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なぜ女体のみが性的魅力を湛えるのでしょうか。

人間の場合、一般的には、女体は性的に愛撫の対象であり、
男性ばかりか、時に女性をも、ドキリと魅了する対象のように映ります。

ですが、男性の身体は、必ずしもそのかぎりではないと思われます。
漢字変換で「女体」は変換可能ですが、男性のそれは変換されません。
語彙にも性差が潜んでいるように感じられ、少々興味を抱きました。

(山の名称では「男体山」「女体山」と出てくるのですけれども、
「男体」は「女体」ほどには用いられていないようですね。)

以上、ご教示のほどよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (33件中31~33件)

#1の者です。


先の回答で「多くの種」と書いて、普遍化しなかったのは、雄の物理的な競争を、個体の栄養状態をシンボリックに誇示する事で同種内での争いを避け、進化より重要な現時点での存続を優先する種もあるからです。
とはいえ、生物界における比率では、決して多数派ではありません。

なぜなら、天敵が少なくてそうした「シンボル」である牙を異常に発達させたマンモス(牙がグルッと一周して丸くなり突き刺せなくなった)が、新天敵・人類の登場に抵抗できず滅びたように、「代償システム」の歪みは大きなリスクともなるからです。
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この回答へのお礼

psytex様、再度のご回答をどうもありがとうございます。

ご回答を拝見して、確かに私の質問やお礼の提示内容に不明瞭な点が認められると思い、
お詫び致します。ちょっと解りづらかったですね、すみません。

そうですね、生物界には多数派ではない種もたしかにありますね。
私も時間の許す限り、調べてみたいと思います。

マンモスの牙は丸く一周しているように思われますが、確かにあれでは役に立てませんね。
愛知万博でユカギルマンモスを観ました。凄かったです。
もう少しでおのれに突き刺さるかと思うくらい曲がっていました。

生命の進化はとても面白いですね。
チンパンジーが乱婚、駆け落ちをするとは…知りませんでした。

また、人間と言えども文化圏により配偶システムに差異が見られ、それも興味深いところですね。
psytex様は、たしか多くの国々で従事なさっていたと拝察致しております。
その土地毎に土着的な文化的性差も多々見受けられたのではないでしょうか。

以前、哲学カテでゴーギャンの『ノアノア』というタヒチ滞在記に触れたことがあります。
百年以上も昔、彼は当時の西洋美術界で、初めて南国の島々へ楽園を見出そうと試みた先駆者でした。

──私の前を歩いているのは、ひとりの男なのであろうか。──これら裸の未開人にあっては、動物たちがそうであるように、性の違いは風土ほどにははっきりとしていない。我々は辛い仕事、とはつまり自己啓発の機会を免除することによって、女性の弱さを強調している。そして優艶という虚妄の理想に従って女性を鋳型にはめているのだ。
 
 タヒチでは、森や海の大気が肺を強健にし、肩幅や腰を広くし、海辺の石や陽の光は、男も女も容赦しない。女たちは男と同じ仕事をこなし、男たちには女の懶惰がある。なにか男性的なものが彼女たちのうちにあり、彼等のうちにはなにか女性的なものがある。両性のこの類似のために、彼等の関係はむずかしいものではなくなり、いつも裸でいても、まったく潔癖であり、風俗のなかから、未知なるもの、謎めいた特権、偶然、あるいは上首尾にいった窃盗といった観念のいっさいが取り除かれている──文明人における愛のサディスティックな特徴のいっさい、恥ずべきこそこそした色合いのいっさいが。──『ノアノア』ちくま学芸文庫 p45-46)

多少脚色が夥しい冒険譚との評が一般的ではありますが、そこに記された彼女たちは、
粗末な麻布の上に描かれた魅力的な象徴のモチーフとイメージが全く重なります。
健康的で豊かな胸を露わに湛えながら、絵画上でも永遠に微笑み続けることでしょう。

日本も江戸時代までは女性が道端で行水など、さほど稀ではなかったと文献に認められるようです。
明治維新以降、西洋文明の導入と共に、性意識もまた、改められた部分が大いにあるのでしょうね。

また何かお気づきの点がありましたら、ご教示のほどよろしくお願い致します。
この度は重ねてのご回答、並びに拙文をお読み下さりまして、どうもありがとうございました。

お礼日時:2010/05/17 19:43

すっかりぼやぼやの頭でお邪魔致します。



やはり「禁忌の対象」である、と言う事が大きな要因に思えてなりません。
ヒトの雌は栄養状態さえ整えば、産後ひと月で次の妊娠が可能である事。
でもそれは、母胎と母体に大きな負担が掛かる事。
その為に、長期的にはヒトと言う種の存続の為に「避妊」と言う技術が生まれた事。
原始の避妊は、とにかくも「雄に手を出させない」事であったのではないか。

翻って他種の生物は、美しく着飾るのは主に雄です。
繁殖期の衣替えの美しさは雌よりも雄に多く見られるのですよね。

これは繁殖期が期間限定である事。
妊娠と出産が母体に負担を掛けない身体構造である事。
育児と言う親子ともに危険に晒される期間が無い、若しくは短期間である事。

妊娠出産の安全とそれに伴うある意味気楽さ?が、雌の雄に対する防御を不要にしていると思われます。
だから、他種の生物の「女体」は「禁忌」とする必要が無い。
幾らでも発情し、懸想され、懸想し、交尾しても、それに伴う危険や命の危機は無い(低い)。

ヒトの男女の発情要因が双方ともに「禁忌から生まれた幻想」に大きく由来するのと違って、
他種生物の発情要因は「期間原因」が大きく影響していたりして?とふと思いました。
勿論、全ての生物に組み込まれた「種の存続と子孫繁栄の本能」はあるのでしょうけれど。

「恐いもの見たさ」の最たるもの、が女体であり、性である?
知性による「知りたがり屋」の側面を見事に暴き、利用した文化が性、と私には思えてしまいます。

このヒトと言う種全体を覆う大きな「文化」から派生した細かな事柄の膨大さ。
身を苛む悩み痛みの原因にもなり、大きな幸せの要因にもなると言う不思議さ。
最近丁度「神道における穢れ」としての「女体」について、あれこれ考えている所でした。
不安定な体調の相手をしながらだと、つい無礼を働きますので質問を立てる事を躊躇っております。

興味深い質疑ですので追わせて頂きますね。
ありがとうございます。
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この回答へのお礼

yukkinn66ちゃん、ご回答をどうもありがとうございます。

年間を通じて生殖が可能になり「雄に手を出させない=避妊」が「禁忌」へ至るという
女性側の「戦略」こそが、女体だけが放つ性的魅力、つまり「幻想」の源であると仰るのですね。

「性交が妊娠・出産へと繋がる」という認識を人間が得て、あえて女性器を隠蔽するということ。
そうそう、身体を獣の皮や覆い隠したり装飾品で装う行為も、人間ならではの特徴です。
防寒を直接目的としたのではなく、身体をそれらで緊縛することで「呪術性」を意図したとみなせば、
文化とは「抑圧の所産」であり、根源的な面が認められるものかもしれません。

>「恐いもの見たさ」の最たるもの、が女体であり、性である?

けだし名言、ですね。 そしてその「恐いもの見たさ」のうちには、
現実の女体以前に、全く別である仮想の「モノ」を「視て」満足感を得ているのであって、
趣味嗜好の範疇にある以上は、性欲においても慣れや飽きが生じてもおかしくないことになります。

そして女性においても、別の女体が性的魅力を放つ対象と認められるのは興味深いところです。
これまで私の同級生が数名グラビアでヌードを晒しており、そのたびに仲間内で
「あら、彼女のオッパイ、縦長っぽいわね。」「ふうん。痩せているのに、意外と胸あるのね。」
などと、下世話な話で即座に持ちきりになったこともありまして、
さすがに同級生のそれには身内意識で大いに照れますが、全く見ず知らずの肢体には、
ちょっと意表を突かれて、思わずセンシュアルな心地に浸ってしまうことも無きにしも非ず。

一体、私達女性の頭の中では、どのようにして、同性ながらに駆り立てられているのでしょう。
そしてやはり、男性とは決定的に違うものなのでしょう(…と、思いたい、笑)

>「神道における穢れ」としての「女体」について、あれこれ考えている所でした。

「11ぴきのねこ」のご質問の流れでよろしかったでしょうか。

質問に例示した「男体山(栃木県)」ですが、かつては山岳修験の地として女人禁制だったそうです。
http://www.nikko-jp.org/perfect/chuzenji/irohaza …

聖地や山岳などへの恒常的、永続的な立ち入り禁止という女人結界を意図したもので、
源氏物語の宮下がりのような女性の「血」にまつわる一時的な排除とは多少異にします。
お産の禁忌は、生と死の間という境界的な聖俗隔離の意味合いが徐々に薄れていくにつれ、
仏事、儒教、陰陽道などの習合を経て、血穢の観念が民間信仰として流布したとも考えられます。

女性の穢れを嫌う女人禁制を敷き、従来の山岳信仰に非日常性を高める一方で、
結界の地に女人堂などを設置したり、開山の「母」の廟や祠が多く点在するのも興味深く、
山と里の伝承、或いは母子神信仰とも複雑に絡み合っているようです。

いずれにしても女性の穢れは、当時説明し得ない未知の自然の力として畏れられ、
逆に社会基盤を脅かしかねないという理由で、排除や差別化に至ったのではないでしょうか。

ところで、渡仏と大学以前をほぼ女の園で過ごした私には、
「女性が屈辱的な生き物」という感覚がいまだ解らずじまいなのですが、
一般的に「愛」の縛りのない性交に女性がなかなか踏み切れないヒントが
ここに隠されているのではないかと、ようやく察せられるようになった次第です。

それにしても、どうして女性は愛する男性ばかりに身を委ねたがるのでしょう。
ご自身では「愛」のないセックスも「可能性」としては想定し得るものでしょうか。
または「愛」の代りに「疑似恋愛」「尊敬心」「友情の証」などという代替感情にて、
やはり自ずと相手を幻影で少なからず覆いたくなってしまうものでしょうか。
女性心理や性欲とは、自身のことながら、いまだ理解しがたいところがとても多いのです。

あと、体調の方はいかがですか。 
これから暑くなりますし、ただでさえ頑張り屋さんの貴女のことです、
どうかあまり無理をなさらないで下さいね。

ご都合のよろしいときに是非またお願い致します。
ご回答を頂戴して嬉しかったです。
ありがとうございました。

お礼日時:2010/05/17 09:52

多くの生物種において、雄が雌を奪い合う競争により、優勢な個体の遺伝子を残す事で、自然淘汰より早い進化を可能にしています。


(そもそも性別(有性生殖)は、そのために生じた)
生殖機能を持つのは雌なので、一般的に雄が戦います。
だから、「魅力的」なのは雌だけでいいのです。
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この回答へのお礼

psytex様、早速のご回答をどうもありがとうございます。

仰ることは、確かに頷けます。
またしかしながら、「魅了する」という点においては、
雌より雄の方が華美であり誇張であったり、
とかく顕著な種類が多いとも考えられます。
孔雀の羽、鶏の鶏冠、ライオンの鬣(たてがみ)等々。

「雄が雌を奪い合う競争」には「雌を引き寄せる魅力」も不可欠のように映ります。
容姿的に雌が雄を気に入った中から選ぶとも言えるでしょう。

ところが、人間の場合には、逆でして、
一般的には容姿の点で性的魅力を放つのはむしろ女性の方なのです。

人間の性欲とは真に不思議なものですね。

お礼日時:2010/05/16 19:29
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