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なぜ女体のみが性的魅力を湛えるのでしょうか。

人間の場合、一般的には、女体は性的に愛撫の対象であり、
男性ばかりか、時に女性をも、ドキリと魅了する対象のように映ります。

ですが、男性の身体は、必ずしもそのかぎりではないと思われます。
漢字変換で「女体」は変換可能ですが、男性のそれは変換されません。
語彙にも性差が潜んでいるように感じられ、少々興味を抱きました。

(山の名称では「男体山」「女体山」と出てくるのですけれども、
「男体」は「女体」ほどには用いられていないようですね。)

以上、ご教示のほどよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (33件中1~10件)

mashumaro2さん、お久しぶりです。



私としては、「女体」よりもこういうご質問の方にはるかに「性的魅力」を覚えずにはいられません。
それほど興味深い問題提起だと思いますよ。

>なぜ女体のみが性的魅力を湛えるのでしょうか。

その淵源を探り当てようとすると、女性が男性に対して示してきた性的振る舞いにたどり着くのではないでしょうか。
具体的には、女性が自らの身体、特に性器を衣類等で秘匿し、もって男性に対して「女体」が禁忌の対象であるとアピールしたことに帰着すると思います。

こうして、哀れな男性は、女性の奸計にはまり、よりによって「女体」なんてモノに「性的魅力」を感じさせられるハメに陥ったのではないでしょうか。
その結果、女性は男性の性欲や性的嗜好の育成および管理を行うようになり、男性を恒常的に欲求不満状態に置き、女性の課した条件をクリアした男性だけに「女体」を委ねることを可能にしたと考えられます。

女性が男性に対して、意地悪くもこういう性的振る舞いをするようになったのは、おそらく、かつては他の類人猿と同様に本能のプログラム通りに生殖活動を営んでいたわれわれの遠い祖先が、自分たちの性行為を因果の相で捉えることができるほどに脳が発達して以降のことと推察されます。
つまり、性行為と妊娠との因果関係に気づいて以降、女性は望まぬ妊娠(=交尾)を避けるには、男性を性的に忌避したり、性器を隠匿することが有効であると気づいたのではないかということです。

>人間の場合、一般的には、女体は性的に愛撫の対象であり、男性ばかりか、時に女性をも、ドキリと魅了する対象のように映ります。

確かに、多くの男性にとって「女体は性的に愛撫の対象であり」ますが、その他、やはり人類の初期の段階で「女体」を「愛撫の対象」としてだけではなく、視覚(美)的対象として愛でるようにもなったと臆測されます。
思うに、言葉(智恵)を神から奪った代償として、人間のオスだけが「女体」との官能的な接触(=セックス)だけでなく、そうと自覚することもなく、「女体」に自分の観念を投影させて愛でるようにもなったのではないでしょうか。
通常、この「女体」はあくまでも《見る》ためのモノ(=美)ではあっても、「愛撫」の対象とはなりえませんよね。

>ですが、男性の身体は、必ずしもそのかぎりではないと思われます。

女性の場合、「男体」やペニスに「性的魅力」を覚えることが欲情の前提条件ではなく、男性への愛情、好意、同情、憐憫、尊敬、憧憬、あるいは子作り、金目当てを動機にしても男性を性的に受容できる以上、敢えて男性の「男体」に魅了される《必要性》がないからと考えるのは無理でしょうかね。

それだけに、視覚芸術に対する偏った嗜好癖を持った女性が、「男体」に対するフェティッシュな欲望を隠し持っていたとしても、私には全然不思議ではないような気がします。
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この回答へのお礼

kadowaki様、ご無沙汰しております。

>われわれの遠い祖先が、自分たちの性行為を因果の相で捉えることができるほどに脳が発達して以降のことと推察されます。
>性行為と妊娠との因果関係に気づいて以降、女性は望まぬ妊娠(=交尾)を避けるには、男性を性的に忌避したり、性器を隠匿することが有効であると気づいたのではないかということです。


はい、前半部分はyukkinnちゃんのご回答と通底するものと拝察致します。
但しkadowaki様は相変わらず「意地悪な女性の奸計にハマる哀れな男性」という二元論がお好みですね^^

そして以下の1点、決して揚げ足取りではありませんが、確認させて頂きたく。

>>なぜ女体のみが性的魅力を湛えるのでしょうか。
>その淵源を探り当てようとすると、女性が男性に対して示してきた性的振る舞いにたどり着くのではないでしょうか。
>具体的には、女性が自らの身体、特に性器を衣類等で秘匿し、もって男性に対して「女体」が禁忌の対象であるとアピールしたことに帰着すると思います。

そうなのです、でも、一応男性もそれなりに自身の身体を隠してきたと思うのです。
つまり、隠し方が何らセンシュアルでなかったということでしょうか。う~ん。


>思うに、言葉(智恵)を神から奪った代償として、人間のオスだけが「女体」との官能的な接触
>(=セックス)だけでなく、そうと自覚することもなく、
>「女体」に自分の観念を投影させて愛でるようにもなったのではないでしょうか。

この箇所はとても興味深く拝察致しました。
「言葉(智恵)」からは、以前ご教示頂いた『グーテンベルクの銀河系』をなぜか想起しました。
以下のくだりです。

「西洋社会で育つ典型的な若者は早期に内部指向を目指し、
そのような人間で形成される西洋社会は社会的要請への従順を育む」
あるいは、
「活版印刷文化がいかに西洋文明に対し極端な視覚的要素を強調し得たか、また後世になると、
しかるべき「女性像」、つまり女性の浪漫的な容姿などが映画や広告写真によって均質化を遂げ、
寸断化され、視覚的に画一化された中で大いに完璧な姿を保ち、反復の可能性も得ることになった」です。

強度に視覚化された文明の変質。
ああでも、これは「活字文化」についての考察でしたね。
ズレてしまって、大変申し訳ありませんでした。

>やはり人類の初期の段階で「女体」を「愛撫の対象」としてだけではなく、視覚(美)的対象として愛でるようにもなったと臆測されます。
>この「女体」はあくまでも《見る》ためのモノ(=美)

印刷技術の発明/発展以前の遥か古の時代に話を戻します。

人間の男性だけが《見たい》と願う視覚的な強い欲求と内なる想像力と結託することで、
過度に増幅された仮想のモノを自閉的に愛でるようになり、さらに
はからずも実体の愛撫の上でも多大な役割を果たしてきた一方で、
女性の側は、視界を遮断し《見ない》という視覚の喪失、すなわち盲目状態を受容し、
その世界に身を浸ることを選択する/余儀なくされていったのでしょうか。

むろん盲目状態も、それはそれで、非常に官能的に思われますけれども。

>視覚芸術に対する偏った嗜好癖を持った女性が、「男体」に対するフェティッシュな欲望を隠し持っていたとしても、私には全然不思議ではないような気がします。

はい、男女の性欲における質量差はさておき、
視覚の映像(虚像)をこよなく愛でるかぎりにおいては、
「女体」「男体」共に「モノ」であることには変わりありません。

その一方で「実体のモノと触覚」と「増大した仮想のモノ」との間に乖離が見られたり、
あるいは観念的な方がより好まれることもありそうな気も致します。
男性の側にフェティシストが多いのも何か関連性がありそうですね。

>女性の場合、「男体」やペニスに「性的魅力」を覚えることが欲情の前提条件ではなく、
>男性への愛情、好意、同情、憐憫、尊敬、憧憬、あるいは子作り、金目当てを動機にしても男性を性的に受容できる以上、
>敢えて男性の「男体」に魅了される《必要性》がないからと考えるのは無理でしょうかね。

いえいえ、無理がありません。
全く仰る通りだと思います。
ピンからキリまで色々列挙なさっていらっしゃるのには、思わず笑みがこぼれてしまいました。

でも、上述の不埒な動機を、いくら女性が抱いたとしても、
「山の神」の祟りを畏れる男性陣をなびかせることだけは、至難の業なのでしょうね、きっと。

それにしても「性」って、解らないことばかりですね。
男女間の意思疎通の齟齬が生じるのも無理ないのかも。

また何かご教示頂けたら、とても嬉しく思います。
この度はご多忙にもかかわらず拙文をお読み下さり、本当にありがとうございました。

お礼日時:2010/05/17 16:54

もうきっとご質問とは直接の関係は無い回答となると思いますが、つい。

。。

>大真面目に申し上げると、本当に不思議だったのですよ、
>「女体」に対し嫌悪感を抱く一方、元を取って余るほど「女体」を堪能なさっているご様子が。

私はずっと、「私は私であらねば」と思っていました。
同時にこれは「私とは何者?」という問いかけと一対なのですが。
それで、「私=女体の持ち主・全権者」と考えると、おっしゃるように嫌悪感に満ち満ちます。
どうしてかって?

それは、「女体」が私の意志と関係無く一人歩きをするからです。
これは、自ら選択し状況を生み出し、男性に我が女体を晒す、というのとはまた別です。
ポルノグラフィを感知しては「私の身体も同一視されているのか?」と思うのが合致するでしょうか。
これは女体と女性性への社会的要求とも言えます。

これとは別に、己の肉体として女体を見たとき、やはり我が意志を無視してくれる傲慢さがあります。
生理のわずらわしさ、生理痛の苦しさ、わけの分からない気持ちの浮き沈み、、、
妊娠出産まで考慮すると、意のままにならないものがてんこ盛り。

びっくりなさるのでしょうか、
私は十になるまで、自分の足の間に「穴が三つ」あることを知りませんでした。
其処の部分に興味など抱かぬのが子ども時代が子ども時代であるゆえんでもありますが。
だから、自分の手と鏡で確かめた時はもう、、、びっくりでは済まなかったのです。
気づくのが遅かった所為で、私の性自認は遅れ、問題を生み出したのでしょうか。。。
よくわかりません。

私の肉体「女体」は、決して「私のもの」なんかじゃないのだ、と考えました。
そう考えるようになったのは例のポルノの質疑がまさにきっかけかも知れません。
その後の岸田さんの著作、摂食障害の本、こちらでの質疑、、、が後押しをしてくれています。

私の女体は、夫のものです。
私は我が女体の所有権を夫へ委譲しました。
だから、好きな時に好きなように使って良いよーーといっています(これはちょっと余計?苦笑)
自分の為には生きる気になりにくいけれど、他人の為ならば何でもしますと言う私の思考癖にもうまく添った良い位置づけだ、と我ながらるんるんなのですが。

でも、考えてみれば、結婚制度の意義は其処にこそあるのかもしれませんし、
自分の為のメンテナンスはつい手を抜きがちでも、他人(夫)の為ならお手入れにも気合が入るというもの。
私じゃないモノが勝手な欲望を持ち、勝手な行動をしていると思えば、生理前のいらいらや生理痛そのものも自己否定の材料にはならずに済みます。
其処へ「夫の女体」という観点から、あまり痛んだり負担が掛かるのはかわいそうだから、、、と治療にも積極的になったりします。
私じゃない女体が勝手に夫にいじられて、勝手に反応してやる事言う事が私らしくなくっても、それを夫が面白がってくれるなら「まあ、いいっかな」と思います。

私がそう在りたいと望む私。
私が私らしいと思う私。
私が私らしくないと思う私。
私が嫌いだと思う私。
私が恥ずかしいと思う私。

どの私も「それぞれ味があって良いんじゃない?俺は好きだよ」と夫が言ってくれるなら、まあそれも良いのかなと思います。
私の女体は、私であって私でないモノ、です。

そう考えたら、とても楽になりました。
誰かのおかずにされているとしても、それは「私」ではない、とちゃんと思えます。
そうは言っても、「女体=私」とした時期の苦しさは未だ癒えません。
またやはり、物理的には自分の肉体ではありますので、直接に感知管理するのは私になりますので、権利委譲といえども完全には出来ませんのが苦しくなる事もありますが。

思いっきりご質問の主旨を外れてしまい、申し訳ございません。
素敵に密度の高い得がたい質疑を、最後にぶち壊した気が致します。。。

あーーでも、女体が女体のみが「性的魅力」を湛えるのは、その肉体にくっついているひとの意志を切り離しているから、かも知れません。
切り離すに至った過程はいろいろと考えられますが、
見つめる側が見つめ過ぎて、相手の「ひととしての存在」を忘れているから、かも知れません。

この回答への補足

yukkinnちゃん、失礼しますね。

この場をお借りして、ご回答をお寄せ下さった皆様にお礼を申し上げます。


このたびは、全てのご回答が私の頭の中で絡み合い交錯しました。
そして、何度も何度も拝見し、迷いに迷った末のポイント付与となりましたことをご報告申し上げます。

全ての方に、それぞれのご回答にポイントを差し上げたいのが本音です。
本当にたくさんの得難いご助言を賜りましてどうもありがとうございました。

補足日時:2010/05/28 23:28
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この回答へのお礼

yukkinnちゃん、ご回答をどうもありがとうございます。 とても嬉しいです。

>「女体」が私の意志と関係無く一人歩きをするからです。
>女体と女性性への社会的要求とも言えます。

>やはり我が意志を無視してくれる傲慢さがあります。
>妊娠出産まで考慮すると、意のままにならないものがてんこ盛り。

はい、偶然?女性性を授かった私達は、男性の理解の及ばぬところで、
「自らの意志では抗えない自然現象」を受容してきましたよね。
(もちろん生育/生活環境や感受性によっても個人差が認められますが)

>十になるまで、自分の足の間に「穴が三つ」あることを知りませんでした。

ええ、私も初潮が来るまで気付きませんでしたよ。
男女を問わず多感な頃にはわが身を想うものなのにね。

当時の私は嫁姑問題の間に立って、それが一番の関心事でした。
「自分ではどうにもできないことがこの世にはある」と達観しちゃった所があります。
題名に魅かれ「悲しみよこんにちは」を読んだのもその時期、でもちんぷんかんぷんでね。
だから、哲学カテにあるまじき思考拒否へのトリガーをつい引いてしまう(笑)

>私の女体は、私であって私でないモノ
>私は我が女体の所有権を夫へ委譲しました。
>そう考えたら、とても楽になりました。
>治療にも積極的になったりします。

だから、このようにご自身でしっかり考え納得する貴女を凄いなあって私は感心するのだと思います。
お子さん3人が貴女のもとにやってきたのは、神様がそのように配慮したのでしょうね、きっと。
「自分の為には生きる気になりにくいけれど、他人の為ならば何でもします」を言い換えれば、 
「もう貴女一人だけの身体ではなくて、ご主人やお子さん方を支えるための女体」ですよね。
今のままでも、そして、お子さん方の成長につれ、柔軟にお考えになればよろしいのでは。

それに、女性の生き方って、時代の流れと共に随分変化してきている気がします。
民法の授業だったかな、「女としての役目を終え・・・」と、判例か何かを教授が読み上げているとき、
社会人学生のオバサマたち(30代?)がクスクス笑っていたのが印象的なの。
今なら、どうなのかしら。 

>私じゃない女体が勝手に夫にいじられて、勝手に反応してやる事言う事が私らしくなくっても、それを夫が面白がってくれるなら「まあ、いいっかな」

あら、ここは女性はみな「豹変」するでしょう?!
のぞむとのぞまざるとに拘わらず、勝手に身体が感応していくというか、恥も見栄もかなぐり捨て、
平素の「わたし」はどこへやら?
そりゃあ~日常のわたしたちの態度とは異なりますよ。 でなきゃ、あんなこと・・・(秘密)

>女体が女体のみが「性的魅力」を湛えるのは、その肉体にくっついているひとの意志を切り離しているから、かも知れません。

はい、女の一生は自然な変化に富むものだから、女体を臨機応変に解釈していくのも自然なのでは。 
自らの意志と女体を切り離したり、結びつけたり。 女体って、凄く多義的な存在だから。

その点、男女を問わず有名人は世間のイメージと真の自分とのギャップを理解し、バランスを取っているのでしょうね。

そうそう、はるな愛といえば、美川憲一だったかな、バラエティー番組に出ているのを先日たまたま目にして、ふと思ったことがあります。
「たしか別の「愛さん」がいたなあ、似たような番組に同じように笑っていたなあ」って。

タレントなんて消耗品、幾らでも後釜の補充はきくとは言っても、もし彼女が女性ではなく
男性として生まれついていたのなら、生き方も違っていたのかなあって思ったりなんかして。
ちょっと、話がそれちゃいましたね、すみません。

>見つめる側が見つめ過ぎて、相手の「ひととしての存在」を忘れているから、かも知れません。

はい、そうだと思います。
そうしないと、女性を「一人の意志を持つ人間」として意識してしまうのでしょう。
そしてそれはセックスに対する「ブレーキ」となり、俗に言う「女として見られない」「家族だから」「母親みたいに思える」という夫側のレス要因の一つになり得るのでしょうね。

>最後にぶち壊した気が致します

とんでもない!
是非またご教示をお願いできますか。
またいつか、女体と心、アイデンティティ、装いと体型補正、社会性について考えてみたいです。
誰か立ててくださらないかしら?(他力本願、笑)

これからもよろしくお願い申し上げます。
これから天候が不順になります、どうぞお身体ご自愛下さいね。
ご回答、本当にどうもありがとうございました。

追伸:ところで「セックスは脳だ!」って、懐かしいなあ(笑) 今もお元気でいらっしゃるの?

お礼日時:2010/05/28 22:53

触覚という感覚は、人間にとって原始的な感覚なんですってね。



「原始的なものほど進化するほどに退化する」ことを前提に考えると、
リビドー自体は触覚が始まりだから、草食傾向は必然なんでしょうか。
その為の視覚的エロ文化なのかもしれませんね。

結婚したての頃、主人がなにを思ったか、やおらお姫様だっこを
して、寝床に運ぼうとしたことを思い出しました。
「何の人命救助だ?生存してまーす。人工呼吸しないで」って
どうも変なものに毒されて、頓珍漢ですよね。
テープレコーダーに取ってやろうかと思うぐらい、とってつけた
様な甘い言葉を吐いたり。一生懸命、演出してたんでしょうけど。

エロ文化依存症。
次に来るのはテクスチャーを凝らしたエロ文化か?

吉田秋生は好きです。カリフォルニア物語は切なかったけど、
「夢見る頃を過ぎても」とか

フラクタルのデザインについてはちょうど最近、何故か気になっていました。
やっぱり鋭いですね。
葉脈とか、ジンジャーマンで作るおっきいジンジャーマンとか(それいったらなんでもそうか)

その他ご教示くださった芸術作品については、もう少し勉強します。

ほしのあきさんは美しいですね。

わたしは、往年の細川ふみえさんのむちっとした感じや、
沢尻エリカさんの臀部は、ぷりっとしていて好きです。
(何でもよせてあげるのが流行ってる中、逆にいいのですわ)

おもしろかったです。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

heartmind様、ご回答をありがとうございます。遅くなってすみません。

>触覚という感覚は、人間にとって原始的
>草食傾向は必然なんでしょうか。
>視覚的エロ文化なのかもしれませんね。

はい。私も同じようなことを考えておりました。
視覚優位の文化が進むにつれ、男性の草食化傾向はまるで必然のように思えてきます。
生身の女体の醸し出す匂いや肢体の柔らかさ、リアルな女性器など、必ずしも必要とはしないのかも。
あるいは、早くに飽きてしまうのかもしれませんね。

>結婚したての頃 お姫様だっこを
>とってつけた様な甘い言葉を吐いたり。一生懸命、演出してたんでしょうけど。

なるほど、なるほど。
でもね、幻想やら演出っていうのは、男女の仲にこそ欠かせないものではないでしょうか。

だって、セックスの合体行為に至っては、お互いにただもう貪り合うだけなわけで、
それまでの過程で、いかに満ち引きの如く戯れ合うかが、性愛の醍醐味ではないでしょうか。
で、このことをneutral様が「女性の身體の中で最もセクシーなのは脳だ!」とご指摘下さったのでしょう。

ところで ご主人、どんな甘い言葉を囁いたのでしょうね。
「何の人命救助だ?生存してまーす。人工呼吸しないで」なんて、これはちょっと意外性がありそう。
でも、コスプレしたら、全然アリな台詞なのかもしれませんね。

>エロ文化依存症。
>次に来るのはテクスチャーを凝らしたエロ文化か?

あのですね。面白いご意見だなあって思います。
テクスチャーを凝らすって、つまりは触感を伴うエロ文化ってことでしょうか。
それってまさしく、今ある日本の成人風俗文化を指しているのかと思いました。 

STDの問題も含めて、やはりパートナーの女性には受け入れ難いものがありましょう。
でも、以前heartmind様が仰っていたディズニーランドの仮想世界と通ずるような気もしなくはないの。
私も興味が無い場所ですが、好きな人には堪らない娯楽性や癒しを見い出すのだと思います。
風俗産業もそんな感じで、仮想世界の恋人ごっこみたいな癒しの感覚もゼロではないのかもしれません。
ただの憶測に過ぎませんけれども。

エロ文化依存症の件ですが、3Dソフトの技術革新を勘案すれば、よりリアルに映し出される女体を堪能
できるのかもしれませんし、今後も需要は減らないのかもしれませんね。

>吉田秋生は好きです。カリフォルニア物語は切なかったけど、
>「夢見る頃を過ぎても」とか

おこたえ下さってどうもありがとうございます。
「夢見る~」は知りませんでした。 今度読んでみますね。
「カリフォルニア~」は切なかったですか。 なるほど、
何と言うか、割り切れない何かが残るというか、たしかにそんな感じがしますよね。

>ほしのあきさんは美しいですね。
>わたしは、往年の細川ふみえさんのむちっとした感じや、

はい、上の二人の場合、童顔と女性らしいメリハリある肢体とのコントラストが絶妙なのかも。
エロティックな香りを醸し出すには、どこかアンバランスでミス・マッチ感が欠かせないような。
たとえば、薄いニット地の下に、形がうっすら映るか映らないかといった乳首とか、
まとめ髪を結っているのに、ほんのちょっとだけうなじにほつれているけだるい様子とか。

貞淑さの隙を突いて愚弄するニュアンスって微妙なバランスの上に成り立っているのでしょうね。
ダサくも野暮にもやり過ぎてもNGでしょうから。
それも、装いの問題だけではないから、「セクシーなのは脳だ!」となるのでしょう(笑)

>沢尻エリカさんの臀部は、ぷりっとしていて好きです。
>(何でもよせてあげるのが流行ってる中、逆にいいのですわ)

はい、やはりご覧になりましたか。私も見ちゃいました。
十分綺麗でしたよね。 
臀部の露出度が高かったけど、歌って踊っての新曲ステージ?だからでしょうか、装いほどには何ら
エロティックな感じがしませんでした。

そう思うと、今流行っているのかどうかは知りませんが、
ストリップ・ショーは、女体の性的魅力を最大限に醸し出す演出の最たるものなのかもしれません。
ただ脱いでいく過程だけだし、結局一指も触れさせないわけでしょう?
娯楽性からすれば、ただやるだけのAVよりも、全然面白いのかもしれませんね。

こちらこそとても愉しかったです。
また次回も、ご教示よろしくお願いします。
本当にどうもありがとうございました^^

お礼日時:2010/05/27 22:58

神の性質及び形状は男性である・・・わかりやすい具体例をあげれば、存在界の自然界、特に魚などの動物界があります。


あなたの質問・・・女性が男性の愛撫の対象になるように、可愛く美しく創られているのはおわかりの通りです。
女性は男性から愛されるために美しいし、また美しくなろうとするのですね。
女性が愛される喜びなら、男性は愛する喜びということになりますね。
自身の美しさを誇るのが女性なら、その美を見ることができ、手に入れることができるのが男性です。
見られる美の側の幸せと見る美の側の幸せということになりますね。
したがって、女性が美しいのは、男性の目に適い、美観を満足させるためでありましょう。
男性の美観を満足する美の対象的存在が女性なのです。
ここで初めに返ります。
しかし、人間界の男女の美はわかりましたが、動物界や魚、自然界は逆転しています。
人間界・・・男と女では、女が美しい!!(男性の美観を満足させる対象が女性だから)
動物界・・・オスとメスではオスが美しい!!
動物界はどう考えればいいのでしょうか?
はてな?どうしてだろうと思う人もいると思います。
逆転しているのはどうしてなのだろう?
女性が美しいのと同じなら、メスが美しくあった方が一致した結果ではないのか?
しかし、これこそが、神が男性である最適な例なのです。
つまり、男性の美観に適うように人間の女性が存在しているのと同じように、
男性の美観に適うように動物界の存在様相が決められていることに気づきませんか?
もし、オスよりもメスが美しかったなら、男性は喜べないし、誇れないのです。
月並みなことばで言えば、「気に食わない」「受け入れがたい」「憮然とする」etc.
そうです。男性が見てどう思うかを中心に創造されているがために、逆転しているということになります。
人間界は、男性の直接の愛情の対象であるがゆえに、女性が美しく存在しているのですが、
自然界は、間接的愛情の対象である理由から、オスがメスより美しいのです。
鑑賞の対象(美観という視点に限定すれば)として動物界が逆転しているのは、むしろ男性の気を惹くため(あるいは、男性の気分を損なわないため)にそうなっているのです。
そう考えれば、男性と女性、オスとメス、これらの美醜の逆転は、矛盾ではなく、むしろ理にかなった事象といえるのです。
直接か間接かの違いだけで、どちらも男性の目(で見られること)を前提に存在しているのです。
一例だけ挙げておいた方がいいかと思いまして、蛇足まで。

この回答への補足

hyuuma8579様、重ねてのご回答をありがとうございます。
お礼が遅くなってすみません。もう少々お待ち下さい。

補足日時:2010/05/27 23:02
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この回答へのお礼

つづいてお礼を申し上げます。

>女性が男性の愛撫の対象になるように、可愛く美しく創られている
>女性が愛される喜びなら、男性は愛する喜び
>その美を見ることができ、手に入れることができるのが男性
>男性の美観を満足する美の対象的存在が女性

はい、仰ること、良くわかります。

>男性の美観に適うように動物界の存在様相が決められていることに気づきませんか?

それは「神が男性だから」ですよね。
動物界は「オスよりもメスが美しかったなら、男性は喜べないし、誇れないから」オスがメスより美しいのですね。
納得です。 

ではなぜ神は人間と動物界で「信条」を変えたのでしょう。
女性をあの手この手で愛撫したいがために、我が身の美しさを譲ってまでも、女性に性的魅力を備えさせた理由とは? 何故人間の女性だけ愛撫させるのですか?^^

hyuuma8579様のお説も大変おおらかで心地良いものを感じます。
スケールが大きくてもっと伺ってみたいところです。 

ちなみに「男性より女性の方が美しい」とは別に、「美男子」「女性と見まごうばかり」の男性の例もありますよね。
これにつき、白洲正子の文章を以下に引用させていただくことをお許し下さい。

──平安時代の『源氏物語絵巻』を見ると、男も女も例の「引目鉤鼻」という描き方で、ただ装束がちがうだけでほとんど同じ顔をしている。 このことは、顔そのものよりも、その人物がかもし出す雰囲気とか、そこはかとない匂い、衣ずれの音、といったようなものに重きをおいていたからで、何事もあからさまに残るくまなく言いつくすことは、「むくつけきこと」として排斥したに違いない。・・・

・・・日本人は何を考えているかわからないといわれるのも、そういう言葉のあいまいさから出ており、黒白をはっきりさせすぎると日本語ではなくなる。 自然の描写についても同様で、真昼間に残るくまなく見えるのは趣がない。 『源氏』に現れる時間は、夕暮か、月の夜か、明け方のほのかな光の中で、気候も秋のはじめか終り、春もたけなわを少し過ぎた夏のはじめの頃である。・・・

・・・昔の人たちは、人にも物にも個性なんか求めず、周囲の環境といかによく調和しているか、そのことだけを美しいと見たのである。 だから顔立ちとか表情は二の次で、立居振舞や風情の方に気をくばった。 たまたま「末摘花」だけが、雪の朝の日光のもとにその醜さをさらけ出したのも、白日のもとで女の顔など見てはいけないという教訓だったのかも知れない。 引目鉤鼻という言葉は、いずれ原題の学者がつけたのであろうが、『源氏物語』にはおよそ不似合いな呼び方である。 それで通用しているのは、顔の表情に重きをおいていない証拠であろう。 文章の上でも、男女の美しさにあまり区別をつけてはいない。

・・・ことに男の美しさを、「女にて見奉らまほし」とか、「女にて見ばや」などと形容しているのをみると、男女間の性についてもあまり区別をつけなかったようである。 

 どちらにしても男女の間柄があいまいなことに変わりはなく、しじゅうあっちへ行ったりこっちへ来たりして、目を肥やしていたに相違ない。・・・

・・・早い話が現代のゲイ・ボーイたちは、極く少数をのぞいてはみな女の模倣をしており、女以上に女らしい男は大勢いる。 それも両性具有への一種のあこがれであり、宗教的な制約のないわが国では自然な成行きなのだろう。
 
 最近、私はジャン・コクトーの『白書』を読んでショックを受けた。 今まで漠然と考えていたホモ・セクシュアリストが、東洋と西欧ではまったく別物であることを知ったからである。

 コクトーの挿絵は、前にもジュネの『泥棒日記』の特装本で知っていたが、実にギリシア的で、美しい。 そこには日本の春画のような陰湿なものはなく、地中海の太陽と風にさらされた鋼鉄のような肉体が、誇らしげに男性の男性たる所以を赤裸々に顕示している。 同じようにホモと呼ばれても、彼らの理想は完璧な男性になることで、女のような男ではないことを知った。

 文章もひととおり呼んでみたが、挿絵の方に圧倒されてあまり印象には残ってはいない。 残っているのは、ギリシアの神々とキリスト教の間には、私たちが想像しているほどの距離はないこと、ホモでありながらキリストは信じていること、それになによりも肉体的な強靭さが、西洋文明を造りあげたこと等々であった。 それについては考えてみなくてはならないことが山ほどあるが、それはまた別の機会にゆずりたい。──「女にて見ばや」『両性具有の美』新潮社

神は好みのタイプの男性にも「性的魅力」を備えさせたように思えてきました。随分ワガママな神?(笑)

次回も是非ご教示頂けたらとても嬉しく思います。
本当にご回答をどうもありがとうございました!

お礼日時:2010/05/28 21:51

その答えを真剣に取り扱えば、膨大な枚数の論文が完成しますが、ここではあくまで簡易的な略解となってしまうでしょう。


簡単に言ってしまえば、女性像には、宇宙創造の始原者である、神の理想と目的が込められているということです。
歴史的に男性は女性を求めてきました。人間という鏡に映し出されたものは何か?神の
まさに、それは神の願った願望・・・夢・・・理想なのだと考えられます。
それだけでも、神の心を理解するには充分でありましょう。
神の心の一番中心にあったものは何か?人間に投影された神の望みは何か?
答えは女性・・・ということです。
神は無形であって、姿形はないのだと言うのですが、嘘ではありません。
しかし、それだけでは、答えになっていないのです。
神は無形でありながら、有形なのです。(ごめんなさい、この説明は端折るしかありません)
それでは、神に血管や五臓六腑はあるのかないのか?当然ある・・・と考えるのが妥当です。
しかも人間の感覚の比ではない、研ぎ澄まされた感覚を持っていると考えられます。
五臓六腑があるなら、顔はあるのかないのか?顔があるなら、どんな顔なのか?顔があるなら目があるのか?その目はどんな目なのか?どのくらい見通せる目か?耳はあるのか?耳があるならどんな耳か?
鈍い耳か、どんな些細な囁きも聞き漏らさない耳か?我々のくだらない話も聞こえている耳だろうか、そうではないだろうか?
手はあるのかないのか?足はあるのかないのか?
それでは、五臓六腑もある神であり、顔もある神であり、手足もある神であり、五感もある神なら生殖器はあるのかないのか?
あるならどんな生殖器か?男性のそれか、それとも女性のそれか?
答えは男性のそれであることは、いろいろな視点から説明可能です。
ただ、神が可哀想なのは、未だにその生殖器を使う相手がいなかったことです。
神が望んだのは、神の理想に適う女性と結婚し、子供を生むこと以外に大きな喜びは存在しなかったと考えられます。
この悲しみは、我々人間では、到底言葉にすることのできない闇の如き深い悲しみでありましょう。
男性が女性を見たら抱きたいと考えるのは、元々は神の心そのものがそうだと言えるのです。
あなたからすれば、相当飛躍があると思われるでしょうが、そう考えることがスッキリきませんか?
例えば神学ではどうかとか、信徒がどう考えるという問題もありますが、彼らの信仰とか解釈には、ちょっと甘さがあると思います。聖書を素直に読み解くのはいいのですが、神が隠しておきたい秘密があったなら、誰でもわかるような書き方をするはずがありません。
神の一番最初のイメージにあったのは、女性だと考えられます。そのイメージから逆算して男性が決定されたと見るべきでしょう。
つまり、神の正体とは何か?答えは男性そのものといえると思います。
アダムとイブ・・・臍はあったのかなかったのか?
あったと考えるのが妥当です。
最初の人間始祖に臍があったのなら、親から生まれてこなければならないのです・・・
ということは、母体となる存在は何か?
などなど、素直に文字通りに信じるだけのクリスチャンでは、解きえない問題があるのです。
もし私が神様なら、実は男だったという正体だけは、絶対最後の最後まで隠しておきたいと思うと思いますから・・・聖書という、信じる人がすがり付きたくなるような、もっともらしい書物を与えてまで隠したいと願うはずです。
クリスチャンになど到底教えたくもない秘密なのですから・・・
せいぜい、イエス=キリストを信じることに専念してもらえば無難ということになりますね!
あなたがクリスチャンならごめんなさいね!謝ります!
ただ、こう書いたのは、信仰をバカにしたり、信徒を侮蔑したりする意味はありません。
彼らも彼らなりにそれが精一杯の生きる道だと思うからです。
ただ、真理を読み解くには、信仰とは逆の目、いわば、素直に読まないことも重要だということを言いたかったのです。
まして奥義中の奥義を知るには、信仰だけでは限界があるからです。
話が反れてばかりで、また言葉足らずで申し訳ないのですが、難しいこと抜きで言えば、男性が女性を見る時の思いや目は、神を起源としているのです。
何故なら、神とは男性だからです。これ決まりかな!
こんなこと信仰者には言えませんが・・・石が飛んできそうで・・・でも、秘密ってのはそういうものです。知る人ぞ知る・・・
その先は、あなたの推理にお任せします。

この回答への補足

hyuuma8579様、はじめまして。
ご回答をどうもありがとうございます。
要領が悪くて、本当にすみません。もう少々お待ち下さいませ。

>男性が女性を見る時の思いや目は、神を起源としているのです。
>何故なら、神とは男性だからです。これ決まりかな!
>石が飛んできそうで・・・でも、秘密ってのはそういうものです。知る人ぞ知る・・・
>その先は、あなたの推理にお任せします。

なるほど、そうですね。
古い時代、神事に男性禁制とされていたのには、きっとそういう理由があるのでしょうね。
「まして奥義中の奥義を知るには、信仰だけでは限界があるからです。」のくだりも深いものがあるのですね。

補足日時:2010/05/24 23:32
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この回答へのお礼

遅くなって申し訳ありません。 あらためてお礼を申し上げますね。

>女性像には、宇宙創造の始原者である、神の理想と目的が込められているということです。

なるほど、この文章を拝見しておりましたら、”宇宙のファンタジー”繋がりで、
アース・ウインド・エンド・ファイヤーの「天空の女神(原題:Raise!)」のアルバム・ジャケットを思い出しました♪

これ、長岡秀星氏が描いていたのです。 当時は話題になりました。 懐かしいなあ。 ご存知ですか。
女性のファラオをイメージしたのでしょうね、クレオパトラとか、ハトシェプストとか。
かなり強権的で強烈な個性の持ち主の。それにおっぱいもちゃんとついていますしね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Raise!

でも、当時の私は、なぜか「両性具有」のように思えて仕方がありませんでした。 何故かしら。
「神」だから、男女を超越するとでも思っていたのでしょうか。 良くは憶えておりませんけれども。

>神の心の一番中心にあったものは何か?人間に投影された神の望みは何か?
>答えは女性・・・ということです。

その「神の望みとは何か?」なのですが、

>神は無形でありながら、有形なのです。
>あるならどんな生殖器か?
>答えは男性のそれである

つまりそれは、男性のそれに「神が宿る」という意味なのでしょうか?

>ただ、神が可哀想なのは、未だにその生殖器を使う相手がいなかったことです。
>男性が女性を見たら抱きたいと考えるのは、元々は神の心そのものがそうだと言えるのです。

フムフム、だからつまり「神憑り」を仰っていらっしゃるのでしょうか?

>聖書を素直に読み解くのはいいのですが、神が隠しておきたい秘密があったなら、誰でもわかるような書き方をするはずがありません。
>神の一番最初のイメージにあったのは、女性だと考えられます。そのイメージから逆算して男性が決定されたと見るべきでしょう。

そうですよね。 たしかに神が男性だったとしたら、客体に対して理想を描くはずですし、
その対象は性的魅力を湛えることにもなりますね。
でもどうして、神は「秘密」なんて、わざわざこしらえたのでしょうか。

>アダムとイブ・・・臍はあったのかなかったのか?
>あったと考えるのが妥当です。
>最初の人間始祖に臍があったのなら、親から生まれてこなければならないのです・・・
>ということは、母体となる存在は何か?

まあ、そうですよね。 彼らはお人形ではありません。
やはり人間として産まれたからには、臍があったとも考えられますよね。
では母体は? 
「神が可哀想なのは、未だにその生殖器を使う相手がいなかったことです。」のくだりと関係がありそうな。
ちょっと気になってきました(謎)

>あなたがクリスチャンならごめんなさいね!謝ります!

いえ、私はクリスチャンではありません。ですから、全く問題ありません。
でも、クリスマスのミサに、半強制的?に連れて行かれたことはあります。
スイスの山奥のプロテスタント系の教会でした。
もちろんお客様状態で、ただ「ほけ~っ」と座っているだけでしたけれども。 

>ただ、真理を読み解くには、信仰とは逆の目、いわば、素直に読まないことも重要だということを言いたかったのです。
>まして奥義中の奥義を知るには、信仰だけでは限界があるからです。

素直に読まない、ですか。 なるほど。
長い年月を経て今なお読み継がれていることを思えば、聖書は「ベストセラー」なんてものじゃあないのでしょうね。
隔世感も当然あることから、解釈にもかなりの差が生じるのかもしれませんね、例え信者じゃなくても。

>難しいこと抜きで言えば、男性が女性を見る時の思いや目は、神を起源としているのです。
>何故なら、神とは男性だからです。これ決まりかな!

ん~。じゃあ、神はエッチってこと???

でもまあ、たしかに、男性っていうのは往々にして「秘密主義」だったり(だいたい良からぬこと、でもすぐバレる)、
「奥義中の奥義」といった探究心や好奇心に満ちあふれているように映りますからね。
やはりそうなのかもしれません。

>秘密ってのはそういうものです。知る人ぞ知る・・・
>その先は、あなたの推理にお任せします。

ん~。 とても気になります。 
次のご回答に謎解きを賭けてみたいと思います。
とても面白いお説だと思いました。 
ご回答をどうもありがとうございました!(つづく)

お礼日時:2010/05/28 20:28

>そしてこれは往々にして、「嫌がる女性が」と尾ひれがついて、巷にあふれている気がシマス。


尾ひれがついた方が「美味しい」のでしょうか。

「征服」についての尾ひれと認識しての回答します。
何かの映画で荒くれの男が酒場の艶っぽい女を口説く際に
「いつかお前を俺の顔の上に座らせてやる」という台詞があったのを覚えています。
この場合、女が男の顔の上に座ったとき秘匿に対する征服はほぼ成就するのだと思います。
「嫌がる女」が嫌がる女のままでは秘匿に辿りつくことは適いません。
秘匿は開示されることによって始めて征服されるのだと思います。
ただ、「征服」はいつまで経っても征服されないもので、
愛の言葉はいつまで経っても完璧には伝わらないのと同じで、
愛撫も征服もまるで逃げ水を追うよう・・・なもの。

  

この回答への補足

pi_mob様、重ねてのご回答を本当に嬉しく思います。ありがとうございます。
要領が悪くてすみません。追ってお礼を申し上げますね。

>ただ、「征服」はいつまで経っても征服されないもので、
>愛の言葉はいつまで経っても完璧には伝わらないのと同じで、

とても意味深なご回答のように思われました。
そして何だか──男と女が肌を押しつけあって互いに愛し合おうとするならば──
既存の偽善めいた綺麗事とは裏腹に、それこそ互いに征服しようと我意が突出して露わになり──
──でもそれを認めてこそ、男と女の間に厳粛で浄らかな何かが生じるのかもしれないような気もしたりして。

補足日時:2010/05/24 23:16
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この回答へのお礼

続きまして、あらためてお礼を申し上げます。
《秘匿》に関して、幾つか考えておりました。

男性にとっての秘匿というのなら、「秘匿」自体には何の意味もない。
女体の側に真に秘匿されているもの、湛えているものなどではない。
男性自身が「何か秘匿されているはず」と欲するところの《何か》が《秘匿》つまり幻想。

>秘匿は開示されることによって始めて征服されるのだと思います。

まるで古都の寺院で執り行われる御本尊の特別拝観のようですね。
普段滅多に拝めないというのなら、ここぞとばかりに、食い入るように御開帳を堪能するはず。

ですからこの《秘匿》は、普段最も女性たちが厳重に隠し遠ざけている場所=「女体の秘所」ですよね。

では仮に、普段《秘匿》も含めた全てを露出したとします。
現代に生きる私達の意識/性意識はどう変化するのでしょう。

ヌーディスト村やビーチを想像してみればわかるでしょうか。
村やビーチに一歩踏み入れたなら、当初は彼らの裸体に対し、自分自身が気恥ずかしく思うでしょう。
でもそのうちに見慣れて、意を決して自ら全て脱ぎ去ってしまったならば。
今まで「隠していた」ことのほうが、むしろ「やましい」ことのように思えてくるのかもしれません。
自分自身の中で羞恥心の価値基準がブレる気がするのです。
でも、実際はどうなのでしょうね。

そして肝心なことですが、秘匿も含めた一切をお互いに晒していったなら、
男性は女体に対し、これまで同様とは申しませんが、少なからずエロティックなものを感じることができるのでしょうか。

>「いつかお前を俺の顔の上に座らせてやる」
>この場合、女が男の顔の上に座ったとき秘匿に対する征服はほぼ成就するのだと思います。

なるほどね。
この2文を伴う《秘匿》というのは、何か微妙に違う気が致します。
これは特に女性にとっての話しになるのかもしれませんが、
「いつかお前を」という荒くれ男との駆け引きの末の秘匿の征服、女心を陥落した象徴ではないかと。

それとも、女の「美徳」の仮面の下には「背徳」「罠」の笑みを湛えていたりして。

性欲の例えとして、食欲がよく挙げられます。
そのどちらも、ある程度の欲求不満に陥らないかぎり、まったくソノ気にならない。
どうせ食事をするのなら、より美味しく食べた方が悦びも満足度も大きいわけで。
だから今までに様々な調理方法が生み出され、美食を追求してきたと思うのです。
そして必ずしも食品の保存や中毒回避という目的のためだけではなかったはずです。

でも、毎日同じものばかり食していたら、例えどんなに稀少で美味しいメニューであっても、
飽食気味になるのも、これまた当然なことでしょう。 嗜好の程度問題、個人差にもよります。

それと同じように性欲もまた、男女の駆け引きやら手の込んだ愛撫、猥褻じみた変態行為やポルノ等、
一切のエロティシズムが人間の性行動においてスパイス的な付加価値として加味されてきたのでしょう。

そう考えると、岸田先生の「人間は不能である」「性本能も壊れている」というのは強い表現だと思います。
いかにも「(岸田先生いわく)不能を怖れる」男性の視点だなあって感じがシマス。

人間の文化全般に渡って、人間自身が創り出す幻想に頼ってきたという意味であるのなら、
もうちょっと主体性を持たせた形の表現のほうが相応しい気がするのです。

本能や衝動に対し、時に抗い、乗り越え、あるいは逆らわずに貪るという風な意味合いで、
「人間は性本能を巧みに操り小出しにしている」の方が「不能とは無縁な」女性にはしっくりくるような気が致します。

>ただ、「征服」はいつまで経っても征服されないもので、
>愛の言葉はいつまで経っても完璧には伝わらないのと同じで、
>愛撫も征服もまるで逃げ水を追うよう・・・なもの。

おお。 愛の流浪者みたいな。
経験者は語る、でしょうか?^^
これも戔嗚尊等らしい率直な御言葉ですね。好感が持てます。
女性の場合、もう少々、心身ともに満ち足りる心地をおぼえるのは「被征服者の特権」ということで。

また次回もよろしくお願い申し上げます。
とても愉しかったです。
本当にどうもありがとうございました。

おことわり:あくまで質問者の一私見にすぎません。 なにとぞご容赦下さりますよう。

お礼日時:2010/05/26 18:09

mashumaro2さん、こんばんは。



冗長な拙文に対し、重ね重ねご丁寧なお礼を頂戴し、恐縮いたしております。

>人類が、二足歩行になり、嗅覚の役目が薄れ、発情期の兆候を示さず通年で妊娠可能になったメスの女性に対し、それに付き合えるようなタフなオスの男性が選ばれてきたのではないかと思うのです。

う~ん、当時の女性にとって妊娠・出産・育児がいかに自らの生存にとって過酷な試練であったかと思うにつけ、そのためのアフターケアが万全でない条件下ではとても易々とは男性を性的に受け入れられなかったのではないか、と私は想像しますが。
そして、女性が妊娠・出産・育児を心配しなくても良い条件とは、採集・狩猟時代にあっては親族中心の集団生活以外には考えられませんよね。
ここに夫や父親としての男性が入っていないのは、狩猟・漁撈生活と採集(定住)生活とが相容れないから、さらには当時の生活形態では、男性が夫や父親になるための動機、理由、必然性がなかったからでしょうね。

>「隠す」のが目的というよりも、やはり「覆う」ではないのかなあっていまだに思います。
>我ながら頑固で困ります。すみません。

いや、問題は「覆う」理由が「隠す」こと以外にあったのかという点だと思います。
ただ、その起源については、イヴが蛇にそそのかされ、神との約束を破って「智恵の実」を口にした瞬間である、という以上に科学的、合理的に説明しようがないですよね。
明らかなのは、このエデンにおける椿事によって「智恵」を体得するに至った人間は、それ以降性器を隠し、性を禁忌視するようになったということだけです。
この椿事を人間レベルに還元して理解しようとすれば、セックスで妊娠せざるをえない女性は、原則として男性を性的に拒否し、一定の条件を満たした男性だけを性的に受け入れるようになったと説明されるのではないでしょうか。

>ここは古代のアマゾネスの集団を想起致しました。

はい、アマゾネスが滅ぼされたという神話は、もしかしたら人類が母系制共同体から父系性共同体へと移行したことを暗示しているのかもしれませんね。
でも、漁撈・狩猟が大好きな私としては、女房に給料を搾取され、勉強嫌いの子供たちへの仕送りのために小遣いを減額されても何一つ文句を言えない生活を余儀なくされているだけに、魚介類や鳥獣を持って行きさえすれば、好きな女性と一夜を共にし、しかも尿・子供の扶養・養育も課されなかった母系制時代をちょっと羨ましく思うこともあります。

>元々はもっと大らかに、性交を複数の相手と営んでいたのではないのかなあって。
>で、その当時の名残が、オスたる男性の中に多分に残っているのではないかと思います。

う~ん、私には、一般的な男女が現代ほど「性交を複数の相手と営」める時代は史上なかったのではないか、現代ほど女性がセックスから派生する事柄に不安を覚えずにセックスできる時代はなかったのではないかと思っています。
たとえ、その結果、女性が安定的、継続的に欲求不満を維持している男性、つまり旺盛なセックス欲を備えた男性を減少させつつあるにしても。

>若い男性の草食化と人工授精(体外受精)、女性の社会進出などにより、婚姻制度は相応に存続するにしても、必ずしも性交が必須ではなくなるということも、将来あり得ると思われますか?

はい、確実にそういうカップルが増加していくのではないでしょうか。

>女性のヌードでも、美しく思えるほどに、何ら性的魅力を抱かないものもあると思うのです。

女性の視覚的な美についてつらつら考えるに、もとは男性の性的理想を確認するための手段としての視覚が、脳裏の美的観念(理想)と結託し、女性とのセックス(触覚的関係)という本来的な目的を見失うようになってしまったとき、つまり目的と手段とが本末転倒の関係になったときに、女性を「美しく思えるほどに、何ら性的魅力を抱かない」という事態が生じたのではないでしょうか。
まあ、その点では、本来軍事目的になされていたはずの肉体鍛錬の営為からスポーツが生み出されたのも、男性が女性の下着や履き物、女性の身体の非性的部位にフェティッシュな嗜好を抱くようになったのも、いずれも同じく人間固有の観念のいたずらという点では通底しているのかもしれませんね。

それにしても、「愛」にしても、「美」にしても外来語でしかなく、これらの観念を表出するための自前の倭語をわれわれ日本人が必要としてこなかったという点もなかなか興味深いとは思いませんか。

この回答への補足

kadowaki様、かくも鈍い私にお付き合い下さりまして、本当にありがとうございます。
もう少々お待ち下さいますようお願い致します。

──Well, so many words, because I can't touch you. If I could sleep with my arms round you, the ink could stay in the bottle. We could be chaste together just as we can fuck together. But we have to be separate for a while, and I suppose it is really the wiser way. If only one were sure. ──
(Chapter XIX)

補足日時:2010/05/24 22:42
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この回答へのお礼

お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。
そしてこの度も丁寧なご回答をどうもありがとうございます。

>明らかなのは、このエデンにおける椿事によって「智恵」を体得するに至った人間は、それ以降性器を隠し、性を禁忌視するようになったということだけです。

はい、全く仰る通りだと思います。
女性の身体は女性自らが一番良く知り得ること、これは古今東西不変だと確信しております。

また、文明前後の時代認識(言語や呪術装飾文化の発生など)につき、根本的とも言える思いこみの誤りもご指摘により気付くことができました。
先史の美術、たとえばラスコーの洞窟絵画にしたって、当時の制作意図や事情背景を知り得なければ、
作品の真の意味など解らずじまいなわけで、現代の私達は、自らの思いこみや固定観念をそれに投射するにすぎないのだろうと。

だから、変なこじつけをせずに素直に考えれば、kadowaki様のお説になるのだと思うに至りました。
これにつきましても、心より深く感謝申し上げます。

>>若い男性の草食化と人工授精(体外受精)、女性の社会進出などにより、婚姻制度は相応に存続するにしても、必ずしも性交が必須ではなくなるということも、将来あり得ると思われますか?
>はい、確実にそういうカップルが増加していくのではないでしょうか。

こちらのご見解とヴァーチャルな「女体の性的魅力」とを絡めて、男性の自慰行為に関し、誤解している女性がいまだ少なくないように見受けられます。

旧約聖書においてすでに神は自慰を罰したと記してあるそうですが、実際の精神分析の観点や動物行動学からは、人間にとりごく自然な行為とみなされているようですね。

ところが、社会を営む私達は、少なからず負のイメージを子どもに押し付け抑圧しようとします。
歴史的に見れば、その最たるものはキリスト教で、同性愛などと共に宗教的な罪とされ、その後は
健康被害説に繋がったと見知っております。

文明社会が少なからず動物的本能や自然の衝動を抑えつける形で形成されているのは自明のことながら、自慰行為は決して異常で誤った行動などではないということ、そしてそれが社会に対して非生産的(男女の婚姻形態やセックス、妊娠、出産など)なだけにすぎません。
そして表向きはどうあれ、男性のコンディション?を整える上で欠かせない行為だと捉えております。

ところが夫婦カテで毎日のように散見される質問を勘案し、昨今の日本人男性の草食化傾向とセックスレス、そして自閉的に映る夫(パートナー)の自慰行為につき、いまだ多くの「誤解」が生じていると思われます。
私が思うに、一見はるかに倫理的に悪いと糾弾される生身の女性との不倫や浮気の方が、まだ本人の「罪悪感」に触れることで自ら訣別することもあり得るはずです。

しかし自室で秘かに行為する夫や恋人の場合、羞恥心はあろうとも、その「罪悪感」に訴えるものが微塵もないわけで、この行為に対し妻たち女性が自身の女体と仮想世界の女体とを比較評価したうえで、不必要な劣等感を抱き落ち込むというのは、錯誤以外の何物でもないと思われるのです。
おそらくセックスレスという状況が、暗黙の了解を許容するどころか糾弾せざるを得なくなるのでしょう。

自慰行為は夫婦と言えども自然な衝動であり、むしろ趣味の一つ、くらいに達観して見て見ぬふりをするのが大方の男女のありようだと推察しますが、問題はセックスレス夫婦における自慰行為なのであって、いっそのこと「夫婦のセックスは夫の自慰行為の上に築かれるものだ」くらいに女子に性教育するべきだと考えております。
(男子にはどうでしょうね。逆パターンを教える方がよろしいように推察致しますが。)

そして今後婚姻関係を結ぶであろう女性たちには、昨今の男性傾向をしっかり踏まえたうえで、
対象として男性を見抜く選択眼を養うこと以上に(今後はあまり大差がなく一様にガツガツしていない
飽きっぽい性嗜好が主流のように思われるので)、自他に対する性意識にめざめ、対性戦略を堅持すべきであろうと考えている次第です。

ですので「セックスレス」についても、決して世界各国と単純比較をしたり、隣の夫婦の回数や固定観念(負のイメージ)に囚われ苛まれ夫を責めつづけるのではなく、女性自らが最善の選択を自信を持って取り得るのではないかなと私は思うのです。

恐ろしく当たり前のようなことばかりをこの場で記してしまい、大変勿体ない気分です。
そして、男性の草食化、つまり、生身の女体に性欲が向かわない昨今の傾向に対する改善策など、現代のポルノ情報の氾濫からも、あまり見い出せないように懸念しております。

得難い数々のご回答を頂くことができて光栄です。
本当にどうもありがとうございました。
今後ともご教示お願い申し上げます。

お礼日時:2010/05/27 14:53

komaas8さん、ご回答いただき、ありがとうございます。



mashumaro2さんにはは、掟破りを横レスにハッパ(エール?)を掛けていただいたので、komaas8さんからいただいたご回答に対し、簡単な私なりの感想を申し上げさせていただきますね。

>今の時代が進めば、ますます女性の性的奔放さは男性のそれに近接していくと思います。

「今の時代が進めば」とは、具体的にはどのような時代を念頭に置かれてのことかが見えてきませんが、確実に言えるのは、「女性の性的奔放さ」と言ったところで、所詮男性の性的スタンスと無関係に実現するわけではないですよね。

>あの時代に女性中心のこういった小説が書かれたということ自体が極めて先進的だったと考えます。芸術は一足飛びには進めませんし、受け入れられることもありません。伊藤整もこの小説に影響されて女性の性をテーマにしています。

う~ん、私の理解が間違っていなければ、ロレンスは「先進的」だったどころか、意外と保守的な人でしたし、特に近代的な個人主義とか進歩思想とかを崇拝したがる知識人や文化人といった人種を呪詛し続けた人でしたよね。
愛の大義を掲げないとセックスを正当化できない現代人の偽善をだれよりも厳しく批判し、《性》を《生》の一部としてでなく、《生》の本来的なあり方として意義づけようとした点にロレンス固有の性思想が看取できるのではないでしょうか。

>性の魅力の追求が進めば絵画も顔の描写だけでなく、肉体のリアルな描写へ向かうのは歴史的必然性があったと思います。

私はドガのデッサン(裸体画)の大ファンですが、たとえばドガの視線が踊り子たちに向かうと、踊り子たちの衣装どころか、皮膚さえ引き剥がしたところではじめて露呈する生命そのものの躍動感をどん欲なまでに逃がすまいとして、結果的に「リアルな描写へ向か」ったように思われてなりません。

ということで、男女の性意識なり、性行動なりが歴史的、社会的、文化的、心理的な諸条件に大きく規定されているとする点では、komaas8さんと私とでは意見が同じかと思います。
が、私の場合、こういう諸条件に先だって男女の性意識なり、性行動なりをより根本的に規定する前提条件があるはずと考えている点でkomaas8さんと大きく違うのかなと思っています。

それは、たとえどんなに精度の高い避妊手段が普及したところで、原始以来、セックスは女性の妊娠する可能性を孕んだ営為であるという事実、さらには女性が必ずしも欲情に駆られずとも、男性への愛情、尊敬、同情、憐憫、恐怖等の念からでも、義務観念や妊娠願望からでもセックスできるのに対し、男性は唯一、セックス欲に駆られ、相手女性を性的欲望対象と感じ、これに欲情することによってしかセックスを遂行できないという男女間の性的差異の二点を重視している点です。

この回答への補足

──Le dessin n'est pas la forme, il est la maniere de voir la forme.──Edgar Degas

http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Degas-Femme …
http://www.musee-orsay.fr/fr/collections/catalog …

Merci Monsieur.

補足日時:2010/05/24 02:43
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この回答へのお礼

kadowaki様、ご回答をどうもありがとうございます。

>mashumaro2さんにはは、掟破りを横レスにハッパ(エール?)を掛けていただいたので、komaas8さんからいただいたご回答に対し、簡単な私なりの感想を申し上げさせていただきますね。

すみません、やはり、私のへんてこりんなエールがまずかったと思います。
(komaas8様、本当にごめんなさいね。
私の質問の立て方も拙かったのだと反省しております。すみませんでした。)

そしてkadowaki様、ご都合のよろしいときにでも、

>それにしても、「愛」にしても、「美」にしても外来語でしかなく、これらの観念を表出するための自前の倭語をわれわれ日本人が必要としてこなかったという点もなかなか興味深いとは思いませんか。

これにつきまして、ご教示を頂ければと切に期待しております。
私も興味を持ってちょっぴり考えてみたのですが、まったく何も浮かびませんでした。降参。

heartmind様のご回答で以下のような記載がありました。
私も同様に考えます。

>草食傾向は必然なんでしょうか。
>その為の視覚的エロ文化なのかもしれませんね。

そして、殊に日本において顕著な傾向なのだとしたら。
それは何故なのだろう、などとも思っている次第です。
ヨーロッパでラブホを見かけないということとも繋がっているように察せられます。

欧米なみにスキンシップや婚前交渉、あるいはフリー・セックス化が進んだ一方で、
「セックス」や「性愛」そのものに対する夫婦や恋人達の共有概念やら意識が希薄なままなのかもしれませんね。

kadowaki様が仰る「日本人に「愛」「美」の自前の倭語を必要として来なかったように」をふまえるならば、
古来からの日本人の性愛観と現代の性愛観とでは、放縦さでは似通っても、全く異質のもののように私には映るのですけれども、
でもあながちそうでもなくて、ここはやはり元の姿に戻ったとも言えるのでしょうか。

いずれにしましても、日本人男性の性欲維持の観点では、過度のスキンシップや露出はむしろ逆効果と考えます。
やはり相応の「禁欲」「抑圧」は大切であり、これを欠かして女性の対性戦略はあり得ないと思います。

>さらには、こういう男性のフェティシズムが、やはり代償行為として、自らの純粋観念の具象化としての視覚芸術(絵画)に向かったと解するとしたら、これはあまりにも牽強付会が過ぎるでしょうか。

実は、このくだりこそが、私にとっては最もわかりやすかったです。
「男性にとっての女体の性的魅力とは何か」に通じると思いました。

他に性に関する質問を見かけましたので、明日中に締め切らせていただくつもりです。
大変多くを学ばせていただきました。
本当にどうもありがとうございました。 厚くお礼を申し上げます。

お礼日時:2010/05/27 17:02

ましゅまろさん。

こんにちわ。17番です。
たまには「ほしのあきちゃん」になってみたい、
ことがなくもない、宙ぶらりんです。
たまに「おかん」の子宮に帰って羊水に浸って
冬眠してみたくなる、宙ぶらりんです。
丁寧なご返事をいただきありがとうございます。

「なぜ」と問われているのに「~だから」という
答えを持たないまま、
ましゅまろさんの懐の広さに甘えてお邪魔します。
雑談に終始するかもしれません。

先ほど18番様へのお礼を拝見し、
とても共感しました。
畳と嫁は新しい方がよいのは何ででしょうねえ。


>筋トレをお始めになった理由
>筋トレの時間は、わたしにとって瞑想のようなもの
:運動指導員として、「体は商売道具」であり、
故障しないように大切に扱いたかった、というのと、
「体という商売道具自体」がmedia力を持てるように
磨いておきたかった、という理由で始めたのですが、
ただの手段ではなくなった、という、それだけです。

しかしよく考えると、14歳のときに
「女体」であることをとても頑なに拒否し、
それからずっと男体を目指しているのも本統です。
なぜなのかは、分かりません。

「美」についてのみの(欲を含まない)話になりますが、
個人的には「男体」に「生的魅力」を感じてきました。
若花田(ほぼ裸体)が現役だったころ、
(体の動作というよりは)筋の動きがあまりに美しいので
口をポカッと開けて見入ってしまったのを覚えています。

>人はなぜ自分の身体を鍛えたり、
身だしなみとして手入れをしたり、
あるいは装うのだろう、という疑問からです。
:わたしに限ってですが、
ただの、そして、大切な、自己表現ですよ。
表現をして関心を持ってもらう「必要がある」だけです。


>ある時「ゲイだ」と告白してくれました。
:この質問を最初に見たとき、まず、
ゲイとレズビアンはどちらが多いのだろう、
と考えてしまいました。調べませんでしたが。

>フェティシズムにも繋がっているのでしょう。
:同じくこの質問を見た瞬間、
猫を解剖しながら射精した某少年が浮かびました。
タナトスが向かうことができるエロス(=生)なら
何でもいいのか?と思ってみたりもしました。


ここで、少し考えたのですが、
「なぜ」→「単に物理的にそうなっているから」
のような気もします。

単に、受け入れる場所を持っているから。
結局「受動」であることしかできないから。

男性が女性をレイプするのは常時可能ですが、
女性が男性を、というのはそうではないんですよね。

女性は常時、洞窟をもっていて
問答無用土足侵入可能ですが、
男性は常時、刀やピストルを持っているわけではなく、
棒状マシュマロをピストルに変化させないことには
犯そうにも犯せませんからね。


>「冬服と夏服で私の何が違うのだろう」
:中身は同じなのになぜ?ということでしょうか。
たぶんそれが、この質問の格子なんですよね、
「精神的つながり」を度外視して、にもかかわらず
「女体のみが性的魅力を湛えるのはなぜ」という。

>neutral様は、カジュアルな装いをお好みなの?
:露出が好きです。表現・主張、激しい方ですから。
近所迷惑にならない表現を心がけてはいますが。


今回は
「精神的つながり」を度外視して、にもかかわらず、
という前提だと思うのですが、
ある男性が、某肉掲示板で
「女性の身體の中で最もセクシーなのは脳だ!」
と言っていて、妙に納得してしまったのを思い出しました。


あまり回答になっていなくてすみません。

最後に、関係ないけど、
谷佳知は柔ちゃんに性的魅力を感じている。

この回答への補足

neutral様、快くご回答を下さりまして、本当にありがとうございます。
嬉しいです。
もう少々お待ち下さいね。すみません。

>たまには「ほしのあきちゃん」になってみたい

このまえ、郵便局で順番待ちをしていたとき、
本当に偶然なのですが、
「ほしのあき様~」と窓口から呼び出す声がしたの。

私も思わず振り向いちゃいましたよ~。
もちろん、フツーの女性でしたが。

「あの手の女体」というのは、夢想される「鋳型」の一つなのでしょうね。きっと。
しかし、「ほしのあきこ」でも、ちとキツイかもね(笑)

補足日時:2010/05/24 00:01
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この回答へのお礼

neutral様のような筋肉質の脚になりたいましゅまろです。
遅くなってごめんなさいね。お礼を申し上げます。

>畳と嫁は新しい方がよいのは何ででしょうねえ。

本当に何ででしょうね~(笑)
女性の場合、同一パートナーとのセックスを重ねて「飽き」がくるのかどうか。
受け身ですしね、「慣れ」によるメリットのほうが勝るとは思われませんか。

>運動指導員として「体は商売道具」であり

おお、運動指導員の方でしたか!
私も体を動かすのが大好きです! 
でも今のリハビリは現状維持以下なので、気持ちが萎えてばかりなのです。
neutral様のように目標定めて鍛えられたら、さぞ楽しいことでしょう~

>14歳のときに「女体」であることをとても頑なに拒否し
>それからずっと男体を目指している

以前、よく似た女性とこちらで質疑応答を重ねたことがありました。
その方も貴女と同じことを仰っていましたよ。
男の子に交じって野球をしていたって。マッチョみたいに身体を鍛えたいって。

私には解りませんが、もしかすると何らかの形で、女の子は一度くらい男の子になりたいという憧憬を抱くのでしょうか。

>個人的には「男体」に「生的魅力」を感じてきました。
>若花田(ほぼ裸体)が現役だったころ、

なるほど、少なからず男性の裸体に憧れたり魅力を感じる時期があるのかもしれないのですね。
とても参考になります。本当にありがとうございます。

>ただの、そして、大切な、自己表現ですよ。
>表現をして関心を持ってもらう「必要がある」だけです。

はい、今回の「女性の性的魅力」の骨子の一つが「わたしの身体」にまつわるシェイプ・アップ、装い、
自己同一性等が、いったいどのように性的なものと結びついているのか、社会性も交えて考察するというものでした。
でも、これは心理学カテのほうが相応しいようですし、次回の質問に致します。
その際には、お時間の許す範囲で、是非ともneutral様にもご回答頂けたらとても嬉しいです。

また、別のテーマとして「男性にとっての女体の性的魅力とは何か」の解答を得ることにより、
レスされ女性が「不必要に」自らの身体に対して自己卑下/自傷気味に陥らないような十分な論理性を得たいという狙いもありました。

>ゲイとレズビアンはどちらが多いのだろう

そうですね。いったいどちらなのでしょう。
想像するかぎりではゲイの方かも。 女性に抵抗感が薄いなら、それは何故でしょう。

おそらくね、生まれつきの「○○性愛者」なんて一人もいないのでしょうね。
人は生まれつき「そうなる」のではなく、自ら選んだわけでもなく後天的に幼少期に刻まれた記憶の悪戯が為す技だと思います。

かつての日本では稚児のような幼児性愛、同性愛は決して咎められるものではなかったはず。
いかに幼い頃の生育環境に起因するとはいえ、私達の抱く性嗜好が、属する社会に適うものかどうかに因って、
公に認められるか忌み嫌われるかの違いが生じるに過ぎないのでしょうね、きっと。

>猫を解剖しながら射精した某少年が浮かびました。
>タナトスが向かうことができるエロス(=生)なら
>何でもいいのか?と思ってみたりもしました。

そうですね。 私達の属する社会的な倫理に沿えば、当然褒められたものではありませんが、
「動物性愛」と言えども、その形成の過程というのは、異性愛、同性愛と大差が無いと思われます。

>男性が女性をレイプするのは常時可能ですが、
>女性が男性を、というのはそうではないんですよね。

はい、仰る通りだと思います。どんなに女性が男性並みの社会進出やストレスに因っても、
「単に物理的にそうなっているから」、レイプまでも同様に為し得るはずがないと察せられます。
多分、違うやり方(年少者をたぶらかす、そそのかす)で性交に持ちこむことは可能かもしれません。
けれども、マシュマロ棒をピストルやこん棒に変えるなど、そう容易いことではなく、逆に強いるほどに、
男性が忌避と嫌悪走るのは、夫によるレスの現状に合致する論理なのです。

>「精神的つながり」を度外視して、にもかかわらず
>「女体のみが性的魅力を湛えるのはなぜ」という。

そうですね。以下のように記しますね。
まずは、女性自らの身体とパートナーの嗜好と愛情とを完全に分けるためにも、
「精神的つながり」はむしろ度外視したほうがよろしいと思われます。
またそれとは別に、男性側にとって女体が湛える性的魅力の嗜好と幻想との関連性、そして、
女性自らの身体に対する内的/外的考察において「精神的つながり」を考察すべきかもしれません。
強欲なテーマ?

清らかなご回答にいつも心癒され、そして嬉しかったです。
本当にどうもありがとうありがとうございました^^
 

お礼日時:2010/05/26 23:19

私は男性ですので男子の立場から経験や妄想等あちこちから見てみると、


結果「女体そのもの」に男性は性的に魅了されているわけではないような気がします。

幼児期は誰にでも覚えがあるかと思いますが
欲望対象は男女の区別をつけないと思われます。
また、男の子も女の子も欲望の質にあまり変わりが無いような気がします。
その後、男子は男子になり、初めての精通とその後の激しい欲求を向かえますが、
そもそも女体全体を性的対象とすることは欲望の質として困難で、どうしても
臀部とか足とか胸とかに具体的部位に向かってしまいます。
さらにはそれを覆い隠している物にまで対象は広がるしだい・・
だいたい男子の素直な欲求はそんな過程で、やがて交渉をもつ相手が出来、
覆い隠している物を剥ぎ取り、肩が現れ、夢に見た愛する人の胸が現れ・・・
とここまでは愛と欲望がごちゃ混ぜ状態なのですが、ここから先は美しい心と
動物的欲望が矛盾しついでに事の遂行の義務感や責任感まで入って大変ですが、
事ここに至って女体は性的魅力よりも征服的魅力を感じさせる物に変容。

青年が経験を深めて行けば、もはや女体は覆い隠すものを剥ぎ取り征服するもの・・・
では何を剥ぎ取り征服するのか?
それは、当人にとって魅力的肉体を持った女性が秘匿しているものではないかと。
そしてその秘匿を宿す女体の「秘匿」を女性の意思とはかかわり無く
具体的に感じているのは男性の欲望なのです。
レズビアンでない女性が女性の肉体に性的魅力を感じるのはその男性の欲望を
知っているからではないでしょうか?

男性の肉体の性的魅力はわかりませんが、肉体派の同性愛の人たちから見れば
多分これも秘匿の征服にかかわりがあるかと感じます。
よって女体であろうと男体であろうと肉体の性的魅力を感じるのは男性の欲望だと思います。

この回答への補足

pi_mob様、はじめまして。ご回答をありがとうございます。
お礼をのちほど申し上げたいと思います。もう少々お待ち下さいね。
とても参考になります。 

>レズビアンでない女性が女性の肉体に性的魅力を感じるのはその男性の欲望を
>知っているからではないでしょうか?

その男性の「秘匿の征服」の欲望をその肉体に見出し、
征服される側としての歓びやエロスを微妙に感じているのかもしれません。

そしてこれは往々にして、「嫌がる女性が」と尾ひれがついて、巷にあふれている気がシマス。
尾ひれがついた方が「美味しい」のでしょうか。

補足日時:2010/05/23 23:50
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この回答へのお礼

遅くなってすみません。あらためてお礼を申し上げます。

>とここまでは愛と欲望がごちゃ混ぜ状態なのですが、ここから先は美しい心と
>動物的欲望が矛盾しついでに事の遂行の義務感や責任感まで入って大変ですが、
>事ここに至って女体は性的魅力よりも征服的魅力を感じさせる物に変容。

頂いたご回答を通じて、とても素直な印象を受けました。 ありがとうございます。

「事の遂行の義務感や責任感まで入って大変」というのは、薄々わかる気がします。
かのイタリアのカサノヴァなど、「千人斬り」以上したとか、しないとか。
でも、その「事にまつわるパートナーへの一切の気遣い」まで怠らなかった上での回数だったら、
幾ら相手をとっかえひっかえしたとは言え、ある意味凄い。

フォアプレイだって怠ってはまずいでしょうし(名声にも傷がつく?)、つまりは出逢ったときからスマートに
口説き落とす手順を踏んで…なわけですから、大変な手間暇と労力と金銭?をかけた上で、さらにそれを
愉しむ心が必要なわけですから。う~ん。

それにしても、特定の相手女性と付き合っていけば、情愛や親密さと共に、相応の慣れや飽きも比例するでしょうから、
「気遣い」の点でセックス自体が、時と場合によっては、面倒臭いことも当然あるでしょうね。

で、「性的魅力よりも征服的魅力」というくだりを拝見して思ったことは、
なぜ人間だけが「性常位」で営むようになったのか、という不思議についてです。
あのスタイルって、覆い被さる男性にしてみたら、征服感を得られて魅力ある体位なのでしょうね。
だって、女性は身動き一つ取りようがなく、密着して、もうどうにも抗えませんから。

wikiで調べてみたところ大航海時代において、現地住民の体位が「あまりにも動物的である」とする一方、
代りに「人間らしい体位」としての性常位=「宣教師ポジション(スタイル):missionary position」が推奨されたとか。
なぜそのような入らぬお節介ともとれる禁忌を課したのでしょうね。
しかも、禁忌の度が増すほどに、意図した方向とは逆の結果が生じるというのに。
きっと言い訳をつけて、他のも試していたに違いない!(笑)

ちょっと以下に引用してみたいと思います。
──要するに、キリスト教の性否定は、架空の世界に真の愛、唯一永遠の価値を求め、現世否定を救済の条件にしたことから不可避的に導かれる論理的帰結であると考えられる。
 愛の宗教であるキリスト教では、神の国は愛の国であり、すべての愛は神のものであって、神が独占しようとする。 たとえば、今やほとんど形骸化しているが、キリスト教の教会の結婚式では、新郎は新婦に、新婦は新郎に永遠の愛を誓うが、ご存じのように、おたがいに相手に対して誓うのではなく、神に対して誓う。 もちろん、婚姻の秘蹟を受けていない男女の関係は罪であった。 つまり、神が介在しないところで男女の愛が成り立ってはならないのであった。 神の知らないところで男女が直接に愛し合ったりするのは、神をないがしろにすることであって、神に対する反逆なのである。…さっき、恋愛の起源はキリスト教の異端にあったというようなことを言ったが、人が人を直接愛する恋愛は、キリスト教にとっては、いわば、同じ商品を密売する商売敵のようなものであった。──「性的唯幻論」岸田秀(p137-138)

二人の性愛において、教条的な《愛》を実践するほどに、歪んだ征服欲が互いに露呈してきそうな気もするのですけれども。

>肉体派の同性愛の人たちから見れば
>多分これも秘匿の征服にかかわりがあるかと感じます。

はい、おっしゃる通りだと思います。
秘匿の征服、禁忌に対する侵犯がエロティシズムの本質である以上は、同性愛、異性愛、両性愛いずれも「差」など無いように映ります。

それにしても。
「肉体派の同性愛者」と、宝塚の男役に夢中になる規律正しい女性ヅカファンとは、
やはり決定的な差があるのでしょう。後者の心理は一体何なのでしょうね。
親友に熱烈ファンが数名いて、からかい半分に誘われるのですが、まったく興味がなくて。
歌舞伎の女形の醸し出す美や女らしさを愛でるのと同じ理由なのか、恋に恋しているのか。う~ん。

>青年が経験を深めて行けば、もはや女体は覆い隠すものを剥ぎ取り征服するもの・・・
>では何を剥ぎ取り征服するのか?

ん~。なかなか悩ましいことをおっしゃるのですね。
「魅力的肉体を持った女性が秘匿しているもの」とは「男性の欲望=渦巻く幻想」のことですよね。
それこそ殿方によって剥ぎ取るものが千差万別、フェティッシュ崇拝なのでしょう、きっと。

続いてご回答を頂いております。 
次に続きますね。 どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/05/26 00:50
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