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男と女の武器についてのおもしろい質問がありましたので便乗します。

こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
(『百人一首』97、『新勅撰和歌集』849)

よく知られた藤原定家の歌で、女の立場で詠んだものと解されてゐます。このやうに日本古典文学では、男が女になりすまして文をつくることがしばしば行はれます。

発生学的にも、胎児の原型は女であつて、男の体はそれに変化が加はつたものであることが指摘されてゐます。

あへて優劣をつければ、女が上位なのですか。

質問者からの補足コメント

  • 質問の趣旨からすると、回答番号3のmiko-desiさんをベストアンサーにすべきですが、このたびは、ねこさんのgoo復帰を祝して、回答番号1にします。

      補足日時:2015/05/30 20:47

A 回答 (4件)

こんばんはです。




☆あへて優劣をつければ、女が上位なのですか。
◇男は女性の掌の上で転がされているように思います。
男は孫悟空、女性はお釈迦様なのではないでしょうか。
そして、男は女性の掌を飛び出すことが出来ないに違い。
女が望む姿に男は育てあげられ、女性の意のままに操られているに過ぎないのでは。


☆よく知られた藤原定家の歌で、女の立場で詠んだものと解されてゐます。このやうに日本古典文学では、男が女になりすまして文をつくることがしばしば行はれます。
◇個人的には、女性に成りすました業平と藤原敏行のやり取りが面白いように思います。

つれづれの ながめにまさる 涙川
 袖のみひぢて 逢ふよしもなし    by 藤原敏行

浅みこそ 袖はひづらめ 涙川
 身さへ流(なが)ると 聞かばたのまん   by ネカマ業平
―――(私への思いが)浅いから 袖しか濡れないんだわ。今のまんまじゃあんたのことを好きになれない。溺れるくらい私のことを思ってくれなきゃ嫌!!―――

かずかずに 思ひ思はず 問いがたみ
 身をしる雨は 降りぞまされる    by ネカマ業平
―――ホントに私のことを好きなの? どうだか疑わしいわね~。
雨が降っているから来れないというけれど、いま降っている雨は、私の涙。わかってんの、あんた!!―――


さすが業平!!
こんな歌を送られたら、女のもと訪れないわけにはいかない♪
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この回答へのお礼

やはり哲学カテゴリには、ねこさんが必要です。正統的見解から個性的意見まで広く深く主張できる人はなかなかゐません。『伊勢物語』のやうな和歌を主体にした物語は、古典文学の王道ですね。永井荷風が『伊勢物語』のことを日本文学の最高峰だと書いてゐるらしいのですが、今文献を探してゐるところです。

>男は女性の掌の上で転がされているように思います。

私もつくづくさう思ひます。

動物の世界では、雄が身体的特徴をアピールするのが一般的なのではないでせうか。ですから、「男対女」の質問ページでの「最大の武器は、《顔のよさ》ですよ。」といふ回答文には納得できます。私の経験からもさういへます。(泣)

しかしながら、人間では、女のほうがより積極的に、体の魅力をひきたたせます。かうなると、ホモ・サピエンスの雌は、動物界最強といへるのではないでせうか。対する雄は、取り得がなくなります。だからこそ「男対女」の質問が立てられたに違ひありません。雄は、失ふものばかりです。いづれは、ただのアホになつてしまひます。私は宇宙の歴史における、雄の将来像を先取りしてゐます。

御回答ありがたうございました。

お礼日時:2015/05/28 21:29

次の春姫と治郎との悲恋の物語を例として 男と女とで優劣をつけるとすれば どうか? どうなのでしょう。



▲ 山ノ井伝説(うねめ物語) ~~~~~~~~~~~~
 http://www.bashouan.com/ppYamanoi.htm

 今から千二百年ほど前のこと、〔福島・郡山の〕安積の里は朝廷への貢ぎができないほどの冷害が続き、このため都から、葛城王(後の左大臣橘諸兄)が巡察の為に安積の里に訪れた。

 里人たちは王に窮状を訴えるとともに、年貢を免除してくれるように頼んだが聞き入れてもらえず、困り果てていた。

 安積の里の山の井には、笛の名手・小糠治郎と、相思相愛の許婚(いいなずけ)・春姫が住んでいて、二人は、ひとときも離れていたくないほどに愛し合っていた。治郎は野良仕事へ行く時はいつも春姫の絵姿を持って出かけるほどだったという。

 里人が窮状を訴えた日に宴が催されたが、王の機嫌がよくなく十分にもてなすことができなかった。その時、出席していた里長の娘・春姫が王の目にとまり接待を命じられることとなった。春姫は言われるままにふるまい、盃を捧げながら王の膝を軽くぽんとたたき次の歌を王に献上した。

  安積山 影さへ見ゆる山の井の
  浅き心を吾思はなくに  (万葉集 巻十六)

  (安積山の影を映す山の井の清水はあまり深くはありませんが、いつも私たちの心のように澄んでいます。わたしたちはこれでも精一杯、真心を込めておもてなしをしているのです)。

 すると、王はたいそうよろこび、歌の美しさや意味の深さ、すばやく詠んだ春姫の才能を褒め称え、春姫を宮廷の采女(うねめ-女官)として参内することを条件に、貢物を3年の間免除してくれることとなった。

 しばらくして春姫が都に上がり、愛しい許婚を失った治郎は嘆き悲しみ、夜毎、春姫への変わらぬ心を笛に託していつまでも吹きつづけた。里人の窮状を救う為と、悲しみをこらえる毎日であったが、ついにこらえきれなくなり、治郎は永久の愛を誓いながら山の井の清水に身を投げた。

 そのころ春姫は帝の寵愛を受け、大変華やかに暮らしていたが、片時も治郎のことを忘れることができなかった。そうしているうちに中秋の名月の宴が開かれ、春姫はこの時とばかり賑わいに紛れ猿沢の湖畔に駆け込んだ。そして湖畔の柳に十二単を掛けて入水を装い、治郎の住む安積の里へとひた走った。

 帝は春姫が亡くなったと思い込んで深く嘆き、春姫を供養する祠(ほこら)をつくり次の歌を詠んで捧げた。

  吾妹子(わぎもこ)が寝くたれ髪を
  猿沢の池の玉藻にみるぞ悲しき (『大和物語』)

  (恋しかりし人よ、あなたが朝起きたときに乱した髪も今となっては恋心となって蘇ってくる。わたしは、猿沢の池に浮かぶ藻が、あなたのその髪のように見えて嘆き悲しんでいるのだよ)。

 一方春姫は走りつづけ、やっとのことで故郷に着いたが、待っていたのは治郎のせつない死であった。体の心まで疲れ果てていた春姫は、悲しみに追い討ちされ病の床に伏した。そして、雪の降る寒い夜のこと、治郎のもとへ行くことを願った春姫は、治郎と同じ山の井の清水に身を沈めた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 回答№2で 基本は こうだと――つまり互いに対等であり 時代の制約を除くならば 相乗効果こそ出ても 互いにマイナスはないと――言おうとしましたが 舌足らずだったとしたら あらためて投稿します。
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この回答へのお礼

このところ、仕事が忙しくてお礼が遅れがちです。今週は、休みもなく夜中に帰宅することもあり、投稿できませんでした。質問の頻度は減らすつもりです。

yy8yy8azさんが、ぶらげろさんの意見に賛同なさつてゐましたので、私もさういふことにしておきます。

春姫の最期は、作り話なのではありませんか。昨年のSTAP「貼る」姫の騒動を見てゐると、そんな風に思へてきます。

御回答ありがたうございました。つづきは、yy8yy8azさんとねこさんの質問ページにて。

お礼日時:2015/05/30 20:40

男性が出世を望むのは、女性が権力を欲するからではない!!!



骨格も腕力も弱い女性を虐げ、仕えさせることが男の名誉になろうか?
男性は男社会において力もですが、
義勇、忍耐、寛容、誠(実行力)を競い、
仕えることに誇る(そして出世していく)などを名誉にすべきですね。
そうして出世していくことが快楽となるように男性に闘争本能があるわけで。

聡明な女性ほど恥辱を受けることを嫌います。
男性と同程度かそれ以上に能力が高くても、
男性のように出世を望むからというより、
「内助の功」的に持たされた「名を汚さぬように」勤めるのではないですか。
そんな女性を独占出来たことを誇りにして「妻は男の勲章」といいます。

男性が女性らしい感性を持つことはそういった思慕する姿、
慈しみや育みの精神に女性性を感じているからと思います。
女性が囁くような表現も寄せる信頼の厚さや理性を超えた情を持つ「超男らしさ!」

西洋の思想・芸術に「他者へ」の貢献、憐れみがあり、
東洋は「自然へ」の感謝、敬いを尊ぶように思います。
人も命も皆、自然からの借り受けているという思想から日本は男女平等ですね。
かあちゃんが強いのは家の実権を家事をすることで握っているからです。

女性や弱い者虐めをする男性が絶えないのは、
しっかりとした母性と男社会育まれず、
感情ばかりが敏感で一人前の男に成り切れていないせい。

世は闘争の絶えない男性上位社会であるけれど、
女性上位であった平安時代や一部の母系社会をみると婿入り婚(女性が家を継ぐ)
一夫多妻、別居婚、同性愛など性も大らかに、男性も自由になります?
男性が女性を支配しようとする社会ほど
飢えた男性が増すことになるのかもしれません。
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この回答へのお礼

古典文学における「なりすまし」はcyototuさんを意識して書きました。『土佐日記』が紀貫之の女へのなりすましだといふ定説に異議をとなへていらつしやいますから。でも、文中には紀貫之が書いたとは一言も書かれてゐないといふ点は忘れてはならないことだと思ひます。ばらしてしまつたら、なりすましになりませんけれど。

>骨格も腕力も弱い女性を虐げ、仕えさせることが男の名誉になろうか?

総合力において、女性のほうが優位なのではないでせうか。そんな気がしてゐます。

>男性が女性らしい感性を持つことはそういった思慕する姿、慈しみや育みの精神に女性性を感じているからと思います。

言ひえて妙ですね。これが日本の伝統です。

御回答ありがたうございました。

お礼日時:2015/05/28 21:58

ねこさんの議論は 普遍性があるからなのですが 説得力があるからには 哲学の徒は注意深くアンチテーゼを模索しなくては前が見えなくなります。




 女が男に対して上位なのか?
 そしてこれは 自己表現としての文章が・したがってそこに表示された意志が 女の場合には 男のそれよりも有効かつ有力であって 現実の力としてまさっている。のか? という問いと捉えます。

 議論をすべて端折って 結論のみしるします。

 女は弓であり男は矢だというタトエによるなら もうあとは何をか言わんやとなります。
 たぶんそのとき 的を何にするか? これについては むしろ男が決める。と言いますか 胸に秘めている。ことが多い。と思われます。

 (女は よい矢を・自分に合ったふさわしい相手を見つけることに夢中である。的は二の次になりがちである。ゆえ)。


 (ウタのちからは 共同観念ないし共同幻想に添い寝している部分において 現実の意思伝達に威力を発揮するところがあります。でもそれは 肩書きかまたはシガラミでしょう。栄光であるのですが 芋づる方式としてのこの世のかがやきです。
 女は もし伴侶といっしょに目指す的をしっかりと持ち捉えているとすれば この肩書きのひかりです。または それをあきらめた慎ましくもささやかなひかりでしょう。エクソダスを思いつきません)。
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この回答へのお礼

いつも御回答ありがたうございます。

>哲学の徒は注意深くアンチテーゼを模索しなくては前が見えなくなります。

以前あともなどすさんが提案なさつてゐましたが、「正反合」でなく「正正正」で行つてもよいのではありませんか。

>女は弓であり男は矢だというタトエによるなら もうあとは何をか言わんやとなります。

「男対女」の質問では、盾と矛でした。

>的を何にするか? これについては むしろ男が決める。と言いますか 胸に秘めている。

さうなのですか。ぶらげろさんは控へめなのですね。私は昨日回答(No.2)したばかりです。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8990096.html

>肩書きかまたはシガラミでしょう。

御指摘のとほりと存じます。私としましては、回答番号1のコメントに書きましたが、喪失してゆく雄の「女」の肩書きへの欲求が「なりすまし」ではないかと思つてゐます。

また国語カテゴリにおいでください。gooもOKWaveも、質、量ともに低下が見られますが、国語カテゴリは以前のレベルを保持してゐます。

お礼日時:2015/05/28 21:45

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