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哲学の認識論の勉強を少し前に始めていますが、いやいや私には難しい。

『私がいて友人Aがいたとします。私は主観でもって友人Aを認識する。しかし、
客観的には友人Aが存在するかどうかは分からない。
逆に、友人Aは私と同様に自分の主観でもって私を認識する。しかし、客観的には
私が存在するかどうかは分からない、と。
これだけでは、なんだかとても矛盾しているようでよくわかりません。この後、哲
学ではどういう理論が展開されているのでしょうか?』

質問者からの補足コメント

  • 以前、このあたりのことを質問をし、ある方に回答をいただいたのですが、
    私のレベルでは消化不良に陥りました。その後、所有する哲学辞典を読んで
    見ましたが、やはりよくわからないので、改めて質問を立てたということで
    あります。

    要は、「哲学的な」カントらの理論を分かりやすく教えてほしいという質問
    です。

    しかし、興味深い質問をいただいていますので、またあれこれ考えてみたいと
    思います。

      補足日時:2019/04/12 14:52
  • 主観・客観は哲学的に大変複雑です。
    分厚い辞典で調べてみてください。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/04/14 00:09

A 回答 (11件中1~10件)

二段ロケットで考える回答を述べます。




《認識》とは 《知る》ことです。

知ったらその――有限で相対的な――経験知で ものごとの存在を
規定し 確定させます。

同じものごとをあらためて知ったとき その知にもとづき以前の認
識を修正したりあるいは増幅したりします。

この知解の過程が――それは限りなく続きますが――《客観》です。




けれどもそのような変な無限の過程は おもしろくない。と思って
なのか ひとは これの近似値を求めるようになりました。

そして あるいは 清水の舞台から飛び降りたかのように(へんな
タトへ) 超経験の場へと飛躍しました。


近似値は 《実無限》と言うのだと思います。《可能無限》を人間
がそう処理した値であると。

超経験は 《真無限》と 想定上 呼ぶようです。



真無限は あったらそれは 絶対性です。

客観というのは ですから事実認識について その真実性に程度の
差があるばあい――あるのですから――なるべく間違いのない内容
のことを言うのだと見るしかないように思います。


絶対性は 主観や客観をも超えています。
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この回答へのお礼

>《認識》とは 《知る》ことです

>知ったらその――有限で相対的な――経験知で ものごとの存在を
規定し 確定させます

>同じものごとをあらためて知ったとき その知にもとづき以前の認
識を修正したりあるいは増幅したりします

>この知解の過程が――それは限りなく続きますが――《客観》です

ということですね。

無限・絶対は哲学的に難しいので、少し考えねばなりません。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/04/22 23:27

と云う事は、自身の心さえ信じることはしない、出来ない、と云う事ですよね。



認識は認識ではない?

ニャンポコさん、何を怖がっているんですか。
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この回答へのお礼

私は、自分の存在も、友人Aの存在も、客観的にあると信じています。
(どこかに書いてあります)

ニャンポコさんが怖がっているのではなくて、認識論ではそういう理論に
なるということですよ。

お礼日時:2019/04/15 00:47

私がいて、友人Aがいる。


私にとって友人Aは客観物=客体である。
私は友人Aを客観物としてその存在を認めているが、これは私の主観に依るものだ。
この主観は私だけのものだから、私以外のものにとって、友人Aが存在するかどうかは疑わしい。

これでどうでしょうか?
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この回答へのお礼

私は友人Aを主観において認識しているが、認識の妥当性を主張できない、
あるいは、認識の妥当性を主張する権利を持たない、というのが認識論的な
言い方のようです。

お礼日時:2019/04/14 22:49

今回のcyototu氏の回答は難しいです。



主観、客観は認識と云う言葉ほど複雑では無いように思います。
客観は、主体から離れて存在する外界の対象。
また、第三者の立場で見たり考えたりする事。
で、良いと思いますが。

質問で取り上げた文章が変だ、というだけではないでしょうか。
おかしな文章です。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

まあ、そうでもないでしょう。

お礼日時:2019/04/13 17:07

私は認知科学については言葉を知っている程度です。


素人回答でもよければ少し追記。

自分自身をよく観察。

ちょっと飛びますが、自分の中の本能が養育、教育により歪められていないか、時間を掛けて、体験的に、時には酷い感情や不快感で涙したりして調査する経験も必要だと。私の場合はそうでした。

身体の機能面から見れば、基礎としてこんなのがあったとうろ覚え。
sensory, perception, cognition, conceptualization
早大通りの古書店の本で読んだかな。でも記憶違いかも。

/////
私は 背伸びして 中身増えずとも 空きが出来る それが次の余力に

天下り式に教えられたことは案外脆い場合もありますね。
実体験から気づいた事は強い。
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この回答へのお礼

>自分の中の本能が養育、教育により歪められていないか

哲学的に、非常に重要な視点だと思います。

>時間を掛けて、体験的に、時には酷い感情や不快感で涙したりして調査する経験も必要だと

とても、ストイックですね。

認知科学という学問は、新しいだけに、とても魅力ある論理が展開されているみたいですね。

>私は 背伸びして 中身増えずとも 空きが出来る それが次の余力に

背伸びしても、上滑りしなければいいと思っています。
その「滑り」を楽しんでいるのなら、それはそれで。
時代に乗って滑ることは楽しいし。

でも、昔から「年寄りの教訓」というのがあって、私も聞くようにしています。
それは、実体験で検証されたものでありますから。

お礼日時:2019/04/13 13:09

もう少し、質問文で、どこがわからないかを記載した方が良いと思います。


質問文の例では、認識論的には「分からない」のでは無く、認識の妥当性を主張できないだけですよね?(カント流に言えば、権利をお互いに持たないと言う事でしょう)
そうであるなら、認識を主張する権利をどのように得るかが、カント流の認識論につながると思います。
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この回答へのお礼

哲学を知らなかった私は、どうせ哲学本を読んでも分からないだろうと
思い、ここで哲学を覚えようとしました。

そして、知らず知らずのうちに哲学とは、言葉を要約して、はっきり言
わないようにするものであるという認識をしていたようです。

読み返してみると確かに、不親切な文章が多いように思えます。

お礼日時:2019/04/13 11:47

友人Aが犬を連れていたとしましょう。


犬は飼い主Aを見あげて顔色を窺い、飼い主はそれに気付いて落ち着かせようと、頭を撫でる。
それを見ている私は、嗚呼、犬と飼い主はお互いに認識し合っているんだなぁと、受け止められます。

こんな事以前に、私と友人Aとの対話が成り立っている時点で、Aが私を認識しているかどうかを疑う事こそ不自然です。

客観と言う言葉をどう取り扱うか?
それが問題です。

文そのものに疑問を感じます。
客観的には分からない、って何を言おうとしているのですか?
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この回答へのお礼

主観・客観は難しいですね。

cyototu先生の回答がきているので、今夜じっくり考えてみようと思っています。

お礼日時:2019/04/13 13:19

客観と主観に関する哲学者の混乱の原因は、人類の手に入れてきた科学の成果に対する誤解に基づいています。

科学の科学たる所以は、我々の埋め込まれたこの世界で何が可能かを明らかにすることではなくて、何が不可能かを明らかにすることなのです。

*以前は、人間は肉体的訓練や精神的訓練で空中遊泳ができると考えられていた。しかし、ニュートンによる力学の発展は、それが不可能であることを明らかにした。

*以前は、物の移動が瞬時にできると考えられていた。しかし、アインシュタインによる相対性理論は、物の移動は光速を超えることが不可能であることを明らかにした。

*以前は、エネルギーと時間を掛け合わせた作用変数と呼ばれている量は幾らでも小さい値が取れると考えられていた。しかし、プランクによる量子論はその値に下限があり、それが、連続な値を取ることが不可能であることを明らかにした。

このように、科学の役割とは、この宇宙には生成不可能な事象があり、その不可能な事象とは何かを明らかにすることで、この宇宙の個性を明らかにすることなのです。そして客観的事実と言う言葉は、このようにこの宇宙に固有な不可能な事象に付けられた言葉なのです。そして、この不可能なことが明らかにされるたびに、人類は途轍もない技術や便利さを手に入れてきた。それに対して、可能な事象を論じている限り、客観か主観かという論争の決着をつけることは出来ません。

質問者さんの提示した例の、

>私がいて友人Aがいたとします。私は主観でもって友人Aを認識する。しかし、
客観的には友人Aが存在するかどうかは分からない。
逆に、友人Aは私と同様に自分の主観でもって私を認識する。しかし、客観的には
私が存在するかどうかは分からない

という言述に対する混乱は、客観と主観という言葉が、この世の中にある可能性に関する言葉であると誤解していることによって起こってくる混乱です。そうではなくて、客観と主観という言葉はこの世の中にある不可能性に関する言葉なのです。

果たして、この友人が客観的にいるのかどうかは、あなたとその友人の間で、各々が属していると思い込んでいる宇宙の中で、それぞれ不可能とされているものが何であるかに同意できるかどうかで判断できます。もし同意できるなら、その二人は同じ宇宙の中に客観的に存在していると結論できます。しかし、同意できないなら、あなたと友人が客観的に存在しているかいないのかの判断はできません。
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この回答へのお礼

重量級の回答をいただいたと思っております。

「主観・客観」については、哲学者によって解釈が違うことを知りました。
先生はこれをどう定義しておられますか?

お礼日時:2019/04/13 23:58

認知科学の本を読んだことありますか?

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この回答へのお礼

https://www.youtube.com/watch?v=mhI5PRhwgYU

そうそう、この動画を見て、苫米地英人という人を知り、認知科学
というものに興味を持ちました。
まだ、本を読んだことはありません。

お薦めはありますか?

お礼日時:2019/04/12 01:14

それでも、認識しているという主体、


つまり自分の存在は確かである。

これがデカルトの、我思う故に我あり
です。
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この回答へのお礼

デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本的原理である
「我思うゆえに我あり」。

デカルトはどう定義していたのか?カントは?我と我の間には
何があるのか?自分は何故自分なのか?

知りたいことは、山のようにあります。

お礼日時:2019/04/12 03:08

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