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(α) まづ
 ▲ (創世記1:27) ~~~~~~~~~~~
 神はご自分にかたどって人を創造された。
 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 

 (β) (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解―― 

 光のたとえ・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・・聖霊なる神)
             ↓  ↓      ↓       ↓
 _______________________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 _______________________________________

             ↓  ↓      ↓       ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神(記憶・・・・・知解・・・・・意志 )
 ・・・・・・・・・・・・↓ (↓・・・・・・↓・・・・・・・↓ )
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・家族(秩序・・・・・労働・・・・・・愛 )
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・生産・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・↓ ・・・↓・・・・・・・↓・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・ ↓・・・ ↓・・・・・・・↓・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・(国 家: 司法・・・・立法・・・・・行政 )

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (γ) 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。

   子の父は 光源であり 
   父の子は その発耀であり 
   父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。

 (δ) ただし 光はただのタトヘですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。

 (ε) 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。

 (ζ) そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:

  父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 
  子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 
  聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に

 それぞれ当てはまるというタトヘです。

 (η) 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業し=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトヘです。

 (θ) 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解(ただし相対的)が得られそれが実現されることもあるかも知れない。

 (ι) すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。人間は ヘソを曲げ得る。あやまちうる。

 (κ) 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(つまり小文字の三位一体)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協働が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。

 (λ) 自由意志は 記憶としての心やそのかつての源泉であった知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。よきにつけ悪しきにつけの自由度である。


 (μ) なお この三位一体論もしくはそれとしての人間観ないしさらには社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。

 (ν) もっともっとあたらしい理論づけが出て来るでしょうか。



 さらになおご教授ください。自由な感想をもどうぞ。

A 回答 (2件)

No.1です。


このbragelloneさんのお礼コメントは難しく書いてあるので、具体的にどういうことを云いたいのかが、よく理解できませんでした。
例えば、
「ということで 早い話が 《三つの位格に分かれてのそれぞれ互いの一体性》が あたかも社会形態における《三つの権力の分立 そしてそれぞれの主体的なハタラキをとおして互いに協働するという社会全体のあり方》と相似であるようだ。という見方を提示しています」
→具体的にどういうことをいいたいのかがまったく分らないのです。
もっと、分りやすく書けないものでしょうか。
一般の会話でも。bragelloneさんの話を理解できない人が多くいませんか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 言おうとしたことは 次のような《相似形(フラクタル?)》のことです。

☆☆ (β) (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式的理解―― 

 光のたとえ・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・・聖霊なる神)
             ↓  ↓      ↓       ↓
 

             ↓  ↓      ↓       ↓
 身体〔の運動〕・・・・・精神(記憶・・・・・知解・・・・・意志 )
 ・・・・・・・・・・・・↓ (↓・・・・・・↓・・・・・・・↓ )
 
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・(国 家: 司法・・・・立法・・・・・行政 ):三権分立

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もっと分かりやすく書けば:

   神(父なる神・・・子なる神・・・・聖霊なる神)
   ↓  ↓      ↓       ↓ 
   精神(記憶・・・・・知解・・・・・意志 ):ひとなる存在
   ↓ (↓・・・・・・↓・・・・・・・↓ )
   国家(司法・・・・・立法・・・・・行政 ):三権分立

 だって 《神は 自分のかたちに似せて ひとをつくった》というからには 類似するものがあるはずです。

 記憶は おぼえるというよりむしろ秩序です。
 知解は 思考の問題ですが 生産や建設といったイメージがよいと考えます。
 意志は やはり秩序の維持をめぐっても建設的な理論についても そこに見られる〔べき〕明るさ(公開性など)やあたたかさをむしろ問題とするのだと思います。

 行政(政治)あるいは経営は 正負の向きが――相対的な知性としての人間には――ともないますが それでも一般に愛の問題なのでしょう。
 人間の意志が そのマイナス(嫌悪)をもふくむ愛であるように。そして 神の聖霊としては 相対的なものごとを超えた愛でしょう。

 父なる神――子なる神――聖霊なる神 この順序で 人や国家にも共通な要素は 秩序の問題・生産のいとなみ・そして関係としての愛の問題であると。

お礼日時:2015/10/31 09:12

私はプロテスタントですが、書かれていることにあまり感動しません。


といいますのは、書かれていることをそうだと信じれば信じて生きていけます。
一方、そうとは限らない、という疑問をもつと信じてはいけない。
神は客観的に存在するのではなく、個々の人々の心に存在するものです。
その自分の心にある神に頭を下げるのです。
つまり、いずれも個々人の心は自由なのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

 この問いは 信仰のあり方については触れていません。

 そして 神学と言っていますが けっきょく実際には 思想の問題です。
 なぜなら すでに人間の言葉で表現しているからです。

 無理にでも 経験合理性にもとづき考えるなら どういう思想内容として受け取ることができるか?
 こういう姿勢での問い求めです。

 これこれの考え方をしたら 心の中にある神とわれとの関係が どうにか成るというものではありません。
 それは 問うていませんし 触れるものではありません。

 言いかえると 三位一体は あくまで《非経験の場》のことですから 経験事象ではなく経験思想としては もともとなじみません。
 しかも これをあたかも この経験世界のことがらとして――タトヘにおいて――捉えようとすれば どうなるか?
 こういう出で立ちでの思考の試みです。

 ということで 早い話が 《三つの位格に分かれてのそれぞれ互いの一体性》が あたかも社会形態における《三つの権力の分立 そしてそれぞれの主体的なハタラキをとおして互いに協働するという社会全体のあり方》と相似であるようだ。という見方を提示しています。

 こういう見方をしたら どうなるか? 発展性がないか? です。

 けれども そもそも初めの出発において なじみませんか?
 そうですね。そうですかね。

お礼日時:2015/10/30 23:44

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