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我々が夢から覚醒の真実在に移るため・・・

車輪の切断面の一点に印をつけ回転させ眺めたとする。
するとその回転の中心部に於いてはより早く
周辺に於いてはより遅く去来するのを見る。

最初は一切が虚偽で神をも非難する。
無数の直接的な真実の影が言葉を操りその外観を捉えたとしても
全き姿のままに、そしてその中心を捉えることも不可能である。

運動の速度を測定しうるような単純な運動を見つけてこない限り
一見何かの映像か射影のように見えその状態は奇妙なものという認識で
真実と云う訳ではない。

我々がその運動を理解出来るのは
その本来の像面が立方体を構成している姿と理解する時のみである。


質問 ☆彡
「急いで結論を下そうとしない限り誰も誤謬(ごびゅう)を考える事が出来ない。」
とはどういうことですか?

御無沙汰しておりました。誰か私を覚えてくれている人は居ますか?

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    ありがとうございます。
    説明不足がありました、比較された双方の車輪があるのではなく、同一上の車輪でです。
    又のお返事をお待ちしております。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/10/19 10:48

A 回答 (29件中11~20件)

しゃしゃり出たい欲望に勝てなかったわたしがいます。




問い求めをみなで進めるための交通整理みたいな図式を披露します。


1. みこでしさんが《感性・感覚・感情》とおっしゃっているものは そのまま《直感》とよばれる言わば個別のものごとにかんする感知もあれば 必ずしもそうではなく むしろ感性やまた思考をも超えたところにかかわる《直観》をもふくめておられるかも知れない。

2. このあとのほうの《直観》を とりわけヒラメキと呼んでいるのですが――天与の啓示などともよばれるそれですが―― これは 特に全体観を帯びることとして捉えたいわけです。

2-1. 《イデア》にかかわらせるご議論もすでにありました。


3. となると――例によって飛躍をおそれずにすすめますが―― ヒラメキとは 端的に《神とわれとのカカハリにおいて起きる現象》であり 湧き出る知性のみなもとを成すチカラでありうる。



4. 〈図1〉 神とわれとのカカハリ・その全体を概観

【非経験の場】:カミ
______________________[絶対のへだたり]
【経験世界】:ヒト:自然本性=身と心

  【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
  【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス



5. 絶対のへだたりを超えて 神の声(またはチカラ)がわれにやって来得る。
それは 《心の明け(=信じる)》としての窓をとおしてである。
そこでは 《自然本性+α》としての霊我または生命性(アートマンまたはブッダター(仏性)またはスピリトゥス)がやどると想定されている。



6. 〈図2〉 《信じる》という契機を設定する

【非経験の場】:カミ
______________________[絶対のへだたり]
【経験世界】:ヒト

 【 +α(霊我)】信じる:非思考の庭:クレド(ヒラメキ・良心)
 -----------------------------
 【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
 【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス




7. 前項の図解は すでに動態であるので そのウゴキを交えてくわしく示します。

〈図3〉 《かみ と ひと のカカハリ》は 動態過程である  

超自然なるカミ:【非知なるナゾ】非経験の場:真理・生命・道
  ↓       ↑             ↓   ↓
______________________________
自然本性たるヒト: ↑             ↓   ↓
【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:クレド:ヒラメキ・良心
------------------------------
 [経験世界]                  ↓   ↓
【心】   :考える:思考の緑野:コギト:  直感   ↓
【身】   :感じる:感性の原野:センスス:ヤマシサ反応(恥)


 ☆ ヤマシサ反応:よからぬことを思ったりそれを実行に移そ
    うとすると 胸騒ぎがして 顔が赤らんだり青くなった
    り そしてまた舌がしどろもどろになったりする。その
    反応です。
        これによって 自己の感覚や思考そして行動が
    社会的動物たるひとの自然本性ないしその意味での人間
    性に沿ったものであるかどうかが おおむね明らかにな
    ると思われる。


8. 《真実》問題は こういった人間の出発点から入るのではないか。

じっさいの思想や現実の世界における行動や事態についてのそれ(真実問題)は――人びとそれぞれの利害関係について考慮せざるを得ず その関係は社会的に錯綜しているゆえ―― 一義的に解の出る状態ではないでしょうが。

この現実問題について みなさんは考えておられるわけですから どこまで有効か心もとないですが ひとまづ《出発点》のお話です。(と思っています)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

当然のように何か信じて居たいのが人の心情で。
でも生きることは疑わしさからも逃れられない。

お礼日時:2022/10/22 15:26

>自分の定義としては「滑りやすい坂の論法」が候補に挙がるかもしれない。


「私らしさ」と「もはや私ではない」の狭間で。


ふふ、立派な見解だと思います。上から目線では無くて、まるで自分のことを言い抜かれているような気になりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

どこから私と違うのか、どこまで私の残余であるか。

お礼日時:2022/10/22 13:07

【感情論をどう正当化させるか】


たしかに感情・情動は世界・意味・価値の口火みたいです(欲望論)
その正当な位置は世界の中心かもです。
感情は生きていると変化するので、ほんとうの感情論だと結論が出ず、独断論としての誤謬にも至らないかもです。

生きている心が生み出す世界は車輪より噴水や火山のイメージです。
中心から差異(神?)が溢れ出て、火口付近は流れが速く

火口の息吹(湧出する今・差異・不確かさ・連想やブレスト)と
裾野の広がり(過去・同一性・確かさ・普遍認識の構成)は相補的です。
車(立方体?)の両輪みたいに。人文領域と科学領域も。

(クリヤさん マシュマロさん バナナサンドさん マイマイススさん 人の道さんもいました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>たしかに感情・情動は世界・意味・価値の口火みたいです(欲望論)
その正当な位置は世界の中心かもです。

「感情の支配力」を「重力」として
回転する車輪は独自の力と中心を持てます。
それが個や全体としても自由なのかというと
感情を実在するとするのは我故にだけで。

東洋の思想には自然崇拝や多神教があって、
現象学的西洋思想より偏見が少ない。

なので火口のような溢れる実在としてが自由にあるよに思えました。

お礼日時:2022/10/22 12:56

№15です。



わたしのほうに強引さがあったかも知れません。

必ずしも的外れだとは限らないようにも思っているのですが このあたりで飛躍した推理推測はつつしむべきだと感じます。


知覚のお話。ていねいな分析。そういったくわしい要素分析にもとづく推論をすすめるべきだというご議論にも 賛成せざるを得ないと思います。

みまもってまいります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私が生き続けていても、死んでも驚かないでください。
つまり、そのまま、普通にしていてください。

お礼日時:2022/10/21 22:59

>何かと枠に収まらない方のよう。


自然にそう成ってしまってしまったものは独善も偽善でもないのでしょうね。

自己の内的な規定、つまり自分ルール、自分の生き方を持つことが良いのかなと思いました。

私もこれがなくて長い間悩んだ経験があります。

Google検索や書店店頭でも、自分の悩みを解決してくれる助言は結構得られて、そんな身近なものに気がつけるようになったんだなあと思えることも、一つの成長のように感じました。

外的な枠ではなくて、内的な枠を求められては如何でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

自分の定義としては「滑りやすい坂の論法」が候補に挙がるかもしれない。
「私らしさ」と「もはや私ではない」の狭間で。

お礼日時:2022/10/21 15:57

説明だけしるします。



★ (№14お礼欄)
神や真実が見えたとして、物理学、確立や統計学的に賢明な姿である?
哲学はなぜか「愚かしいそのものなところ」から出発するような気がして

☆ それは 出発点が《愚かしいところ》からであってもなくても・哲学であろうとなかろうと とにかく:
★ 神や真実が見えた
☆ なら ひとまづそれでいいわけなのだと思うのですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

愚かしさの価値観は人それぞれなものがあるでしょうね。

五感には序列や優劣があって
「百聞は一見に如かず」精神活動にとってもで
視覚は情報を授ける感覚の王として君臨するも真偽はあやふや。
聴覚は非日常的な音もお告げ?も偽りなく届くままな感じ。

視覚アンチが触覚で
触覚は先入観や自己同化の否定から入れませんから
感覚の序列としては最下位にされている。
視力のない、或いは見え方の違う生物も沢山居る。
ピカソとかキュイビズムの絵は時間軸を含めた四次元を
二次元に落とし込んで描いた?

お礼日時:2022/10/21 15:43

★ (№13お礼欄)


可能を善、正義、賢明、と置き換えて考えてもみようと思いました。

☆ ほかの方々の優秀な回答内容を思うと あまりにも表層すぎるかとおそれつつ――ですから もうこの一投で退散ですが―― 次のように考えていた結果の回答№13でしたという説明です。



つまり:
★ 善、正義、賢明
☆ といったよき概念の《背後に・あるいは根底に》 すでに――みこでしさんは――見るべきものを見てしまっている。のではないか。

かすかにでも すでに:
★ 車輪の回転の安定生や持続性
☆ のはるかかなたに:
★ 真実の影
☆ ではなく:
★ 真実 ないし 全き姿のまま
☆ が見えているという瞬間を経験したのではないか。

こういったイメージを持ちました…という意味です。強引ですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

神や真実が見えたとして、物理学、確立や統計学的に賢明な姿である?
哲学はなぜか「愚かしいそのものなところ」から出発するような気がして

お礼日時:2022/10/21 13:22

みこでしさん あらためまして こんにちは。

前回(№9)は なつかしさだけで投稿してしまいました。




さて いまも むつかしいです。

我が田に引き寄せて考えることがあった点についてだけ触れます。

★ (趣旨説明欄)
全き姿のままに、そしてその中心を捉えることも不可能である。

☆ この命題には 実のところ《全き姿が・そしてその中心が 分かったという場合が――自己においてであれ他の誰かであれ――あった》ということを前提にしていると思います。《不可能》と言いつつ すでにです。

(直観ないしヒラメキとしてなどです)。

それで この一点について掘り下げてみるのが よいのではないか。・・・こういうことを思いましたね。


《仮象だけを見てそれをどれだけ分析していても 目標に到ることは不可能だと思えることが じつは 〈可能に成った〉という瞬間をすでに――まぼろしのごとくにでも――経験して来ている》のではないか? です。



むろん:
★ 我々が夢から覚醒の真実在に移るため・・・
☆ です。

そして その過程では:
★ 兎と亀
☆ の早い遅いの問題がついて来ると思いますが それは 大したことではないと思いますから。




★ ・・・神をも非難する
☆ という言葉には 神をまったき姿において 実はわれはいつぞや見たかも知れないといったふくみがあるように思ったのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

車輪の中心は密度が高く、周辺も”可能”な限り均一で、
例えば誠実であるほど車輪の回転の安定生や持続性を保つ。

可能を善、正義、賢明、と置き換えて考えてもみようと思いました。

お礼日時:2022/10/21 08:06

>本人は自分自身の気まぐれから逃れられないこと本当に困ってしまいます!<



ふふ、私も似たようなものです。行き当たりばったり、何も成し遂げることが出来ずにここまで来ました。

>そこから書いた人さえ気づいてなかった人格?が形成されたり発展して
第三の"何か"を現してしまうことが起きて
両者で楽しめる解釈を見つけられるかもしれませんよね。<

ふふ、おもしろいことを考えられますね。そういう事もあってよいのかもと思いました。今回は正に、その様な現象に遭遇してしまったような気でおります。

それにしても、なんだかんだ、長期的にこのカテゴリを観測してる人、参加している人が結構おられるのですね。

こういう討論が出来るメディアの変遷もあり、幾分か”昔”になってしまった感は否めませんが、懐かしい。ただただ、楽しかった。リトルキスさん辺りは20年前くらいからお見かけしていますね。
 
若く、新しい知性を持った方たちは今、何処で言葉を紡いでいるのでしょうね。ネット上の何処かにはおられると思いますが、それがSNSなのか、こういったQAサイトなのか、5ちゃんのような巨大掲示板群なのか、或いはネット上の活動は控えていて、何処かで小さなコミュニティを築いておられるのか。

私はこの手の話、形而上学が好きで、GOOやOKWAVEで長くお話相手をしていただいておりますが、何処かのカフェで、じっくりと皆様と対面でお話しできる機会などあればよいなと思ったりもします。

日常には、このようなお話を出来る機会がほぼ無ありませんから。

巫女弟子さん(漢字表記はこうだと勝手に思ってます^^)、お元気そうで何よりです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

何かと枠に収まらない方のよう。
自然にそう成ってしまってしまったものは独善も偽善でもないのでしょうね。

お礼日時:2022/10/21 08:14

平安時代の貴族が「どの程度」社会のことを考えずに遊びほうけていたかということには、諸論あるでしょう。



申し上げた趣旨は、「現代が」です。重大な諸問題を抱えているにもかかわらず、「頑張りすぎず」「楽しむ事」を旨とする人が多いということが少し不思議だということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

不思議じゃない事も不思議なこと。
量と質の問い方の違いなのだろうか?

お礼日時:2022/10/20 14:43

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