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【関ヶ原】映画で 冒頭

今 朝鮮との戦いから帰ってきた→豊臣秀吉時代。

自分の知ってる朝鮮は、明治時代以降の 汚い
乞食のような生活をしている 中国の奴隷化した 学もインフラ整備もされてない朝鮮。

日本が 学を学ばせた 韓流映画では、あり得ない話。


なら 豊臣秀吉時代に 戦いに行った朝鮮は、国があり 城があり 文化があり、戦うべき程の ものだったのでしょうか??

A 回答 (7件)

日本の対外戦争は、常に補給を軽んじています。

日露戦争は例外的に、児玉源太郎の様な軍人の為、良く補給が続きましたが、2度にわたる秀吉の朝鮮出兵も、悪弊が出ました。瀬戸内海や沿岸航行の船での補給は、とても20万からの兵士の補給は不可能です。

貧しい朝鮮半島は、奪う食料も少なく、遠征軍の兵士は、当然食料に困り、そこに明の反撃が有れば、とてもまともな戦闘になりません。それでも遠征軍は勇戦し、朝鮮、明連合軍に痛撃を与えつつ、補給の可能な地域に撤退し、橋頭保を確保していたのです。

小西行長や石田三成等の外交団では、500年もの間朝貢国として生き続けた李王朝との駆け引きは、勝負になりません。作戦も何もなく、補給も殆どない状態で、2度目の遠征も餓死寸前にまでなりながらの遠征軍の善戦は、前大戦の将兵そっくりです。餓死しなかったのは、明と朝鮮の水軍の弱さの証左で、何とか撤退出来た為です。この為、遠征軍の将兵は、反石田となり、関ヶ原になだれ込みます。

遠征軍の強さは、並のものでは無く、鉄砲の数と性能は世界屈指で、救援の明軍は大打撃を被り、やがて国内は内乱が猖獗を極め、遂には満州族に助けを求め、明国は自滅します。秀吉がボケていなければ、国内の戦いと同様、万全の補給を考え、明に壊滅的な打撃を与えていたでしょう。それで明が滅びたかどうかは、秀吉の寿命から考えれば、否としか言いようが有りません。しかし徳川の天下が到来したかどうかは、興味が付きません。
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この回答へのお礼

秀吉に15歳を、超える息子でもいたら
江戸時代は、無かったでしょうね。
その代わり 戦国時代を終結させる 政治や参勤交代など
考えたかが問題。

お礼日時:2018/09/23 09:48

豊臣秀吉は挑戦など眼中にありません。

相手は明でした。
問題は加藤清正以下現場が全くやる気が無かったことです。大陸に巨大な領地を貰うより都の近くに少しでいいから領地が欲しい、というのが実態だった様です。
海上輸送の問題はありますが、当時の日本は世界最強と言っても過言ではないと思います。
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それなりの国があり 城があり 文化がありましたが、


戦うほどのものではありませんでした。

秀吉の目的は明を服属させることで、朝鮮は通り道にあったから攻めたもの。
厳密には朝鮮を目的としたものではありません。
これを仮道入明と言います。
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%AE%E9%81%93%E5%8 …

秀吉は明を攻めるために朝鮮側に対して事前に協力を依頼しましたが、
秀吉に会った正使が秀吉を軽視した報告を挙げたため、
(ちなみに、副使は注意喚起をしましたが取り上げられませんでした)
事前にろくな準備を行うことがなく、開戦から3週間で漢城(首都)が陥落、
王子が人質になり、王は民衆を見捨てて逃走してしまい、
奴隷が蜂起して漢城は火の海になりました。

朝鮮出兵の敗因の一つが、現地調達がうまくいかなかったこと。
朝鮮軍があまりにも弱くて一気に戦線が拡大したところに
明の来援で戦闘が本格化しましたが、碧蹄館の戦いのように、
それなりに負けない戦いはしていました。
しかし、あまりにも貧しいので日本からの補給線だけでは
戦線が維持できなかったためです。(ほかにも理由はあります)
また、朝鮮の城もないわけではありませんが、後世(18世紀)の水原華城に
行けばわかるように、防護壁がハードルくらいの高さしかなく
攻守に十分ではなかったので、日本側が独自に城を築きました。
これらを倭城といいます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9F%8E

韓国では、あまりの負け戦のうち、唯一といってよい例外が李舜臣で
「鳴梁」(バトル・オーシャン 海上決戦)などで映画化されるなど
英雄視されています。
しかし、実際の鳴梁海戦では、朝鮮水軍の撤退した鳴梁海峡は、
日本水軍の制圧下に置かれたのですが、韓国では大勝利と誤認しています。
朝鮮側の勝利といえる玉浦海戦も、韓国で言われるような大規模ではなく、
地方の小規模海戦で補給線もほぼそのまま維持されていました。
乱中日記によると、李舜臣自身は負け続きで国からの支援がないのに
不満たらたらでしたが、韓国の歴史家は読んでいないようです。

文禄・慶長の役の時の捕虜が創始したのの一つが伊万里焼などの焼き物で、
それまでの陶器と違う磁器として発展しました。
このように、まったく文化がなかった訳ではありません。

残念ながら、現在の韓国は李舜臣にみられるように歴史を都合よく
解釈するので、歴史的遺物の復元にはよりかっこよく修正します。
なので、今の韓国に行って立派な建物を見て安易に
「それなりの技術や文化があった」と思うのは早計です。
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この回答へのお礼

NICEな回答
ありがとうございます。
それが
聞きたかったんです。

お礼日時:2018/09/18 05:32

韓国、ソウルに行ったことがあります。



宗廟という李氏朝鮮王朝のでっかいお位牌みたいなもの(現地のガイドさん談)で、お墓とは別にお仏壇代わりに子孫が礼拝する場所だったそうです。

かなりの規模であり、建物も立派ですから「それなりの技術や文化」が(たとえ明の技術移転だったとしても)有ったのは確かでしょう。

ちなみに、そのガイドさんが言うには、宗廟の前の今は公園になっているあたりまで秀吉軍は攻め込んで、野営していたそうです。宗廟のような王朝にとって大切なものも守り切れなかったわけですから、朝鮮軍はやはりそれほど強い軍隊ではなかった、ということでしょう。

ただ、李氏朝鮮は500年ちょっと国を支配した王朝ですから、それなりに戦うべきものはあったといえるでしょう。
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韓国の時代劇は全て空想ファンジーです。

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この回答へのお礼

まぁ それは 知ってましたが。
わざわざ 朝鮮まで 行った
豊臣秀吉時代の朝鮮が、気になり^_^

お礼日時:2018/09/17 11:49

別に秀吉はわざわざ朝鮮を相手にしたわけではありません。

 当時世界の8割を植民地化していたスペインが、明も征服して足がかりにし、一気に日本を攻めることを防ぐために、明に侵攻して、日本の支配下に置こうとしたのが、秀吉の目的です。 当時の朝鮮は明の属国であったため、秀吉は日本の属国に鞍替えするよう朝鮮に迫りましたが、朝鮮がそれを聞き入れず明にすがったため、朝鮮半島に攻め入ったものです。 日本軍は朝鮮の首都の漢城(今のソウル)を一挙に落としましたが、明軍が出てきたために双方に決定的な戦果のないままこう着状態が続き、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息しました。 確かに、明の属国ながら当時朝鮮には国があり 城もあり 、それなりの文化もありましたが、朝鮮単独なら日本の敵ではありませんでした。
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この回答へのお礼

なら 韓流映画的な 時代劇はありましたか?

お礼日時:2018/09/17 10:52

一応どれもありました。

秀吉は明(中国)への侵攻を目論んで朝鮮国に対して通過を求めたところ拒否されたので戦になったのです。明国からみたら日本軍通過を認めるのは侵略軍への協力で裏切り行為になる。日本軍が朝鮮に上陸して朝鮮軍との戦争になるのですが当時の朝鮮民衆は朝鮮王の悪政からの開放者ととらえて、日本軍に道案内やしたり反乱をおこしたりして積極的に協力したりしたこともあって日本軍の進撃速度もあがりました。漢城に日本軍が迫ると反乱の気運もたかまったこともあって朝鮮王は日本軍が来る前に明に逃亡。その後の経過は省きますが、その戦争で当時日本では上手く作れなかった磁器を制作できる朝鮮人陶工等が日本に招聘または連行され、伊万里焼や有田焼等の礎になりました。徳川幕府になると対馬の宗氏の活動で講和となり朝鮮使節が来日したとき彼等の帰国を促したところ朝鮮人陶工の殆どが朝鮮の職人への待遇の悪さを理由に帰国拒否(日本は彼等を厚遇した)帰国した者もやはり待遇の悪さで日本にもとった者もいた。そんな彼等の子孫の一人がA級戦犯の東郷茂徳(本名パクムトク)。朝鮮にしてみれば日本がいくら強くても中国を征服できるだけの力があるとは思ってないだろうから、後で中国から受ける報復を考えると日本に迎合する選択肢はなかったとおもいます。
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