち着きそうです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このプラスαの可能性が 大事だと思います。



 たぶん 問いをあらためて出発したほうがよいかという考えを持ちつつあります。




 あとは みなさんにあって これだけは どうしても言いたいというようなことなどを いましばらく開いていて俟つこととします。

 なかった場合には みなさん たいへんありがとうございました。この問いは これにて閉じることとします。

お礼日時:2014/07/11 13:50

知識欲ってのは、それぞれ持ち合わせているものだと思います。



たとえば子供の時、世の中の不思議を知ることはキラキラ輝く日に胸を踊らせ
できることが増えていく日々に、楽しみの予感が湧き上がる。
そんな子供時代の一瞬は、体験する所だと思います。

そうやって知る楽しさの上に高い吸収率で吸収して行くと思いますが
ただ知ることを続けていくだけでなく、その先にあるのは
吸収した知識をいかに使うかだと思います。

生きていれば使うことの楽しさは、いつか気づくチャンスは訪れますよね。


>知るのは 楽しみにみちびかれているなら 利己志向の自己満足としてある。か?

それも含まれるでしょうが、生きることは
そこだけにとどまらないと言うことだと思います。


それと別に、労働が目の前の人参となるならば
それは働く側の認識に大いに問題有りでしょう。
特に今の日本においてはそうだと言えると思います。

やりたいことがやれるだけの環境は、世界でもトップクラスであり
自由を「周りが私に合わせてくれる状態」と勘違いしていなければ
自ら道を切り開くのは、過去最大に容易だと思われます。

与えられた環境を活かして行くのと、環境が与えてくれるのを望むのとの違いですね。
前者は能動的で自由であり、後者は受動的で不自由で
その場合人参によって動かされます。

知識は能動的に動くものにとっては、知ることは出来ることに
今までよりもさらに出来るようになることに繋がり
受動的においては、最低ラインを満たす条件にすぎません。

知る意味も吸収するものも吸収率も活用も全く違ってきます。
それで個人的労働価値の違いが、労働の質の違いになり
労働の賃金の違いに反映されてきます。

労働環境を変える場合、前者はステップアップになりやすく
後者はステップダウンに繋がりやすいのも、質的問題の現れですよね。

人参で働く人は、人参志向と不満を抱えます。
与えてくれる不自由さに己が身を投じているからです。

労働に限らず、与えられたものに過剰な期待をすると
自分で期待して自分で失望していきます。

知識は、与えられたものを与えられた範囲で
どれだけ活用できるかに繋げるための力になることを
自覚しているかいないかでも、知識を得る意欲は変わります。

自覚とは、自己の認識でしかありません。
自己認識が何処にあるかを自らで知らなければ
人生は苦役の連続になると思います。
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この回答へのお礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
   >知るのは 楽しみにみちびかれているなら 利己志向の自己満足としてある。か?

 それも含まれるでしょうが、生きることは
 そこだけにとどまらないと言うことだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも このあたりに落ち着きそうです。

 まづは ご解答をありがとうございます。


 そうですね。つまりは 
 ★ 知識欲
 ☆ とも言うように じっさい《欲望》でもあるわけです。そして けっしてそれだけではないとも言えるはずなところが ミソなのでしょう。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 それと別に、労働が目の前の人参となるならば
 それは働く側の認識に大いに問題有りでしょう。
 特に今の日本においてはそうだと言えると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このご認識には いろんな側面からのさまざまな意味合いがあるかと思います。
 いちばんの問題は 《労働》が 目の前に人参がぶら下げられていようといまいと むしろその前にほぼ誰もにとって社会の情況から必然的にそれへと促されこれをおこなうことを余儀なくされるということ。

 ほとんどひとの自由意志を超えて 情況からの要請となっている側面もあるということ。

 そして それをどう一人ひとりがあつかい処理して行くかになるでしょうし そのとき ぶら下げられた人参への執着の問題も出て来るのかも知れない。・・・といった多面的な問題と意味合いがあろうかと思い ここでは一たん保留としなければならないようには思います。(大問題であり おおきな長い議論になるように思われます)。


 と受け取りつつ反応して来ましたが そういった内容について そのあとに書き込んでおられるようです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 やりたいことがやれるだけの環境は、世界でもトップクラスであり
 自由を「周りが私に合わせてくれる状態」と勘違いしていなければ
 自ら道を切り開くのは、過去最大に容易だと思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。いわゆる資本の論理によって 仕事も生活も何をやるにしても 《必然の王国》の住人になるしかないと 一昔いや二も三も昔には 思われていましたが 社会の変化は 起きて来ていそうですね。



 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 知識は、与えられたものを与えられた範囲で
 どれだけ活用できるかに繋げるための力になることを
 自覚しているかいないかでも、知識を得る意欲は変わります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この原則で――つまりこれは おっしゃるとおり 原則ですが その原則で――どこまで頑張れるかは 人それぞれの能力と努力のほかにも 分かりにくい言葉ですが運によっても ちがってくる。のではないか。少なくとも そういった一面も無視することは出来ないのではないか。とも思いました。

 知るはたのしみとその成果が 社会の中でどのように揉まれて行くか。そういう実際問題もあるように思えました。
 

お礼日時:2014/07/11 11:03

なんだろう?微妙に違うような気がします。



楽しいから知る方向に行く。確かにある。
にんじん。ご褒美、うんうん。
自己満足。言われればそうかも。
でも利己???

自己満足を得るために手段を選ばず、周りに迷惑をかけるなら 利己的で、また、自分が納得したらそれでお終いでそれを全く役に立てない、得たものを分けないならそうなのかも。

でも知った人々ってそれだけを追い求める訳じゃないよね?
むしろ雄弁な気がする。


それとなんかもやもやする。なんだろう?
馬の鼻先の人参に違和感が。

楽しいから知ることを追い求める…ご褒美があるから頑張る的な意味なのかな?なんか違うな。ご褒美、美味しいから、どんどん行くよ!!な気が。
楽しいを味わってるから、食ってない?この馬人参を。
でもまだまだ追い求める…続く…
鼻先じゃない!!
あちこちに人参がぶら下がってて、それを次々と求めて走って食べてる。が正しいような…
一本の道筋の物を食べてく馬もいれば、あちこちを食べてく馬、本馬は真っ直ぐなつもりでも傍から見たら道がズレだぞ状態、また逆もあるか。

楽しいから知ることを求めるに、マッチしないような気がします。
まぁ、周りの事を気にしないで走り回って食べてたら、迷惑だよねぇ。事故がどんどん発生しちゃう。
きちんと周りを見て行動してるなら問題はないような気がします。
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この回答へのお礼

 ふうかこうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 でも利己???

 自己満足を得るために手段を選ばず、周りに迷惑をかけるなら 利己的で・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ。そうなら 《利己》の定義がちがっていたかも知れません。


 つまり この場合は 《利他》ではない。利他という心つもりはない。ということを 自己を利する行為だという意味で使いました。

 つまり 他人の利益を考慮していませんが それを損傷しようとも奪おうともしていません。《知るはたのしみ》という主題ですから。


 ★ また、自分が納得したらそれでお終いでそれを全く役に立てない、得たものを分けないならそうなのかも。
 ☆ そこまでのことは 扱わないという前提で 使いました。《たのしんでいる》姿までとしてです。



 ★ でも知った人々ってそれだけを追い求める訳じゃないよね? / むしろ雄弁な気がする。
 ☆ えぇ。ふつう そういうものだとわたしも思います。



 ★ 馬の鼻先の人参に違和感が。
 ☆ 特に《鼻先》にでしょうか。鼻先だと 何かの拍子でうまく口に来ることでもないと 馬は食べられないようですね 考えてみると。そんなこんなで:
 ★ 楽しいから知ることを求めるに、マッチしないような気がします。
 ☆ 残念ながら そうみたいですね。知ることのたのしみは どんどん味わって行きますから。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 まぁ、周りの事を気にしないで走り回って食べてたら、迷惑だよねぇ。事故がどんどん発生しちゃう。
 きちんと周りを見て行動してるなら問題はないような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ えぇ。人間が知るという場合には それをたのしみにしているのだという範囲で 質問者も《問題はないような気がします》。

 タトエの適切さに 問題があったのかも知れません。


 みなさんの回答とそれを受けたやり取りで だいたいは分かって来たように思っています。ありがとうございます。もう少し開いています。

お礼日時:2014/07/11 06:23

>つまり だったら わざわざ《馬の鼻先にぶら下げた人参を追い求める》といったタトエで表わされることを 個人の《自律》とか《自己チュー》とかの問題にかかわらせることは おかしいのではないでしょうか?


 


おかしいですね。
一般的には馬の鼻先の人参という例えは自己チューではなく、愚かさを表現する例えですね。
目先の欲望におぼれて冷静さを失う、巧妙な餌に釣られて他人に操作される、などですね。

まさしく質問者さんが仰るように「馬の鼻先の人参」とは
『そのような人参を追い求めるのは けっきょく人間にとっては不可抗力のようなものだと考えられる』
で言うところの、その不可抗力さ自体を皮肉っている言葉なのです。

そもそも「知るは楽しいは 馬の鼻先の人参」という言葉自体、自己チューとは無関係ですよね。
楽しいからこそ繰り返す。それはただの人間の性質です。
もしも、自分の知識欲を満たすために他人に迷惑をかけるというのならまさに自己チューですが、楽しいがゆえに知識を求めるという行為自体は善でも悪でも自己チューでもありません。


ちょっと不思議に思ったのですが、なぜ質問者さんは馬と人参の例えを「個人の《自律》とか《自己チュー》とかの問題にかかわらせる」と思ったのでしょうか。
誰かがそういう発言をしていたのですか?
「知るは楽しいは 馬の鼻先の人参」という例えが個人の《自律》とか《自己チュー》とかの問題と絡んでいるという発想はまずしないと思うのですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 そもそも「知るは楽しいは 馬の鼻先の人参」という言葉自体、自己チューとは無関係ですよね。
 楽しいからこそ繰り返す。それはただの人間の性質です。
 もしも、自分の知識欲を満たすために他人に迷惑をかけるというのならまさに自己チューですが、楽しいがゆえに知識を求めるという行為自体は善でも悪でも自己チューでもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。《たのしい》という言葉で捉えた命題ですが それは そのとおりなら 言わば《中立》の行為であると。

 何か意図的なことが混じるなら とうぜん中立でもなくなり 問題が 自己チューならそれとして発生する。けれども 中立の線を守ることも出来るのだと。

 これは 留意しなければならない。というように感じました。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ちょっと不思議に思ったのですが、なぜ質問者さんは馬と人参の例えを「個人の《自律》とか《自己チュー》とかの問題にかかわらせる」と思ったのでしょうか。
 誰かがそういう発言をしていたのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えぇ。《だれかの発言》もそうですし わたし質問者が勝手にむすびつけたというのも 実際です。


 ただし そうしますと・つまり他人から見れば利己的で自己満足のことだとしても 中立のごとき行為であり得るとすれば むしろ自律性にとぼしく自己チューであっても それなりに社会の中で仕事をし生活しているなら 《馬と人参》のタトエは あまりすべきではない。となるように思います。

 つまり 当たっているであろうけれど 誰もがその流れにさからうことが出来ず だから従うということであるはずだ。だから それがやむを得ないことであるということを忘れるわけには行かない。したがって タトエをむやみに当てはめるべきではない。――こうなるように思います。

 ということですかね。

お礼日時:2014/07/11 00:30

2行のあいだを埋めてくださりありがとうございます。


お礼欄に賛同ボタンがないので、うなづきました、と。


                                 
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 あぁ よかった。《ラフランス》になるところだった。


 
 けっこう回答がつきます。

お礼日時:2014/07/10 22:48

ちょっと気になったので少しだけ追加を。



>そのようにしてでも生活の糧を得ることを どうしてさげすんだり あるいはひょっとして自虐したりするのか?

資本主義において「目の前にぶら下げられたニンジンを~」という例えは日々の糧を得るために働くことではなく、資本主義社会を円滑に機能するためには常に経済や利益を拡大していく必要があるという市場原理を自虐する際に使われる例えではないですか?

企業は大量消費の流れを作り出すために「今年のトレンド!」「超有名ブランド!」などといった実体のない幻の価値を作り出して消費者の鼻先にぶら下げてひたすら消費者に消費してもらう。消費者はそういう贅沢を楽しむために一生懸命働いて日銭以上のお金を稼ぐ。アホらしく滑稽ではありますが、そうしなければ資本主義社会は経済が停滞して不況に陥りみんなが貧しくなってしまう。
そういう構造自体を皮肉った言い回しだと思うのです。

普通に生活を賄うために働くこと自体を自虐した例えではないと思うのす。
別に資本主義社会じゃなくても資産家とかでない限りは生きるためには働く必要がありますしね。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 資本主義において「目の前にぶら下げられたニンジンを~」という例えは日々の糧を得るために働くことではなく、資本主義社会を円滑に機能するためには常に経済や利益を拡大していく必要があるという市場原理を自虐する際に使われる例えではないですか?
 ☆ これは どうでしょうか。そうですね。わたしには 両方ともかかわっているように思うのですが。


 つまり きょう明日の生活に困らないようにという側面もありましょうし あるいは 利潤をつねに追求しつづけるという資本の論理〔に従わざるを得ないように従うこと〕においても あたかも人参を追い求めて馬を走らせることで譬えられるように思われます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 企業は大量消費の流れを作り出すために「今年のトレンド!」「超有名ブランド!」などといった実体のない幻の価値を作り出して消費者の鼻先にぶら下げてひたすら消費者に消費してもらう。消費者はそういう贅沢を楽しむために一生懸命働いて日銭以上のお金を稼ぐ。アホらしく滑稽ではありますが、そうしなければ資本主義社会は経済が停滞して不況に陥りみんなが貧しくなってしまう。
 そういう構造自体を皮肉った言い回しだと思うのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは こうなると タトエとして言えば 満員電車理論になりますか? 
 つまり 急停車するなら みんなが うしろから押されて同じように体を倒される。つねにそのような急ブレーキがかかったごとく 自転車を漕がなければならないというような行動形式のこと でしょうか。


 もしそうだとしたら これは 誰かひとりの人の所為にすることは出来ないでしょうし ひとりでこの流れを断ち切ったり変えたりすることもほとんど出来ない。つまりたとえば 非営利の事業をおこなうにしても 営利会社の利益をあてにして 成り立っている側面があります。

 つまり だったら わざわざ《馬の鼻先にぶら下げた人参を追い求める》といったタトエで表わされることを 個人の《自律》とか《自己チュー》とかの問題にかかわらせることは おかしいのではないでしょうか?
 
 つまり そのような人参を追い求めるのは けっきょく人間にとっては不可抗力のようなものだと考えられるからです。

 と考えられたのですが どうなんでしょう。

お礼日時:2014/07/10 22:39

こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。



人間は人参から自由なんぢゃないの?
だから楽しいし楽ぢゃないんぢゃないの?

                        
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この回答へのお礼

 こんばんは にゅうとらるさん。ご回答をありがとうございます。


 ん?
 ★ 人間は人参から自由なんぢゃないの?
 ☆ 人参を目の前にぶら下げられても 基本は そこから自由である。食いつくか食いつかないかの二者択一なのではないんだ。――というわけですね。


 ★ だから楽しいし楽ぢゃないんぢゃないの?
 ☆ その自由を持つゆえ やせ我慢もできる。これをも楽しめる。

 そして同時に 食って行かねばならないから 《楽ぢゃないんぢゃないの?》となる。


 そういうことですね。二重構造でいいんぢゃないか。ですかね。



 信じるところを 現実の中でその情況とともに なお別に同時に持ち その両者の矛盾を持ちこたえることの出来るのが ワタシの固有時の高さであると。


 これでよかったですか?

お礼日時:2014/07/10 22:25

>言い方にこだわることもない。

・・・のですかね。

所詮、例えは本質から遠ざかる行為です。
そんなものに深くとらわれることはないのではないでしょうか。



>《利己志向で自己満足だ》というのなら 仕方がない。けれども 《馬の人参》という言い方は おかしい。

馬は目の前にぶら下げられたニンジンをいくら追い求めても食べられないけど、知るを楽しむ人間は次々と新しい知識を食べ続けてるわけですからね。確かに全然違いますね。
え?そういう話じゃない?失礼しました。


> ぎゃくにと言いますか・別の言い方をすれば:
> もし 生きること・現代社会にあって仕事をして生きることが 資本主義だからと言って 馬の鼻先の人参を追い求めていると規定するのは いかがなものか? と思ったりします。

資本主義はむしろニンジンを食べさせて「もっとニンジンを食べたければもっと働け(金を出せ)」とやってるわけですからね。ニンジンを食べさせてもらえない馬よりはずっとマシかもしれませんね。
これは資本主義というよりは市場原理というべきかもですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 所詮、例えは本質から遠ざかる行為です。
 そんなものに深くとらわれることはないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 或る種の説得力と魅力があるかも知れないと思ったわけです。給与は 誘因( incentives )とも言われますから あたかも誘導されているかに錯覚します。

 ですが 人間は馬ぢゃないわけです。そこのところを うまく反駁しておきたいとも思いました。


 つまり 給料を得て生活がたのしくなるとすれば・そしてそのことを馬にとっての人参だと言うとすれば ぢゃあ 知るはたのしみと言うときのたのしみだって 馬の人参になるぢゃないか? という論理で反論しようと思ったのでした。




 ★ 馬は目の前にぶら下げられたニンジンをいくら追い求めても食べられないけど
 ☆ あぁ なるほど。そう言えば 追い求めるだけで 何かの拍子で食らいつかないと食べられないですね。それは 気づきませんでした。人間の得る報酬とは えらい違いである。となりますね。


 えぇ。次のように言ってもらいました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 資本主義はむしろニンジンを食べさせて「もっとニンジンを食べたければもっと働け(金を出せ)」とやってるわけですからね。ニンジンを食べさせてもらえない馬よりはずっとマシかもしれませんね。
 これは資本主義というよりは市場原理というべきかもですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのようにしてでも生活の糧を得ることを どうしてさげすんだり あるいはひょっとして自虐したりするのか? えぇ そういう物言いでした。ありがとう。




 

お礼日時:2014/07/10 21:44

知ることの快楽のみを求めてひたすら知識を貪るのであればまさしく「知るは楽しいは 馬の鼻先の人参」ですね。


でもそういう人は実際には少ないのでは?
むしろただただ知的欲求のみで走り続けられるのならそれは偉大な才能のように思います。
ニンジンを求める馬のごとく知識を求められるだけのバイタリティは素直にうらやましいと思いますよ。

まあ実際の馬はそこまでニンジン好きってわけではなかったと思いますが。
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この回答へのお礼

 らいでん787さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 知ることの快楽のみを求めてひたすら知識を貪る・・・そういう人は実際には少ないのでは?
 ☆ でしょうね。
 
 ですから No.2のやり取りで書いたのですが 《利己志向で自己満足だ》というのなら 仕方がない。けれども 《馬の人参》という言い方は おかしい。

 ぎゃくにと言いますか・別の言い方をすれば:
 もし 生きること・現代社会にあって仕事をして生きることが 資本主義だからと言って 馬の鼻先の人参を追い求めていると規定するのは いかがなものか? と思ったりします。

 誰もが利己志向であり 自己満足を得ようとして働くところにも 社会公共の利益も生み出されるものと考えます。




 ★ ニンジンを求める馬のごとく知識を求められるだけのバイタリティは素直にうらやましいと思いますよ。
 ☆ なるほど。言われてみれば そうですね。バイタリティがありますね。

 言い方にこだわることもない。・・・のですかね。


 ★ まあ実際の馬はそこまでニンジン好きってわけではなかったと思いますが。
 ☆ そうなんですか。そうだとすると 単なるタトエ――よわいタトエなんですね。分かりました。

お礼日時:2014/07/10 19:56

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