No.1
- 回答日時:
古典的には、排中律によって解消される
(限定されていないもの=無限定)。
しかし、「限定されていないもの」という
定義を限定の一種とすれば、自己言及として
ゲーデルの不完全性定理によって解消される
(全ての言明は不完全であるか矛盾するかの
どちらか)。
この回答への補足
「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」は、
A:「アペイロン」
B:「無限定なもの」
として、
(A→B)→¬B (¬Bは非Bということ)
これは偽である。反例はB(無限定なものである場合)
真理値のパターンを調べる。(普通は真理表)
(┓→┏)→ ¬(┏)
=(┓→┏)→ ┛ (∵否定は十字記号の白黒反転の関係)
=(¬(┓)∨┏)→ ┛ (∵願意は前件の否定と貢献の論理和になる)
=(┗ ∨ ┏)→ ┛ (∵否定は十字記号の白黒反転の関係)
=(┣)→ ┛ (∵論理和Vは∪(むすび)に通じている)
=¬(┣)→ ┛ (∵願意は前件の否定と貢献の論理和になる)
=(┥)∨ ┛
(∵否定は十字記号の白黒反転の関係。┥の細い縦棒は中心を示すのみ。つまり左だけ黒)
= ┛ (∵論理和Vは∪(むすび)に通じている)
結果は後件Bの否定であり、
「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」
なる言明は、論理的意義(真理値)として、
「無限定なものでない」
という言明と同値である。
定義内容「アペイロンは無限定なもの」はキャンセルされ、
ただ「無限定ではない」と言っているのみになる。
そこで、「無限定である」ならその言い分はおかしいだろうということになり、偽であるといえる。
つまり、「「アペイロンは無限定なもの」は限定してる(無限定でないものだ)」
といくら本気で思った(真実)としても、言明(偽)には一致していないので、そのモヤモヤがなんであるかを知るべきである。言葉の意義の上では解消した。しかし、心理的な解消はなされているかというところに焦点を当てたいという気持ちでいます。
ご回答ありがとうございます。
わかったようなわからぬような感じです。ゲーデルの不完全性定理は、だいたい自己言及のようなことについてなんか言っているものだというくらいの理解のレベルなんで。
古典的には排中律で解消。自己言及として捉えてゲーデルの不完全性定理によって解消。
とにかく、このように解消するということですね。
この場をかりて、補足に別の解消法を書いておきます。
No.2
- 回答日時:
こんにちは。
あともなどすさんは 論理学の知識がありすぎて かえって茶の木畠に入って行ってしまわれた。
言葉は 一たん定義すると その定義じたいによって規定されます。定義内容と違うぢゃないかとまでクレームがつきます。
アペイロン=無限定なもの と規定したら その規定内容によって規定されます。
ですが これは 段階が違うと言いますか 局面あるいはステージが違います。
《無限定なもの》という定義があって その定義〔に成るアペイロンなる語〕が そのようにみづからを《限定されていない》と言っていることと その定義によってみづからを《限定している》ということとは ふたつの別のことです。
どちらも成り立ちます。
この回答への補足
他の人のために、先の2つの質問が関連質問です。
「これ」に意味があるのか?
http://okwave.jp/qa/q8845259.html
言葉は自分をはかる?
http://okwave.jp/qa/q8839281.html
(未完ながらの)思想ですが、その概略は、
(1)カントの認識のコペルニクス的展開。感性、悟性。
(2)概念思考の対象に属性はない。すべて人間側で属性を規定。
(3)その規定の仕方を現実的、時間的に捉える。
(4)捉えたもので自分を知り、活用する。
ざっと、このようなもので、以下は、(2)(3)あたりの理論。
「Aはある」「Aである」これを
A[1]
と表す。(悟性の概念思考の状態である悟性的イメージとして示している)
[1]はパラメーター(概念プロパティ)の正設定、[0]は逆設定。[ ]は解除を示す。すなわち、
「Aはない」「Aでない」は、
A[0]
概念思考リセット、名称ラベルのみを示す記法が、
A[ ]
である。
さて、概念思考をする悟性が、パラメータの同期(連想根拠)をとって、
A[1]=B[1]
なる記法で示されるのが、「AはB(である)」と言うこと。
ここで、
A:「アペイロン」
B:「無限定なもの」
とすれば、
A[1]=B[1]
は、「アペイロンは無限定なもの」となる。そして、
A[1]=B[0]
は、「アペイロンは限定されるもの」となる。
A[1]=B[1]で同期をとっているかぎり、 A[1]=B[0]
にはならない。つまり、「アペイロンは限定されるもの」と概念思考している限り、同期はA[1]=B[0]の形式でとられている。
「「アペイロンは無限定なもの」と限定されるもの」という構造は、
(A[1]=B[1])=B[0]
である。対象レベルでB[1]、メタレベルでB[0]。
概念思考の状態が遷移した、遷移しうる対象であるというのが、アペイロンである。この同期の不安定を誤解して、非時間的に一面化すると矛盾となり、パラドクスに受け止められることがあるが、それは非時間的一面的に見ることに(人間側の)問題があり、文には責任はない。
ラベルをリセットして再定義を、
A:「アペイロンを対象とする概念思考の状態」
B:「遷移可能なもの」
このように、超越論的に(メタレベルに)して、
A[1]=B[1]
と、(比較的恒常的な)同期をとる。このとき、
X:「アペイロン」
Y:「ある属性」
として、A[1]=B[1]を根拠にして
(X[1]=Y[1]) ∨ (X[1]=Y[0])
といえる。アペイロンは、有限なものか無限なものかという変化のあるものとなる訳である。アペイロン自体には、切っても切れない属性というものがなく、人間の悟性が属性変化を生じさせているのである。
アペイロンに限らず、すべて悟性思考の対象はこのように悟性形式によって限定されることで、表象される。対象自体にあるといえるのは、可能性のみである。
(1)概念思考の対象は根源的には、「無」あるいは「混沌」である。
(2)概念思考の状態が対象を「ある属性を持つもの」として定立させている。
(記憶の中で同期が維持されていて、対象に属性が備わっていると見えるのである)
こんにちは。ご回答ありがとうございます。
> あともなどすさんは 論理学の知識がありすぎて かえって茶の木畠に入って行ってしまわれた。
そんなに身近に感じますか。思考の緑野と感性の原野の境界で、「ここほれ」ワンワン」とやっているんですが。
> 言葉は 一たん定義すると その定義じたいによって規定されます。定義内容と違うぢゃないかとまでクレームがつきます。
おっしゃるとおりです。故事成語的矛盾ですね。
>アペイロン=無限定なもの と規定したら その規定内容によって規定されます。
おっしゃるとおりです。
>ですが これは 段階が違うと言いますか 局面あるいはステージが違います。
そのとおりです。対象レベルとメタレベルの違いがあります。
>《無限定なもの》という定義があって その定義〔に成るアペイロンなる語〕が そのようにみづからを《限定されていない》と言っていることと その定義によってみづからを《限定している》ということとは ふたつの別のことです。
ここには見逃すことのできない、重大な錯誤があります。語には口がありません。したがって、語がみづからを何者かであると言っているということはありえません。
この点を除いて理解に困難なところはありません。解消法がよく分かりました。
なお、言葉の問題を人間の問題の方向に近づけようとしていまして、その説明を自分なりに考えています。人にはあまり理解されないのではないかと思いますが、この補足欄を借りて参考のために残しておきたいと思います。
No.3
- 回答日時:
詭弁しちゃいま~す。
無限定 → 限定されるものがない(こと or もの)
したがって、
「無限定に限定される」という文の意味は、
「限定されるものがない」によって限定されるであり、
結局、
「限定されるものがない」ということを意味する。
であるから、
意味論的には、矛盾していない。
形式的に『矛盾しているように見えるだけ』である。
たとえば、
I have nothng.
形式的には私は持っていることになっているけれど、
はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?
これは矛盾であろうか、パラドクスであろうか?
あるいは、
「アペイロン」⇔「無限定」
であり、
「アペイロン」は「無限定」として限定される
の意味であって、
結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。
ねむねこさん。ご回答ありがとうございます。
======================
無限定 → 限定されるものがない(こと or もの)
したがって、
「無限定に限定される」という文の意味は、
「限定されるものがない」によって限定されるであり、
結局、
「限定されるものがない」ということを意味する。
であるから、
意味論的には、矛盾していない。
形式的に『矛盾しているように見えるだけ』である。
======================
ここでは、「無限定とは、限定する対象が無いことである」と捉えたのですね。意義内容がない(無限定)とすることは、対象に意義内容がないとするのであるから、「意義内容がないものは意義内容がないものである」と言ってるだけだ。矛盾しているように見えるが、矛盾はしていない。ということですね。こういう考えは理解できます。
けれども、これで限定したことになりますか?
形式的には限定しているが、実質的には限定していない。
それに、無対象を限定するなどということはありえないのではないですか?
また、現にアペイロンなる(名称ラベルだけのもので意義内容が無いものであるにせよ)悟性(概念思考)対象としてあるのだから限定は実質的にはしているのではないですか?
概念の意義を限定するということは、意義内容を対象としているのではなく概念の名称を対象としているのではないですか?
よく分からなくなってきましたが。
======================
たとえば、
I have nothng.
形式的には私は持っていることになっているけれど、
はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?
これは矛盾であろうか、パラドクスであろうか?
======================
>形式的には私は持っていることになっている
おっしゃるとおりです。私を含めるとややこしいので、対象だけ記せば、悟性が、
持つ[1]=無物[1]
と、同期をとっているだけの意義は、形式的。
>はたして、私はいま何かを持っているのであろうか?
非時間的な観念的空間と時間的な現実的空間は、別のものとして考えられる。「私がいま何かを持っている」のであれば、無意識的に同期がとられて、感性的には、
持つ感覚(1)=無物感覚(0)
観念的な「持つ[1]=無物[1]」と、現実的な「持つ感覚(1)=無物感覚(0)」の対応関係は偶然的なものである。悟性と感性それぞれの対象の存在する空間も存在形式もタイプが異なるので、矛盾はない。
パラドクスでもない。I have nothing.には意義がある。そして意味の触発可能性があると思われる。
======================
あるいは、
「アペイロン」⇔「無限定」
であり、
「アペイロン」は「無限定」として限定される
の意味であって、
結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。
======================
> 「アペイロン」⇔「無限定」
「アペイロンは無限定なものである」は、「アペイロン」⇔「無限定」ではなく、「アペイロン」→「無限定」である。ネコ→動物であり、ネコ←動物ではないのだから、ネコ⇔動物ではないように。
> 「アペイロン」は「無限定」として限定されるの意味であって、
「アペイロン」は「無限定」として限定されるの意義(意義・意味)としては、「アペイロン」⇔「無限定」ではなく、「「アペイロン」→「無限定」」→「限定」である。
>結局のところ、
「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない。
前提は偽であるが、結論を「アペイロンはアペイロンだ」は真であるから、推論としては妥当である。なので、詭弁であるとは考えられない。ナンセンスな推論であるとは思います。
ただ、結論を「「アペイロンはアペイロンだ」ということを言っているにすぎない」とすると、最初の疑問「「無限定なものを無限定なもの」と定義したことになるのか?」が繰り返されますので、この論は意味がないように思えます。
No.4
- 回答日時:
お礼、感謝です。
☆けれども、これで限定したことになりますか?
形式的には限定しているが、実質的には限定していない。
◇だから、
《無限定》は限定できない、
となって、完結するんですよ(ポリポリ)。
何しろ、詭弁ですから。
こういう手法を使うんですよ。
☆よく分からなくなってきましたが。
◇詭弁は、相手を幻惑し、混乱させるのが目的です。
☆また、現にアペイロンなる(名称ラベルだけのもので意義内容が無いものであるにせよ)悟性(概念思考)対象としてあるのだから限定は実質的にはしているのではないですか?
◇その存在を仮定すればね。
それが実在するかどうかと無関係に、概念として存在することはできる。
ただし、この概念に対応するものが、外界に存在していることとは無関係。
その概念自体が対象ですからね~、そして、これはまったくのフィクション、空想上の産物であっても構わない。
数学の点や直線などは客観として存在しない。私たちの頭の中にのみ存在するフィクションです。
まぁ、大きさや幅のない点や直線は、頭の中で想像することもできないけれど。私たちが想像できるのは、大きさや幅のある点や直線に過ぎない。
☆概念の意義を限定するということは、意義内容を対象としているのではなく概念の名称を対象としているのではないですか?
◇点や直線という言葉を使用するのは慣習によるものだけれども、
数学の点や直線(という用語)は意味内容そのものですよね。
☆☆☆☆☆☆
「無限定とは、何物にも限定されないこと(orもの)である」
と定義すると、
「無限定なものとして限定しているじゃないか。」という主張がおかしい、と言うこともできる。
これは定義から演繹されないから。
「限定しているじゃないか」となおも五月蝿くつきまとうと、
「無限定は無限定として限定されているというのは、そもそも限定していることになるのか?」
と突っ込まれる。
そして、
「無限定なものとして限定されるじゃないか」にある「限定される」の《限定》と「無限定」の『限定』は同じ意味なのか?
この二つの限定、つまり、《限定》と『限定』の意味が違っているとしたら、反例になっていない!!
とイジメられる。
イエスは「あなたたちは地の塩です」と言ったが、
塩(NaCl)なら、おラッチは水に溶けるんか。溶けないだろう。
地の塩の塩という言葉の意味内容と、NaClのそれが異なるからだ。
これと同じなんじゃないか、
とイジメられます。
さらに底意地の悪い人(たとえば、私のような人)は、
「内包(この場合、限定するの意味)だけじゃなく、そもそも外延(対象の範囲)が定まっていないって」
と言い出します。
√2は、有理数を外延(集合)とすれば存在しないけれど、実数を外延とすれば存在するみたいな話ですね。
この質問の場合ですと、現象界を外延とするか、現象界+イデア界(のようなもの)を外延とするかで話が異なってきます。
無限定はイデアの世界にあるのだと言われたら・・・。
この回答への補足
>イエスは「あなたたちは地の塩です」
・塩気のある塩・・・味のある塩(意味のある塩)
・塩気のない塩・・・味のない塩(概念の塩)
人間味のある人となりなさいというところですか。
ご回答ありがとうございます。前後しますが、
>「内包(この場合、限定するの意味)だけじゃなく、そもそも外延(対象の範囲)が定まっていないって」
議論領域(論理世界)大切ですね。
>イエスは「あなたたちは地の塩です」・・・
比喩表現については念頭にありませんでした。この文は意味が汲み取れません。文脈をしらないからでしょう。
以上2点、視野が広がりました。参考にさせていただきます。
>数学の点や直線(という用語)は意味内容そのものですよね。
数学や論理学は意義内容をいったん定義したら用語(式など)を形式的に扱い、時々意義内容を参照するのだと思います。
>無限定はイデアの世界にあるのだと言われたら・・・。
・・・。
イデアはなにやら大層なものに思われていますが、もともとソクラテスが言ってるのは、白い馬、栗毛の馬、若い馬などから帰納された抽象概念ですよ。そして抽象度を高めて本質概念、範疇(カテゴリ)ですね。
そして究極の統一が、いろんな名前をもっている。ひとつにここで言っている、アペイロンもそうでしょう。だからぼくとしては、思考の対象して扱えるんです。
イデアと神とを同一にはできないけれど、神をイデアである無限者だとかに想定して補助線思考することができる。
アペイロンについていえば、それが現実感覚界の混沌とした内容をもつそんな無限定なものとして、それをたとえば善悪の善と限定すると、たちまち、対象であった無限者は対象でなくなり、限定されずにするっと逃げて無限定なものアペイロンでありつづける。
じゃ限定した結果物は何か、観念上の(イデアルな)概念である善、すなわち、自分の悟性空間の情報、属性概念に過ぎなくなる。
No.5
- 回答日時:
こんばんは。
横田墾男です。◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
だから、
《無限定》は限定できない、
となって、完結するんですよ(ポリポリ)。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 語や概念の定義が その定義みづからによって規定されるというのは こうだと思います。
すなわち:
○ アペイロンとは無限定なものである。
☆ つまりこのとき したがって一たん《無限定なもの》と規定したなら あとでたとえば例外があったと気づいたときなどに その《無限定なもの》だという規定に規定されてしまって 容易には修正しがたい。ということ。ではないのですか?
ご回答ありがとうございます。
> ☆ つまりこのとき したがって一たん《無限定なもの》と規定したなら あとでたとえば例外があったと気づいたときなどに その《無限定なもの》だという規定に規定されてしまって 容易には修正しがたい。ということ。ではないのですか?
そうなんですよ。無限定なものを、無限定ゆえに限定可能なものとして、明暗の明だのとしたとき、ぼくはそれができると思っていたんですが。ついさっき、ねむねこさんへのお礼で、それでもアペイロンは無限者で有り続けると書いていて、明暗の明はぼくの頭の中の存在としてます。いまはそう考えているんです。
No.6
- 回答日時:
こういう論法のあるのかな。
「無限定は、何物にも限定されないものである」 (定義)
「無限定が上の何物にもに含まれると仮定するならば、無限定は自身、つまり、無限定にも限定されない」
つまり、
「(無限定は)無限定として限定できない」
そして、
「無限定が何物にも含まれないのならば、それが無限定として限定されたとしても、無限定の定義と矛盾しない」
こちらの方がスッキリしていますかね~。
言っておきますが、
私が本気でこのようなことを考えている、
と考えないでくださいよ。
あくまで、
このように考えればパラドキシカルな状況にならない、という一例を示しているだけですから。
No.7
- 回答日時:
つづきまして。
★★ 無限定なものとして限定しているじゃないか。
☆ このあとのほうの《限定》は 《規定》という意味です。定義として規定したのですから。
定義として《限定》するとは言いませんから。
この回答への補足
あっ。わかりました。
無限定なものは無限定であり続けるんです。観念(イデア)の中で。
すべての概念はそうです。有は有で、無は無で有り続けるんです。
この永遠なるものを物差しとして、流転する世界、混沌としたを把握するんです。
ご回答ありがとうございます。
限定は取り返しがつかないが、定義の規定は取替がきくということでしょうか。いやちがいますね。規定してしまったら規定に規定されて用意に修正し難いとおっしゃってますから。
そうなるとまた前言を取り消すことになりますが、規定は用意に変更できると、いやいや、そうではないものもありますね。
無限定なものとして規定される。としても、スッキリですか。
なんか自分の目指しているところとちがっているような気がするんです。全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので、それを概念思考するには、自分の悟性概念で意義を形作るという考え方をしようとしているんです。
既成概念というものがありますが、それにとらわれずに、概念を構成して、論理的にですが、そのフィルターを通して対象を捉える。ということが、スッキリした理解につながると考えています。
ブログちょくちょく拝見させていただいてます。認めていただいていたのをしって嬉しかったです。ありがとうございます。
No.8
- 回答日時:
No.7を承けます。
次の事柄について 念のための確認としてです。
★ (No.7お礼欄) なんか自分の目指しているところとちがっているような気がするんです。全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので、それを概念思考するには、自分の悟性概念で意義を形作るという考え方をしようとしているんです。
☆ 《全ての概念思考の対象が、もともと無内容なもので》というのは 移ろいゆく経験事象であるモノゴトに対してでも 《悟性概念》はそれぞれ対応している・それなのに概念思考の中にはこの語性概念であることから想像力で離れて行ってしまう ということを言っているのだと思います。
言いかえると 悟性から離れる――したがってモノゴトに触れたという感性から想像力によって自由になる――ということは 理性の扱う概念が 事実としてのモノゴトから離れた《観念》になるということだと見ていいのですよね。
《自分の悟性概念で意義を形作るという考え方》については 次のくだりで考えます。
★ (同上・承前) 既成概念というものがありますが、それにとらわれずに、概念を構成して、論理的にですが、そのフィルターを通して対象を捉える。ということが、スッキリした理解につながると考えています。
☆ 口幅ったいことを言うようですが けっきょく《既成概念》を哲学ないし論理学の構築のためには一つひとつ点検するということですよね?
単なる観念になってしまっているものと そうではなく悟性概念にとどまっているものとを振り分けると。
というのも この仕分けにあたっても けっきょく既成概念を用いてそうするのではないかと思えてしまうからです。
どうなんでしょう。
煮詰めた議論としては けっきょく言葉・概念・術語を きちんと定義すればよい。と考えてみました。
事実に対応しない観念であっても 元はほとんどどれもこれも 悟性から来た概念であったもので・ということは事実としてのモノゴトと対応していたものである。
つまり 飛行機の発着場は 《空港》と言いますが 羽田や関空や中部国際空港の場合には 海に面していたり海の中だったりしますから――悟性概念として合っていますから――そのままサンズイ編の《みなと=港》を使う。そうではない成田は 水に面していないのでサンズイ編は使わない。《みなと》も《みづ(水)-な(の)-と(門)》ですから 使えない。・・・
というふうに仕分けしようとしているふうに映るのですが どうでしょう。
ご回答ありがとうございます。
「飛行場ならいいんでは」
「場が飛行するわけないだろ」
「じゃなんて呼べばいいんだよ」
「なんでもいいさ」
考える気力が萎えています。反応できなくてごめんなさい。
No.9
- 回答日時:
アペイロン、と云う言葉について無知だから調べました。
アナクシマンドロスのたどり着いた境地は、万物の根源(アルケー)は無際限、無限定な量(すなわちアペイロン)である・・・と。
すごいね、この人。
哲学でも、こうした世界に踏み入ることができる“すごさ”を思いました。
この人、アナクシマンドロスは「絶対」のことをアペイロンと云っているのではないでしょうか。
アペイロン=無限定=絶対(比較する対象の無い事)
質問文の「無限定なものとして限定している」と云うカッコ内の“限定”は表通常に使われる意味でそれには「基準」と云う土台から発生するもの、“限定”かと思います。
物事を“限定”するにはきっとそれぞれに「基準」を設けているはずですが、そこがあいまいなまま議論をするので、意見がまとまらないように思うのですが。
☆ アペイロン=無限定=絶対(比較する対象のない事)
あえて云えば、「絶対」が“限定”。あるいは“基準”。
ご回答ありがとうございます。yy8yy8azさん。早起きですね。ぼくは徹夜です。
> すごいね、この人。
哲学でも、こうした世界に踏み入ることができる“すごさ”を思いました。
すごいと思えるところがすごいです。
> この人、アナクシマンドロスは「絶対」のことをアペイロンと云っているのではないでしょうか。
タレスを受けて、アルケーとは、水のようなものであるが、水というようには限定されないもの、そうでなければ他のものになりえないだろうから、ということなんでしょう。
ですから、転変する現象界のもの、相対世界のものとしては言い表せない。そこで超越論的に、絶対とか、絶対者とかになるんでしょうね。
絶対的なものなら、簡単に基準になりそうですが。それがないので公理とか定義が必要となるんですよね。
でも、「アペイロンとは絶対である」と定義すると、絶対とはなんだって絶対言うことになりますから。
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