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平氏と違って、源頼朝を始めとした源氏による武家政権が長く続いた理由を教えてください。お願いします。

A 回答 (8件)

少なくとも鎌倉幕府に関しては


「源氏による武家政権が長く続いた」
ようには思えないんだけどな.

まあそれをいうと室町幕府も微妙なところがあるし, 江戸幕府に至っては「名目上源氏」なわけだが.
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この回答へのお礼

言われてみれば確かにそうですね。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/30 06:43

「武家政権を樹立していなかったから。

そもそも、存在しないものが他人に潰されることはない。」

もうすこし書き換えると

「(中央政権としての)武家政権を樹立していなかったから。そもそも、存在しないものが他人に潰されることはない。」

ということで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD% …

東国国家論に基づく、「鎌倉幕府、長持ちしたのはなんでやろ」説明です。

京都から見たら、鎌倉のベツモンがあるが、まぁ遠いことだから必死になって潰すまではない。
ということです。
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この回答へのお礼

なるほど!ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/30 06:44

世の中の体制を一気に変えることはどの時代でも難しいことです。

(現代でも)

平氏は武家ではありましたが、まず現状の政治体制の中での、発言力を増していくことから始めたのです。
即ち、その頃の政治体制の中心であった朝廷内での官位を求め、徐々に一族を殿上人にしていくことで、政権内部での武家・平氏の立場を確立させることに成功しました。

しかし、清盛がどこまで武家の独自政権が必要だと思っていたのかは、誰にも分からないことです。
あの時点で清盛が病死せず、もっと生きていたとしたら、歴史は違った展開になったのかも知れません。
“ if ”の世界です。

源氏の場合は、平治の乱の敗北で完全に政権とは遠い存在となりました。
頼朝は捕えられ殺されようとしましたが、清盛の継母・池禅尼の懇願で、命を救われ伊豆への配流の身となり、生きながらえた結果として、チャンスが巡ってきたわけです。

そして源平合戦の勝利によって、過去の平氏が失敗した朝廷内での勢力拡大をすることの是非も一つの教訓に、距離を置いた東国で武家単独の政権を作ったことが、成功の第一要因だと考えられます。

仮に平治の乱で、清盛が敗れ、義朝が生き残っていたとしたら、源氏と平氏の立場は逆転していたかも知れず、これもまた“ if ”です。

武家政権が長く続いたというのは、複雑な要因が絡み合ってできた歴史の流れの結果ですから、「源氏による政権が長く続いた」ことの理由を求めても無駄だと思っています。あくまで結果論に過ぎません。
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この回答へのお礼

「あくまで結果論に過ぎません。」
言われてみれば確かにそうですね!ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/24 22:12

源頼朝を始めとした源氏による武家政権が長く続いた理由





武家政権を樹立していなかったから。
そもそも、存在しないものが他人に潰されることはない。

平清盛は太政官に足掛け9年おります、最高位は太政大臣です。

清盛
1160年 参議
1168年 太政大臣辞任
1181年 薨去

頼朝
建久元年(1190年)11月9日、後白河法皇に拝謁し、権大納言・右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞した。
頼朝は政権の端っこにちょこっといただけです。

頼家
政権についていない

実朝
建保6年(1218年)1月13日、権大納言に任ぜられる。
建保7年(1219年)1月27日、殺害される。

この間京都に行っていませんので、実際に政権の責任者として動いていない。
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この回答へのお礼

「武家政権を樹立していなかったから。そもそも、存在しないものが他人に潰されることはない。」
なるほど!そういった考え方もあるのですね~。私は思いつかなかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/24 22:10

大分、定かでなくなってますが、



武士の台頭は平安時代の後半あたりの話かと思います。中期頃は藤原氏が強く、おわりごろに白河法皇の時代になります。源義家が東北に向かって、実績をあげます。前九年の役、後三年の役ですね。

天皇、上皇、法皇をまきこんだ武士の戦いもおこりますが、最初にほかの回答者さんのおっしゃる通りで、貴族化して支配しました。

源義仲も一時期政権をとりますね。武士が貴族化するしないにせよ、一度試みた後に安定政権をつくるのはやはりどうやってきたかをみていて、ほかの人も武士の時代であると認識したからかもしれませんね。
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鎌倉幕府は創めたのは源氏ですが、結局平氏の北条氏ですね。

。。

平清盛などの平家はそのファミリーだけというか、清盛の息子たちは清盛ほど有能ではなかったのです。
一番有能だった重盛は早死にしちゃうし。。。
支える家人みたいのがいなかったのです。

頼朝も2代目頼家は頼りなかったのですが、北条氏などの有力御家人が代わって政務などを執行するようになり、3代目以降北条氏による執権体制に・・・
源将軍は3代で終わってしまいますが、後はお飾りの摂家将軍でも北条執権により続いていたのです。

北条氏だけではなく鎌倉殿(頼朝)に恩を感じていた御家人も多くいたこと、また働きがあった御家人には土地を与えられ、ますます御家人は鎌倉に仕えようとしたのです。
その代わり邪魔になった御家人は消されてしまいますが・・・

承久の乱のときはそういった土地はたくさんありましたが、元寇では土地を奪ったわけではないので、新たに与える土地が無くなり、いくらいい働きをしても報酬を与えることが出来ず御家人の鎌倉への恩が薄れてしまったのです。。。
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武士であった平氏は清盛が公家になり、平家一族だけを優遇して武士の信頼を失ったのです。

それに対し頼朝の鎌倉幕府は武士の利益を優遇することで強い武力を維持したのです。その後の室町幕府や徳川幕府もそれを真似て武家政権を強めたのです。
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この回答へのお礼

「武士の信頼」なのですね!ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/23 21:00

 鎌倉に首都をおいたので、公家に取り込まれなかったからだと思います。


反平家の政策を上手くやったのでしょうね。
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この回答へのお礼

早速の回答、ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/23 18:59

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