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源義経の生涯のうち、ほぼ事実と認定されており、あまり話題になることもないにもかかわらず、とても不思議なことがあります。それは、頼朝との初会見における血縁の認定です。
 自らの血統を正統性根拠として、ようやく勢力を安定化しつつあった頼朝にとって、一方では血縁による個人的基盤強化の誘惑はあるでしょうが、それ以上に、血統正統性を悪利用する混乱因子が近寄ってくることこそ警戒の対象だったはずです。頼朝支持基盤である関東武士団にとっても同様でしょう。
 そこに現れたのが、自称”異母弟”の義経です。しかし、なぜ、頼朝は疑うことなく、これが確かに弟と認定できたのでしょうか。 その時点では、頼朝のみならず、おそらく全員が、義経と一度も面識もなく、また
兄弟であることの証拠品が提出されたとの記録も残っていません。
 義経は、吾妻鏡では単身、源平盛衰記でも20騎程度という少人数で登場します。冷静に考えたら、どこの風来坊かというような姿です。その様な状況で、初対面での兄弟の認知の場面は、私には想像を超える光景に思えるのですが。

A 回答 (5件)

#4です。

お礼ありがとうございます。

>わからなくなってきました。現代からみれば、話し方や教養、またいかにもそれらしい作り話で騙る詐欺の手口というのは十分考えられる、というか、普通に警戒することだと思うのですが、

現代のわれわれが均等な教育を受けることができるのは、大学がいっぱいあって教師がたくさんいること・黒板や机、いすなどを含めて小学校を安く大量に作ることができること、ノートや教科書にする紙がたくさんあり印刷ができて大量に運べること、などの恩恵を受けているのです。
現代でもアフリカの貧しい国では、ノートを買うことができず、教師の給料を払えず、校舎をつくる資金もありません。そうなると、子供たちは勉強ができませんので、育って教師になる人も出てきませんし、技術者になったり、ITを使える人も出てきません。工場も電力インフラも自前で作れず、外国に頼むと高いお金がかかるから結局貧しいまま、ということになるわけです。

平家や源氏が活躍した時代は、もっと格差がありました。紙を買うことができるのは貴族(平家など高級武士も含む)や寺社だけ、教育も学校なんてありませんから、貴族は中国帰りの高僧とか国内で優秀な算術家などを招いて教えていたわけです。
下級貴族は最低限の読み書きはできても、弓や馬にのる練習のほうが多かったでしょうし、平民というか農民は読み書きなどできずに、農業に従事していたわけです。

ですからそもそも「身代わりになれる」ほどの教養や知識を持っている人が少なく、知識を試してみれば「誰に教えを受けたか」など分かってしまう状態だったわけです。

また、服も貴族や高級武士は絹を着ていたでしょうが、この時代はまだ綿(木綿)がありませんので、上流階級以外は麻が基本で、貧困していると褌以外なにも着ない(寒さをしのぐのは蓑を着る。蓑なら藁だからたくさんある)、ような状態だったわけです。

ですから、持ち物一つとってみても、服だけでなく小物入れや筆立、箱などの素材や品質が高級品であれば、その人の持ち物であるか、後は盗んだかしかないわけです。
また、今でも天皇家は自分の持ち物に由来する花の印章をつけていますが、当時の小物などはすべてオーダーメードですから、すべての持ち物になにかの印があるのが普通で、常盤御前が使っていた印がついた古い小物などがあれば、本人確認の一つの証明になったわけで、父・義朝の形見&常盤御前の小物&遮那王時代の印がついたもの&平泉でもらた奥州藤原の印の物などがそろって言えば、限りなく本人である可能性が高くなる、ということです。

これらのことを知り、判定するためには、当然ですが間者を早い段階から忍ばせて情報収集する必要があります。
自分が調べた情報と、義経だと称する本人が言っていることがことごとく一致すれば、本人と認めてもらえるわけです。

ひとつでも間違えば切り殺されますし、そもそも義経側は相手がどれぐらいの情報をもっているか分からないわけです。

その情報には、たいしたことない、でも現場に居れば忘れられない情報も含まれていたはずです。たとえば義経が居た時期の鞍馬寺で起きた騒動(台風で裏山が崩れた、とか)や一緒に寺にやられた兄の癖や好きなご飯などです。

新聞やテレビの無い時代では、こういう情報を広めるのはひじょうに困難ですし、たとえ同時期に京都に住んでいた偽物であっても、裏山が崩れた、というような情報までは入ってこないでしょう。

逆をいえば義経が鞍馬山にいた10歳ぐらいの頃から、平家などが「いずれこの子を偽物に仕立てて頼朝のところに送る」ぐらいの準備をしていれば、ばれないだろう、とは思います。

でも、義経が10歳の頃の頼朝はようやく北条家と懇意になったぐらいですから、その時点でスパイを仕立てることができるほど、先見の明があるなら、平家だって倒されることはなかったでしょう。

当時でも騙しの手口はたくさんありました。写真などが無い以上、今よりも騙しやすかったのも事実です。しかし、教養などは、直ぐに身につくものではなく、特に貴族階級と仏僧と両方を経験している人は多くはありませんから「もし、義経の身代わりになるならこの人物」という特定もできたわけです。
 ですから、義経の本人確認と同時に、身代わりの可能性のある人物がどこでどうしているか、も当然に調べていたはずで、そういうもろもろの多量な情報を突き合わせることで、本人確認を行っていたのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ただ、私の知る範囲では、この時代は、地方でもそれなりに文書による社会運営や私的教育体系が整備されており、(でなければ、この時代のすぐ後で、鎌倉政権の速やかな制度整備や、鎌倉仏教の普及が難しかったはず)豪族レベルでは、読み書きを中心とする素養は身に着けていたはずです。頼朝も義経も、経歴的には、せいぜいこれに毛の生えた程度だったと思います。なので、知識教養のチェックで兄弟判定ができた、というのは、ちょっと考えにくい気がします。ただ、回答の後半にあるように、軍事政権下で軟禁されていたアウンサンス―チ-氏のように、平家政権下の頼朝を影で支援する勢力があり、平家の目をかいくぐって、さまざまな情報活動をしていた、というのは、ありそうな話ですね。

お礼日時:2015/10/03 10:50

義経に限らず、近代になる前は「本物かどうか」という特定は非常に難しかったのはご想像のとおりです。


逆をいえば、近代は本物かどうかの証明にために、写真を使い指紋を使い、DNA鑑定まで開発したといえます。

義経については、頼朝は当初から情報を得ていたのではないか、と思います。というより、近代以前は今よりも情報の重要度が違ったと思います。

そもそも頼朝は父・義朝が平治の乱で殺され敗戦になり、命からがら逃げなら身内を再組織し、平家に対抗しうる勢力を作ることに全精力を傾けていたはずです。このような時代、信頼できるのは身内・血縁関係だけであり、源氏というのは平家に対抗しうるだけの勢力を要する大派閥であり、大きな家系だったわけです。

当然ながら、頼朝は最初の時点から身内の動向を探っていたはずです。平家に取り込まれた身内、殺されたり幽閉された身内、そして平家に従うことにした親類、逆に源氏に同情的な親類や縁戚など、いつか挙兵したときに味方になってくれるものや、京都で拠点を置かせてくれるものなどを峻別していたはずです。
 その中には、父の遺児である弟の情報も含まれていたでしょうし、少なくとも義経は鞍馬寺で遮那王と名乗ったり、平泉に下ったりと、早い段階で人物が特定できていたはずです。

ですので、#3が書くように、入り口の騒ぎを聞いて頼朝本人が「義経に違いない」と考えたのは、感ではなく、平泉出奔を情報として知り、その行き先は自分のところであろう、と考えていたからだ、とするのが合理的だと思います。

さて、とはいっても本人かどうかはまた別の問題です。遮那王時代や平泉時代の風体人相などの情報はあったでしょうから、会うだけの価値はある人物であることはすぐにわかったでしょう。この時代、捨て身の暗殺などは日常茶飯事ですから、そもそも頼朝が面と向かって話をする時点で、そうとうに人物特定ができていたといっていいはずなのです。

さらに、この時代は公家・武士・農民や町人では、人物のもっている教養などが相当に違いました。まず話し言葉が違います。京都にいたなら京の公家言葉または仏門衆の言葉使いができるはずですし、義経なら、平泉での奥州藤原家の屋敷の奥深くを説明できたでしょう。つまり位の高い人物でなければ立ち入れない場所についての説明です。

 また、仏門に入っていたなら文字も書けたでしょう。当時の僧侶の学識はわかりませんが、漢字だけでなくひらがなやカタカナ、梵字なども書けたでしょう。これらは町人や下級武士が成りすまそうと思っても、長い勉強の時間がないと身につかないものです。または遮那王時代の習(て)を頼朝は入手しており、目の前にいる人物に文字を書かせて、文字鑑定を行ったかもしれません。

さらには、常盤御前に由来するものや父・義朝の形見をもっていたかもしれません。衣服も(汚くなっていたとしても)素材は上等で作りも高級なものを身に着けていたことでしょうし、従えている家来の人数や風体も、平泉を出発したときと同じだったはずです。

これらの人物同定を行ったことは、常識的に考えてまちがいなく、義経はそれにパスしたわけです。当時は今のようにコピー機も写真もありませんし、紙すらも貴重品であり、そもそも文字を書ける人が少ないですから、文字を書いたり念仏(それも貴族階級にしか唱えない念仏など)を暗誦したりするだけで、相当に教養のある上流階級であることがわかりますし、それ以外の情報と付き合わせることで、人物の特定ができたと思っていいだろう、と思います。

そもそも義経についての記載はかなり少ないですので、証拠品だけで特定したわけではなく、人物同定のためのいろいろなことが行われたのだと思います。またそのノウハウは、人物同定の軍事機密ですから詳細を記載することはないでしょう。

今でも警察の取り調べノウハウを知っている人はほとんどいません。(わたしが知っているのは、同じ話をなんどもさせる、ということです。作り話だとどこかが間違うそうです)

ということで、義経を兄・頼朝が信じたというのは、実際に在ったことだと思います。
逆に人物が特定できず、誰ともわからないやつを都合よく味方に引き入れるとは思えません。なぜなら、いつ寝首をかかれるかわからないし、ずっと忠実なふりをしてじつはスパイだった、ということもありえるからです。

自陣に引き入れたのは兄弟だったからです。それ以外で名前を騙らせて兄弟のふりをする理由はありませんし、有能であってもどこの誰かもわからない人物を近くに置くのは危険なだけです。
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この回答へのお礼

わからなくなってきました。現代からみれば、話し方や教養、またいかにもそれらしい作り話で騙る詐欺の手口というのは十分考えられる、というか、普通に警戒することだと思うのですが、もしかすると当時は、現代人の想像を超えるような、認知の秘伝のようなものが伝わっていたのかもしれませんね。記録上、周囲の誰ひとり、兄弟であることを疑っていなかったらしいというのが、その証拠でしょうか。依然として不思議な感じは残りますが。。

お礼日時:2015/09/29 20:13

私も今回の質問をみてちょこっと調べてみただけなので、偉そうなことは言えないのですが、頼朝は言われるように大した確信もなく受け入れたのではないかと思います。


義経が来たときに、頼朝の部下はどこの風来坊か分からんと取り次がなかったが、騒ぎを聞いた頼朝に部下が説明して、頼朝は「そいつは義経に違いない」と言い出して会うことになったようです。(つまり会う前に決め付けていたw)

他の回答にもありますが、一人でも軍勢が欲しいという時なら、どこの風来坊でも受け入れたという可能性はありますね。意外に活躍しちゃって天下をかすめ取られそうになったから(どこの風来坊か分からんやつを)殺した、のかも。ちょっとした小説ネタに出来そうw


まぁ義経は(頼朝に会う前は)平泉の藤原秀衡のところに6年くらい居たようなので、頼朝も風の噂に義経なる者が居ることを知っていた可能性は高いですね。
また義経には藤原秀衡からお供を付けてもらっていたのですが、当時の平泉は平安京に次ぐ大都市で、そこを治める秀衡、なので、お供もハンパ無いやつだったのでしょう。彼らの武具を見れば、どこぞの風来坊では持てないようなものだったのが分かったのかも知れません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。こういった感じで、色々と想像すると楽しいですね。もう一つ想像してみたいのが、当時の頼朝の立場です。一度は反乱に失敗して破滅しかけたとことろを、有力豪族の援助により、何とか立ち直ったというのが状況でしょうから、あまり強い立場ではなかったと思うのですが、どのようにして彼らを納得させることができたのでしょうか。。。

お礼日時:2015/09/29 20:13

なにも知らないし、調べたこともないのですけれど、(だから、勝手なことを書きます)



頼朝は異母弟の存在の可能性を知っていたと仮定しても、名前までは知らなかった可能性が高いでしょう。仮に登場してきた義経となのるものが、事実異母弟の9男目であったとしても、そのものが常盤(雑仕女)の子となれば、頼朝からすれば、兄弟の親近感はないでしょう。ただ出現した義経と名乗るものの集団が20騎より少ない小集団でも、そのメンバーに佐藤継信、忠信、伊勢義盛、堀景光らがいて秀衡の支援が得られる可能性が見えたのなら、九郎が偽物でも、本物でも、仲間に入れた方が、戦略的に良いと判断する可能性はあると思います。

寄り合いの源氏ゆかりの関東武士団の指揮や軍令をやる上では、義経が述べる出自が偽物であったとしても、これを源義朝の九男として扱った方がメリットある使い方が出来ると思うでしょう。源範頼、源全成らも含めて利用することで、もともとはバラバラの武士団をうまくまとめ、京を攻めるという部隊の指揮官を任せて行ったのでしょう。 仮に事実異母弟でも格がまったく違うし、実質は家人(家来)として義経を遇するなら、何ら問題はなかったハズだと思います。 
武人としての指揮や武力行使の隊長としては他の人物よりも義経と名乗っているものが群を抜いていたのは、後日判明したことで、初回面談のときには義経のそうした個人的能力まではわからず、義経が述べている出自と奥州勢力との関係、関東武士団に対する運営指揮の問題の駒として考えたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。家人として遇するといっても、そのまま司令官(候補)になったわけですから、関東武士団を納得させることまで考えると、ちょっと疑問は残るものの、やはり、奥州の存在がポイントなのでしょうね。自称異母弟の義経に奥州勢力を代表するなり、支援を受けているなりの事を感じさせるところがあったということでしょうか。とすると、異母弟というのが詐称で、実際の九男は鞍馬山でおとなしく修行中、などという可能性もあって、色々想像をかき立てますね。

お礼日時:2015/09/27 09:06

頼朝と義経は初対面ではなく再会だったんです。


幼いころに出会っていた、もしくは一緒に暮らした時期があったんでしょう

http://blog.livedoor.jp/zuihitu/archives/5088352 …
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この回答へのお礼

通説では、義経が生まれた年に平治の乱が起こっていおり、頼朝は平治の乱直後から伊豆暮らしだたはずです。成人した姿での見分けがつくほどの面識があるためには、通説が間違っているか、義経の青少年期の空白期間に、伊豆で流人生活中の頼朝を訪問した(そうであれば記録があってもよさそうですが)、ということになりますが。。。

お礼日時:2015/09/26 16:02

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