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客観って、主観の副産物でしかないのですか?
純粋な客観と云う"対象物?"は無いのでしょうか?

人の思考作業に使われ、辞書にも定義のような事が載っている「客観」と云う視点?に付いてどう扱ったらよいのかを考える事はとても哲学っぽい事柄だと思うので、聞いて見たくなりました。

辞書に基づいて考える事は危険?ですか。

宜しくお願いいたします。

質問者からの補足コメント

  • うーん・・・

    客観って主観が産みだしたものですか?
    主観から離れた客観って考えられないのでしょうか?

    Aという物事を世間では価値があるとして大事にして居る様だけど、自分は少しも価値があるなんて思わないので大事になどしていません、と云う場合の自分のAに対する世間の評価を確認する行為は、自分の主観がそう判断したのだから、純粋な客観を確認したわけではない、あくまでも主観が産みだした"客観"を確認したに過ぎない、と云う事なのでしょうか。

    自分以外の他者の認識を客観と云うのではないでしょうか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/19 11:14
  • 認識は主観!

    悔しいけれど受け入れます。

    でも、BAはあげない。

    気分は"御免"

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/25 22:46
  • とても勉強になりました。
    柏木由紀ちゃんが誰だか知りませんが、かわいこちゃんなんでしょうね。
    hakoburuさんのお気に入りですか。

    ☆ 完全な客観性など存在しない、と捉えることに異議が称えられない。
      そう、思うようになってきました。

      ありがとうございます。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/06/25 23:00

A 回答 (22件中1~10件)

100%客観的な行動としては、計算を含めた数学・物理・化学などの問題への解答があげられます。

たとえば、円周率の3.14を、計算がしやすいからといって、四捨五入して3で計算するのは、私たちの時代には間違いとして認識されていました。数式は客観的な文章として良い様に感じます。

若いころ、アメリカ資本の投資銀行に勤務していた際、クレジット・レイティングのガイドラインがありまして、お金を貸し出す際、それによって年利率が決まる仕組みになっていました。財務諸表の数字から利率を割り出す、アメリカ的・客観的なシステムだったんですが、これに、日本側からクレイムがつきました。いわゆるその業界の老舗には、手心を加え、評価よりも低い利子で貸し出したい、というものでした。主観が客観に揺さぶりをかける、一例かと思います。

その後、監査の仕事をしたこともあるのですが、こちらも、マニュアルどおり、私情を交えず、客観的かつ明晰に進めてゆく必要がありました。

もう、仕事をしていないので、主観人間になりましたが、それでも、ひとつだけ、心がけているのは、運転をするときには、なるべく私情を交えずに、周りの運転者と自分の距離を俯瞰するように努めると、事故が少ないように思われます。
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この回答へのお礼

現時点ではgood8件。
僕は嬉しい!

キホーテ様もgood!と云っています。
もうおばあちゃまの様だけどネットだから♡!

奥ゆかしさに惹かれます。

私情を交えずに客観視する事の"効用"は大きいと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/24 23:17

相対性理論において、真の客観=絶対空間・絶対時間は否定され、


不確定性原理において、原理的に確定せずに検証表面的にいい加減に
捉える事で、仮想的に有限な存在性が生じている事が明らかとなった。
「存在=客観」ではなく、「無いとは分からない事が有」なのだ。
そこにおいて、そうした主観性による存在の起源を自覚する事を
客観と言う。
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この回答へのお礼

いずれ、「無いとは分からない事が有」との文を別の表現で云ってもらおうと思っています。
その時は宜しく。

お礼日時:2015/06/25 22:40

お礼ありがとうございます。



頭、疲れましたか。

前回でしたでしょうか?
回答のない回答だと言われて、考えました。
私には、回答は回答なので。

私見ですが、哲学は問いと答えで構成されていません。
数学が分かりやすいので、数学で見てみましょう。

問いがあり、それに必要な(根拠がある)計算式を選び
計算するプロセスがあって、それで答えが出ます。

問い、即、答えではありませんよね。
他のどの学問も同じです。

哲学も、問いがあり(問いになる前提から始まる
問いになる根拠からの問い)、適切であろう選択を多数経て
導き出し、答えに至る。

そのプロセスが、人の中で行われます。

私の場合、多くは数百回から数千回問い直して導きだしていっているので
プロセスは膨大な情報処理の答えです。
短くてもですね。


哲学者の言葉を理解するには、哲学者が出した答えのプロセスを
自分の中でたどれて、なぜその答えになったのか
何処から導き出されたかを追って行き、追体験で理解する。
それでやっと、相手の言いたいことを理解できる。

そう言う過程全てで「哲学」だと思います。

ですから、自己の中で様々に展開させ検証・確認しないと
理解出来ないのだと思います。
体験による行動検証も、内的要因になり得るのでそれも含めてです。

分かりにくくしている訳では無いですが
私の回答は、分かりやすいと言う方と掴みにくい方と
出るのだろうと思います。

頭、使うと思います。
過程全てで「哲学」ですから。

と、出ました。
回答のない回答だと投げかけてもらえたので
哲学は、こんなのだよって出たので
良かったなと思い、お礼方々です。

答えは一度出しても、それで終わりでなく
新しい情報から常に更新される。
ですから、答えが変わっていくことはいつでもあり得ます。

頭、使い続けて下さい。
楽しめる問いをありがとうございます。
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この回答へのお礼

ニックネームを付けてしまいました。

kentoutiga-iさん、って。

お礼日時:2015/06/25 22:36

客観的に見ればどちらも大差無いのに、主観に陥ると、隣の芝生が青く綺麗に見えたりする。

そういうことではないかと。
自分の事柄を客観的に見てみれば、思ってたよりも悪くなかったり、逆に良くなかったりといったことに気がつく。
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この回答へのお礼

自分を俯瞰する、と云う事は客観視すると云う事ですよね。

またまた、問い直さねばと思ってしまいました。
ありがとうございます。

お礼日時:2015/06/24 23:47

客観って何? でこんなに長い議論になるのは思ってもみませんでした。



 ★ 客観って、主観の副産物でしかないのですか?
 ☆ (そ) 人間たるわたしが ものごとを見たり知ったりするとき その対象が客体です。客体を見ること・また見た結果内容を 客観と言います。

 (た) 対象を見知るという認識は その行為主体たるわたしがおこないます。ゆえに 認識行為は 主観です。客観もこの主観の内にあります。《副産物》ではなく 主産物です。それを目指して認識します。

 (ち) ただし この一人ひとりの得た客観が その内容として対象それ自体を マチガイなく見知ったものであるか? となると 一般に勘違いや見間違い・考え違いがあると見られます。つまり 客観も主観的なマチガイをまぬかれません。

 (つ) 経験合理性に照らして――というのは 因果関係や自同律などに照らして――妥当だと見られた客観を おおむね人びとにとって共通の理解内容としてよいと受け取られています。これは 共同主観であり 常識であり 実質的に言って《ほぼ客観》です。

 ★ 純粋な客観と云う"対象物?"は無いのでしょうか?
 ☆ (て) 対象とした客体そのものは 事物や事象としてある。これについての《純粋な客観》というのは 神の眼として想定されるのかも知れません。人間には無理だと見られます。どれだけ知っても 未知の部分が出て来ますし そもそもその認識が間違っていたと知ることがあるのですから。

 ★ 人の思考作業に使われ、辞書にも定義のような事が載っている「客観」と云う視点?に付いてどう扱ったらよいのかを考える事はとても哲学っぽい事柄だと思うので、聞いて見たくなりました。 // 辞書に基づいて考える事は危険?ですか。
 ☆ (と) 辞書の記事も ひとつの主観です。客観として見なされ得るとその記者が考えた内容を提出しています。(辞書は 文脈から自由に あらゆる場合やその見方について集めているという利点があります)。

 (な) 人びとの認識は つねにそれぞれの主観です。最も妥当だと見られたひとつの主観が(――あるいは いくつかの主観をよくまとめたひとつの主観――)が みなにとって客観と見なされ互いに意志疎通のために利用されます。辞書の記事やいわゆる定説が 客観とされますが ただしそのほかに 異説としての少数意見もおよそつねにあります。

 (に) 常識も共同主観も 定説も異説も それらをすべてわたしたちはつねに見直し マチガイを見つけたら修正し あるいは別のあたらしいものに取り換えたりしてすすみます。
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この回答へのお礼

(た)が多数の人の受け止め方の様で、私としては形勢不利だなぁと感じています。

でも結論はもう少し後で・・・

お礼日時:2015/06/24 23:44

またまた、もんたまです。

五感をフルに使って、人や物、景色を観察し、
意識的に食べ物を味わうことにより、人は客観性を身に着け、自分に
気づくことができると、聞いたことがあります。本来の質問の答えに
なっていなくて、すみません。
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この回答へのお礼

客観性、と云うものも"育てる"ものなんですね。

なるほど、と思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/24 23:26

#11です。


多様なご意見が出ているようですが、自分以外のもの、つまり、主観の持ち主以外の【存在自体】は、客観として存在している、これは当然のことではないですかね。
#8でお示しした辞書の「2 主観から独立して存在する外界の事物。客体。」という語釈のことです。
しかし、質問者さんは、そんなことをお尋ねになっておられるのですか?
そうではなく、主観者たる我が、自分以外の存在に対して客観的な認識を持ち得るか否か?ということですよね。
「自分以外の存在」と口にした段階ですでに他という存在を認識していることになるわけですが、その認識は主観でしかない。(認識する主体はあくまで主観者であるのだから)
太陽であっても、わたしが認識する太陽と、柏木由紀ちゃんが認識する太陽は異なるはずですし、まして蟻が認識する太陽も違うでしょう。
つまり、どの認識を取り上げても、「これが太陽だ」という客観性を証明することはできません。
科学的分析による証明もありますが、科学者によってこれも見解が必ず別れるはず。
そもそも、その役割を客観的に説明できる人などいないと思います。
説明した時点で、その人の主観的説明になるわけですから。
まあ、限りなく近づくことはできるでしょうが、「完全な客観性など存在しない」と捉えることは、非常に重要な問題を含んでいると思います。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

了解です。
だんだん、追い込まれてきたような感が有ります。

でもまだ、徳俵が有るから・・・

お礼日時:2015/06/24 23:24

人間あるいはその能力を評価するのに 学力テストをしてその得た点数で判定することは 《客観》的か?



 それが そうだと言えるとしたら 面接で得られた対話の内容や単純な印象によって判定することにも 《客観》性はあり得ると言うべきだと考えられます。
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この回答へのお礼

了解です。

お礼日時:2015/06/24 23:20

客観には、主観から独立した客観と


主観の共有としての客観があると
思います。

太陽は、主観がどうあれ、客観的なモノと
して存在します。

しかし、国家、というような概念は、皆が
国家という主観を持っており、それが共有
されるので存在するわけです。
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この回答へのお礼

ありがとう

この指摘は非常に重要かと思います。
じっくりと考えさせてもらいます。

ありがとうございました。

お礼日時:2015/06/20 22:07

ものごとには 定量的な側面と定性的なところとがあります。


 
 数量化して比較することができれば それだけで客体をそれ自体として認識し得たとは言えないでしょうね。

 定性的な側面――その人間は 信頼できるかどうかなど――について 独り善がりの主観と多くの人びとが同意する共同主観とがあり得ます。
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この回答へのお礼

うーん・・・

「数量化して比較することが・・・・」の文はちょっとおかしくありませんか。
出来れば見直して、言い直してみてほしいです。

また、"定量的な側面"と" 定性的な側面"と云う言葉に接するのは初めてで分からないので、再回答お願いしたいです。

お礼日時:2015/06/20 22:37

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