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無限定なものとして限定しているじゃないか。

どう解消する?

A 回答 (13件中11~13件)

詭弁しちゃいま~す。



 無限定 → 限定されるものがない(こと or もの)

したがって、
「無限定に限定される」という文の意味は、
「限定されるものがない」によって限定されるであり、
結局、
「限定されるものがない」ということを意味する。
であるから、
意味論的には、矛盾していない。
形式的に『矛盾しているように見えるだけ』である。

たとえば、
 I have nothng.
形式的には私は持っていることになっているけれど、
はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?
これは矛盾であろうか、パラドクスであろうか?


あるいは、
 「アペイロン」⇔「無限定」
であり、
 「アペイロン」は「無限定」として限定される
の意味であって、
結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。
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この回答へのお礼

ねむねこさん。ご回答ありがとうございます。

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 無限定 → 限定されるものがない(こと or もの)

したがって、
「無限定に限定される」という文の意味は、
「限定されるものがない」によって限定されるであり、
結局、
「限定されるものがない」ということを意味する。
であるから、
意味論的には、矛盾していない。
形式的に『矛盾しているように見えるだけ』である。
======================

ここでは、「無限定とは、限定する対象が無いことである」と捉えたのですね。意義内容がない(無限定)とすることは、対象に意義内容がないとするのであるから、「意義内容がないものは意義内容がないものである」と言ってるだけだ。矛盾しているように見えるが、矛盾はしていない。ということですね。こういう考えは理解できます。

けれども、これで限定したことになりますか?
形式的には限定しているが、実質的には限定していない。

それに、無対象を限定するなどということはありえないのではないですか?

また、現にアペイロンなる(名称ラベルだけのもので意義内容が無いものであるにせよ)悟性(概念思考)対象としてあるのだから限定は実質的にはしているのではないですか?

概念の意義を限定するということは、意義内容を対象としているのではなく概念の名称を対象としているのではないですか?

よく分からなくなってきましたが。



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たとえば、
 I have nothng.
形式的には私は持っていることになっているけれど、
はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?
これは矛盾であろうか、パラドクスであろうか?
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>形式的には私は持っていることになっている

おっしゃるとおりです。私を含めるとややこしいので、対象だけ記せば、悟性が、

 持つ[1]=無物[1]

と、同期をとっているだけの意義は、形式的。


>はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?

非時間的な観念的空間と時間的な現実的空間は、別のものとして考えられる。「私がいま何かを持っている」のであれば、無意識的に同期がとられて、感性的には、

 持つ感覚(1)=無物感覚(0)

観念的な「持つ[1]=無物[1]」と、現実的な「持つ感覚(1)=無物感覚(0)」の対応関係は偶然的なものである。悟性と感性それぞれの対象の存在する空間も存在形式もタイプが異なるので、矛盾はない。

パラドクスでもない。I have nothing.には意義がある。そして意味の触発可能性があると思われる。


======================
あるいは、
 「アペイロン」⇔「無限定」
であり、
 「アペイロン」は「無限定」として限定される
の意味であって、
結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。

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> 「アペイロン」⇔「無限定」

「アペイロンは無限定なものである」は、「アペイロン」⇔「無限定」ではなく、「アペイロン」→「無限定」である。ネコ→動物であり、ネコ←動物ではないのだから、ネコ⇔動物ではないように。


> 「アペイロン」は「無限定」として限定されるの意味であって、

「アペイロン」は「無限定」として限定されるの意義(意義・意味)としては、「アペイロン」⇔「無限定」ではなく、「「アペイロン」→「無限定」」→「限定」である。

>結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。

前提は偽であるが、結論を「アペイロンはアペイロンだ」は真であるから、推論としては妥当である。なので、詭弁であるとは考えられない。ナンセンスな推論であるとは思います。
ただ、結論を「「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない」とすると、最初の疑問「「無限定なものを無限定なもの」と定義したことになるのか?」が繰り返されますので、この論は意味がないように思えます。

お礼日時:2014/12/05 17:09

 こんにちは。



 あともなどすさんは 論理学の知識がありすぎて かえって茶の木畠に入って行ってしまわれた。



 言葉は 一たん定義すると その定義じたいによって規定されます。定義内容と違うぢゃないかとまでクレームがつきます。


 アペイロン=無限定なもの と規定したら その規定内容によって規定されます。
 ですが これは 段階が違うと言いますか 局面あるいはステージが違います。

 《無限定なもの》という定義があって その定義〔に成るアペイロンなる語〕が そのようにみづからを《限定されていない》と言っていることと その定義によってみづからを《限定している》ということとは ふたつの別のことです。
 
 どちらも成り立ちます。

この回答への補足

他の人のために、先の2つの質問が関連質問です。
 「これ」に意味があるのか?
http://okwave.jp/qa/q8845259.html
 言葉は自分をはかる?
http://okwave.jp/qa/q8839281.html

(未完ながらの)思想ですが、その概略は、
(1)カントの認識のコペルニクス的展開。感性、悟性。
(2)概念思考の対象に属性はない。すべて人間側で属性を規定。
(3)その規定の仕方を現実的、時間的に捉える。
(4)捉えたもので自分を知り、活用する。

ざっと、このようなもので、以下は、(2)(3)あたりの理論。



「Aはある」「Aである」これを

  A[1]

と表す。(悟性の概念思考の状態である悟性的イメージとして示している)

[1]はパラメーター(概念プロパティ)の正設定、[0]は逆設定。[ ]は解除を示す。すなわち、

「Aはない」「Aでない」は、

  A[0]

概念思考リセット、名称ラベルのみを示す記法が、

  A[ ]

である。

さて、概念思考をする悟性が、パラメータの同期(連想根拠)をとって、

 A[1]=B[1]

なる記法で示されるのが、「AはB(である)」と言うこと。

ここで、

A:「アペイロン」
B:「無限定なもの」

とすれば、

 A[1]=B[1]

は、「アペイロンは無限定なもの」となる。そして、

 A[1]=B[0]

は、「アペイロンは限定されるもの」となる。



 A[1]=B[1]で同期をとっているかぎり、 A[1]=B[0]
にはならない。つまり、「アペイロンは限定されるもの」と概念思考している限り、同期はA[1]=B[0]の形式でとられている。

「「アペイロンは無限定なもの」と限定されるもの」という構造は、

 (A[1]=B[1])=B[0]

である。対象レベルでB[1]、メタレベルでB[0]。


概念思考の状態が遷移した、遷移しうる対象であるというのが、アペイロンである。この同期の不安定を誤解して、非時間的に一面化すると矛盾となり、パラドクスに受け止められることがあるが、それは非時間的一面的に見ることに(人間側の)問題があり、文には責任はない。

ラベルをリセットして再定義を、

A:「アペイロンを対象とする概念思考の状態」
B:「遷移可能なもの」

このように、超越論的に(メタレベルに)して、

 A[1]=B[1]

と、(比較的恒常的な)同期をとる。このとき、

X:「アペイロン」
Y:「ある属性」

として、A[1]=B[1]を根拠にして

 (X[1]=Y[1]) ∨ (X[1]=Y[0])

といえる。アペイロンは、有限なものか無限なものかという変化のあるものとなる訳である。アペイロン自体には、切っても切れない属性というものがなく、人間の悟性が属性変化を生じさせているのである。


アペイロンに限らず、すべて悟性思考の対象はこのように悟性形式によって限定されることで、表象される。対象自体にあるといえるのは、可能性のみである。

(1)概念思考の対象は根源的には、「無」あるいは「混沌」である。

(2)概念思考の状態が対象を「ある属性を持つもの」として定立させている。

(記憶の中で同期が維持されていて、対象に属性が備わっていると見えるのである)

補足日時:2014/12/05 13:53
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この回答へのお礼

こんにちは。ご回答ありがとうございます。

> あともなどすさんは 論理学の知識がありすぎて かえって茶の木畠に入って行ってしまわれた。

そんなに身近に感じますか。思考の緑野と感性の原野の境界で、「ここほれ」ワンワン」とやっているんですが。

> 言葉は 一たん定義すると その定義じたいによって規定されます。定義内容と違うぢゃないかとまでクレームがつきます。

おっしゃるとおりです。故事成語的矛盾ですね。

>アペイロン=無限定なもの と規定したら その規定内容によって規定されます。

おっしゃるとおりです。

>ですが これは 段階が違うと言いますか 局面あるいはステージが違います。

そのとおりです。対象レベルとメタレベルの違いがあります。


>《無限定なもの》という定義があって その定義〔に成るアペイロンなる語〕が そのようにみづからを《限定されていない》と言っていることと その定義によってみづからを《限定している》ということとは ふたつの別のことです。

ここには見逃すことのできない、重大な錯誤があります。語には口がありません。したがって、語がみづからを何者かであると言っているということはありえません。

この点を除いて理解に困難なところはありません。解消法がよく分かりました。


なお、言葉の問題を人間の問題の方向に近づけようとしていまして、その説明を自分なりに考えています。人にはあまり理解されないのではないかと思いますが、この補足欄を借りて参考のために残しておきたいと思います。

お礼日時:2014/12/05 13:13

古典的には、排中律によって解消される


(限定されていないもの=無限定)。
しかし、「限定されていないもの」という
定義を限定の一種とすれば、自己言及として
ゲーデルの不完全性定理によって解消される
(全ての言明は不完全であるか矛盾するかの
どちらか)。

この回答への補足

「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」は、
A:「アペイロン」
B:「無限定なもの」
として、

(A→B)→¬B    (¬Bは非Bということ)
これは偽である。反例はB(無限定なものである場合)

真理値のパターンを調べる。(普通は真理表)
(┓→┏)→ ¬(┏)   
=(┓→┏)→ ┛    (∵否定は十字記号の白黒反転の関係)
=(¬(┓)∨┏)→ ┛ (∵願意は前件の否定と貢献の論理和になる)
=(┗ ∨ ┏)→ ┛ (∵否定は十字記号の白黒反転の関係)
=(┣)→ ┛     (∵論理和Vは∪(むすび)に通じている)
=¬(┣)→ ┛  (∵願意は前件の否定と貢献の論理和になる)
=(┥)∨ ┛  
(∵否定は十字記号の白黒反転の関係。┥の細い縦棒は中心を示すのみ。つまり左だけ黒)
= ┛  (∵論理和Vは∪(むすび)に通じている)

結果は後件Bの否定であり、
「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」
なる言明は、論理的意義(真理値)として、
「無限定なものでない」
という言明と同値である。

定義内容「アペイロンは無限定なもの」はキャンセルされ、
ただ「無限定ではない」と言っているのみになる。
そこで、「無限定である」ならその言い分はおかしいだろうということになり、偽であるといえる。

つまり、「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」
といくら本気で思った(真実)としても、言明(偽)には一致していないので、そのモヤモヤがなんであるかを知るべきである。言葉の意義の上では解消した。しかし、心理的な解消はなされているかというところに焦点を当てたいという気持ちでいます。

補足日時:2014/12/05 14:27
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

わかったようなわからぬような感じです。ゲーデルの不完全性定理は、だいたい自己言及のようなことについてなんか言っているものだというくらいの理解のレベルなんで。

古典的には排中律で解消。自己言及として捉えてゲーデルの不完全性定理によって解消。
とにかく、このように解消するということですね。

この場をかりて、補足に別の解消法を書いておきます。

お礼日時:2014/12/05 14:00

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