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1. 日蓮についてのひとつの解釈をめぐって問います。

2. 《南無妙法蓮華経》は 普遍神ではないのか?

▲ (創価学会公式サイト :南無妙法蓮華経) ~~~~~~~~~~~~
 http://www.sokanet.jp/info/kmav7s0000006eb8.html

3. 「南無妙法蓮華経」とは、日蓮大聖人が覚知し、自身に体現した、宇宙
と生命を貫く永遠普遍の根本の法です。そして、本来、万人の生命に具わる普
遍の法でもあります。

4. 日蓮仏法の実践は、この「南無妙法蓮華経」の題目を御本尊に唱え、祈
ることが根本です。これにより、誰人も自身の内なる仏の生命を開き現し、生
命が浄化され、苦難を乗り越える力強い生命力を引き出すことができます。

5. 「南無妙法蓮華経」には、“宇宙と生命を貫く仏の生命を根本として生き、
自身の生活・人生の上に仏の生命を発現させていく”という意味が含まれていま
す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

6. 《永遠普遍の根本の法》とは 人間の考え作った法律やナラハシとは基
本的に別のもののはずです。つまり 神の法(ダルマ)であり 取りも直さず
《普遍神》と呼んでわたしたちが捉えることになるものではないか?

7. 普遍神を具体的に呼ぶひとつの名前であるはずだ。つまり ブラフマン
やアミターバ・ブッダや あるいはヤハヱ―やアッラーフそしてクリストス 
さらには《無い神》(ゴータマ・ブッダの言う《 無我(アン‐アートマン)》)
といったいくつかの名前とまったく同じことではないか?

8. (4)に言う唱題や祈願なる実践は 普遍神の信仰にとって すでに経
験的な思考と行動の場に出て来ているからには 信教・良心の自由にもとづき 
人それぞれに自由ではないか? いろんな実践があってよいはずではないか?



▲ (同上:日蓮大聖人) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.sokanet.jp/info/kmav7s0000006e7x.html

9. 日蓮大聖人は、当時の諸宗が用いた仏教の教えが、万人成仏を説く法華
経を否定し、人々の無明(生命の根本的な迷い)を増幅させていると捉えまし
た。そして、人々が無明を乗り越え、幸福で安穏な社会を建設できる根本の法
こそ「南無妙法蓮華経」であると説きました。

10. 度重なる弾圧という最悪の状況下にあっても、日蓮大聖人は揺るぎな
い金剛不壊の生命境涯を顕現しました。言い換えれば、人間自身が気づいてい
ない生命本来の偉大さを体現することによって、万人成仏の道を開いたのです。
ゆえに創価学会では、日蓮大聖人を「末法の御本仏」として尊崇しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

11. 端的に言って オシヘは 個人における主観内面なるわが心の庭にい
だく信仰とは――なぜなら 信仰は 非思考ゆえ――まったく別であるはずだ。
だから (8)にも触れたとおり 経験的な実践や社会生活とも信仰は 別で
ある。

12. つまり:
▲(10) 人間自身が気づいていない生命本来の偉大さを体現すること
☆ これは――経験事象であるからには―― 生命力が信仰をとおしてもまだ
実現せず人びとから厭われるような状態や境遇にあって生きる人間にも あり
得る。
――という前提があるはずだ。
この前提がすでにこの時点で明らかになる表現を 織り込んでいなければなら
ないのではなかろうか?




▲ (同上:自他共の幸福の実現へ) ~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.sokanet.jp/info/kmav7s0000006eow.html

13. 日蓮大聖人は、「立正安国論」の中で、「自分の幸福を願うならば、
まず周囲の平和を祈るべきである」(趣意)と述べています。個人の幸せは、
世界の平和と安定なくしてはありえないからです。

14. また、日蓮大聖人は、「人のために火をともせば・我がまへ(前)あ
きらかなるがごとし」とも述べ、他者のために行動することは、自身の成長を
ももたらすと説いています。
こうした思想のもとに会員は、積極的に他者に関わる生き方を通して、自他共
の幸福の実現を目指しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

15. 普遍神とわれとの関係(つまり どんな名前の神も互いに同等であり 
あるいは有神論と無神論とがやはり互いに同等であるような信仰のかたち)に
あっては:

  《われも生きる。なんぢも生きる。かれも生きる》

これが――もし実践の方針を言うとすれば―― 基本ではないか?

16. つまり 《隣人を 自己と同じように 愛する》が 基本方針になる
のではないか? 揚げ足取りになったら この問いは忘れてくださいですが 
たとえば:
▲(14) 積極的に他者に関わる生き方
☆ と言う場合には単純に言って 人から《余計なお世話ぢゃ。出しゃばるな
かれ》と――正当にも――言われかねないはずです。自己より他人を先に重ん
じるとすれば それは ほんの一秒のあいだ先に他人(ひと)を思うといった
かたちの実践にならざるを得ないのではないか?

17. ▲(13) 個人の幸せは、世界の平和と安定なくしてはありえない
☆ この行動方針は つねにと言ってよいほど 手前の都合に合わせた思いと
振る舞いを敢行するためにその隠れ蓑に使われて来た常套文句ではないだろう
か? 

18. 哲学であるなら このうたがいも哲学であるからには すでにこの命
題を表現した時点で但し書きを添えているべきだ。揚げ足取りのたぐいではな
いと確信するのですが どうでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • ★ こういうところ
    ☆ と言ったって あんたも こういうところにいるぢゃないか。

    あたま・・・


    みみずのたわごとを・・・

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/04/21 14:17

A 回答 (17件中1~10件)

「トランプに日蓮が取り付いているようだ」との表現は、不快に思う人がいるかも知れません。


ただ単に行動する人、との思いを言っただけなんです。

親鸞の救いの念仏に対して日蓮のは、より良く生きる為の唱えのように思います。
よくスポーツする人が良い結果を得る為に、自身に暗示をかけるような効果があると思います。

だから「力強い生命力を引き出す」というのは間違ってないでしょう。
ただ、普遍神の一面の表れであるとも思います。

日蓮を表とすれば、親鸞は裏というわけです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

元気づけることは あるのだと思われます。ということ
ですかね。

お礼日時:2017/04/24 20:33

信仰(一般的用法の)は、主義・主張となって争いの元になり易いですね。



母とその幼な子の間には堺、壁が無いけれどそのように「普遍神」というのは、神と人とのあいだに垣根が無い、という事だと思っています。

トランプに日蓮が取り付いているようだ、、、
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「普遍神」というのは、神と人とのあいだに垣根が無い、という
事だと思っています。
☆ そして そのように《神とわれとのタテの関係》が成っているな
ら そのようなそれぞれの《われ》は互いに 同じく垣根が無いも同
然なのだと思っています。

お隣さんとのあいだに垣根はあってもよいのですが いつでも自由に
通ることができるようになっているのだと。

そのような《われ》は おのおの きよらかなおそれを抱いていると
思います。

お礼日時:2017/04/24 20:31

やはり、生命の根本は仏性と云えるのではないでしょうか。


それが「個」となる故に、自分を生かす「我」が成長していくのだと思います。
その「我」には内に秘めた情的要素と理的要素が有って、その成長の偏りが、親鸞を生み又日蓮を現わすのでしょう。

日蓮は物事の半面を教義としているように思います。
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この回答へのお礼

末尾の一文には 半分 違和感がありました。

ご回答をありがとうございます。


つまり 信仰の実践は措いておいて 神論のみを取り上げるとするなら
ば けっきょくみな同じなんです。

ブラフマン神も アミターバ・ブッダもそして 南無妙法蓮華経なる生
命のチカラも 神として 普遍神である。普遍神をそれぞれに名づけた
という違いだけなのだ。と考えます。

ほかの地域の人びとの神についてもです。



★ 日蓮は物事の半面を教義としているように思います。
☆ 教義だから 違和感を感じるいわれはないのかも分かりませんが
要するに日蓮の弱点は おのれの神――妙法――が他に抜きん出て優れ
ていると言い出したことだと思います。

普遍神のひとつだと捉えるだけではなく 自分の神こそが唯一絶対だと
言って 取り合わない(人びとと話し合わない)ところが 問題なのだ
と考えます。

なかなか《他宗》の人びとには耳を貸さないという態度が すでに多か
れ少なかれ かたちづくられているように思います。

自分たちの神こそが 唯一絶対だと言うのなら そのことを哲学として
論証して欲しい。と思います。

お礼日時:2017/04/24 12:29

お題目は言葉なので、理的と解釈してみています。


念仏は如来そのものを念じる事なので、情的と云えると思っています。
だから、親鸞の念仏と日蓮のお題目は、情的と理的との違いがあると言いたいです。

母親を思う気持ちと、父親を慕う気持ちの違いの様にも思います。

父の要素も母の要素も含まれてこそ、普遍神と云えるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

まぁ そういうふうに言ってみることも あるのかなとは
思いますが 実際には どうでしょうかねぇ。

ご回答ありがとうございます。


たとえば 念仏称名にしろ唱題にしろ そのときの態度や
心のあり方は さまざまではないのですか?

無心である場合や ただの習慣でおこなっている場合や
あるいは ほんとうに悩みを持っていてしきりに願いを込
めている場合などなど。

理的・情的の二分法がお好きなようですが 竹を割ったよ
うには区別することは むつかしいのではないですか?



★ 父の要素も母の要素も含まれてこそ、普遍神と云える
のではないでしょうか。
☆ これは 一般性を持つご議論だと思います。

いわゆるキリスト教は 父の宗教だと言われていますが
実際には 聖母マリアの崇拝が 到るところで見られるよ
うです。

日本教は 母の宗教だとも見られているようですが 父の
要素が無いということではない。

隠れていても 存在して思われていること(父と相対して
子たる自己の位置づけをおこなったりすること)が ない
というわけではないのですから。




同じリンク先での次のような項目についても 考えてみら
れてはいかがですか? 短いものです。

▲ 人間革命の実践
http://www.sokanet.jp/info/kmav7s0000006eld.html

お礼日時:2017/04/24 12:06

公明党をめざしました



まもなく

自民にとって変わります

公明党我らの創価は不変ですよ

ああそうかい
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この回答へのお礼

♪ ああ こりゃこりゃ ♪

お礼日時:2017/04/24 03:57

非思考=感性



この世の二面性。(2次元?)
有と無。
表と裏。
雌雄。
そして理と感。

理の届かないところに感がある。

なぜ、非思考という考えが現れるのでしょう。

親鸞の感に対して日蓮の理と、あえて云ってみたい。
日蓮は義の人。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

非思考の庭(信仰)は 理性(思考の緑野)と感性(感性の原野)を超えています。どうでしょう。

○ カミと《わたし》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【?(非知)】:非経験の場(絶対):生命なる力:カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【わたし】:経験存在(相対):いのちなる自然本性:カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)



○ 《わたし》は 人間であり 信じ・考え・感じる主体である。 ~~~~~~~~~~~~~~

【信じる】:非思考の庭:クレド( I believe. ):梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
                      〔生命力;知性(知恵・知識・倫理)の源泉〕
                      〔元気; 原知解(原科学)・原倫理(良し悪し)〕
                       ↓    ↓          ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       ↓    ↓          ↓
【考える】:思考の緑野:コギト( I think. ):健全・ヒラメキ( inspiration )  ↓
【感じる】:感性の原野:センスス・コムニス:健康・           ヤマシサ反応(良心)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2017/04/23 01:48

正反対、でした。



親鸞の内向きに対して、日蓮は外向きですね。
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この回答へのお礼

了解です。


★ 内向き・外向き
☆ これは 内面を重んじるかどうかで分けるということでしょうか。

外向きの場合というのは かたちから入るといった行き方があるよう
に まづ行動する――しかも相手に向き合って行動する――という意
味では 内面をも重んじる割りには 外向きであることを優先させて
いるかに見られるようです。

と思います。

お礼日時:2017/04/23 01:35

日蓮上人は親鸞の生反対。



《義》で作り上げられているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ええ。それは そうですね。

つまり 日蓮の場合 信仰ないし信心をほとんど優先させている
ように見えますが 実際は必ずしもそうではなく その信心の根
拠を 仏教教理ないし生命哲学の内容――つまり 《義》ですね
――に置いていると思われます。

したがって その思想内容のほうが 実際には 信仰よりも重要
視されているように見えます。

そういう意味では 《理》が先立っていて しかもその理につい
てのつよい一念が かたちづくられるようです。

わるく言えば思い込みです。よく言えば 理念を大切にし実践し
ようとするといった行き方ではないでしょうか。

お礼日時:2017/04/23 01:31

《無い神》は言葉に出来ないはず。


依って、南無妙法蓮華経は普遍神では無いと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ええっとですね。次のように考えてみてください。


   神          神          神
   |          |          |     タテ
  (非思考)      (非思考)      (非思考): の   :(信仰)
   |          |          |     関係
   |          |          |
  われー(思考・感覚)ーなんぢー(思考・感覚)ーかれ : ヨコの関係:(オシヘなど)


☆ こうだとしますと 神はみんな普遍神なのです 一応は。なぜなら
思考に非ずのカカハリですから 神の中身は分からないのですし しか
も有るとも無いともやっぱり分からないからです。

ただし そこらの魚の頭を持って来て これがおれの神であると言って
も それは オフザケとして扱われるだけのことです。魚は 思考や感
性の対象であるからです。

つまり ヨコの関係にあって オシヘや思想は 人間が考えるものです。

そこで 神について何とかみなに共通の認識が得られるようにと思って
言葉で神を説明しようとするとき それは 神は 《有る神》と言って
も《無い神》と言っても どちらも同等であるというかたちで その説
明を形成することになるのだと思います。

そのようにしか説明できない。非思考ゆえ。


また ちなみに 信仰はタテの関係として成り立つものであるゆえに
いわゆる良心・信教の自由という公理が持ち出され これがみとめら
れているのだと思います。非思考ゆえ ほとんど証明抜きでみとめら
れています。


ヨコの関係における宗教のオシヘは 思想であり経験思想ですから互
いに相対的な意味合いを持つだけのものです。

おれのほうこそ 唯一絶対だぞと互いに言い合っていますが そのこ
とに結着がつくはずがない。相対的な意味合いの内容なのですから。


タテの関係における信仰は 別の意味でやはり互いの神の優劣は つ
くはずがない。

つまり 思考に非ずなる対象を問題にしているのですから 人間が思
考によって決められるはずがない。

だから いちおう筋がとおっているなら どんな名前の神でも・そし
て《無い神》であっても それぞれが普遍神であると 一般にみとめ
られる。というわけです。

お礼日時:2017/04/21 20:19

折伏、に疑問が生じます。

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この回答へのお礼

(16)以降に論じましたが:

▲(14) 積極的に他者に関わる生き方
☆ の具体的な実際の中身が どうか? なのではないでしょうか。

まぁ ふつうのまともな対話と そして 相手の心にいわゆる土足で
入って行きかねない態度としてのマジハリ方。

これらの区別がしっかりと出来ているか? でしょうか。


あるいは 折伏に対しては こちらもしっかりと折伏をするんですけ
れど 相手は聞く耳を持っていないとしたら そういう意味での《マ
イナスの――もしくは ひねくれた――他者とのカカハリ方》も問題
なんでしょうね。

日蓮の文章にも どこか現われているかに見えるから 不思議です。

お礼日時:2017/04/21 19:43

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