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最初にお断りしておきます。
私は「宗教を持つ者」ではありません。
したがって、この質問は、宗教的あるいは論理的にではなく、むしろ直感的に宗教を解釈して、感じた疑問です。
解釈に誤解がある場合は、ご容赦願います。そして、ご指摘くださいますようお願いいたします。

「イスラム」という言葉の意味は「唯一の神に絶対帰依すること」だそうです。
信者=ムスリム(絶対帰依する者)は、神の教えに沿って生きる=行動しなければならない。
しかし、その行動が正か誤かは、最終的には神が判断する(=最後の審判)のであり、人が結論を下すのは神を恐れぬ不遜なことである、と。

一方、仏教の他力本願についてですが、親鸞の歎異抄の解釈を聞いていたら、
阿弥陀仏は信心する者(念仏する者)を救ってくださるが、「自分は念仏しているから救われるはず」と確信することは自力本願であり、他力本願にならない、との説明がありました。

ヘビが自分の尻尾を飲み込んだような堂々巡りになりかねない話ですが、
イスラムの「最終判断は神が下す」という考え方と似ているのでは?と思いました。

救われるためには、(神とか阿弥陀仏の)教えにしたがって生きなければならないが、最終判断は神、仏が下すのであって、「自分は正しい、だから救われる」と自分(神仏ならぬ身の人間)が判断してはいけない。それは奢りであり、傲慢だ。

という点で似ている、同じ、と私は感じました。
いかがでしょうか?
詳しい方の御指南をお願いいたします。

A 回答 (7件)

これは、非常に面倒な議論なんですが、結論としては、現在のムスリムのクルアーンとハディースの解釈と、親鸞の絶対他力の解釈は似ている部分と違う部分があると思います。


まず、イスラームにおいて、「あなたたちの誰であれ、その行為によって救済される者はない」と言うのは、ハディースに記載されている事です。
クルアーンでは、これに反して、「それが、お前たちが行ったことによって、お前たちが継がせられた楽園である」(43章72節)と言う記載があるので、矛盾します。
これは、次のように解釈されています。
まず、楽園に人を入れるかを判断するのは、あくまでアッラーフです。
したがって、人間の行為などは、無関係となります。
ただし、アッラーフは、クルアーンにおいて、その行為によって、継がされる楽園がある事を啓示しています。
これは、楽園に行けるかどうかは、アッラーフの慈悲によるが、楽園のどこに行くかは、アッラーフがその行為を判断すると言っていると解釈するわけです。(楽園には、階層があり、その順位があります)
また、ハディースにおいても、、「しかしながら、正しいことを行いなさい」との記載があるので、行為によって救済は保証されないが、正しいことを行えば、行為は「継がされる楽園」の兆候であるから、アッラーフの判断により、慈悲が下されると解釈するようです。
基本的には、保証が無くても、正しい事を行っていれば、慈悲が下される可能性があると言う事です。(何もしなければ、楽園に行けても、上位の階層には住めません)
イスラームの場合は、救済は完全にアッラーフに依存(完全他力)ですが、救済後の行先は、行為(自力)によると言う事です。
親鸞(浄土真宗)の場合は、原則的に、「阿弥陀如来」による極楽往生は「完全他力」しかあり得ません。
極楽往生をさせてくれるのは、「阿弥陀如来」の本願によるので、信者の力は一切関係ありません。
法然(浄土宗)の場合は、専修念仏は、自力と考えています。
専修念仏(自力)→阿弥陀如来の本願(他力)→極楽往生が、浄土宗における法然の考えです。
親鸞の場合は、「阿弥陀如来」の完全他力なので、以下のようになります。
念仏(阿弥陀如来のはからいによる他力)→阿弥陀如来の本願(他力)→極楽往生
親鸞の場合は、念仏を唱える事自体が、「阿弥陀如来」のはからいによるので、そこに自力が生じません。
つまり、念仏は自然におきるので、自力では無いわけです。
整理すると、イスラームの場合は、救済は、アッラーフによる「完全他力」ですが、「自力」の行為は、アッラーフにより評価されます。
浄土宗(法然)における専修念仏は、「自力」ですが、極楽往生は、「阿弥陀如来」の本願による「完全他力」です。(法然の場合は、「阿弥陀如来」の第18願によります)
浄土真宗(親鸞)の場合は、念仏も極楽往生も「完全他力」です。(なお、親鸞の場合は、「阿弥陀如来」は、全ての衆生を救うとしています)
なお、キリスト教においても、アウグスティヌスなどは、救済は、行為によって決まるのでは無く、主の慈悲によるとしています。
ロシア正教の場合は、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などの記載を見る限り、キリストの慈悲は、その信仰により、全ての人に及ぶと考えられているようです。(これは、親鸞に近い考えです)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

イスラムの楽園もいろいろと複雑なんですね。
そして「救い」については、多くの考え方が展開されてきているのですね。

「完全に救いがある」としてしまえば、怠惰に流れてしまうのが人間の業であり、
その一方で、どんなに精進しようとしても業から完全に逃れることができないのが人間存在であれば、「救い」をどう考えればいいかも、なかなか大変になりますね。

宗教というのはほんとに奥深いなと、あらためて感じました。

お礼日時:2017/10/16 15:47

アラーも仏も縁のないものだけど、救われるのはイエスキリストしかない、俺たち罪人の代価を払ってくれたイエスキリストこそが救世主。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/19 19:35

詳しい者ではありませんが、少しだけ聞きかじっています。



> 「最終判断は神(のようなもの)が下す」という考え方と似ているのでは?
イスラムやキリスト教の場合は、最終決定権者は何かに縛られたりはしないと思っています。
だけれど、最終決定権者に認めらる何かの判定基準があるだろう、それに合格合致するようにしよう、あるいは、模擬試験・模試のようなもの、自分で判定する手法で大丈夫だろうと安心するような方法をとることが多くて、それが戒律を守ったり、指導者に従ったり、誠実に仕事に専念し放埒怠惰に流れないようにしよう、悪事には近づかないようにしようとする行為になっていきます。

釈迦が説いた教えは、悪事を避け、すべてに執着せず、何事も生まれて無くなるしその生まれてから無くなるまでの間も変化し続け不変である時間はないのだと徹底的に考え、それを日常生活で実践する(従って生産活動などしないで乞食をしながら流浪して生きる、修行生活する)というものです。

大乗仏教というのはこの釈迦の説いた教えとは違うものです。密教系はまた違うのですが、阿弥陀信仰の場合は、阿弥陀は衆生を救うという願いをもって今もいるというのが根底認識です。だから、悪事をしていても、漁師、狩人、消毒業、ブリーダー、軍人、詐欺師、どんな生活をしていても、信仰や礼拝にいい加減でも、懸命に修行し戒律を大事にしていても、風見鶏のように生き方がくるくる変わっても、必ず救われてしまう、そんな生き方をしていても見捨てたりしないと考えるのです。生きている最中にやったことを証拠に判定される審判はないのです。 たとえて言えば、できの悪い子も子どもだと愛し大事にしてくれる懐のとても深い親で、必ず救ってくれちゃうのです。 だから、ありがたいと感謝しているのです。 礼拝して、その見返りで救ってもらおうというのではないのです。 「最終判断は神(のようなもの)が下す」という考え方とは似ていません。 親はどんな子でも大事にしてくれる、犯罪者でも国は国民の生活を守ってくれるとしても、放縦に生きる、他人を騙す、誠実を馬鹿にするのを勧めているのではないように、「阿弥陀は衆生を救うという願いをもって今もいる」と考えているといっても、不誠実、怠惰、不道徳を勧めているのではないのですから、阿弥陀の本願をありがたいと強く思っていれば、良い生き方、清浄で、誠実な生き方をしようと努力する人もおおくなるというだけです。 そのような生き方をしたから救われる判定をされる確率が高くなると考えているのではないです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

釈迦は「救われる方法を教えることはできない」と言ったようですから、その後の「仏教」とはずいぶん違うようですね。

お礼日時:2017/10/16 15:23

人が確信・判断するのはダメ。

というのがイスラームと親鸞の仏教で共通するかどうか?というのが問だと思いました。
イスラームの場合は、律法が有るような印象を受ける。確信しても律法の範囲なのでそんなに大変なことにならないっぽい。確信しようぜって感じ。親鸞の仏教の場合は、念仏だけで条件が弱いから確信しちゃうとマズイって感じ。戒律が無いような印象を受ける。確信が有るとやりたいほうだい。確信はダメって感じ。親鸞の仏教って戒律あるんだっけ?
イスラームは他力的。親鸞の仏教は自力的。

http://muslimjapan.com/499.html
イスラームではコーランの他に、ハディースも参考にするらしい。上記URLのハディースを引用します。
 私の気に入ることをして私に近づこうと望む下僕は、自分に課
 された宗教的義務をきちんと果すことだ。
 注)下僕とは、アッラーの下僕、つまりムスリムのこと。
イスラームの場合は上から下へ命令する感じがあるが、親鸞の仏教は下から上へお願いする感じがある。でも、no.3が言う下記の指摘の方が正しいそうな気がする。
 これは「仏様が自分に唱えさえているのだ」ということであり
ので、下から上へお願いする感じは誤りです。イスラームも親鸞の仏教も上から下へ感がある。
イスラームと親鸞の仏教は両方とも他力的。

契約について、契約すると自力で、契約する・しない感じが無いと他力なんだろうか?。モーセの契約が古い契約で旧約聖書。イエスの契約が新しい契約で新約聖書。ムハンマドは契約したんだろうか?。新約を引き継だのだろうか?親鸞の仏教は阿弥陀様と契約する・しない感が無いな。
イスラームは自力的。親鸞の仏教は他力的。

イスラームや親鸞の仏教を自力的、他力的とno.4が適当に今作った偽仏教用語で判別できるのか怪しいな。神や仏がどんなやつらなのかあーだこーだいうのは別カテゴリだな。

イスラームと親鸞の仏教は帰依の形が似ているというのは確かにそんな感じはする。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

イスラムの場合、神と契約した者は律法を守って生きるが、それで救われるかどうかの判断は神の権限だから、人が決めてはいけない、との説明があります。

歎異抄の9章かなにかで、念仏唱えているから自分は救われる、と信じることは自力本願であり、他力本願ではない、という親鸞の言葉があります。

一生懸命努めるけど、だから自分は救われると、自分で決めたら、それは「絶対帰依」や「他力本願」にならない、という点が似ていると思いました。

お礼日時:2017/10/16 15:08

うーーん、全然違うかな・・



イスラム教やキリスト教は現在では世界の2/3の人口が信じている宗教なので、一般的なように感じますが、これは信者を増やしてきた、特にキリスト教は侵略で無理やりふやしてきたようなところがあります。本来の「宗教」というものからすると「唯一神」はかなり特殊なのです。

実際「唯一の神に絶対帰依すること」を求めている「唯一神」はエホバまたはアラーと言う名で知られているモノ(一柱)しかありません。ですから「宗教を持たない者」がこの唯一神の考え方を「一般的」と思うと、宗教的な理解の妨げになります。
 信者が多い、ということと「宗教の本質」は全く別のことだと考えて頂いたほうがいいと思います。

そのうえで唯一神の教えと言うのは「私の言うことだけしたがって、それに沿った行動だけしろ」ということです。これを「絶対帰依」と表現していますが、実はちょっと違います。唯一神信者の考え方ではこれは「契約」とされているのです。

旧約聖書の出エジプト記19章〜申命記28章は「神と民の契約」を具体的に書いています。この契約によって、民は神の言葉のみを信じ神の言葉通りに行動しますし、神はその代り彼らを選民として保護し安住の地を約束する、ということになっています。
これがいわゆる「モーゼの契約」であり、神が示した具体的な行動は律法として生きていて、預言者を通じて神の言葉を聞くという点では、キリスト教徒もイスラム教徒もこの律法に沿っている、といえるわけです。ただし、キリスト教とイスラム教はそれぞれの預言者(救世主キリスト・最後の預言者マホメッド)が表した新しい律令にしたがっていて、それを新約聖書・コーランと呼ぶわけです。

この契約という概念が重要なのは「契約そのものは対等なので、契約から外れることはできる」ということです。だから新たに入るものも含めて「改宗」は可能であるわけです。その自由意思を含めて「神との約束を守る」のが一神教徒であり、彼らがどこまで約束を守って人生を全うしたかの審判が最後の審判ということになるわけです。

仏教の場合、まず「帰依」という考え方に至るまでに紆余曲折があることを理解する必要があると思います。

元々仏教の本質は「解脱」にあります。解脱して悟りを開くことで「悩みと苦労の多い人生から解放される」というのが釈迦の教えの本質であり、本当の仏教は「自分で修業して悟れ」というものなのです。

この流れを継承してるのが「上座部仏教」と呼ばれる仏教で、主にスリランカと東南アジアの仏教国で信奉されています。これは悟りを開くために行う仏教であり、お坊さんは修行者であり、解脱して悟りを開くことを目指しています。社会においての位置づけは「社会の中で解脱を目指す求道者であり、彼らを支え、お布施などで協力することで庶民は功徳を得て、すくわれることができる」というものになります。
 上座部は仏僧=自ら進んで悟りを求めるもの、であり、庶民=それを支え悟りの恩恵を得るもの、であるといえます。どちらも「積極的に自分ができることをすればより高い次元に行ける」と言う点で自己努力であり、悟りに至ったとしても神や仏が判断しているわけではありません。

日本で信仰されている仏教は殆どが「大乗仏教」と呼ばれるものです。この仏教は上座部に対して「普通の人が悟りを得るために修業するなんて無理だから、そもそも仏というのは悟りを開いたものであって、誰でも普通に生活しながらちょっと実践すれば仏になれるはず」というものになっています。

これをもっと広範囲に楽ちんにしたのが「浄土宗」で「結局、なにを実践すれば悟りを開いて仏になれるかどうかなんて、庶民には分からないんだから、ただ念仏をとにかく一生懸命唱えていれば悟りは開けなくても極楽浄土に行けるよ」という方向性を打ち出したわけです。

この方向性で重要なのは「ただただ一念に念仏を唱えること」でありそれによって「阿弥陀如来が救ってくれる」ということで「南無阿弥陀仏(阿弥陀仏様ありがとうございます)」を唱えなさい、ということになります。
それに対して日蓮宗は「いや、お礼をいうなら法蓮華経のほうがいい。きちんと内容のある法華経の内容を理解しつつお礼を言うことで極楽浄土に行ける」という考え方を示したので「南無法蓮華経」になるわけです。
(法華経の正式名称が法蓮華経)
このように、常にそれに感謝の意を表し、その内容を理解することが帰依であるわけです。ここには契約という概念はなく「感謝することが大切」であり、そこから「救い」という仏の本質が得られる、というのが他力本願になっていくとされています。


 唯一神との契約は確かに「自力本願」とはいえるでしょう。自分でその契約を選び、その内容について努力するわけですから、自力本願です。辞めることもできるし、さぼることもできる、でも契約である以上その結果を判断するのは神ということであるわけです。

大乗仏教の考え方はこれと異なります。なにが異なるかというと「どうなるかは分からないが、仏の力を信じよう」ということです。
契約というのは「これこれをやりなさい・これこれはしちゃダメです」と言う内容があります。だから聖書(コーラン)があって、そこにやるべきこととやってはいけないことが書いてあります。これを「律法」と呼ぶわけです。
で、この律法に沿って審判が行われて、神が判断するわけですが、いくら神と言っても律法に従っていればOKとしか言えないわけです。契約というのはそういうものです。

「仏の力を信じて念仏を唱えること」にはこういう契約の概念が一切ありません。
でもそうなると、「じゃあなんで信じるの?なんで念仏を唱えると極楽浄土に行けると思うの?」という質問が必ず出てくると思います。

そもそも人がなぜ神(仏)を信じ、祈るかと言うと「現世でいい暮らしができるか、せめて死後は苦しみたくない」と思うからです。そのために「祈る」のであればこれは自力本願であるといえるでしょう。神仏が救ってくれる、というのは「良い点数をとればいい大学に入れる」というのと同じで、そこで行う行動(祈りや勉強)は自分で自分を良い方向に持って行く努力だからです。

だから「実際にはすくわれるかどうかわからない」なら祈らない人もいるかもしれません。でも、人が生活をしてお坊さんの話を聞いたり、自分の周りで不幸や幸せなことがあったときになにか精神的に「ハッと気が付く」ことがあるはずで、その時に「南無阿弥陀仏(南無法蓮華恭)」と唱えたくなるなら、これは「仏様が自分に唱えさえているのだ」ということであり、なんとなく「唱えることでいいことがありそうだ」というのは、仏の慈悲であり、自分から唱えるのではなく仏様が唱えさえている、と気が付くことが大切だよ、という考え方をしているのです。
これが「帰依」ということであり、御仏の力は偉大だ、だからお救い下さるはずだ、ということになるのです。

ここには神との契約と言うものはありません。こうすればこうなる、と言う前提ではないからです。非常に禅問答的な内容になってしまうわけですが、宗教を「信じる」という概念無しに説明すると、歴史的な経緯と違いを含めつつ、哲学的な差で理解していただくしかないのかな、と思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

たしかに「神との契約」という考え方は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の根底にある考え方で、その点は仏教とは根本的に違いますね。

お礼日時:2017/10/16 14:57

そもそも単神教は唯一神という絶対的な判断基準があり、キリスト教等含めて根本的な考え方は全て同じです。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2017/10/14 20:20

そもそもたんしんきょう

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