幼稚園時代「何組」でしたか?

第二次世界大戦における東部戦線はドイツとソ連の激烈な戦いになりました。
約4年間で戦線は数千キロ移動し、お互いの損害も耐え難いくらいになったでしょう。
そこで思うのですが、ドイツに勝機は無かったのでしょうか?
1943年は持久して機動防御をすれば何とかソ連の出欠多量により講話に持ち込めたのかなーって思います。
ヒトラーの介入は取り敢えず無視した場合ですが

A 回答 (2件)

結果的にバルバロッサ作戦の開始が遅れたことが与えた影響は大きなものがあったものの、ドイツ軍にも多くの勝機がありました。

勝機を逃した原因を列挙します。
1、ソ連には、泥濘の時期が2回存在し、この対策が取られていなかった。侵攻初年度の秋の泥濘期には、一カ月ドイツ国防軍装甲部隊が動けなかった。
2、米国の援助を過小評価し、ムルマンスク封鎖をしなかったため、大量の米国製トラックがソ連に搬入され、ソ連軍の大量輸送が可能となってしまった。突破され続けたソ連の戦線の穴を塞ぐことが可能 となったのです。
3、日独伊三国同盟を軽視して、日本の南進計画を許し、ゾルゲ事件によりシベリア軍団をソ満国境から移動可能としてしまった。軽装備の日本軍に叩きのめされたノモンハン事件を反省し強化された、  機甲部隊を主力とする無傷のジューコフの20個師団は、ドイツ軍の進撃にストップをかけました。
4、冬用の軍装を用意せず、鉄鋲のある軍靴は足を凍えさせ寒さを防ぐ防寒着さえ有りませんでした。そして小銃や機関銃さえ発砲出来なくなるという冬対策が全くなされていなかったため最初の冬の間進 軍出来なかった。ここにジューコフが襲い掛かったのです。後に元帥となり、救国の英雄と謳われた彼もゾルゲ事件なしには語れません。
5、機動性を重視したテ-ゲル戦車は、T34に比べて装甲が劣り、搭載砲の威力でも劣り、機動性を封じられた戦線が構成されると戦線を突破できなくなった。航空戦力はよく応えたが、数的に劣りソ連機 甲部隊を撃退するまでに至らなかった。
6、この結果クルクス(ビエルゴロド)の戦車戦で大敗し勝機は去った。それでもマンシュタイン大将の焦土作戦は有効であったが、ヒットラーの介入により、大将が更迭されると、戦線を維持できなくな り、以降敗退を繰り返し、敗戦に至りました。
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この回答へのお礼

わかりました。本当に米軍のトラックなどのリースは大きいですね。1943年にドニエプル川で持久すれば赤軍を防げなかったのですかね。クルスク攻勢をせずに戦力を増強すれば可能だったようにも思います。まぁ、ヒトラーの介入が無ければの話ですが

お礼日時:2017/07/08 09:47

総統閣下の介入は無視出来ません、第二次大戦はソビエトとの戦いを主要目的とした総統閣下の計画ですので、無視した場合戦闘そのものが成立しません。



ドイツ軍の勝機についてですが、当初5月にバルバロッサ作戦を開始するはずが、ユーゴスラビアのクーデター制圧のため、一ヶ月遅れの6月に開始した時点でもう勝機はありませんでした。

5月に実行していれば、おそらく雪が降る前にモスクワ占領まで行けたと思いますが、ソビエトが降伏したかは判りません、当時ウラル山脈付近に兵器工場があり、モスクワが占領された場合そこまで後退し持久戦に持ち込む計画がありました、そこまで戦線が伸びればドイツ軍にとってはかなり不利になります。

(1943年に持久して)1941年の冬に一度持久しています、1942年の春に再び侵攻し戦線を伸ばしますが、冬に入り2度目の持久となり、1943年の春にはソビエトの驚異的な戦車の増産により、ドイツ軍戦車1台で5台以上のソ連戦車を撃ち抜かなければならない状態になり、とても持久する状態ではありませんでした。

戦争が終わってみると、負けたドイツ軍より、勝ったソビエト軍の方が戦死者がとてつもなく多かったです、スターリンにとって国民の命なぞ糞食らえだったのです、ですから(出血多量による講和)はまったくありません。

結局最初のつまずきで勝機から見放され、ソビエトに時間をあたえてしまったという事です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、参考にします。
しかし、スターリンが人命軽視なのは分かりますが出欠多量となれば国家が揺らぐのではないですか❓

お礼日時:2017/07/08 01:44

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