アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています。

例えば、飛行機の墜落事故で、奇蹟的に生き残り、アンデス、或いはヒマラヤのような山中で、助けを待つ人たち。 或いは自分の属している部隊がほぼ全滅し、生き残った数名。

最早食料も尽きた、という場合、人の「屍」の「肉」を喰うことは尚「悪いこと」でしょうか?

個人的なことを言えば、彼らが「仲間」であれ、或いは偶然同じ飛行機に乗り合わせた見知らぬ人々であれ、「自分の肉」を喰らうことによって、少しでも彼らが生き延びることが出来るなら、わたしは自分の屍が食われることに抵抗は感じません。

わたしの好きな言葉があります。

「某(それがし)閉眼せば,賀茂川にいれて魚に与ふべし」 親鸞 

「わが体焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹を肥やせよ」 一休

またわたしの屍の扱いについては、火葬よりは土葬、

土葬よりは風葬

風葬よりは鳥葬

が望ましいとも思っています。

つまり人間も含めて、他の生物の食物・養分となりたい、またそのものたちの排泄物として、土に戻り、大地の肥やしになりたいと願います。

カニバリズムのどこに抵抗があるのか?

餓死した、或いは凍死した人間の、外傷のない身体に、刃物を突き立てる、という行為、その時点での「抵抗」「嫌悪感」でしょうか?では、我々が豚や牛、鶏の現場を見ることなく、その肉を食べているように、誰か別の人が「焼いてくれた」或いは「切り取ってくれた」肉であれば大丈夫か?

勿論、「ひとが人の肉を食うこと自体が畜生道である」という意見もあるでしょう。

でも人間(ヒト)だって、一個の動物ではありませんか?
人間だけが高等で、他の生き物(動物や虫)とは比較にならないという考えは何処から来るのでしょう?

勿論「俺は人の肉を食ってまで生き延びたくはない」という意見は最大限に尊重されるべきですが、同様に「死体の肉を食ってでも生きたい」という主張も正当性を持ちうるのではないでしょうか?

たとえ、数名の肉を喰らっても、数日のうちに救助が来なければいずれ死ぬ命であるとしても・・・

ご意見お聞かせください。

質問者からの補足コメント

  • 「良心」や「理性的判断」に照らしての「後悔」や「罪悪感」は本当に、「生き延びた」ことを責め続けるのでしょうか?

    思い出したのは、ウディ・アレン『重罪と軽罪』という映画です。
    不倫相手と手を切ろうとした地位のある眼科医が、女性から「奥さんにすべてを話す」と脅かされます。脅迫、というよりも、女性は彼を諦めきれないのです。
    身の破滅を怖れた眼科医は、悪の世界に生きる弟に頼み、金を払い、愛人を殺します。
    その後彼は良心の呵責に苛まれ、何もかも棄てて、自首しようとも考えるのですが、実際に手を下した弟に、それは許さないと言われます。
    狂気に陥る一歩手前で、彼を救ったのは何か?結局は「強さ」だったのか?

    これは最後に「良心に従い」あるいは「良心の呵責に堪えかねて」自首した、『罪と罰』のラスコーリニコフの反対のケースです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/05/05 14:06

A 回答 (13件中1~10件)

極限状態、でなくとも人間はいきる為には手段を選ばず、と云う行動が出来るものです。

考える時間がなければそれは生物的本能に近い行動と思われます。善し悪しの心理以前の行動だと言えるでしょう。でも善し悪しの判断が出来る状況であっても生物として生きようという意志の強烈さは理性を上回るものがあるようで、それが理性的判断に逆らう行動ならば後に悔恨と云った心境を生み出します。

悔恨の心理とか、理性の判断の基準とか、またその“材料”に付いて考え始めると、神仏の分野に入ることになってしまいます。
だから今はそこには深く入らずに検討して見てはいるのですが、あほなさんがだいぶ前の質問「お花畑」で述べている意見にあるように我々は罪深い人間の末裔なのだ、と云う説に容易に納得してしまうのです。

そしてこうした(悔恨の念のような)無意識的心理が人の“良心”に刺激を与え、次への思考、行動に影響していくのだろうと思います。

カニバリズムには繋がりませんでした。一連の回答やその感想を見ての発想です。
紹介いただいた《ぼくらはそれでも肉を食う・・・・》のカスタマーレビューが読め、読め、と云ってくるので思い切ってクリックしてしまいました。明日には届くはずなので楽しみです。

また、極限状態の人の心理と“甘え”に付いてブラジュロンヌさんに問うて見ようと思います。アタマが弱いから上手く“攻撃”出来るか分かりません。“坊ちゃん”では意見が合ったようにも思うので、共闘を期待します。

決して“傾いている”訳ではありません。
踏ん張っているんです。
この回答への補足あり
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんにちは、yy8さん。

「お礼」を投稿しようとしたら、時数がオーバーしてしまったので、前半部分を「補足」に譲ります。


>紹介いただいた《ぼくらはそれでも肉を食う・・・・》のカスタマーレビューが読め、読め、と云ってくるので思い切ってクリックしてしまいました。明日には届くはずなので楽しみです。

そうですか。読め、読め、と云っているから?(笑)
面白そうな本だと思います。興味を持ってもらえてなによりです。

>また、極限状態の人の心理と“甘え”に付いてブラジュロンヌさんに問うて見ようと思います。アタマが弱いから上手く“攻撃”出来るか分かりません。“坊ちゃん”では意見が合ったようにも思うので、共闘を期待します。

攻撃?いいじゃないですか。「回答」面白く読んでいますよ。「甘え」については、きりがない気もしています。
誰の言葉だったか『「定義」とはそのものの「限界」を作ることだ』と。つまり「枠にはめる」ことで「定義づけ」するわけですね。
数回投稿した、ハルさんの「憲法9条について」も、「あふぉな」さんとは明確な意見の相違がありますが、基本的にわたしは「相対主義者」です。回答することで、ある程度自分の中で整理が出来たら、「人との相違」は二次的なものという感じです。(ぶらじゅろんぬさんのいう「美学派」であり「個別性」に拘るものですから(笑))


>決して“傾いている”訳ではありません。踏ん張っているんです。

ええ、わかっています。どのように収まっていくのか興味を持っています。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/05/05 14:04

お礼ありがとうございます。



>「喰わずに死ぬか」「喰って生き延びるか」について考えてみたいのです。

空腹のために遺体を食べてしまって生還したとしたら、人は罪悪感が残るでしょう。
問題は、自己険悪感を残さずに生還できる方法はないか?ということでしょう。

病気に感染するリスクなく、自己険悪感になることなく、秘密を生涯守り、むしろ、奇跡の生還として誇る事ができる方法ですね。

あります、私の直観では、軍医がいればと思いましたが。肉料理が得意な軍人がいれば可能だと思います。
彼なら、この状況で冷静に対応できると思います。
遺体が食べても害がないかどうか判断できます。そして、他の人を助けたいという使命感から誰にも話すことなく、遺体を野生動物の肉だと偽り提供できます。

質問者の好きな、親鸞さんや一休さんでは、自己犠牲の精神が強すぎて誰も救えないでしょう。

>彼を救ったのは何か?結局は「強さ」だったのか?

他の人のためになりたいという使命感。冷静な判断力。経験。決して諦めない精神力。
それと、過去のバイアスの切り替え。

まっ 所詮、空想ですから、違うかも。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんにちは。

>肉料理が得意な軍人がいれば可能だと思います。
彼なら、この状況で冷静に対応できると思います。
遺体が食べても害がないかどうか判断できます。そして、他の人を助けたいという使命感から誰にも話すことなく、遺体を野生動物の肉だと偽り提供できます。

なるほど、面白いご意見ですね、でも軍医でもいいのではないかとも思いました。
屍の肉を切り分けることへの抵抗が強いでしょうから。

>親鸞さんや一休さんでは、自己犠牲の精神が強すぎて誰も救えないでしょう。

わたしは彼らの言葉に共感していますし、自分の屍は焼かれるよりは喰われたいと思うので、どこが「自己犠牲」なのか理解に苦しむところです。

空想譚にお付き合いくださってありがとうございました。

お礼日時:2016/05/08 15:00

狂気に陥る一歩手前で、彼は救われたと云う事ですが、そこのところの経緯が分かりません。

でも想像に難くはありません。
結局のところ、ケースは正反対でも“何か?”は共通のものであって、共通と云えば神の存在しかない、と云う事になるのではないでしょうか。

狂気に陥る一歩手前で、どう云う行動・行為、をしたのか分かりませんが、“自首”が懺悔の心からだとすれば、それは神の許しを乞う事で自責の念から解放されたいという思いであるはず。そこから関連付けて考えれば「彼を救った」のも神であって、だから「彼」は神を求めたのだと推測できます。

「強さ」では救われないように思います。
「強さ」の出どころは自我だから。
でも、良心の反応は自我ではなく自己(神の住む処)から、だから。

独り言(neutralingさんが紹介している本にも興味を持てたので、近いうちに読んでみようかな)
    • good
    • 1
この回答へのお礼

>狂気に陥る一歩手前で、彼は救われたと云う事ですが、そこのところの経緯が分かりません。

何かをして救われた、というわけではないんです。ある朝、目覚めてみると、窓の外に柔らかな朝日が照っていて、家族がいつものようにいて、世界は何も変わっていない。そこで彼は、「救われている」自分に気付いたのです。この眼科医の義理の弟がユダヤ教の聖職者で、「神」についての部分もありますが、わたしの印象では、彼は最終的には、「神」をも「良心」をも超えた平安を見出したようです。

>「強さ」では救われないように思います。

例えばニーチェは、(ドイツロマン派の詩人)ヘルダーリンやら誰やらが狂気に至り、一方、ゲーテやショーペンハウエルがそうならなかったのは、結局は彼らは「強かったからだ」と云っています。そういうニーチェ自身は「超人」の思想を打ち立てながら、結局は狂気の中で生を閉じた。前に話したエミール・シオランなどは、世界と人間に対して徹底してビターですが、80代まで生きています。ニーチェは彼の思想ほどには強くなかったのかもしれませんね。

お礼日時:2016/05/06 01:14

こんにちは、blueさん。

僕は言語化が上手ではないのですが、この物語はおもしろいと思います。ロビンソンクルーソーの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%93 …

僕は原作を読んでから映画も観ました。詳しい内容は書かずにおきますが、彼は【人は神の似姿として創られた】だからといって人の肉は食わなかった。でも彼は【人は神の似姿として創られた】のだから人(とりあえず自分)が生きるためにどうしたらよいか分かることができるのが当たり前だと考えた。しかし相棒のフライデイという人は食料であれば何でもよく人肉も食していた。以下、省略します。ご興味があれば図書館か古本屋かtsutayaか三洋堂かネットカフェなどにたいてい置いてあると思ふので目を通していただけたらと思ひます。明日は久しぶりの休日です。GWは働き倒したので明日は朝から晩まで飯と便所以外は布団から出ないことにします、と決め込みました。生きるために充電は大事です、笑。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

こんばんは、瀬里香さん。

「ロビンソン・クルーソーの冒険」でしたっけ。映画もあるんですか、知らなかったな。
なるほど。「人は神の似姿」であるから人を喰わない。か・・・
フライデーって、ロビンソン・クルーソーが買っているオウムの名前だとばかり思っていました。人間だったんですね(恥)

とりあえずは武田泰淳の「ひかりごけ」を読んでみようと思っています。「ひかりごけ」という作品は未読ながら名前だけは知っていましたし、三國連太郎主演の映画にもなっていますが、これが人肉食の話だとは知りませんでした。

連休中、お仕事おつかれさまでした。充分に休養を取ってください。

投稿、どうもありがとう。

お礼日時:2016/05/06 00:55

Grass_Rootsさん おはようございます



☆同種の共食いは、昆虫では普通に行われています。
病気が罹り易くなると思うのですが、昆虫は個体数が多いので病気の感染の問題に対処できていると考えられます。

☆植物にはウイルス病等、感染したら対処できない病気があります。感染した植物は全滅します。
でも、植物の場合は何処からでも再生可能ですから、新しい健全な細胞が再生できれば病気に対処できます。

植物の連作も窒素、リン酸、カリ等の不足となって、生育障害になります。微生物による有機物の分解と焼却による病気の根絶が有効。

☆哺乳類では、狂牛病が有名です。

☆人間の場合ですが、何の処理もしないで不治の病のある個体を食すれば病気の感染に対処できないので、やがては種の滅亡に繋がります。
また、健康な個体を選んで共食いすることは種を滅ぼします。

精神的にも、高度な知能を持つ人間にはトラウマになります。

以上のことからでも、人肉食は種の存続には危険な行為でありますので、人肉食は公にするべき話ではないと思います。

将来的には、再生医療が進んで人が死ななくなれば病気に対処できるかのように思えますが、人間にも克服できない不治の病がでてくるので、結局は、新しい個体に過去の情報を移すこととなります。
DNAによる仕組みは生存のためには、欠かせなかったのでしょう。
また、食物連鎖や有機物の循環の仕組みと比べても、人肉食では生命の環境変化への適応力を弱くする。

私の結論としては、人肉食では生命は繋がらないので批判されるでしょうね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんにちは、てふてふさん。

この質問は、ある種の「思考実験」の類です。

「極限的飢餓状態に陥った状態で、人の(屍)の肉を喰うこと。」それについて皆さんがそれぞれに考えた意見をお聞きしたいと思い質問しました。

様々な「ジレンマ」や「パラドクス」の状態で、わたしたちの思考は、どのような表情に変わるのか?そのような興味です。

>人間の場合ですが、何の処理もしないで不治の病のある個体を食すれば病気の感染に対処できないので、やがては種の滅亡に繋がります。
また、健康な個体を選んで共食いすることは種を滅ぼします。

>精神的にも、高度な知能を持つ人間にはトラウマになります。

>以上のことからでも、人肉食は種の存続には危険な行為でありますので、人肉食は公にするべき話ではないと思います。

ええ、確かにそれはおっしゃる通りかと思いますが、質問にもあるような、「すぐに救助されることのない、山中での遭難」や「戦争(戦闘)で、生き延びた少人数が、飢えと闘いながら生きてゆくには」というような状況設定があります。

「喰わずに死ぬか」「喰って生き延びるか」について考えてみたいのです。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/05/05 13:18

尊厳と言う言葉はにゃんぽこりんさんが使っていましたね。


動物として人間が特別なのは精神性の高さにあり、だから尊厳と言う言葉も使われるのだと思います。

カニバリズムに抵抗感があるのは、“その習慣がない”と言うのも要因と言えると思います。

なかなかうまく言えないので、言いたいこと=結論を言ってしまうと、精神に与える負の影響があるのではないかと言う事です。

それはその人の人生の負い目となって一生付きまとい、思い出す度に理論武装して=自己弁護=言い訳=正当性を確認しなければならなくなります。

良心の呵責、罪悪感、うしろめたさ、ぶらじゅろんぬさんの言葉を借りれば、やましさ反応が心を重くします。

人の人たる所以であって、この精神性こそ命の尊厳と言えると思うのです。

ただし、他者の非難の対象となる行為だとは思いません。
許されて然るべきでしょう。

このように思いました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんにちはyy8さん。

「お礼」(?)が遅くなりました。

>カニバリズムに抵抗感があるのは、“その習慣がない”と言うのも要因と言えると思います。

そうですね。「習慣があった」ら困りますね(笑)

>精神に与える負の影響があるのではないかと言う事です。

>それはその人の人生の負い目となって一生付きまとい、思い出す度に理論武装して=自己弁護=言い訳=正当性を確認しなければならなくなります。

この意見には納得できます。自分の屍を誰か(人、他の動物)が喰うのは構わないけれど、自分が食べることが出来るか?までは正直言ってわかりませんね。

>ただし、他者の非難の対象となる行為だとは思いません。許されて然るべきでしょう。

そうですね。

ところでNo6の回答への「お礼」に関連して、"Anthrozoology" という学問(?)があることを初めて知りました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Anthrozoology

これには日本語のサイトが見当たらなかったのですが、「人間と動物との関係学」"Study of interaction between humans and other animals." と呼ばれているようです。

それから "Zoology" というのも。「ズーオロジー」は「動物園学」とでもいうのでしょうか?

カニバリズムではありませんが、人間が他の動物の肉を喰うということに関して、いろいろと考えさせられますね。

関連書

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/47601396 …

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2016/05/05 03:58

今は尊厳、と言う言葉を思い付いています。



今週は木金が休日だから、そこで回答?してみたいと思います。
時間があって、考えがまとまればその前でも投稿するかも知れません。

よろしくお願いいたします。
    • good
    • 1

嫌味を大量に含ませた回答、いや疑問です。



死体を食べるのはハイエナとかハゲタカとか。
肉食動物の大半は生きた獲物を捕獲して食べます。

人間も生きた獲物を捕獲して殺して食べます。
“死体”は嫌うのではないでしょうか。

無知だから詳しくは知りませんが。

どうしても食べるのなら“殺してから”がいいと思うのですが・・・・・
死んでから・・・ですか?

人間と他の動物との違いは“精神性の優劣に依る”と思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんばんは、yy8さん。

この質問は、前提として、極限的な飢餓の状態に陥った人間の話です。もしそこで、殺してから食べるということになると、
自分も殺される可能性があります。それでは「生存の可能性」を自ら否定することになってしまう。

では極端に弱っている人間なら殺していいか?わたしは「否」です。「命」を奪う権利は誰にもありません。
仮に彼が「俺はもう駄目だ。俺を殺して俺の肉を喰って生きてくれ」と云っても、やはり躊躇するのではないでしょうか?

わたしは自分がそういう状態になった時に、屍を喰ってまで生きたいと思うか?それは疑問です。
ただ、基本に、人間もまた「人という畜生」であるという認識があります。人間が犬や猫や牛や馬よりも優れているなどとはとても思えないのです。

ですから自分が死ねばその屍は飢えたる犬のエサになればいいと思っています。
また蟻や蛆虫に喰われて、大地に還り、植物や木々の肥やしになれればと望んでいます。

自分の死後、その屍が、人を含めた動植物の餌になりたいという気持ちから、どうしてもカニバリズムへの嫌悪感が理解しにくいのです。



「「命」を奪う権利は誰にもありません」・・・?

わたしたちは、生きるために牛や豚や鶏など他の動物の命を奪っているではないか?何故人を殺してはいけないのか?
そう問われると言葉に詰まってしまいます。

ご意見をありがとうございました。更になにか疑問があればいつでもどうぞ、一緒に考えましょう。

お礼日時:2016/05/02 23:54

ちょっと寄ってみました。



私が住む東北の地には、昔々飢餓のため人肉を食したという悲惨な話が
伝わっています。

現実にはまずないことですが、究極の事態に陥った時に、たとえ人肉で
あろうが食すべきであると思います。それにより、まだある命が、続く
からです。その続いた命によって何かがなされる可能性があるからです。

そうした、悲惨な経験をした人間が、新たな人生観に目覚めることは往
々にしてあることだとも思いますし、
またそれは、人肉を食さず絶命することよりも、命というものを尊ぶ行
為といえると思います。

それを拒否する考え方の根っこには、「人間の尊厳」即ち、他の動物とは
違うのだということと、それから派生する「人間は特別だ」という思いが
あると思います。
また、「共食い」というものが、あまりにも醜いという、何か本能的なも
のも、あるような気がします。

ただ、あくまでそれを拒否し、死に至る人がいたとしたならば、人間と
して尊敬に値しますよね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

こんにちは、ニャンポコさん。

>究極の事態に陥った時に、たとえ人肉であろうが食すべきであると思います。それにより、まだある命が、続くからです。
その続いた命によって何かがなされる可能性があるからです。

究極の飢餓状態に陥った時に、人が人の屍の肉を「喰らうべき」とまでは考えません。ただ喰うことはそこまで責められることか?だとしたらその根拠は?という疑問でした。

>またそれは、人肉を食さず絶命することよりも、命というものを尊ぶ行為といえると思います。

このへんはNo4と同じ意見ですね。

>それを拒否する考え方の根っこには、「人間の尊厳」即ち、他の動物とは違うのだということと、それから派生する「人間は特別だ」という思いがあると思います。

そうですね。わたしは人間だって畜生のひとつだと思います。人間が特別な存在で、犬猫よりも優れているというのは思い上がりだと考えています。

多分このあたりの見解は、ニャンポコさんとは違うのかと思います。

>あくまでそれを拒否し、死に至る人がいたとしたならば、人間として尊敬に値しますよね。

「俺は人の肉を喰ってまで生き延びるつもりはない」というのも、一つの生き方で、それを批判する気持ちはありませんが、
同時にそういう人を「尊敬」する気持ちもないようです。

尚、ご意見、反論などありましたら、いつでもお書きください。

立ち寄っていただき、ありがとうございました。

お礼日時:2016/05/02 13:44

こんばんは、bluEさん。

なんだか芥川龍之介の羅生門とか蜘蛛の糸とかみたいだね。僕は水葬がいいな。川に流してバイバイさようならお終いにしてほしいなあ。生き残った人が僕をさっさと忘れることができるし、川に流された僕は魚が食ってくれるでせう。僕だけが生き残ったらどうするのかって?いやあ…むづかしいこと言うなあ。僕はそんな状況になったことがないし想像力も乏しいから【分からない】としか言いようがないのだけど、でも僕は何がなんでも自分が生き残ることを考えるんぢゃないかなあ。だから何でも食うかもしらん。昆虫でもカエルでもザリガニでもタニシでも蛇でもスズメでもハトでもインコでもオウムでもカンガルーでもウサギでもイタチでもネズミでもコアラでもパンダでも犬でも猫でも花でも葉っぱでも根っこでも食えるものは何でも食うと思ふ。何か問題あるかなあ。僕はおかしいかなあ。ああでも僕の屍は狼が食っても鷹が食っても蟻が食ってもミミズが食っても構わんよ。まあ有機物だからね、地面や水および地面や水の世話になっている生命物体の栄養にはなるんぢゃないかな、僕の屍。明日は久しぶりの休日です。精神科に行く必要があるので休みをくださいと言って獲得した休日です。明日はカレンダーでは平日なので病院や市役所は動いています。3日と4日と5日はまた働きます。おやすみblueさん。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

こんばんは。瀬里香さん。

何を喰って生きたっていいと思います。そして自分が死ねば他の動物の餌に、或いは大地や植物や虫やバクテリアの肥やしになればいい。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/t …

水葬。ミレーのオフィーリア。

アートとしてだけでなく、人間の最期としても、最も美しい姿のひとつでしょう。

しかし瀬里香さんのその飽くなき生への欲求というのか、生きようという意志というのはどこから生まれてくるのでしょう。

ま、きみのそのちょっと壊れているところが魅力ですね。

寄ってくれてありがとう。

お礼日時:2016/05/01 23:28

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す