アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

☆ 例によって みなさん寄ってたかってのフルボッコなる批判をよろしくお願い致します。

 
1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。

2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という情況を前提にすると分かりやすい。(ヱ“ーダだか何だったかの請け売りです)。

3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理(ロゴス)と表現のあや(≒ミュトス)とで何とか説明しようとしたその見方である。

4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?

5. 《池》とは 何か?

6. ただし 《溜め池》というものを――まなびのための覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう。




7. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なるとすれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ――そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。

8. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを 共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。

9. ☆☆ ( bragellone :ブディズムの共業なる縁起へ) ~~~~~~~~
ゴータマ・シッダルタなる人が 真理(空=縁起)に到達し ブッダとなった。
   
空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と言って 関係性(相依相即性)
のもとに捉える。

その空の覚りが世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。
   
関係性としても存在する人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずして
おこなう。

慈悲は この世のあらゆる対立を超えているのでその空観のもとに 人は すべ
て 平等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮
することができるように ほんの少し 他人に対しても 声をかけたりするのだ。

10. ◆ ( bonbonnier さん:共業) ~~~~~~~~~~
共業についていえば、そのような慈悲の実践が、私たちのこころに何らかの形で
印象を留めるとしたならば、日々の振る舞いが尊いものになるはずです。

唯識派は瑜伽行の禅定の修行により、アーラヤ識なる心の働きを覚知したもので
すが、実践主体のこころの側面から縁起を観じたのですから、唯識派においては

  縁起とは阿頼耶識縁起(種子生現行・現行薫種子)とともに、
  アーラヤ識と他のすべての衆生のアーラヤ識との相依相即性の縁起

を説きます(竹村牧男著『唯識の構造』)。

・・・

共業とは、アーラヤ識間の相依相即性の縁起の覚知からの理論的要請から導かれ
た理論であるのか、それとも、何らかの禅定による覚知があったのかはわかりま
せん。しかし、深層心理学の理論に照らしてみても、真理性をもつ教えであると
思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

11. 人びとの《アーラヤ識どうしの相依相即性の縁起:共業》とは 何か?

12. けっきょく 出会いとしては 例のミラーニューロン現象よろしく対面の感覚から始まってやがて互いの意志および心が 受け留められ受け容れられてゆき 煮詰めた議論としては あたかも化学反応を起こすかのように 深層心理と言えば分かりやすいかと思われるように 互いに心の奥の心において 《池は要らないという空観を共有すること》ではないだろうか?

A 回答 (9件)

信じるも信じないも自由だが、無縁慈悲はある。

と言う結論で良い気がしてきました。遍くと言うことはそう言うことなのかも知れません。主体と客体、仏と衆生、神と人、救う側と救われる側があると思ったところで挫けた可能性が考えられます。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 信じるも信じないも自由だが、無縁慈悲はある。と言う結論で良い気がしてきました。
☆ けっきょくどちらかと言えば 形而上学になります。神観ですね。特殊な絶対性〔としての主観〕です。


★ 遍くと言うことはそう言うことなのかも知れません。主体と客体、仏と衆生、神と人、救う側と救われる側があると思ったところで挫けた可能性が考えられます。
☆ 無縁慈悲は 人間には不可能だという見方もあるかと思います。


古代ギリシャ人たちは 特別な言葉を持っていたようですね。

▲ 古代ギリシャ人が認識していた愛の種類 ~~~
https://www.cosmopolitan.com/jp/love/relationshi …

エロス(情欲的な愛)
フィリア(深い友情)
ルダス(遊びとゲームの愛)
アガペー(無償の愛)
プラグマ(永続的な愛)
フィラウティア(自己愛)
ストルゲー(家族愛)
マニア(偏執的な愛)
~~~

☆ 
ストルゲー;フィリア:衆生縁の慈悲
アガペー:無縁慈悲

お礼日時:2023/04/23 16:52

引用:他己実現は いかによき意図と行為であっても 相手の意志に尋ねて了解を得なくてはいけないと思います。

おしつけになっては ダメだと思います。

それはそうでしょう。知られずのうちにと言うのがベターと思います。

引用:神が人間に向けて勝手にハタラキカケをおこない 無縁慈悲のチカラが湧くようにせしめている。のだと思います。なぜかは 知りません。

しかしそれだと、無縁慈悲を受けられる人と受けられない人が出るのであり、無縁慈悲の特性と矛盾しているのではないのでしょうか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

☆☆ 引用:他己実現は いかによき意図と行為であっても 相手の意志に尋ねて了解を得なくてはいけないと思います。おしつけになっては ダメだと思います。

★ それはそうでしょう。
☆ はい。《余計なお世話ぢゃ》と言う人がいます。

★ 知られずのうちにと言うのがベターと思います。
☆ ううーん。――そうですね。わたしは 許可を取ったほうがよいかと思うのですが。



☆☆ 引用:神が人間に向けて勝手にハタラキカケをおこない 無縁慈悲のチカラが湧くようにせしめている。のだと思います。なぜかは 知りません。

★ しかしそれだと、無縁慈悲を受けられる人と受けられない人が出るのであり、無縁慈悲の特性と矛盾しているのではないのでしょうか?
☆ そこが 神の愛のびみょうなところだと思います。(知ったかぶりが 部分的に入っています)。

《風が思いのままに吹く》ように 神は ひとによってそのハタラキカケ(いまは 愛としての)をも籠の出鱈目模様のごとく選り分けておこなう。

このとき よい風が吹いた人にしても それを機にかえって自己を見失う場合があるかも知れない。

風を受けなかった人は かえってそれを機に 自己に到来し得てその真骨頂を発揮するようになるかも知れない。見捨てられたなら その見捨てられたということにおいて 見捨てられていなかった(!?)。

そんな単純なことではないかも知れません。出鱈目模様は もっと複雑なのかも。

▲ (パウロ:コリント後書 3:18 ) ~~~ 
わたしたちは皆、
① 顔の覆いを除かれて、
② 鏡のように主の栄光を映し出しながら、
③ 栄光から栄光へと、
④ 主と同じ姿に造りかえられていきます。
これは主の霊の働きによることです。
~~~
☆ まづ ① 社会的地位などのカザリやシガラミを取り除いて自己に到来する必要。
② あこがれまたは目標があるとよいかも。あるいは 補助線としてのオシへ。
③ 人間の歴史知性によって築いた文明(または 人間像)なる栄光から この経験世界を超え得るような単純に住みよい世の中という栄光へ。
④ ・・・

そのために 風は思いのままに吹く。かも。(なぜかは 分かりません)。

お礼日時:2023/04/22 17:51

ご引用のマラキ書の記述はちょっと解せないですね。

仮に胎児の時点でエサウに悪があったとしても、それを憎むのは全くおかしいような気がします。エサウが神の敵みたいな言い方じゃないですか。それとも、事実としてそうだったのでしょうか?一方で、仏に敵はいません。イエスも敵はいないと言うスタンスですか?

アース役という発想について:
私も昔考えたことがあって、それは自分をストローみたいな役割とするという者でした。繋ぎですね。

ご引用の新たなリンクについては、また読んでおきます。

引用:☆ ですから 無縁の慈悲のチカラが 絶対他力をとおしてわれにはたらくものと思います。

この無縁慈悲の力と言うのは、何処から、何故湧いてくるのですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ ご引用のマラキ書の記述はちょっと解せないですね。
☆ 人間の経験合理性では まったくおっしゃるとおりです。

★ 仮に胎児の時点でエサウに悪があったとしても、
☆ ええ。まづないと言うべきでしょう。

★ それを憎むのは全くおかしいような気がします。
☆ たぶん 神が憎むのは 兄エサウという存在であり この世におけるその位置・役割りのようなものをだと思われます。


★ エサウが神の敵みたいな言い方じゃないですか。
☆ 神に匹敵する敵はいませんから やはり世の中への影響のようなものを考えて それは よくない・憎むべきだということなのでしょう。


★ それとも、事実としてそうだったのでしょうか?一方で、仏に敵はいません。イエスも敵はいないと言うスタンスですか?
☆ イエスには 高等法院のお偉方を初めとして 敵対する人間が多かった。

ゴータマ氏には デーヴァダッタが敵対したんでしたか。

でも たとえば美女マーガンディヤーというめんどうな人間がいました。

エサウは けっきょく弟ヤコブの陰に隠れて生きた人間ですね。




★ アース役という発想について:
私も昔考えたことがあって、それは自分をストローみたいな役割とするという者でした。繋ぎですね。
☆ たぶん 一つの論点は 受け身か能動的かでは? 

他己実現は いかによき意図と行為であっても 相手の意志に尋ねて了解を得なくてはいけないと思います。おしつけになっては ダメだと思います。



☆引用:☆ ですから 無縁の慈悲のチカラが 絶対他力をとおしてわれにはたらくものと思います。

★ この無縁慈悲の力と言うのは、何処から、何故湧いてくるのですか?
☆ その昔 アブラム(のちのアブラハム)というぢいさんは 神から《故郷を去って行きなさい》と告げられ これを受け容れて出かけました。

行けと言われたから行ったわけです。行き先も分からずに。75歳にまでなっていて。

その後の結果として かれに無縁慈悲のチカラがはたらいた。と伝わっているというお話です。

キリスト者は ただバカみたいにこのアブラハムの人生経験を受け容れた者です。

それによって地獄に落ちるかどうか知りませんが 神が人間に向けて勝手にハタラキカケをおこない 無縁慈悲のチカラが湧くようにせしめている。のだと思います。なぜかは 知りません。

お礼日時:2023/04/22 15:08

なるほど、端的には、神に委ねると言う事なのでしょう。


最初に信仰があり、それが鍛えられて?疑いが除かれて、完成されると言うイメージでしょうか。完成された信仰があると、神は決して去らないのですか?

仏道においては、覚りを目指す人は、心を衆生(人々)に預け(委ね)ます。自分を信じ、衆生(人々)を信じて道を為すのが道の人です。
それは、相手が仏を全く信じないし頼らない、苦を知らない無明の衆生、存在しない架空の無縁の衆生であっても同じことだと思います。そこにおいて衆生と仏は平等であり互いに尊厳を保ち、対等であって、しかも修行者は、仏として為すべきことを為さねばなりません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ なるほど、端的には、神に委ねると言う事なのでしょう。
☆ まさに 《ゆだねる》だと思います。

★ 最初に信仰があり、それが鍛えられて?疑いが除かれて、完成されると言うイメージでしょうか。完成された信仰があると、神は決して去らないのですか?
☆ じつは きわめて不条理なことが言われています。まづいことは 早くきちんとお伝えしなくてはいけない。

神のエコヒイキです。

▲ (出エジプト記 33:19 ⇒ローマ書 9:15 )
神は あわれもうと思う者をあわれみ
いつくしもうと思う者をいつくしむ。
     
▲ (マラキ書1:2-3)
わたし(=神)は
〔双子の兄弟が母の胎内にいるときから兄の〕エサウを憎み
〔弟の〕ヤコブを愛した。
     
▲ (テモテ第一書 2:4 ) 
神はすべての人が救われることを欲したまう。

☆ 最後の聖句が どれだけエコヒイキぶりをやわらげることができるかですが。


★ 仏道においては、覚りを目指す人は、心を衆生(人々)に預け(委ね)ます。自分を信じ、衆生(人々)を信じて道を為すのが道の人です。
☆ 《悉有仏性》で 一闡提はいない。また アミタ―バ・ブッダの絶対他力を経由して 《自分を信じ、衆生(人々)を信じて道を為す》ことができます。

★ それは、相手が仏を全く信じないし頼らない、苦を知らない無明の衆生、存在しない架空の無縁の衆生であっても同じことだと思います。
☆ ですから 無縁の慈悲のチカラが 絶対他力をとおしてわれにはたらくものと思います。

わたしは この振る舞い(おのづからの)を 《アース(接地)役》と言っています。

★ そこにおいて衆生と仏は平等であり互いに尊厳を保ち、対等であって、しかも修行者は、仏として為すべきことを為さねばなりません。
☆ 次のアース役の質問で すでに《常不軽菩薩》をめぐる躊躇する側面に触れてしまっていましたね。《世間の屑》呼ばわりとして。

【Q:法螺吹きの効用について――心のゴミをきれいに処理する《アース役》とは?――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13429693.html

☆ ごみ清浄化再活性化工場などとも すでに呼んでいます。アース役のことをです。

正直に言って すでに発言していながら 手探り状態にあるとも言わねばならないと思います。

お礼日時:2023/04/22 03:25

それはつまり、神が味方してくれると言うニュアンスでしょうか?

    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうですね。神が われわれにハタラキカケをおこなうというのは その《絶対他力》がびみょうなありさまを見せるのだと思います。

聖書のほうに重心を移しますが・・・。

▲ (ヨハネ福音 3:8 ) 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。
☆ 《霊から生まれる》すなわち往相において 往生へとみちびくというハタラキカケにしても 絶対他力は われわれの知らないところで勝手に働いている。というのです。

では 還相において どうか。たとえば次のごとく語られます。

▲ (同上 14:12 ) わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。
☆ 人間が《イエス・キリストよりも大きなわざをおこなう》にしても 神ないし聖霊のハタラキによるということは大前提ですが そのとき能動性ないし主体性がその局面を変えてくるといったことではないかと考えます。

還相ではなくまたすべて受動性ではないかとツッコミを入れたくなるのですが たとえば次のような解説:

▼ (アウグスティヌス:おとなの食べ物) ~~~
そのときはるかに高いところから

 私はおとなの食物だ。
 成長して私を食べられるようになれ。

 食べると言っても 肉体の食物のように
 おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

 逆に おまえが私に変わるのだ。

というみ声を聞いたように思いました。
  (『告白』 7:10 山田晶訳)

▲ (同:ヨブの試練) ~~~
神はヨブが試されることを悪魔に許した。

ヨブは試された。
悪魔は困惑させられた。

ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

ヨブは言っております。

 主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
 主の御名はほむべきかな。(『ヨブ記』 1:21 )

と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (『共観福音書説教』 マタイ 説教 91 茂泉昭男訳 )
~~~

お礼日時:2023/04/21 22:52

道行く知らぬ老婆に声をかけ


そこの白髪美人さん、
いや私はブスよ。
謙遜はだめだよ。
ありがとう。何も出ないよ。
こういう会話をどう思いますか。
名前を知らぬからつけたニックネームね。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


せっかくお近づきのシルシにニックネームで呼んだら 受け付けられなかった。

とは言え 話はつづいた。会話は成り立っていた。


つまり 会話の入り口・・・である。なので これだけでは・・・ちょっと。

――のような感じがしますが?

お礼日時:2023/04/21 18:10

絶対他力信仰は、人間を無力化するのでしょうか?


洪水が人々を押し流すように。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

いいえ。そんなことはありません。


感じる:感性の原野
考える:思考の緑野・・・意志(自由意志)
ーーーーーーーーーー
信じる:非思考の庭


☆ 信じるとき わが意志は――思考はそのとき同時に いくらしていてもいいのですが――絶対他力にゆだねられています。

ところが――そのゆだねた往相からひるがえっていわゆる還相にあって――絶対他力はかえってわれわれ人間の意志を建ててくれる。


池を使ったから洪水にまでなってしまったけれど 神のハタラキカケというのは きわめてびみょうで よく見てみると ありがたくうつくしい。

お礼日時:2023/04/21 14:22

教えは真意を汲み上げるもの、池は水を汲み上げるところ。


両者とも溺れるものではないでしょうね。

覚った人にはもう教えは必要ないと思います。

2.洪水とは何ですか?
    • good
    • 1
この回答へのお礼

★ 2.洪水とは何ですか?
☆ 次に説明されるような《絶対他力》のじっさいのハタラキカケを言うと思います。

▼ (古田 和弘:往相の回向と還相の回向) ~~~
https://jodo-shinshu.info/category/shoshinge/sho …

私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。

・・・「往相」と「還相」とが一つのこととして大切であるとしても、私たち凡夫にしてみれば、自分の力では「往相」はもとより、「還相」も不可能なことです。私たちは、自分の往生の原因は自分では作れないのです。まして、自分の力でこの世間へのはたらきかけなどはとうてい不可能です。

「往相」も「還相」も、ともに阿弥陀仏の「回向」によることなのです。「回向」というのは、「振り向ける」という意味で、原因を作れない私たちに代わって、阿弥陀仏が原因を作ってくださり、その原因によって生ずる結果だけを私たちに「振り向けて」くださっているのです。
~~~

お礼日時:2023/04/21 13:06

1.の比喩の意味するところが分かりません。



池とは何を表していますか?

5.私が訊きたい。

先ずは一つずつ行きましょう。喩えと論理がこんがらがって読み解きにくいです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


ずばり 《オシへ》です。

往相と還相とに分けて 特に後者の道にとってです。

要するに ファンダメンタリズムにおけるような・神格化された教理は その姿としては です。



ちょっとまちがいになりつつもつけ加えたいとすれば 無知の知をさまたげる知識ですね。



ちなみに 《池を覆う洪水》[2]とは では なにか?

お礼日時:2023/04/21 04:28

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!