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我々が夢から覚醒の真実在に移るため・・・

車輪の切断面の一点に印をつけ回転させ眺めたとする。
するとその回転の中心部に於いてはより早く
周辺に於いてはより遅く去来するのを見る。

最初は一切が虚偽で神をも非難する。
無数の直接的な真実の影が言葉を操りその外観を捉えたとしても
全き姿のままに、そしてその中心を捉えることも不可能である。

運動の速度を測定しうるような単純な運動を見つけてこない限り
一見何かの映像か射影のように見えその状態は奇妙なものという認識で
真実と云う訳ではない。

我々がその運動を理解出来るのは
その本来の像面が立方体を構成している姿と理解する時のみである。


質問 ☆彡
「急いで結論を下そうとしない限り誰も誤謬(ごびゅう)を考える事が出来ない。」
とはどういうことですか?

御無沙汰しておりました。誰か私を覚えてくれている人は居ますか?

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    ありがとうございます。
    説明不足がありました、比較された双方の車輪があるのではなく、同一上の車輪でです。
    又のお返事をお待ちしております。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/10/19 10:48

A 回答 (29件中1~10件)

No.30=28です。


 手持ちの時間の量と演算の速さと感受性の3つの要素があります。兎が演算処理を短い時間でたくさんできます。亀が演算処理を短い時間でたくさんできません。感受性がどう違うのかわかりませんでした。兎が陸で亀が海に対応します。No.28に誤りがありました。貼った動画が誤りです。貼りたかった動画は下記です。

誤りました。ごめんなさい。床にある水たまりの面からそこにあった氷のかたまりの形を予想することが難しいです。止まっているμ粒子の寿命が1/500000sです。光の速さで動いていると10倍長生きします。生き物に当てはめるとたくさん運動すると長生きします。ずーっと座っている曹洞宗の坊主が長生きします。食べる量を少なくすると長生きします。状況が悪化し続けていると急ぎたくなります。『【思考実験】"陰謀論"を検証できない状況だと人はどうなるのか?』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12890561.htmlさんが良かったです。『この質問は質問者と回答者どちらが悪いのでしょうか?』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12892367.htmlさんが『【思考実験】"陰謀論"を検証できない状況だと人はどうなるのか?』への回答者さんが妥当かどうか質問していて面白かったです。私が氷のかたまりと水たまりの形についての例をあげたのに対してあなたが円上の点の等速運動とその円周と垂直な面への投影した単振動する点の加速度が変化する動きの例を挙げました。前者の予想が難しいのに対して後者の予想が易しいです。『形而上』のNo.1へのお礼 comment https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13197396.html?order …さんが「形而下=具体でいいと思います。
私の好きな「リンゴ」は果物の枠の中では具体ですが、「リンゴ」の枠の中ではリンゴは抽象で各品種が具体ということになると。
さらに、各品種のリンゴを抽象とすると、皮だの身だの種が具体になる。これを繰り返すと素粒子にまで行き着く。その素粒子も粒子なのか波動なのか分からない。」「一方、形而上がマーカーであり、言語化することによって会話をすることができるようになる、ということはその通りですが、それで「実在する」ことになるのかどうか?

私という人間(猫でもあるのですが)は実在します。では、人間とか人類という抽象化されたマーカーになっているものは実在しているのか?

個々の人間の実在は疑うことはできません。人間という抽象化された概念は、個別の特徴が捨象されたものですが、これが実在すると言えるのかどうか?

そして「人類」という概念は抽象なのか、具体なのか、分からなくなってきました。」と言っていて良かったです。鼓動回数が同じです。各々の生物種の個体の主観の手持ちの時間の量が同じです。急ぐとはどういうことでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>個々の人間の実在は疑うことはできません。人間という抽象化された概念は、個別の特徴が捨象されたものですが、これが実在すると言えるのかどうか?

そして「人類」という概念は抽象なのか、具体なのか、分からなくなってきました。」急ぐとはどういうことでしょうか?


人間の複雑な感情、感性を裏切る必然な精神があるのではないか?
と思っていてが
反射的に則反応、即決することが「急ぐ」です。

ゴールは出逢いではなく、確実に絶対ある方の形までみているかです。
ポジティブな楽しい、嬉しいという反射で関係上の問題は起こりませんが
ネガティブなことに対しては精神力=未来のビジョン
まで含めた感情を人力からの演技力を試されます。

回答文は通販レビュー以上のものを感じ取れませんでした。
そのものを超えた「かけがえのない存在であった記憶」という
失くしてからの評価は他人の優劣とか順位で決められないものもあるのではないかと問いたいです。

存在というものは普遍的に触れられると定義されるものであるのです。

問の方向違いや私の読解力不足がありましたら又補足回答をお願いします。

お礼日時:2022/11/13 21:41

★ (№24お礼欄) ~~~~~~~~


誰と誰の関係においての経験を言うのかです。
責任の所在を神とか宇宙とかハイヤーセルフとかだと
非力で貧しい一個人など相対的ですらあれない。

勝手に「謎保証人からの推薦状」及び「催促状」を
「手前で書く」
これって、自己満足以外にあるのは何なのか?
~~~~~~~~~~
☆ 後半について 少し分かりづらいように思うのですが 

わたしの場合 不可抗力を相手にする場合や〔量的な差でしかなくても 質の差をともなって〕こちらが一方的にお手上げになるほどのチカラの差がある場合には 降参します。

屈辱だとも思いません。――ということですが・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

人命<金額が世の常の価値にはなりつつありますね。

お礼日時:2022/11/13 21:52

でしこさんおはようございます。


 夢と現と真実在と覚醒です。『単振動』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E6%8C%AF …さんがあります。車輪の半径方向でかつ軸と垂直な方向の2線で張られる輪の中心を通る平面で輪の外側のから輪の中心に向かって輪の中心と自分の間を結ぶ線に並行な面に投影された点を見ています。立方体につながりません。自分と他者を比較すると間違えることができます。ゆっくりやると間違いを正してしまいます。急ぐと間違えることができます。道を走っていて仏に会ったら仏に lariat です。『強烈なラリアットを見てみよう vol.1」

さんがあります。『「わかる」って?』https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13197423.htmlさんが良かったです。先にどうあるべきかを予想し事実を確かめます。事実をみて後でどうなるかを予想します。『思考の技術』のNo.1https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10741423.html#an103 …さんが良かったです。うさぎと亀がどうして出てくるのかわかりませんでした。どうしてですか?


とみくさんにゃぽりつさん虎さんちりんさんおはようございます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

気配という理性?で読みました。

像と鼠は一生の内で鼓動回数はほぼ同じで人生の長さは等価なのだという。
兎と亀は演算処理能力と感受性の違いですね。
外界からの作用は同一の自然で、動作の素早さに違いは在れど
例えば水中では兎のさんは溺れてしまうかもしれない。
でも亀さんは泳いでいる魚を捉えられるほど早く泳げる。

お礼日時:2022/10/29 15:13

☆☆ (№25) ~~~~~~~~~


人間は あとは よかれあしかれ自由意志が授かっているのだから それをうつくしく行使して みんなで社会的共生を実現して欲しい・・・と神は言っているのではないかと思います。

★ (№25お礼欄) ~~~~~~~

 ☆☆ >みんなで社会的共生を実現

外面は大変良い。救われる人多数。ですが内弁慶極まれり!

みんなですればどうなるんだ~
~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ みんなでというのは 基本として民主主義社会ですから 人びとの利害関係が一様ではなくまた錯綜しています むろん 多様な意見が出ます。

ですから とうぜんそれらのあいだの食い違いを調整することが のぞまれますし 必須です。

こういった調整作業をふくみそれを踏まえて《みんなで〔結果的に調和のとれた〕共生が実現される》なら よいことだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

のんびり屋でも切迫した状況であったり、
せっかちでも落ち着いて居られることはあるのだから
お互い早計に非難せず調和するですね。

お礼日時:2022/10/26 19:56

質問について



人って信じたい言葉を信じやすい生き物だから

論理や理論・論法などを意識して言葉を聞く習慣がないだけだと思いますよ

でね

なにかしら決断を下そうとするときには

話の辻褄や合理性を重要視する必要性が出てくるんじゃないでしょうか?

決断を下すってことは
少なからず、決断を下す人に関係性や関連性のある物事であったりしますもんね

急いで決断てな言葉になると

( ̄~ ̄;)何故に急ぐ?


決断を迫られる心境をかんがえたら
1日であれ、3日であれ
1年や10年であっても

決断を下そうとする時間や期間は
急いでる可能性はありますけどね

蕎麦にするか饂飩にするか
はたまたラーメンにするか?

昼食のメニューをきめるくらいなら
決断なんてな大層な言葉は出てこないですもんね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

賞味期限ものはその値段で決めるというより
総合的な妥協ラインで選ぶものかも。

お礼日時:2022/10/26 19:43

★ (№23お礼欄)


人に期待して裏切られると約束違反に憤慨するや失念を感じ
悪態つきつつ、つかれつつになりますね。
神なら宇宙にかけて裏切ることはない(笑)と期待してしまう。

☆ 《悪》の問題については これまでのところ 次の見解を用意していますが どうもご質問の文脈では もっとしゃれた応答がのぞまれる・・・かも知れない。

【Q:悪は 善から出る。善は うつろいゆかざるを得ない限界のあるチカラゆえ ふと曲がる。】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13169317.html


☆ いまの時点で みこでしさんは 次の文を書かれたときとは考えが変わっておられるかも知れないと思いつつですが その問いかけの形式で話をすすめてみようと思います。

★★ (№21お礼欄)
神様が人間に「言葉の責任」をとった例などありましたら
☆ すなわち 端的に言って 神がエワとアダムなる人間を――自由意志の行使においてそれを言わば煽るようなかたちで――そそのかしたその責任を 神は 取ったことがあります。


つまり イエス・キリストを十字架上にはりつけになるのを見捨てたときです。

自分の独り子を いけにえに供して 人間を〔へびを通じてですが〕悪へとそそのかしたみづからのいたづらの責任を取った。


人間は あとは よかれあしかれ自由意志が授かっているのだから それをうつくしく行使して みんなで社会的共生を実現して欲しい・・・と神は言っているのではないかと思います。


☆ 例によって飛躍がありますが どんな感じですかね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>みんなで社会的共生を実現
外面は大変良い。救われる人多数。ですが内弁慶極まれり!

みんなですればどうなるんだ~

お礼日時:2022/10/24 10:52

露出つづきで申し訳ありません。



★ (№21お礼欄)
「謝ったら普通にずっと負け」とか
「賢い人は人をバカ呼ばわりするのが妥当」
そんなのがあるでしょうか?

☆ この相対的で限りある経験世界での人間のあいだに起こるものごとにかんしては みな どっちもどっちです。どんぐりの背比べ 目糞鼻糞を笑うのたぐいです。

程度問題でしょう。と思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

誰と誰の関係においての経験を言うのかです。
責任の所在を神とか宇宙とかハイヤーセルフとかだと
非力で貧しい一個人など相対的ですらあれない。

勝手に「謎保証人からの推薦状」及び「催促状」を
「手前で書く」
これって、自己満足以外にあるのは何なのか?

お礼日時:2022/10/31 13:52

★ (№21お礼欄)


手入れされた自然の庭の素晴らしさは
移り変わる季節との同時性の中でも策略の持続性。
世界とも対等な形となっている。
☆ 人工的にして自然という姿は 人間の知性の成し得る傑作であり しかもその根っ子ではなお 感性の原野における〔いかに原野だと言えども〕その感性のゆたかさが 環境自然と唱和しているのでしょうか。



★ 思考の縁野=疑わしさを抱いている(原草原)
☆ なるほど。《原草原》といった・たぶん感性の原野とのつながりを成す部域をも想定する。

そして どちらかと言うと 感覚的反応など知覚について 理性において確かめる・〔そのまま認識してよいかどうかを〕うたがってみるといった反応の段階をとらえておく。ですか。



★ 重力、風、雨、太陽のように
自然なままなのようであらゆる作用に従わされる。
☆ それは そうですね。大自然に対して たいていは 人間は受け身です。


★ 責任者不明で現され押し付けられたもの以外の何物でもない。
鵜呑みすることは予見能力を行使され得ないままで
謎パワーにちっぽけな自分をひしひしと感じてしまいす。
☆ でも さまざまな現象として推移するその大いなる自然は じつに 神ではありません。単なる経験事象です。




★ 神様が人間に「言葉の責任」をとった例などありましたら
私は即座に思いつかなくて教えてください。
☆ これは 人間に特有の《悪》の問題です。

動物は 生き物をころしても 善悪の問題になじまない《生き物生活》を送っています。



人間の悪をめぐってですが この問題はあらためてくわしく説明させていただきたいと思っています。



とりあえず簡単に:

アダムとエワが 禁じておいた善悪を知る木から採って食べるようになることを神は 初めから知っていた。

そのように約束をまもるか破るかを選択するという自由意志をあたえたからには どちらの自由も その自由度にはあった。

だから 言ってみれば 神が人間に約束をやぶらせたに過ぎない。その:
★ 「言葉の責任」
☆ をどうするのか?


こういう問題だと思います。
(解釈を ひねって作っています。責任といえば 現象としてエワやアダムの約束違反にあり ひるがえって全体観に立てば 神が人に自由意志をあたえたことにある と)。

この問題 あらためての投稿にさせてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

人に期待して裏切られると約束違反に憤慨するや失念を感じ
悪態つきつつ、つかれつつになりますね。
神なら宇宙にかけて裏切ることはない(笑)と期待してしまう。

お礼日時:2022/10/24 07:14

コメントをありがとうございます。



応答させていただきます。


★ (№21お礼欄)
非思考の庭=信じる
信じさせようと努めるが同時に信じすぎないようにするんですね。
☆ 
1. 感性の原野や思考の緑野でも その人の主観は 自由で主体的である。これが 基本です。

(証明抜きの公理としてです。おのおのが自由でなければ 平等といった概念も出て来ません)。

2. ましてや ナゾの非思考の庭では 他人の意志行為が入る余地はありません。

(信教・良心の自由)。

3. 自分ひとりとしても:
★ 〔自分に神を〕信じさせようと努める
☆ ことは あり得ませんし また:
★ 信じすぎ
☆ るといった事態もあり得ません。


4. なぜなら 《信じる》は 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ(すなわち 非知)》が相手なのですから 《信じる度合いが薄いとか濃すぎる》といった事態は 認識できないはずです。

5. 知覚して何か認識できているものにかんしては《信じるように努める》とか《信じすぎた》といったことが 起こり得ますが それは実は 《その認識内容がただしいと強く思うとか強く思い込む》といったことでしかないわけです。

(つまりそれは 思考の緑野で起きている現象です)。

6. 《信じ方が 薄い・濃い》などという事態が起こったなら その相手は《可知で既知か未知のもの または不可知なもの》 これらのいづれかの経験事象でしかないんです。



7. 非知を相手にする場合は 《そのナゾを受け容れるかどうか》だけです。

8. しかも この場合《受け容れない》という決心をしたときにも 《受け容れないというかたちで 非知なるナゾを受け留めた》ことになります。
《〈信じない〉というかたちで その非知と じつはすでにカカハリを持った》ということです。

9. このカカハリは その相手が絶対性であり こちらは人として相対的な存在であるからには 誰もまぬかれることはないわけです。いやなら ただ嫌だと言うしかないです。

10. いくら嫌いでも そんな神とやらは おれっちにはお呼びでないのぢゃ うせろ! と言って〔負のかたちで〕カカハリを持つに到ることになるだけです。

11. したがって 普遍神とわれとのカカハリ(つまり 信じる)は 《有る神》派か《無い神》派かのいづれか一つの――それとして具体的な――かたちにおさまります。

12. 無神論というのは 《神など いない・いるわけないぢゃん!》とバカにして言っているのであって 《信じないと信じる》などということはあり得んわい! ――という向きには では そのこと(神はいない)を証明してもらいましょう・・・とお返ししておしまいです。


☆ もっとも重要な事項であると思い 重ね重ね説明いたしました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

神の言葉は普遍妥当性を持つ(絶対)なのですね。

「謝ったら普通にずっと負け」とか
「賢い人は人をバカ呼ばわりするのが妥当」
そんなのがあるでしょうか?

お礼日時:2022/10/24 07:03

★ (№20お礼欄)


当然のように何か信じて居たいのが人の心情で。
でも生きることは疑わしさからも逃れられない。

☆ いえ。《信じる》は 狭義に《信じる》のほかには 《うたがっている》ではなく 《信じない》を同時にふくみます。


☆☆ 《信じる》=非思考の庭
☆ ですから――つまり 《思考〔および感覚〕に非ず》なのですから―― 《信じて居たいといった心情》ではなく また《疑わしさを抱いている》のでもないのです。それらは 《思考の緑野》にとどまっています。


かさねて述べますと 広義の《信じる》には《狭義の信じる》とそして《〈信じない〉と信じる》とが 同時にあります。

言いかえると 信仰は《有る神》派か《無い神》派かに分かれ 同時に自由にいづれか一方がえらばれて じっさいには推移します。




普遍神の信仰は 有神論か無神論かに自由に互いに同等・対等なかたちで じっさいには分かれます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

非思考の庭=信じる
信じさせようと努めるが同時に信じすぎないようにするんですね。
手入れされた自然の庭の素晴らしさは
移り変わる季節との同時性の中でも策略の持続性。
世界とも対等な形となっている。

思考の縁野=疑わしさを抱いている(原草原)
重力、風、雨、太陽のように
自然なままなのようであらゆる作用に従わされる。
責任者不明で現され押し付けられたもの以外の何物でもない。
鵜呑みすることは予見能力を行使され得ないままで
謎パワーにちっぽけな自分をひしひしと感じてしまいす。

神様が人間に「言葉の責任」をとった例などありましたら
私は即座に思いつかなくて教えてください。

お礼日時:2022/10/24 03:40

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