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「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」

 と云う一文をどこかで見た覚えがあるのですが、このような、「実際に起こった事」と「それを理解・解釈する人間」と云ったような事象と受取手を分けて見るような考え方をした学者を教えていただけないでしょうか。また、参考資料なども合わせて提示していただけると助かります。

 よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

>「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」



これを見て思い出したのが、「修辞学」という学問です。
これは、簡単に言えば、よりうまく、説得力のある言葉の使い方研究する学問です。修辞学的世界観と哲学的世界観というものがあり、哲学的世界観とは、この世にはすべての事象に対して絶対的真実(真理)があることを前提に事象を研究します。しかし修辞学的世界観には、この世には絶対的真実はないということが前提になってます。
では真実とは?
それは周りに対して真実だと受け入れられたものが真実であるということなんだそうです。
ですので、最も重要になってくることは真実の追究、研究、ではなく、自分が真実だと思うことを、周りに対し演説し、真実であると評価されることに重点を置くのです。
哲学的世界観では、真実は真実ですので、周りに受け入れられなくても真実であることに変わりはありません。しかし修辞的世界観を持つものには受け入れられてこそ、初めて真実だと言えます。
だから、言葉のうまい使い方を研究するんですね。

かつてプラトンが修辞学に対してこう言ったそうです。
「真実を虚偽にし、虚偽を真実にしうるもの」
しかし修辞学において絶対的真実とは初めから存在しないのですから、別に虚偽を真実にしようとかいうこと事態おかしな話です。真実がなければ虚偽はないんですから。

この修辞学のことを英語でレトリック(rhetoric)といいます。

>「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、または理解を通して視られるものが『真実』である」

この一文は、修辞的世界観によるものに見えます。
真実に他者による理解が必要であるならばそれは、絶対的な真実ではなくどんな内容であっても他者の理解があれば真実になると言えますから・・・。

お力になれず申し訳ない。
修辞学やレトリックで検索すればそれ系の書籍をみることは出来ます。
しかし、質問者が探しているものかどうかの確証はありません。
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あまり自信はありませんが少なくともドイツの哲学史上、ヘーゲルの論理学ですでに明らかにされているのでは?


人間が「本質=真理」を自覚していく過程を「即自」「対自」「向自」と段階的に発展していく論理を明らかにしています。この「過程」は目の前の「事実」とともに過去的事実=過去の歴史的現実への「反省」(とらえ返す事)を通じて実現される、とされています。
「即自意識」とは「事実=現実」そのものを「あれ、これは何?」とか何らかの価値判断による直感による認識のレベルをさします。
価値判断によるひっかかりがなければ「事実」はその認識主体の前を素通りするだけです。
「対自意識」とは「事実」を掘り下げ論理的に分析するとともに、その生成過程からとらえ返すことで得られるとされ、
「向自意識」は上述の過程を通して最終的に得られる社会への認識です。
ヘーゲル以前の「カント」でもそのような問題は扱っていると思いますが、不勉強で触れられません。あしからず。
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アフォーダンスという概念に関係があるように思います。

いわゆる記号論の領域のことですね。
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