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1. ゴータマの独自性は何でしょう?

2. そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。
神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきと
して記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そ
うであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらか
である。ひとと仲良くやっていく。
と知りました。

3. このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び 《わたし》をアートマン
(霊我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。

4. あるいは同じく神を プラトンでしたかは 宇宙霊魂(プシュケー・コスムー)と呼
びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディ(世界霊魂)と訳し換えて使っています。そ
の後ドイツでは ヱ゛ルト・ゼーレ(世界精神)と言ったりしました。

5. ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく アートマン説に対抗して《アン‐
アートマン(無我・非我)》の説を唱えました。《諸法無我》。

6. ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム
の宇宙霊であるブラフマン神のことを言っているのですが これを―― そんなものは無い
と言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。

7. ですから いわゆるブッダター(仏性)は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが《わ
たし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うので
すが そのブッダターは―― ゴータマは説いていません。あくまで後世になって説かれた
ものです。(つまり アートマンの焼き直しではあります)。
 
8. ただしそのゴータマも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永
遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだとい
うようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようにな
っています。

9. 乱暴にひと言で言ってしまうなら ゴータマは ブラフマニズムという思想の中で孫
悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。

10. 《成道》を得たと宣言するゴータマに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラ
フマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ゴータマ)では言っていますが 果たして どれだけ
の独自性があったでしょうか?

11. ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っています
し そのことに道理はあると考えています。(ブラフマ二ズム体制のもとにおける身分制の
不条理にあい対抗するといった志向性などです)。

12. もしブッダター(仏性=自性清浄心)という普遍性の定理は別として言えば もは
やブディズムは惰性としての仏教でしかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引
導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。その上で なおしがみつく向きにはもう水を飲ま
せることは出来ません。

質問者からの補足コメント

  • てふ_てふうさん。お名前をまちがえてしまいました。
    すみません。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/02/15 15:43

A 回答 (6件)

bragelloneさん こんばんは No.4です。



>だから仮りに苦から自由な境地に成ったと言うのなら そのように言わねばならない。苦から自由になったと。苦が無いと言っちゃあ《釈尊もどき》に成る。

非我説もいいのですが。
極限状態の人間は免疫力を一時的に高めることができるとは思うのです。
例えば、砂漠での一口の水、これ程、生きてて良かったと実感できるものは無いと思います。
断食の後の食事は、生きている悦びを感じるのではありませんか?

>動画に鷹を擬人化した「鷹の選択という動画」があります。

鷹が70年生きると云う設定は怪しいのですが、
40年生きた鷹は嘴が曲がり餌も摂れなくなり、爪も伸び、羽も重くなる。
そこで、鷹はそのまま何もしないで生きて衰えるか?
死ぬかもしれない、自然治癒力にかけるか?選択する。
鷹は、嘴を自ら岩で砕き再生するのを待つ、次に、爪を剥ぎ生えるのを待つ、最後に、羽を抜き取り生え換わるのを待つ。
こうして、上手くできた鷹は残りの人生でも空を自由に駆け巡るのであると。

人間も、今までの生き方を捨てて、一か八かの自然治癒力に賭けるのだと。
足るを知り、最低限の生活に悦びを見出した方がいいと。

確かに、自然治癒力だけでは病気は治りません。薬や外科的治療が有効です。
また、日常でも、痛みや睡眠や寝返りや新陳代謝は自然治癒力とも言えます。
誰かが傍にいて温かさに触れるだけでも、気持ちは落ち着きます。

>マザーテレサは 自分たちの仕事に栄誉をもたらしたかも知れないが 神に・つまりは人びとにほまれを着せたとは必ずしも見えない。

確かにそうですが。
生きるのに恵まれなかった人達。最低限度の生活で生きてきた人達が他人から人間として扱われるなら、幸福感を感じたのではないですか?

>だいたい 人生について向き合ったその姿勢 たるんどるわい。

本当に心からお詫び申し上げます。辞職します。
育休は妻をごまかすためでした。本当は、不倫してました。
某国会議員 だそうです。
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この回答へのお礼

てふ_てふうさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

先に言いますが スジャーターの乳粥の話に触れなかったのは そういう思いやり
の振る舞いは 人びとのあいだできわめてふつうだからです。

★ 極限状態の人間
☆ についても まったく同じです。ふつうの人間なら そうです。シュウキョウ
をやる人間は ふつうではありません。自己宣伝が勝ちます。

つまりは:
★ 最低限度の生活で生きてきた人達が他人から人間として扱われるなら、幸福感
を感じたのではないですか?
☆ ということも 少し殊勝な・ふつうの人ならば 誰でもそのように振る舞って
やりますって。ゴータマやマザーテレサのことさら出る幕ではないと思います。

てふ_てふうさん あなた どうしてもゴータマに誉れありという結論に持って行
きたいと 心のどこかで(つまり 刷り込まれているのではないかと言いたいので
すが)思っているのでは?

むかしの自分は捨てて あたらしい自然治癒力に思いをいたしましょう。


いつも説教調でごめん。でも ゴータマの綿菓子マヂックを見破るようにするには
あの手この手を使わねばなりません。

シュウキョウ者のつけ加えるクリスマスツリーのカザリ(=綿菓子)にごまかされ
ずに わたし・ぶらじぇろーぬのごとく樅の木本体だけの身軽になりましょう。

お礼日時:2016/02/14 09:33

たぶんの話なんですが、


ウパニシャッド哲学の梵我一如というのは
純粋に学問の世界の話でいわゆる俗世とは完全に遊離した
それこそ空論のレベルの話だったのではないかと思います。
それに対して釈迦の思想は「俗世の暮らしにくさの改善」
という軸を外れないようにして展開したもので
その範疇の要素として涅槃寂静という感覚が
梵我一如に相当するものとして対比が可能である、
ということなんではないでしょうか。

未熟な時代の精一杯としての自力本願の模索はより進んだ時代から見ると
大きな流れの中の必然に突き動かされた手探りのもがきの連続の総体で
それが結果から見ると‘受動的な必然感‘を伴わせるのだと思います。
つまり‘ブラフマンの掌の上で暴れまくった‘という感覚として。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 結果から見ると‘受動的な必然感‘を伴わせるのだと思います。
☆ ううーん。ですから 原因から見るとと言いますか リアルタイムでゴータマ
に沿って その行動を捉えるなら おそらくふたつの側面があると考えます。
実践と理論とです。

人びとの生きることが いわゆる身分の低い者にとっては ひどくみじめで苦しい
ものであると知った。これは 支配的な宗教としてのブラフマ二ズムがわるい。そ
の聖職者階級や王族階級が――その政治が――わるい。

身分制は 生まれつきのもので もはや変わるものではないなどという説には何の
根拠もないのだ。おこないが 精神の《身分》の高さをしめすのだ。

アートマンは まやかしだ。アン‐アートマンが あたらしい思想の旗印である。

このようにゴータマは考えたものと推測されます。
現実の社会生活の改善――《「俗世の暮らしにくさの改善」》ですね――という側
面と同時に すでに理論として 実体としての霊我(アートマン)については こ
れを否定するかたち。
つまりは 何ものにも依ることなくみづからひとりで満ち足りている存在・つまり
実体としてのアートマンないしブラフマン神を否定するという理論の側面。

この理論の側面では それでもけっきょくは 神またはその霊の領域をあつかうか
らには やはり信仰の問題を正面からあつかっており しかも梵我一如の信仰観と
同じように その世俗化した宗教現象をもみづからに帯びるようになったし やは
り正面から背負ったものと捉えます。サンガ(僧侶共同体)をつくりました。

ということは その結果が――この段階において――やはり問われざるを得ません。

つまるところは 歴史の全体として見て ブラフマ二ズムとくらべてゴータマイズ
ムは 何をあたらしくしたか? どんな独自性を発揮したか? と考えるなら 何
もない。となるのではないか?

 梵我一如 ⇒ 無梵無我一如 ⇒(後世)仏仏一如

という推移としてけっきょく同じ類型であり同じ系譜である。というのが 質問の
趣旨です。

当時の国王にまで ゴータマイズムは 浸透したのですから 大いに暴れまわった
とは思われるのです。

お礼日時:2016/02/13 19:20

bragelloneさん こんばんは



ブッダは苦行の末に、四苦八苦を一時的には克服できるけれども、無常故に、新たな苦が生まれることで自分の願いは叶わないと思った。
村に戻ると、村の娘から一杯の乳粥を貰い、身体に浸み渡るように美味しかった。

菩提樹の下で瞑想に耽って、時間の経つのも忘れてしまった。
なんという事だろう、自分の心はあらゆるものから自由になった。
もう、ブッダの心には四苦八苦というものは何もなかった。

ブッダは心から喜んだ、できたと。
人々にどう説いたらいいのか?説明できない。
村の娘のように、私が一人一人に行うしかないのだ。

と、こんな風に想像してみましたよ。www

たぶん、流れとしては、自分で考えたことを行動にうつす。だめでも諦めずに論理的に考えて続ける。無常を考えて続ける。誰かの温かさに触れる。もう、成就している。

さて、質問の答えですが。
マザーテレサのように、ブディズムも人間の死の間際に温かく見守る人がいることが、人間の最高の幸福であると説けばいいのでしょうね。

でも、これはお坊さんが答えなければ意味がないと思いますが?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

わいわいえいとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

★ もう、ブッダの心には四苦八苦というものは何もなかった。
☆ ウソ。なぜなら 後世の分析にもとづけば 十界互具ということを言
います。人間の自然本性としての境地の中で 仏界にも地獄界があり 地
獄界にも仏界があると。

だから仮りに苦から自由な境地に成ったと言うのなら そのように言わね
ばならない。苦から自由になったと。苦が無いと言っちゃあ 《釈尊もど
き》に成る。

★ マザーテレサのように、ブディズムも人間の死の間際に温かく見守る
人がいることが、人間の最高の幸福である
☆ これもウソ。だいたい 人間は 生きることがよきこと。

マザーテレサは 寄る辺なき人たちのマザーに成ったかも知れないが そ
の人たちに テレサの信じているという神のことは伝えていなかったので
はないか。

問題は 医療をほどこし物をあたえまた思いやりの心を添えてやることは 
あくまで一時的に光をあたえ温かさを感じさせることになる。だから問題
は その人みづからの身と心との内に 泉の湧き出て尽きないように水を
湧き出させること。

心に寄り添ってともしびを灯すことでは必ずしもなくて そうではなく
その人みづからの心の灯心に火がともったという状態になること。

マザーテレサは 自分たちの仕事に栄誉をもたらしたかも知れないが 神
に・つまりは人びとにほまれを着せたとは必ずしも見えない。

死の間際にしあわせであったらよいという見方。これも ほとんどウソ。
その人がみづから あぁ このおれの人生はよくやった いいものだった
われは満ち足りていると言えるようになる。ということが肝心。

だいたい 人生について向き合ったその姿勢 たるんどるわい。と言わざ
るを得ない。ぞ。

お礼日時:2016/02/13 07:56

>豚語はだめ。

専門家でなくては こなせない。

私はガンダムといふ最新兵器については無知ですが、回答番号1の方は御専門のやうです。さきほどぶらげろさんのブログにも書きましたが、ブッタ豚語は全国で認知されてゐます。

「二度もブッタ。親父にも豚れたことないのに。」
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この回答へのお礼

何のこっちゃ?

わいわいえいとさんが書いたのかと思った。

▲ 「二度もブッタ。親父にも豚れたことないのに。」
☆ あっちの場で触れなかったけれど このフレーズは さほど面白くは
ない。

あたかももっとぶって欲しいと言っているかのよう。

だって 豚れることを無効とするのなら からだを張ってでも抵抗すると
思われるから。

親父より おれのほうが上なんだよ。と相手に返されたらおしまい。

アムロ何とか言うらしいけれど・そして話はまったく知らないしその文脈
を知らないのだけれど この文句は よわよわしい。と思う。


ゴータマは あたかも宇宙遊泳しているかのような話を語っていたと思う
けれど 具体的には思い出せない。

ご回答をありがとう。

お礼日時:2016/02/12 22:31

『西遊記』を読んだことがないので詳細は存じませんが、孫悟空は猿でよろしいのですか。

『ラーマーヤナ』などから明らかなとほり、インドにおいて猿は神聖視されてゐました。日本でも芭蕉が俳諧『猿蓑』のなかで、このやうな句を残しました。忍者の里、伊賀に帰るときに詠まれたものです。

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
(『芭蕉七部集』「猿蓑集 巻之一 冬」中村俊定校注 岩波文庫175ページ)

この「猿蓑」についての解説は以下のとほりです。

さるみの = 小柄な男が用いる忍具。蓑とは植物を編んで作った雨具だが、さるみのは、これにハンガーが付いている。ハンガーを木の枝にかけ、蓑の中に入ってじっとしていれば、空中にあって、いつまでも発見されない。
(小林信彦『ちはやふる 奥の細道』第3章 新潮文庫60ページ)


『西遊記』の孫悟空のやうに「ブラフマンの掌で暴れまわ」る必要などなかつたと思はれます。祕伝忍法、猿蓑があるのですから、蓑虫と同じ生活をしてゐればよかつたのです。蓑の中から発信のみをおこなつて、他者の言葉など無視します。自分は常に安全地帯にゐて優越感にひたることができます。しかしブッダはそのやうな選択をしませんでした、もちろん、暴れまはることも。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

アン-アートマン。安保反対みたいなものですね。
実体としての神――ブラフマンのことですが――は 無いと言った。

これは 哲学の議論です。
ただし けっきょく有る神に対して《無い神》を互いに同等なもの・つまり
やはり《実体》としてとなえる結果となった。

もうひとつは 時間を超えて何々恒河沙だか何だかの宇宙を飛び回っている
自分の姿を 語っていたのではなかったか。

猿が 蓑をほしげですって?
そんなもの要らないのでは? 寒さに慣れているのでは?

お礼日時:2016/02/12 21:59

釈尊はブラフマンの手のひらに潜りこんで、一体となったので、孫悟空ではありません。



ブラフマンの世界に入って極楽と涅槃の心境を体感しました。

真の釈尊と釈尊モドキとを混同してますね。
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この回答へのお礼

何のこっちゃ?

だめ。豚語はだめ。専門家でなくては こなせない。

孫悟空でなければ やっぱし猪八戒か沙悟浄となりますね。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2016/02/12 21:50

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