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と口をすっぱくして言っているのに どうして思考の緑野においてだけ読んで
おしまいとするのか?


        *


▲ (アウグスティヌスと神) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて

  見るべきものがある
  だがそれを見うるだけの者にまだ
  私はなっていない

ということをお示しになりました。

そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので
私は愛と恐れにわななきました。

そしてあなたからはるかにへだたり
似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。

そのときはるかに高いところから

  私はおとなの食べ物だ。

  成長して私を食べられるようになれ。

  食べると言っても 肉体の食物のように

  おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

  逆に おまえが私に変わるのだ。

――というみ声を聞いたように思いました。

          (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)


▲ (アウグスティヌスとヨブ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

神はヨブが試されることを悪魔に許した。

ヨブは試された。

悪魔は困惑させられた。

ヨブが神を自由に礼拝すること 神を自由に愛することを見出したからです。

神がヨブに何か〔ちから〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから
去りたまわなかったからであります。

ヨブは言っております。

  主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
  主の御名はほむべきかな。(ヨブ記 1:21)

と。
試練の火はかれに迫った。

しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。
 
その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。

  (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 
   茂泉昭男訳 )

▲ (罪が消される!?)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  かの全能者は 
  最初の人(アダムとエワ)からであれ 
  その後に加えられたわたしたちの意志からであれ 
  わたしたちに起こっている悪を
  その満ちあふれる恩恵によって
  滅ぼしている。
  ( cf. エペソ書 2:1-10)

(アウグスティヌス:ユリアヌス駁論 1・5〔情欲論〕 金子晴勇訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (4件)

「心」で十分。


文学的表現なんて必要ない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 「心」で十分。
☆ ただし きわめてあいまいになります。

○ こころ
 ① 感性(知覚・気持ち)  (感性の原野)
 ② 精神(記憶・知解・意志)(思考の緑野)
 ③ 霊性(超自然)     (非思考の庭)

○ たましい
 ① 感性
 ② 精神
 ③ 霊性

○ 霊性
 ③ 霊性

○ 自然本性 + α
 ① 身(身体):感性
 ② 心(精神):知性
 ③ α(霊性)

お礼日時:2019/06/19 18:06

霊とゆー言葉は使うべきではないです。


幽霊、心霊、霊友会、・・・いずれも無教養、ないしはカルトが用いる表現だから。
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この回答へのお礼

ぢゃあ エーテルですかね?


非経験の場(ないしチカラ)を表わすのに いまのところ 《霊・霊性》が
よいでしょう。《たましい》は 別の文学的な表現になるかと。


ご回答をありがとうございます。


どうですかね?

お礼日時:2019/06/19 16:32

キリスト者の礼拝。

聖日に集まって祈り、讃美し、みことばを聞き
礼拝することは何にもまして大切であり
それを否定することはできません。

ただ一点。やはりキリスト者も人間。
自我から自由ではないことです。神が語られた、と思うそのことも
実は自分の考えであるかもしれません。

人間とは、複雑な存在。
語られる聖書の言葉の解釈は千差万別ですし
その時の心の状態によって
同じ言葉でも違ったように響くことがあります。

それでも重要なことは、神を礼拝する姿勢です。
自分が土の器にしか過ぎない者であることを
自覚して、神に明け渡していくことです。
人間はそれほど我というものが強いので
何度も何度も悔い改めなければならない
ものなのでしょう。
おそらく死ぬ間際まで。

人間は神になることはできません。
それでいいんじゃないでしょうか。
偉くなろうと思うことは傲慢です。
神さまが教えようとされることに耳を傾けて
日々、生きることが求められています。

性格が一人一人違うように
きっと、私たちひとりひとり託されたことは
違うと思いますが、
それを真剣に尋ね求めて、毎日の生活を送ることが
霊性によって聖書を受け取ることではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリスト者の礼拝。聖日に集まって祈り、讃美し、みことばを聞き
礼拝することは何にもまして大切であり
それを否定することはできません。
☆ という聖霊の声を聞きましたか?

★ ただ一点。やはりキリスト者も人間。
自我から自由ではないことです。神が語られた、と思うそのことも
実は自分の考えであるかもしれません。
☆ そうですが それは 自分の主観の内での問題だと心得ていれば
だいじょうぶです。特殊絶対性として 個別にわたしの信仰内容はそれ
として ゆるされるはずです。

★ 人間とは、複雑な存在。
語られる聖書の言葉の解釈は千差万別ですし
その時の心の状態によって
同じ言葉でも違ったように響くことがあります。
☆ 特に相手のある問題のばあいは その相手との関係において・相
手の思わくに合わせて 対処することになるでしょうから。

★ それでも重要なことは、神を礼拝する姿勢です。
☆ いえ。いのっているときに いさかいのことを思い出したなら 
その場をそっちのけにして問題をかかえている相手のところに行って 
仲直りしなければなりません。


★ 自分が土の器にしか過ぎない者であることを
自覚して、神に明け渡していくことです。
☆ ううーん。それは 神がつねにすでに見ていてくれていると思う
のですが。

★ 人間はそれほど我というものが強いので
何度も何度も悔い改めなければならない
ものなのでしょう。
おそらく死ぬ間際まで。
☆ ですから その悪を聖霊がめぐみとして消してくれています。

★ 人間は神になることはできません。
☆ 神キリストのちからによってですが キリスト・イエスよりもさ
らに大きなわざを成すようになると言われました。


★ ・・・霊性によって聖書を受け取ることではないでしょうか。
☆ そうなのですが・文句はないのですが げんみつに言えば 聖霊
が《勝手に(われわれの知らないところで知らない手段で)》ヒラメ
キや言わば元気の素をあたえてくれている・・・という理解です。

《受け取る》のは はじめの信仰の成立のときにおこなうことです。

あとは 信仰にしたがってと言うのも間違いでさえあるかのごとく
聖霊のほうが 必要なもの(ちから)をあたえてくれるのだと見ます。

つまり 神は神にさからっている人をもみちびきます。

お礼日時:2019/06/19 13:30

神は私たちの礼拝を求め、主催し、喜んでおられます。

神は、私たちが集まり、讃美を歌い、祈りを捧げ、御言葉によって養われることを願っておられます。神に招かれ招待されているので、日曜礼拝に今日も行って参ります。霊性でいつもメッセージは受け取ります。聖書からも、牧師の説教からも。クリスチャンなら普通です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 神は私たちの礼拝を求め、主催し、喜んでおられます。
☆ そうですね。個人的な話をすれば わたしは 水による洗礼を受け
ていません。

アウグスティヌスをつうじてみちびかれましたが このように水のバプ
テスマをこばんで かれに背向いてもいます。

ここで わざわざ・ことさら クリスチャンの方に物言いをのべてみま
しょう。

いのると言いますが 神はすでにそのようなわたしのウゴキと心とを知
っているはずです。

わたし〔たち〕の振る舞いや仕事について神がよろこぶと言っても わ
たしたちは いのちの書に名前が書かれたことをよろこぶのみであって
いちいち 神の子であることをほこるのも どうでしょう。


★ 神は、私たちが集まり、讃美を歌い、祈りを捧げ、御言葉によって
養われることを願っておられます。
☆ と ことを大きくして囃すこともないのではないでしょうか?


★ 神に招かれ招待されているので、日曜礼拝に今日も行って参ります。
☆ だから 敬虔であるというのは 筋がちがいます。自分が招かれて
いることをこそ ありがたがるのですが それは ふつうは つつしん
でおこないます。


★ 霊性でいつもメッセージは受け取ります。
☆ それは すごい。うらやましく思います。

★ 聖書からも、牧師の説教からも。クリスチャンなら普通です。
☆ まぁ 世界の出来事のすべてが 神からのメールであると言います
が。

お礼日時:2019/06/16 09:22

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