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無限定なものとして限定しているじゃないか。

どう解消する?

A 回答 (13件中1~10件)

先の回答で、語の運用と、概念スキーマ(即ち、構成された意味づけ)の、2つの側面を見ましたが、


このとき、アペイロンについて、symbolは確定しても、主体にとって、アペイロンの概念は不確定な像であり、範囲を持たない。
このことがこの質問の後ろにある事態のひとつではないでしょうか。無限定とは範囲が無いことです。
質問者さんは、そこにもうひとつの事態をみるわけです。
すなわち、無限定つまり範囲を持たないことそのものが、またひとつの範囲であるというわけですね。

たとえば、「宇宙の動きに影響されている地球の自然は無限定です。パターンを持って周期的に現れたり、特定の条件下で有意義な特徴があるとしても、巨視的なスパンをとれば無限定であるといえます」という場合もあるでしょう。
こういう文でも、質問者さんは、「限定しているではないか」と気になるのでしょうか。

さて、高機能自閉症についてご提示なさった例はあまり関係がない模様です。あのような例示は、会社の中で、あるいは夫婦間で、アスペルガー症候群の或る種の人々には、言外のことは伝わらないという警鐘を鳴らすでしょう。
部下が、夫が、幼児にするように細かく指示を出さないと最適行動を取ってくれないと訴える上司や妻のための話ですね。
発達障害の方は慣れるという学習が弱いので、通常は慣れて行うようなことも、杭を打ち込んで覚える必要があるでしょう。打ち込み方には、適切な指導があるべきだと思います。
ご提示の話は、味を見る、温度を見る、戸締りを見る、などと同じで、加減や適不適の調整を行うことだと、彼らは知りさえすればよいでしょう。そして回数によって慣れるわけですね。

この回答への補足

>質問者さんは、そこにもうひとつの事態をみるわけです。
すなわち、無限定つまり範囲を持たないことそのものが、またひとつの範囲であるというわけですね。

「論議領域が違うので、矛盾はない」と表現するのが自分の解消法を端的に表しています。
質問を掲げた時点では、こういう表現はできませんでした。参考になりました。ありがとうございます。

補足日時:2014/12/13 19:27
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この回答へのお礼

>こういう文でも、質問者さんは、「限定しているではないか」と気になるのでしょうか。

気になりません。人間の認識とはそういう事態であると思ってます。木造さんならそれを有限と言い、人の道さんならそれを無限と言うでしょうね。

お礼日時:2014/12/13 15:03

あ、素敵なご返信ですね。


もう一つ層を深く見つめているんですね。

たしかに、不気味とみる重心はこちら側の世界のものです。
生産消費を記号でやりつくす営みの側です。

おっしゃるところを「誤解」した人はプラトンですかと聞くのですか。

高機能自閉症の子を育てていますが、この生活の層にある言葉の、何物でもなさ、が
難しいところです。言葉の奥の何かを、切望しています。
頭のいい子ですが、使うだけにとどめよと思考停止を余儀なくされるのが苦しい時があるようです。

神秘の話を少し。
そのまま それ に触れれば文字化けしていると思います。
わたしたちは それ を認識する器だと思います。
わたしは、その文字化けの実態のことよりも、わたしたちがデコードして整合性をもたせて言葉をあやつっていることのほうが、ずっと価値があると思っているのです。
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この回答へのお礼

http://www.edu-c.pref.nagasaki.jp/C-Web/0084/4to …

ここに、気になる行動(コミュニケーションがとりにくい)の例としてこんなのがありました。

母「太郎君,お風呂見てきて!」

太郎「はーい」

太郎「見てきたよ!」

母「・・・・。(いや,そういうことじゃなくって,湯加減をなんだけど・・・。)」

思わず笑みがこぼれました。全然問題に感じません。感じないように例話が作られているのかもしれないですが。これ発信側に問題があるように受け止められますね。それが狙いなのかな。

発信側は、受信側のデコード能力に合わせてエンコードし、受信側は、発信側のエンコード能力に合わせてデコードすればすむことではないですか。ですから、どちらかがより価値があると決めつけられません。両方の能力をバランスよく高めていくといいと思います。

家事を手伝ってもらうことを趣旨とせず、教育を趣旨として、

母「太郎君,母さんはお風呂見てきて欲しいのよ。でね。太郎君はお母さんが水の多さをみてきてほしいと思っていのるか、それとも水の暖かさを見てきてほしいと思っているのか、どちらだと思う?」

ってことを私は考えます。

お礼日時:2014/12/10 17:18

ほかの方の回答を読んでいませんが、もしかぶるところがあったらそこは読みますから知らせてください。


以下手短かな意見です。

A:生成的な仕事におけるアペイロン
B:生成的な仕事の状態、表出、容量、間合い、方法、経過、痕跡、予兆、観測、予測、などが無限定である(さだまらない)

C:人が言語に発し表す活動におけるアペイロン
D:人が言語に発し表す活動の状態、表出、容量、間合い、方法、経過、痕跡、予兆、観測、予測などに限定される(さだまる)

さて、Aというものは存在するでしょうか。
AのアペイロンはまずCがあってその中にしか現われないものであるといえます。
Cのアペイロンは、symbolですが、
Aのアペイロンは、imaginaryなのでしょう。
そして、realなアペイロン、触知的な真実の塊のアペイロンはどこにもない。
けれども人は、発話し聞きあう行為において、表徴と想像の内奥にあたかも実体の手触りを得ているかのように無頓着に了解し合って思考を進めます。

このとき、Cの中に、いかなるAが描きだされているかを慎重に、たびたび確かめることはとても大切だと思います。
なぜなら、繊細な、豊かな、体系的背景からあぶりだされて概念化しているものを、ひとたび概念だけ取り上げてしまうと、それが脈絡の組み換えに耐えうると思いこんでしまうからです。
ある意味で、物理的操作であるrealとしての扱いを概念に対して無造作におこなっているというわけなのかもしれません。
こんなわけで、人の言語活動とはあいまいでひどく不気味なものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

他の方の意見とはかぶってないとおもいます。

>こんなわけで、人の言語活動とはあいまいでひどく不気味なものです。

ご主張を尊重します。そう思われる根拠、神秘的な何かがあるということです。全部書きませんが、すべてそう思う根拠があるということです。

>AのアペイロンはまずCがあってその中にしか現われないものであるといえます。

symbol[imaginary]とする根拠もあると私は考えています。あなたはそれに触れられていない。

誤解を恐れずにいえば、まず、symbolで(アペイロンと非アペイロンで)区分し、神秘的な力がイデアを基準として imaginaryをそこに分類していると、私は説明します。

>そして、realなアペイロン、触知的な真実の塊のアペイロンはどこにもない。

おっしゃるとおりですが、根拠を見落とされています。

>けれども人は、発話し聞きあう行為において、表徴と想像の内奥にあたかも実体の手触りを得ているかのように無頓着に了解し合って思考を進めます。

なぜ「あたかも実態の手探りを得ているかのように」と思われるのか分かりましたか。見落としがあるのです。

これこそ、直接に属性(述語)概念(属性概念についてはあなたの過去の回答に触発されて用いるようになったものです)が用いられていないという例です。

間接的にあいまいに表現されていますが、そう思うのはなぜなんでしょう。その(あなたの間接的表現)表徴と想像の内奥に何ものもないのですか。私はあると信じています。そこに真実のものがあるはずです。

あなたは不気味なものと表現され、私は神秘的なものと表現する。そこには認識の大きな違いがあります。

お礼日時:2014/12/09 02:09

 訂正。



 「表通常」は「通常」です。

この回答への補足

了解しました。

補足日時:2014/12/07 07:17
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 アペイロン、と云う言葉について無知だから調べました。



 アナクシマンドロスのたどり着いた境地は、万物の根源(アルケー)は無際限、無限定な量(すなわちアペイロン)である・・・と。

 すごいね、この人。
 哲学でも、こうした世界に踏み入ることができる“すごさ”を思いました。

 この人、アナクシマンドロスは「絶対」のことをアペイロンと云っているのではないでしょうか。

 アペイロン=無限定=絶対(比較する対象の無い事)

 質問文の「無限定なものとして限定している」と云うカッコ内の“限定”は表通常に使われる意味でそれには「基準」と云う土台から発生するもの、“限定”かと思います。

 物事を“限定”するにはきっとそれぞれに「基準」を設けているはずですが、そこがあいまいなまま議論をするので、意見がまとまらないように思うのですが。

 ☆ アペイロン=無限定=絶対(比較する対象のない事)

 あえて云えば、「絶対」が“限定”。あるいは“基準”。
 
 

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。yy8yy8azさん。早起きですね。ぼくは徹夜です。

> すごいね、この人。
 哲学でも、こうした世界に踏み入ることができる“すごさ”を思いました。

すごいと思えるところがすごいです。

> この人、アナクシマンドロスは「絶対」のことをアペイロンと云っているのではないでしょうか。

タレスを受けて、アルケーとは、水のようなものであるが、水というようには限定されないもの、そうでなければ他のものになりえないだろうから、ということなんでしょう。
ですから、転変する現象界のもの、相対世界のものとしては言い表せない。そこで超越論的に、絶対とか、絶対者とかになるんでしょうね。

絶対的なものなら、簡単に基準になりそうですが。それがないので公理とか定義が必要となるんですよね。

でも、「アペイロンとは絶対である」と定義すると、絶対とはなんだって絶対言うことになりますから。

お礼日時:2014/12/07 06:38

 No.7を承けます。




 次の事柄について 念のための確認としてです。


 ★ (No.7お礼欄) なんか自分の目指しているところとちがっているような気がするんです。全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので、それを概念思考するには、自分の悟性概念で意義を形作るという考え方をしようとしているんです。
 ☆ 《全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので》というのは 移ろいゆく経験事象であるモノゴトに対してでも 《悟性概念》はそれぞれ対応している・それなのに概念思考の中にはこの語性概念であることから想像力で離れて行ってしまう ということを言っているのだと思います。

 言いかえると 悟性から離れる――したがってモノゴトに触れたという感性から想像力によって自由になる――ということは 理性の扱う概念が 事実としてのモノゴトから離れた《観念》になるということだと見ていいのですよね。

 《自分の悟性概念で意義を形作るという考え方》については 次のくだりで考えます。




 ★ (同上・承前) 既成概念というものがありますが、それにとらわれずに、概念を構成して、論理的にですが、そのフィルターを通して対象を捉える。ということが、スッキリした理解につながると考えています。
 ☆ 口幅ったいことを言うようですが けっきょく《既成概念》を哲学ないし論理学の構築のためには一つひとつ点検するということですよね?

 単なる観念になってしまっているものと そうではなく悟性概念にとどまっているものとを振り分けると。

 というのも この仕分けにあたっても けっきょく既成概念を用いてそうするのではないかと思えてしまうからです。



 
 どうなんでしょう。
 煮詰めた議論としては けっきょく言葉・概念・術語を きちんと定義すればよい。と考えてみました。

 事実に対応しない観念であっても 元はほとんどどれもこれも 悟性から来た概念であったもので・ということは事実としてのモノゴトと対応していたものである。


 つまり 飛行機の発着場は 《空港》と言いますが 羽田や関空や中部国際空港の場合には 海に面していたり海の中だったりしますから――悟性概念として合っていますから――そのままサンズイ編の《みなと=港》を使う。そうではない成田は 水に面していないのでサンズイ編は使わない。《みなと》も《みづ(水)-な(の)-と(門)》ですから 使えない。・・・

 というふうに仕分けしようとしているふうに映るのですが どうでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「飛行場ならいいんでは」
「場が飛行するわけないだろ」
「じゃなんて呼べばいいんだよ」
「なんでもいいさ」

考える気力が萎えています。反応できなくてごめんなさい。

お礼日時:2014/12/06 12:39

 つづきまして。



 ★★ 無限定なものとして限定しているじゃないか。
 ☆ このあとのほうの《限定》は 《規定》という意味です。定義として規定したのですから。

 定義として《限定》するとは言いませんから。

この回答への補足

あっ。わかりました。

無限定なものは無限定であり続けるんです。観念(イデア)の中で。
すべての概念はそうです。有は有で、無は無で有り続けるんです。
この永遠なるものを物差しとして、流転する世界、混沌としたを把握するんです。

補足日時:2014/12/05 23:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

限定は取り返しがつかないが、定義の規定は取替がきくということでしょうか。いやちがいますね。規定してしまったら規定に規定されて用意に修正し難いとおっしゃってますから。

そうなるとまた前言を取り消すことになりますが、規定は用意に変更できると、いやいや、そうではないものもありますね。

無限定なものとして規定される。としても、スッキリですか。

なんか自分の目指しているところとちがっているような気がするんです。全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので、それを概念思考するには、自分の悟性概念で意義を形作るという考え方をしようとしているんです。

既成概念というものがありますが、それにとらわれずに、概念を構成して、論理的にですが、そのフィルターを通して対象を捉える。ということが、スッキリした理解につながると考えています。

ブログちょくちょく拝見させていただいてます。認めていただいていたのをしって嬉しかったです。ありがとうございます。

お礼日時:2014/12/05 23:29

こういう論法のあるのかな。


 「無限定は、何物にも限定されないものである」 (定義)
 「無限定が上の何物にもに含まれると仮定するならば、無限定は自身、つまり、無限定にも限定されない」
つまり、
 「(無限定は)無限定として限定できない」

そして、
 「無限定が何物にも含まれないのならば、それが無限定として限定されたとしても、無限定の定義と矛盾しない」


こちらの方がスッキリしていますかね~。

言っておきますが、
私が本気でこのようなことを考えている、
と考えないでくださいよ。
あくまで、
このように考えればパラドキシカルな状況にならない、という一例を示しているだけですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

脳が疲れています。いじめないでください。

お礼日時:2014/12/05 22:59

 こんばんは。

横田墾男です。

 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから、

  《無限定》は限定できない、

 となって、完結するんですよ(ポリポリ)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 語や概念の定義が その定義みづからによって規定されるというのは こうだと思います。
 すなわち:

 ○ アペイロンとは無限定なものである。

 ☆ つまりこのとき したがって一たん《無限定なもの》と規定したなら あとでたとえば例外があったと気づいたときなどに その《無限定なもの》だという規定に規定されてしまって 容易には修正しがたい。ということ。ではないのですか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> ☆ つまりこのとき したがって一たん《無限定なもの》と規定したなら あとでたとえば例外があったと気づいたときなどに その《無限定なもの》だという規定に規定されてしまって 容易には修正しがたい。ということ。ではないのですか?

そうなんですよ。無限定なものを、無限定ゆえに限定可能なものとして、明暗の明だのとしたとき、ぼくはそれができると思っていたんですが。ついさっき、ねむねこさんへのお礼で、それでもアペイロンは無限者で有り続けると書いていて、明暗の明はぼくの頭の中の存在としてます。いまはそう考えているんです。

お礼日時:2014/12/05 22:54

お礼、感謝です。




☆けれども、これで限定したことになりますか?
形式的には限定しているが、実質的には限定していない。
◇だから、
《無限定》は限定できない、
となって、完結するんですよ(ポリポリ)。

何しろ、詭弁ですから。
こういう手法を使うんですよ。


☆よく分からなくなってきましたが。
◇詭弁は、相手を幻惑し、混乱させるのが目的です。



☆また、現にアペイロンなる(名称ラベルだけのもので意義内容が無いものであるにせよ)悟性(概念思考)対象としてあるのだから限定は実質的にはしているのではないですか?
◇その存在を仮定すればね。
それが実在するかどうかと無関係に、概念として存在することはできる。
ただし、この概念に対応するものが、外界に存在していることとは無関係。
その概念自体が対象ですからね~、そして、これはまったくのフィクション、空想上の産物であっても構わない。

数学の点や直線などは客観として存在しない。私たちの頭の中にのみ存在するフィクションです。
まぁ、大きさや幅のない点や直線は、頭の中で想像することもできないけれど。私たちが想像できるのは、大きさや幅のある点や直線に過ぎない。


☆概念の意義を限定するということは、意義内容を対象としているのではなく概念の名称を対象としているのではないですか?
◇点や直線という言葉を使用するのは慣習によるものだけれども、
数学の点や直線(という用語)は意味内容そのものですよね。



☆☆☆☆☆☆
「無限定とは、何物にも限定されないこと(orもの)である」
と定義すると、
「無限定なものとして限定しているじゃないか。」という主張がおかしい、と言うこともできる。
これは定義から演繹されないから。

「限定しているじゃないか」となおも五月蝿くつきまとうと、
「無限定は無限定として限定されているというのは、そもそも限定していることになるのか?」
と突っ込まれる。
そして、
「無限定なものとして限定されるじゃないか」にある「限定される」の《限定》と「無限定」の『限定』は同じ意味なのか?
この二つの限定、つまり、《限定》と『限定』の意味が違っているとしたら、反例になっていない!!
とイジメられる。

イエスは「あなたたちは地の塩です」と言ったが、
塩(NaCl)なら、おラッチは水に溶けるんか。溶けないだろう。
地の塩の塩という言葉の意味内容と、NaClのそれが異なるからだ。
これと同じなんじゃないか、
とイジメられます。

さらに底意地の悪い人(たとえば、私のような人)は、
「内包(この場合、限定するの意味)だけじゃなく、そもそも外延(対象の範囲)が定まっていないって」
と言い出します。
√2は、有理数を外延(集合)とすれば存在しないけれど、実数を外延とすれば存在するみたいな話ですね。

この質問の場合ですと、現象界を外延とするか、現象界+イデア界(のようなもの)を外延とするかで話が異なってきます。
無限定はイデアの世界にあるのだと言われたら・・・。

この回答への補足

>イエスは「あなたたちは地の塩です」

・塩気のある塩・・・味のある塩(意味のある塩)
・塩気のない塩・・・味のない塩(概念の塩)

人間味のある人となりなさいというところですか。

補足日時:2014/12/06 02:11
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。前後しますが、

>「内包(この場合、限定するの意味)だけじゃなく、そもそも外延(対象の範囲)が定まっていないって」

議論領域(論理世界)大切ですね。


>イエスは「あなたたちは地の塩です」・・・

比喩表現については念頭にありませんでした。この文は意味が汲み取れません。文脈をしらないからでしょう。

以上2点、視野が広がりました。参考にさせていただきます。





>数学の点や直線(という用語)は意味内容そのものですよね。

数学や論理学は意義内容をいったん定義したら用語(式など)を形式的に扱い、時々意義内容を参照するのだと思います。


>無限定はイデアの世界にあるのだと言われたら・・・。

・・・。

イデアはなにやら大層なものに思われていますが、もともとソクラテスが言ってるのは、白い馬、栗毛の馬、若い馬などから帰納された抽象概念ですよ。そして抽象度を高めて本質概念、範疇(カテゴリ)ですね。

そして究極の統一が、いろんな名前をもっている。ひとつにここで言っている、アペイロンもそうでしょう。だからぼくとしては、思考の対象して扱えるんです。

イデアと神とを同一にはできないけれど、神をイデアである無限者だとかに想定して補助線思考することができる。

アペイロンについていえば、それが現実感覚界の混沌とした内容をもつそんな無限定なものとして、それをたとえば善悪の善と限定すると、たちまち、対象であった無限者は対象でなくなり、限定されずにするっと逃げて無限定なものアペイロンでありつづける。

じゃ限定した結果物は何か、観念上の(イデアルな)概念である善、すなわち、自分の悟性空間の情報、属性概念に過ぎなくなる。

お礼日時:2014/12/05 22:44

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