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哲学諸賢にとっては、(たぶん)非常に初歩的な質問で恐縮ですが、悪魔って、元々は天使だったんですか?
キリスト教としては、どういう認識になっているのか?
という観点で教えてください。
以下は、ウィキの記述です。
【ルシファー (Lucifer) は、明けの明星を指すラテン語であり、光をもたらす者という意味をもつ悪魔・堕天使の名である。正統キリスト教、特に西方教会(カトリック教会やプロテスタント)において、堕天使の長であるサタンの別名であり、魔王サタンの堕落前の天使としての呼称である】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B7 …
この記述が正しいとした場合、ルシファーという天使が「堕落」してサタンという悪魔になった、ということになると思うのですが、「堕落」とは何を指すのかあたりも含めて、詳しい方、平易な言葉で少し解説していただけませんか。
端的に言うと、神と悪魔は紙一重的な解釈になっているのか、そういう意味ではない、のか?
ということです。

質問者からの補足コメント

  • 16.
    >☆ 意味がよく取れません。《〈神にも言える〉と推測しうる》という意味ですか?

    いえ、《〈神にも言える〉と論理的にならざるを得ないでしょう》という意味です。
    >マツリゴトの親分となって人民を支配するという魂胆は 神にもあると言えるのではない
    かということですか?

    おっしゃるとおりです。

    18.
    (11)――★ 人間が存在しなくても絶対は存在し続けますが、しかし、その場合、もはや神というものは存在できないはずでしょう。
    ☆《人間が存在しなくても絶対は存在し続けますが》というひとつの命題の内にすでに《その絶対なる存在とは 神とも人間が呼ぶ存在のことだ》という意味がふくまれているのですが?

    人間が存在しなくても(神と名づける以前の)絶対は存在し続けますが、しかし、その場合、もはや神というものは存在できないはずでしょう。
    のように言い換えれば通じるでしょうか。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2015/12/30 23:38
  • こちらの見落とし
    (12.最高の地位にある聖職者つまり人間が説いてまわるなら~~当分のあいだ(たとえば千年)は 可能である、という部分)によって、論点がずれてしまった感がありますね。
    この点はお詫びしておく必要がありそうです。

    31. 
    ☆ 神は関係ありません。《ルシファー》なる人間が思惟し行動するというだけの問
    題です。
    神のことを話にいくら出したとしても 神はかかわっていません。

    ただですね、従者として天使だった存在に対して関係ない、と言うのもどうなのか、という気がするわけです。
    そうしたことも含めて、さらに話は膨らんでいくでしょうが、その前に、天使と悪魔の違いについて、もう少し詰めておきたいと考えています。

    No.17の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/01/01 00:05
  • 「堕落」とは何を指すのか。
    神と悪魔は紙一重的な解釈になっているのか、
    などを知りたいと思っていたわけですが、司会進行がまずかったようで、場を改めたいと思います。
    みなさんのご回答、おかげさまで、それなりに参考になりました。

      補足日時:2016/01/03 22:27

A 回答 (22件中1~10件)

58. ★(№20お礼欄) 「人間がつくった」ものは、「人間の [ 仮りに思想として


説明した ] 」ものではない、とおっしゃっていることになりますが、それでよろしいんで
すね?
☆ よろしいです。
《仮りの説明》は 《つくった観念の神》ではなく 非知なる神を発見した(あるいは想
定している)という前提のもとにあります。観念の神を 本体たる神の補助線だと捉えて
いることになるので まったく関係がないとは言えませんが。

59. ★ 44.

つまり、神に恣意性は無いということじゃないんですか?
☆ そういうひとつの規定だけを決めつけることは出来ないでしょうね 神については。
じっさい 推測ですし そういう場合は 人間が神について忖度したという言い方がされ
るようです。
ぎゃくに言えば 人間が――非知なる想定のもとでなら――どんなに恣意的に神のことを
思い描いてみたり名前づけをしてみたりしても 自由でありかまわないわけです。

60. ★ 45.

いや、ですから、その(=人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません。)
ように存在意味があるかの如く表現するのは、いかがなものですか?と言っています。特に
難しいことは言ってないと思うんですがね。
☆ 前項にも触れていますし ほかでも何度も述べたと思いますが 神については いかよ
うにも想像してもよろしいでしょうし もしマチガイであるなら非知なる想定の定義に照ら
してそのマチガイが分かるようになります。
この《人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません》という説明は 非知
なる想定前提に不都合はもたらしません。

61. ★ 「神は 何とも影響も何も受けません。」ではなく、そもそも存在しないもの
に対して、そういう表現はおかしいんじゃありませんか?ということ。
☆ ですから 《非知》は 《存在するかしないかが 人間には分からず 分かるか分から
ないかが分からないナゾ》であると説明しています。

62. ★ 違うとおっしゃるなら、神は存在する、と言っていることになりますよ? ど
うなんですか?
☆ 《非経験の場》として――因果関係から自由な場という想定として――捉えた神は や
はり非知であると説明しています。

63. 存在するかしないかが分からないので――つまり原因と結果との関係性から自由な
場なので 《有る》か《無い》かが決められないので――仮りに神のことを思い描いた場合
にはそれぞれが好きなように 《神は存在する》でもよいし《神は存在しない。つまり〈無
い神〉がある》と捉えてもよい。ということになります。

64. 有る神も無い神も ともに普遍神の一環であるとなります。

65. ★ 46.

『人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません』と言いつつ、ご自分の「神
論」だけは展開したいわけですか。
☆ 世界にはどの言語にも《かみ》という言葉が持たれています。これが何を意味するかを明
らかにするのは 哲学のつとめです。

66. ★ まあ、それは自由ですが、アホとかキチガイとか言わなければ説明できないよう
なら、無理をしないほうがよろしいんじゃないですかね。 / せっかくの「神論」も、見苦しい
印象しか残さないでしょう。
☆ まあ 《それは自由です》。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
要点だけについて触れます。

>61. ★ 「神は 何とも影響も何も受けません。」ではなく、そもそも存在しないもの
に対して、そういう表現はおかしいんじゃありませんか?ということ。
☆ ですから 《非知》は 《存在するかしないかが 人間には分からず 分かるか分から
ないかが分からないナゾ》であると説明しています。

まあ、それはわかるんですが、しかし、そうであるなら、いると言っても、いないと言っても、それは自由なんじゃありませんかね。非知なんだから。引き続き、
>☆ 世界にはどの言語にも《かみ》という言葉が持たれています。これが何を意味するかを明
らかにするのは 哲学のつとめです。

ともおっしゃっていて、これはこれでわかりますが、いると思いたい人、いないと思いたい人、それぞれ好きにすれば良いだけで、非知かどうかなどということが、どういった本質に結びつくのか極めて不可解な印象を受けます。
まあ、締め切り宣言をしてから反論をお待ちしたことでもありますし、今回はとりあえずこんなところで。

お礼日時:2016/01/03 23:06

50. 天使について。



51. 旧約聖書のへブル語では マルアクと言ってやはり《使い》を言う。細かくは
《遣わされつつある》という意味らしい。ヰキぺなどを参照ねがいます。

52. 次の四つが主要な天使であるらしい。
ミカエル:《誰か(ミー)神(エル)のごとく(カー)あるか(この be 動詞は省略)》
ガブリエル:《神(エル)は我が(イー)ちから(ガブリ)なり》
ラファエル:《神(エル)は 癒し(ラファ―)なり》
ウリーエル:《神(エル)は我が(イー)光(炎)(ウリー)なり》

53. けっきょく 神をたたえ(ミカエル) あとはそのインスピレーションを告げ
知らされることによって《ちからと成り(ガブリエル) 癒しとなり(ラファ―エル)
そして〔おそらく〕知恵なる光となる(ウリーエル)》と言っている。

54. 《ヒラメキとしての 神からの使い》という機能のほかに こうして見ると言
わば日本風に言って《守護霊》のごとく捉えられているかに見える。

55. 《ことば》が用いられていることにかんがみて そのコトバという視点で天使
を位置づけてみよう。

56. ことばとしての天使の位置づけ

○ (言わば ことばの階層) ~~~~~~~

  (α) 神としてのことば (非経験の場:非知)

  (α’) 天使としてのことば  (非知と人間の経験知とのあいだの取り次ぎ)

  (β・γ) 経験事象としての光なることば (ヒラメキ霊感・直感・直観)  

  (δ) 人間のことば (思考また 感覚を表わした言葉)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


57. 別の図式でとらえる。《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。

○ (ロゴスの階層) ~~~~~~~~~~~

  (α) スピリトゥス=ロゴス(α):神

  (α’) 天使(α’):ロゴス(α)の使い:クレド(非知なるナゾの非思考の庭)

  (β) インスピレーション=ロゴス(β):異言
         :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  (γ) インスピレーション=ロゴス(γ):預言
         :本質を見抜くようなヒラメキ=直観
          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  (δ) ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考の緑野(および感性の原野)
         :経験合理性にもとづこうとする論理。感性の秩序

  * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>52. 次の四つが主要な天使であるらしい。
ミカエル:《誰か(ミー)神(エル)のごとく(カー)あるか(この be 動詞は省略)》
ガブリエル:《神(エル)は我が(イー)ちから(ガブリ)なり》
ラファエル:《神(エル)は 癒し(ラファ―)なり》
ウリーエル:《神(エル)は我が(イー)光(炎)(ウリー)なり》
>53. けっきょく 神をたたえ(ミカエル) あとはそのインスピレーションを告げ
知らされることによって《ちからと成り(ガブリエル) 癒しとなり(ラファ―エル)
そして〔おそらく〕知恵なる光となる(ウリーエル)》と言っている。

それなりに面白いですが、わたしが聞いているのは、それ以前の、天使の存在意義(登場意義)と、キリスト者の受け止め方です。

お礼日時:2016/01/03 22:26

№18です。



40. ★ >34.

《・・・人間のつくった思想でしかない神観を最高の地位にある聖職者つまり人間が説いて
まわるなら・・・》⇒神の絶対性を否定していることになる。
ということですね。
☆ (あ) 神について人間が否定しようが肯定しようが 神にとっては何ともありません。
(い) 《絶対》が 人間のチカラによって変わったり無くなったりすることはありません。
(う) たとえばローマ法王が 神〔という概念あるいは そういう観念の神〕を利用して
自分たちの支配を築くという人間と社会の出来事です。

41. ★ ~~~~~~~~~~~
ここで本質的な問題なのですが、
>人間のつくった思想でしかない神観

以外の神観とは、どういったものなのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここでは 《つくった》とそして《仮りに思想として説明した》とを分けているという
意味に採ってください。

42. ★ ~~~~~~~~~~~~~~
>(い) つまりは 《天使》と言っても その話がこの経験世界の現実にかかわる内容で
あるのなら すべては人間の話であり 問題です。

いや、それはよくわかります。
しかし、『この経験世界の現実にかかる内容であるのなら』という仮定の形にするのは、ど
うなんでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 天使にまつわる話をつくったのは その方面の人たちでしょうから そうだと受け取れ
ばという意味で《仮定の形に》しています。

43. ★ むろん、その点に関する論議を避けるつもりはないのですが、それ以前の問題
として、天使とは何か?を問うているわけですので、そこをよくご理解いただければと思い
ます。
☆ まぁ その筋としては必ずしもじゅうぶんに答えていなかったので 別様に質問を立て
てその穴を埋めようとはしましたが 確かに《へび・悪魔》のほうに片寄ったかも知れませ
ん。
ただし問題は 天使は その《神の使い;人間にあっては ヒラメキ直観・インスピレーシ
ョン》という機能〔だけ〕を捉えればよいという見方を提出しています。その擬人化に過ぎ
ないと。

44. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>(う) 人間の考えること行なうことについて もし神を出すのならば 神はすべてその
(人間の)自由意志にまかせているという話になるはずです。

これは極めて笑止千万の論理だと思います。
つまり、神の存在意義は、どこにも無いと言っているに等しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですよ。人間にはまったく知られることなく・関係なくたとえば《風が吹くがごと
く気ままに振る舞っている〔という言い方もヘンですが まあそういうことでしょう〕》で
すよ。

45. ★ 存在意義の無いものに対して、いかにも何かありそうに語るご自身の姿勢に恥
じる点はないのですかね。
☆ 《存在意味の無いもの》という規定は あくまで人間の側から人間がおこなったもので
す。ということです。人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません。

46. ★ 「このいわしの頭が全てお見通しじゃ」と言う巫女?などと大差ないんじゃあ
りませんか?(誤解なきよう補足しておきますが、いわしの頭を信心することについての可
否を問うているわけではありません)
☆ 意味が取れませんが たとえばわたしの神論は 哲学として神についてどれだけ人間が
分かるようになるかを問い求めそれを明らかにしたものです。巫女が哲学をしないとは言い
ませんが 一般には哲学とは別でしょうね。

47. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
>(え) あとは 《ルシファー》論者と言いますかその主唱者に訊いてもらうよりしょう
がないと思います。

キリスト教における悪魔と神、または天使と悪魔、の位置関係について、キリスト者の認識
を知りたかったのですが、こう言われてしまえば身もふたも無いですね。
☆ ですから 《悪魔・へび》にかんしては 天使論よりもやや複雑ですから その説明に
つとめようとしました。

48. いまのルシファー論ないし天使論としては 《表現の問題でしかない》から 不毛
であるとことわっています。

49. 《神の使い》という機能の擬人化であるという見方でじゅうぶんだという意味です。
その余は 文学カテなどでお尋ねになるとよいでしょう。という意味です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>41. ★>人間のつくった思想でしかない神観
⇒以外の神観とは、どういったものなのでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここでは 《つくった》とそして《仮りに思想として説明した》とを分けているという
意味に採ってください。

「人間の [ つくった ] 思想でしかない神観」
ではなく、
「人間の [ 仮りに思想として説明した ] 思想でしかない神観」
だということですね。
「人間がつくった」ものは、「人間の [ 仮りに思想として説明した ] 」ものではない、とおっしゃっていることになりますが、それでよろしいんですね?

44.
つまり、神の存在意義は、どこにも無いと言っているに等しい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですよ。人間にはまったく知られることなく・関係なくたとえば《風が吹くがごと
く気ままに振る舞っている〔という言い方もヘンですが まあそういうことでしょう〕》で
すよ。

つまり、神に恣意性は無いということじゃないんですか?

45.☆ 《存在意味の無いもの》という規定は あくまで人間の側から人間がおこなったもので
す。ということです。人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません。

いや、ですから、その(=人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません。)ように存在意味があるかの如く表現するのは、いかがなものですか?と言っています。特に難しいことは言ってないと思うんですがね。
「神は 何とも影響も何も受けません。」ではなく、そもそも存在しないものに対して、そういう表現はおかしいんじゃありませんか?ということ。
違うとおっしゃるなら、神は存在する、と言っていることになりますよ?
どうなんですか?

46.☆ たとえばわたしの神論は 哲学として神についてどれだけ人間が
分かるようになるかを問い求めそれを明らかにしたものです。

『人間がどう規定しようが 神は 何とも影響も何も受けません』と言いつつ、ご自分の「神論」だけは展開したいわけですか。
まあ、それは自由ですが、アホとかキチガイとか言わなければ説明できないようなら、無理をしないほうがよろしいんじゃないですかね。
せっかくの「神論」も、見苦しい印象しか残さないでしょう。

お礼日時:2016/01/03 22:13

No.13 の回答とお礼より



神の主権と自由意志

神を、すべてのものの創造者また全能者であるとすれば、の話になりますが、
その立場と至上性のゆえに、神は宇宙の主権者です。

主権者は法を定め、施行し、裁くものです。その法のうち最大と第二のものは、
「『あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめてあなたの神を愛さねばならない』。これが最大で第一のおきてです。 第二もそれと同様であって、こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。」
(マタイ22:37-39)

主権者であるならば、宇宙内で創造物が神を愛しその主権を支持することを望んだとしても、それは横暴や圧政ではないかもしれません。なおかつ、
「わたしは、あなたの神、あなたに自分を益することを教える者、あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者である。ああ、あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば! そうすれば、あなたの平安は川のように、あなたの義は海の波のようになるであろうに。」
(イザヤ 48:17-18)
とあり、創造物の益を図って主権を行使されることも分かります。

言い換えるなら、創造物は神の定める法に従って行動するときに幸福になるよう創造されているとも言えます。それは、神の物理的法則に従うことと同様です。例えば、もし重力の法則を無視して高い所から飛び降りるなら、けがをするか死んでしまいます。もし自分の体内の法則を無視して食事や水を断ったり息をしなかったりするなら、死んでしまいます。

それで、人間が神の物理的法則に服する必要のある者として創造されたのと同様に、神の道徳的また社会的な法に服する必要のある者として創造されたことも確かです。人間は造り主から独立してうまくやってゆくようには創造されませんでした。

そのことを、神は最初の人間アダムとエバに「善悪の知識の木」から実をとって食べないようにとの指示を与えることによって示されました。

この木が何を表していたかは、
「この知識とは、神がご自分のために取っておかれる権利であり、人が罪を犯すことによって取得する権利である。それは堕落した人間が持っていない無限の知識ではない。
その知識とは何が善で何が悪かを自分で決定し、それに従って行動する力のことであり、人間が創造された者という自分の立場を認めようとしない、完全な道徳的独立を求める権利のことである。最初の罪は神の主権に対する攻撃、すなわち誇りの罪であった」
(エルサレム聖書 1966年 の創世記 2章17節の脚注)
と説明されています。

つまり、この木を置き「それから食べる日にあなたは必ず死ぬ」と述べて、神の法から独立して自治することの危険を、目に見える形で示したのです。

それで、(大変遠回りになり申し訳ありませんでしたが)、神が人間や天使など理知ある創造物に与えた自由意志は、無制限のものとなることを意図していたのではないと言わねばなりません。しかしこれは偽の、または不自由を意味するでしょうか。これも例えで考えてみましょう。交通法規の全くない、にぎやかな町を想像してみてください。そこではだれでも方向やスピードにおかまいなしに車を運転できます。そのような状況下でぜひ運転したいとは思わないことでしょう。それは交通上の無政府状態であり、事故が多発する結果になるに違いありません。自由意志という贈り物についても同様です。無制限の自由は社会の無政府状態を意味します。人間の活動を導く法律が必要です。「自由な人らしく振る舞いなさい。しかし、あなた方の自由を決して悪を行なう口実として使ってはなりません」と述べています。
(ペテロ第一 2:16、エルサレム聖書)

神は自由意志が公共の利益のために規制されることを望んでおられます。神はわたしたちが全面的な自由ではなく相対的な自由を持ち、法の規定に服することを意図されました。

そこで、だれの法に従うべきか、究極には、この神の主権の「正当性」に疑問を提示したのが一人の天使でした。

この天使は、「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない、と神が言われたのは本当ですか」と蛇を使ってエバに話しかけ、それに対してエバが「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも、園の真ん中にある木の実を食べることについて、神は、『あなた方はそれから食べてはならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」と答えると、 蛇は、「あなた方は決して死ぬようなことはありません。 その木から食べる日には、あなた方の目が必ず開け、あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを、神は知っているのです」(創世記3:1-5)と述べています。

前回答で論じた過程によって支配権への欲望を募らせたこの天使は、「食べてはならないと神が言われたのは本当ですか」と述べることにより、そのような制限を課すのは不当なことだ、人間の正当な分を差し控えている、神の主権は価値ある義にかなった方法であるのだろうかとの、挑戦を投げかけたのです。

これは、宇宙全体における重要な論争といえます。疑問に答えを明らかにするため、神は即座にこの天使を罰することなく、その主張沿って人間による自治を認め、あらゆる支配形態を試すことを許されました。


いかがでしょうか、不毛な論議になっていなければよいのですが。
長くなりましたので、ここまでとしたいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>神を、すべてのものの創造者また全能者であるとすれば、の話になりますが、
その立場と至上性のゆえに、神は宇宙の主権者です。

それはそうでしょうね。
当然です。
しかしですね、そう思いたい、という範疇を超えるものではないですよね。
つまり、「神を、すべてのものの創造者また全能者である」と位置づける根拠を明らかにしないかぎり、何を言っても虚しい・・・とは思われませんか?
信仰は盲目である、を証明しているだけでしょう。

お礼日時:2016/01/03 21:46

№17です。



34. ★「神の絶対性を否定なさっている」ということでよろしいんですね?
☆ あなたの神観によれば そうもなるでしょうが わたしの言い直した命題で
《人間が神を説いたその神なる観念による支配ならば》という意味で言っていま
すから 当てはまりません。次のように条件をつけています。:
☆☆(12) 《・・・人間のつくった思想でしかない神観を最高の地位にある
聖職者つまり人間が説いてまわるなら・・・》

34-1. この点は 補足欄で《★ こちらの見落とし》として確認してもら
いました。(37)まで書いて補足欄を見ていますので (37)まではその事
情のままを反映していますが あしからず。

35. さらにこの論点はつづいています。:
★ 神による支配(神の有効性)について問うているのに、なぜにわざわざ矮小
化して、視点をずらしてしまうんですかね・・・。
☆ 矮小化もなにも 見解が違うのです。前項に再掲した(12)の命題をめぐ
る問題です。

36. すなわち:
いかなる聖人が聖職者の最高の地位にあって《神とそのチカラのはたらき》につ
いていくら説き明かしたとしてもそれは すべて人間とその社会(つまりそのほ
かの人間)の問題です。
人間の考えを述べただけのことであり 普遍神には直接のかかわりがありません。
それに追随する人が出て来たとしても 同じです。


37. その人間が《神の支配》だと言っているだけです。
《神の有効性》も――と言いますかそういう表現もおかしいのですが―― その
《神の地上における代理人》を自称する人間の問題であり それを《信じる》あ
なたにとってだけの問題です。

38. ★(№17補足欄) ただですね、〔ルシファーが 神の〕従者として
天使だった存在に対して〔その主である神に〕関係ない、と言うのもどうなのか、
という気がするわけです。
☆ (あ) すべては 文学のお話である。つまり想像力にかかわる表現の問題
です。
(い) つまりは 《天使》と言っても その話がこの経験世界の現実にかかわ
る内容であるのなら すべては人間の話であり 問題です。
(う) 人間の考えること行なうことについて もし神を出すのならば 神はす
べてその(人間の)自由意志にまかせているという話になるはずです。
(え) あとは 《ルシファー》論者と言いますかその主唱者に訊いてもらうよ
りしょうがないと思います。
(お) ただしそれが 不毛であることは目に見えています。表現の問題に過ぎ
ないのですから。

39. ★ そうしたことも含めて、さらに話は膨らんでいくでしょうが、その
前に、天使と悪魔の違いについて、もう少し詰めておきたいと考えています。
☆ あぁ お礼欄・補足欄が字数制限に見舞われていることを どういうわけか
失念していました。その意味では 回答を二件か三件に分けて書けばよかった。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>34.「神の絶対性を否定なさっている」ということでよろしいんですね?
☆ あなたの神観によれば そうもなるでしょうが わたしの言い直した命題で
《人間が神を説いたその神なる観念による支配ならば》という意味で言っていま
すから 当てはまりません。次のように条件をつけています。:
☆☆(12) 《・・・人間のつくった思想でしかない神観を最高の地位にある
聖職者つまり人間が説いてまわるなら・・・》

《・・・人間のつくった思想でしかない神観を最高の地位にある聖職者つまり人間が説いてまわるなら・・・》⇒神の絶対性を否定していることになる。
ということですね。
ここで本質的な問題なのですが、
>人間のつくった思想でしかない神観

以外の神観とは、どういったものなのでしょうか?

>(い) つまりは 《天使》と言っても その話がこの経験世界の現実にかかわ
る内容であるのなら すべては人間の話であり 問題です。

いや、それはよくわかります。
しかし、『この経験世界の現実にかかる内容であるのなら』という仮定の形にするのは、どうなんでしょうか。
むろん、その点に関する論議を避けるつもりはないのですが、それ以前の問題として、天使とは何か?を問うているわけですので、そこをよくご理解いただければと思います。

>(う) 人間の考えること行なうことについて もし神を出すのならば 神はす
べてその(人間の)自由意志にまかせているという話になるはずです。

これは極めて笑止千万の論理だと思います。
つまり、神の存在意義は、どこにも無いと言っているに等しい。
存在意義の無いものに対して、いかにも何かありそうに語るご自身の姿勢に恥じる点はないのですかね。
「このいわしの頭が全てお見通しじゃ」と言う巫女?などと大差ないんじゃありませんか?(誤解なきよう補足しておきますが、いわしの頭を信心することについての可否を問うているわけではありません)

>(え) あとは 《ルシファー》論者と言いますかその主唱者に訊いてもらうよりしょうがないと思います。

キリスト教における悪魔と神、または天使と悪魔、の位置関係について、キリスト者の認識を知りたかったのですが、こう言われてしまえば身もふたも無いですね。

お礼日時:2016/01/02 18:33

20. ★(№11お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~


>12.難なくそれらの人びとを支配することが 
当分のあいだ(たとえば千年)は 可能である

それらの人びと=盲目の人びと
ですが、そうしますと、
神の絶対性を否定なさっているか、または、盲目の人びとはもはや人間ではない、と
おっしゃっているかどちらかになると思いますが、どちらでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《これこれはとうといオシへなり。受け容れとうとび 守りなさい》と言われて
《批判精神なく鵜呑みにする人びと》のことですが――そしてちょうど《末法千年》
という見方・言い方もあることで現実的だと言ってよいと思うのですが―― いつ・
どこでその人びとが《人間ではない》と言いましたか?
それに神は 人間がいかに貶そうがののしろうが いっさい影響を受けないと何度も
触れています。

21. ★(承前) 人間であるなら、(たとえば千年)だけしか支配できないとい
うのは、神とは言えないと思うので。
☆ 西欧でもローマ教会のヒエラルキア体制に《抗議する人びと》が出たのは 国教
に成ってからだと千年ちょっとですね。それはいいとしても しかもこの場合の宗教
体制の支配が どうして《神による支配》だと言えましょう。人間が――あたかもル
シファーのごとく宗教および政治としてのマツリゴトの親分に成って――支配したと
いうに過ぎません。
そこに神が介入していると言っているのは ローマ法王とそれに従う人びとのみです。
あるいは はこぶるさん あなたもですか?

22. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
>13.そのような組織上のヒエラルキアにおける権限関係から神論を説くといった
おこないは 〔すでに〕自分自身をもあざむいてしまっているということであり そ
のことのほうが問題です

ヒエラルキーという捉え方自体がそもそもおかしいのであって、それは単に好みの問
題でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 組織が出来ていてそこに権限関係が形成されそれ相応に機能している。その中で
《このオシへを無条件で受け容れよ(つまり 信じよ)と説くこと》は セイシンサ
クランから出たものであり すでにおのれの心をあざむいています。

23. ★(承前) 盲目でいたい人もいるわけですし、別にそれが悪いとは言って
いない。
☆ 《神の名を借りた人間――ここでは 〈ルシファー〉タイプを問題にしているわ
けですが――による〔目覚めている・いないを通り越してほとんど全部の〕人びとの
支配が 歴史的に起きた》という事実の確認をして そしてその中で《自己欺瞞》が
起きていたはずだとも言っているのみです。

24. ★(承前) ~~~~~~~~~~~~~
なので、
>論理破綻の前に 人格の崩壊が始まっています。組織宗教というのは そういう錯
乱から始めている心的現象です。

というご指摘は的を外していますね。
『ヒエラルキアにおける権限関係から神論』を説いているわけではないことをご理解
いただけたとしてですが、その場合、どういったご説明をされますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《神の名を借りて ヒエラルキアの権限関係(さらには 権威づけにさえ成功し
ていますね)のもとに 良心・信教の自由なる心の内面の問題に手を突っ込んでくる
かのように 考えるべきオシへを考えないで信じよと説いている》 このことを理解
してください。

25. ★(承前) ~~~~~~~~~~~~
端的に申し上げると、
>相手の人びとが誰であるかの前に

ではなく、「相手の人びとが誰であるか」は重要ではないですか?という質問です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いや それは二の次でしょう。いちばん先に来る問題は 《悪魔と呼ばれるまで
に自然本性としての精神(こころ)をゆがめ自分自身をもあざむき倫理的に堕ちた人
間》が さらに具体的にその心的な過程はどうであったか。のほうでしょう。

26. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
>14.ただし 個人にとっての神論はもしそれを抑えつけるなら 信教・良心の自
由に悖ります。

と絡めてお答えくださればと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いかに《神の地上における代理人》を自称しようとも それによっておれ(=法
王)の言うことを聞けと言って ひとの心に手を突っ込んで来ることは 内面におけ
る人間の自由に悖ります。

27. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
>15.☆ 一般に恥ぢをしのぶのは わが心にさからう部分がありますが そのお
こないの内容がじつはそれでも妥当であって受け容れるのがよいと思っているのなら 
《わが心にさからっていない》場合になります。――ルシファーは逆らったのでしょ
う。

おっしゃりたいことはわかりますが、今、問題にしているのは、#9でおっしゃった
ところの、
>f. 《人間として神のごとくいかなる者の下にも立つまいと堅く誓いこれを飽くまで
実行した者》

に関してでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですよ。=(25)

28. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
つまり、この f を「わが心に逆らって」為したと言える根拠はどこにあるのですか?
という問いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 根拠は そうしたかったからです。お山の大将タイプゆえでしょう。

29. おぎないますと こうです。
昔むかしこの世にそれはそれは 立派な人間がいました。学力優秀 品行方正 申し
ぶんのない人間です。玉に疵は みんなの注目を浴びていないと死んでしまうことで
した。
その人間は 人間的に成ろうと心に決め 日から日へ夜も昼もその人格陶冶に励み
ますます人間的に成りました。いよいよ主観的に見てながら 人間性が完成して来た
かなと思って まわりを見渡すと 人びとはそのことに何の関心も持たず感心するこ
ともない。
人びとは 人間はドングリの背比べだと心の底から知り切っていた。そもそも人間な
る存在は うつろいゆかざるを得ずやがて朽ちるべきものだと知っていたからです。
そこで 気も心も落ち込んだと同時に何に対してかを知らない怒りにも満ちてこの立
派人間が思ったこと それが アマアガリ宣言だったわけです。
むろんそれは その人間が《わが心において》堅く誓ったことです。でも人間性を究
めた人なら 《ひとの上に立つ。ひとを下に従える》ことが ひとの心やこの本人じ
しんの心にさからうものであることくらいは 分かるでしょう。
言いかえると 《ますます人間的と成った》人間でなければ マツリゴトをやろうと
思ったって せいぜい一時的・局所的なものに終わるという意味です。
そういう意味では 天使の中でも優れた者だったという物語は そう考えるべくして
編まれたものでしょう。

30. ★ 人間に神以上の可能性を見出そうとしたこと自体が神の怒りに触れた、
というなら筋は通りますが。
☆ 神は関係ないのです。すべては人間のお話です。《神のごとくいかなる者の下に
も立つまい》という気持ちのことで 神を出しているだけです。神の名を借りている
だけです。

31. ★(補足欄) ~~~~~~~~~~~
 16.>☆ 意味がよく取れません。《〈神にも言える〉と推測しうる》という意
味ですか?

いえ、《〈神にも言える〉と論理的にならざるを得ないでしょう》という意味です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 神は関係ありません。《ルシファー》なる人間が思惟し行動するというだけの問
題です。
神のことを話にいくら出したとしても 神はかかわっていません。それとも はこぶ
るさんは 神が人間やその社会に介入してチカラをおよぼすと信じていますか?

32. ★(承前) ~~~~~~~~~~~
>マツリゴトの親分となって人民を支配するという魂胆は 神にもあると言えるので
はないかということですか?

おっしゃるとおりです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 歴史事実または/および論理において証明してください。あり得ません。そういう
内容の物語が編まれたことはあります。

33. ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 18. (11)――★ 人間が存在しなくても絶対は存在し続けますが、しかし、
その場合、もはや神というものは存在できないはずでしょう。
 ☆ 《人間が存在しなくても絶対は存在し続けますが》というひとつの命題の内に
すでに《その絶対なる存在とは 神とも人間が呼ぶ存在のことだ》という意味がふく
まれているの
ですが?

人間が存在しなくても(神と名づける以前の)絶対は存在し続けますが、しかし、そ
の場合、もはや神というものは存在できないはずでしょう。
のように言い換えれば通じるでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《神》は その概念説明としてですが 《絶対》なのです。人間が存在しなくて
もですし 存在して名づけをしてもしなくてもです。想定のかぎり 神(または無い
神)は存在しますし 絶えることはありません。
そしてこのことは 主観の問題であり 心の内面だけの問題です。(表現の自由にお
いて 互いに心を表わし語り合うこともあります。結社の自由まであり得ています)。
神を自分勝手にこしらえているのではありませんか?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>いつどこでその人びとが《人間ではない》と言いましたか?

なぜ、こうおっしゃるのか理解に苦しみますね。
私は、『どちらかになると思いますが、どちらでしょうか。』とお尋ねしていますよね?
《人間ではない》と言っているとは言ってません。
いずれにせよ、それを否定しているようですから、「神の絶対性を否定なさっている」ということでよろしいんですね?
それとも、「どちらかにもならない」と開き直りますか?

>21.☆ 西欧でもローマ教会のヒエラルキア体制に《抗議する人びと》が出たのは 国教
に成ってからだと千年ちょっとですね。それはいいとしても しかもこの場合の宗教体制の支配が どうして《神による支配》だと言えましょう。

12では
 ★ つまり、盲目であるがゆえに問答無用で支配されることを望む人々に対してなら神は有効だろう、ということ。
と述べましたが、それに対して、
>☆~~最高の地位にある聖職者が、難なくそれらの人びとを支配することが当分のあいだ(たとえば千年)は 可能である

と言っていたわけですね。
私は神の有効性について述べたつもりだったのですが、視点がずれてしまったようです。
> どうして《神による支配》だと言えましょう

とのことですが、神による支配(神の有効性)について問うているのに、なぜにわざわざ矮小化して、視点をずらしてしまうんですかね・・・。
まあ、最初から気づかなかったのはこちらなので、食い違いが生じた責はこちらが負うべきでしょう。
ということで「ヒエラルキア」の指す意味が食い違っていたわけですが、
>☆ 組織が出来ていてそこに権限関係が形成されそれ相応に機能している。その中で《このオシへを無条件で受け容れよ(つまり 信じよ)と説くこと》は セイシンサクランから出たものであり すでにおのれの心をあざむいています。

というのは同意できます。
しかし、いつも、ご自身がおっしゃっているのは、そういうことと大差ないような気もしますけどね。
ま、おいおいわかってくるかもしれません。
補足に続きます。

お礼日時:2015/12/31 23:39

no.12の者です。


2文目について、追加です。

人間が多様であることにより必然的に運の悪い人が大勢いて
そういう人は‘いわゆる善行‘を為すゆとりを持つことすら困難で
善行を為せる人との比較で相対的に風当りが強くなってしまいます。
その際、善行を為せる人に社会が十分に報いてあげられない場合に
相対的な風当たりはバランスを取ろうとしてより厳しいものになってしまって
そこに亀裂が入って敵意が向けられてしまうのだろうと思います。

その敵意はより切羽詰まっている分手段を選ばない傾向が強く
ゆとりがあって手段を選ぶ慣性がついている善行を為せる人に
最終的には勝ってしまい、その結果起こる歯止めの利かない地滑りが
負けた方の致死量を越えさせてしまったのだろうと思っています。
そして勝った方が自らの行為の正当化のために
敗者を悪魔の大将にしてしまった…。

これは歴史の中で未熟な時代に避けられなかった悲劇で
時代の進歩によって
限界のある人間同士として
収支のフェアな調整や
切羽詰まりにくい世の中を実現することで
手段を選んだやり方を可能にすることから
改善可能なものだろうと考えています。

つまりより進歩した現代という時代において
歴史の過去の未熟なやり方を踏襲することによる
悲劇の焼き直しを避ける教訓にすべきことなんだろうと思っています。
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この回答へのお礼

ご回答、ご説明、ありがとうございます。

全体的構想として面白そうな印象は受けるのですが、どうも主語の省略が多すぎて、良く解読できない部分があります。
1.たとえば、ゆとりをもって善行を為していたのは、ルシファーの行為を指しているのでしょうか?
2.「敗者を悪魔の大将にしてしまった…。」の主語は神ですか?
3.他の箇所も可能であれば主語を挿入して表現していただけると助かります。
反動的善行が諸悪の根源である、的な話かという気もするのですが、もう少しわかりやすく頼みます。
頭悪くてすみません。

お礼日時:2015/12/31 22:50

天使ってもともと昆虫から進化して来た生き物ですから悪魔とは関係がありません。

その証拠は飛翔するための竜骨突起がないからです。詳しくは、

http://ameblo.jp/texas-no-kumagusu/entry-1150345 …

を参照して下さい。

伊邪那美命は黄泉津大神とも呼ばれ、黄泉比良坂(よもつひらさか)で夫の伊弉諾尊と別れるときに、彼女が今後1日千人の人の命を奪うと宣言したときに、伊弉諾尊は、それなら今後1日千五百人の人間を産み増やすと宣言しました。伊邪那美命が人の命を奪うので悪魔だとすると、彼女は、国を産み出すなど土に関係があり、黄泉の国を司るので、モグラ等に近い夜行性の生き物ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

天使は昆虫でしたか。
論理的と言いますかユニークと言いますか。
>物理学の法則が適用されていると考えていたことが分ります

といった件がありますが、ちょっと論理的すぎませんかね。
空は飛べるが、神ほどの能力が生来的に備わっているわけではないので、取りあえず羽をつけてみました、的なノリのような気もするのですけどね・・。

お礼日時:2015/12/31 22:31

堕天使=悪魔

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

性格が変わって悪魔になったのか、それとも元々悪魔だった(元々堕していた)のに天使の振りをしていたのだろうか。

お礼日時:2015/12/30 23:46

神は盲目的に至高であったり、また盲目的な専心を求めたりはしません。


それゆえに、被造物に自由意思を与え、倫理的に自由な行為者として造られました。

「神は言われた、『わたしたちの像(かたち)に、わたしたちと似た様に人を造ろう』」
(創世記1:27)

像(かたち)や似た様とは、神は目に見えないゆえにその見た目のことではなく、内面性や属性を表し、人が様々な特質や、善悪を自発的に選択する力を持つものとして造られたと理解できます。

天使も同じです。より神に近い存在として天に造られたとはいえ、個性があり、神に従うかどうかも自ら選択できます。

そのうちの一人悪魔サタンとなった者も、創造された時には神の完全で義にかなった被造物でした。

「神のみ業は完全、不正なところは少しもない。義であり、廉直であられる。」
(申命記32:4)

「その者は、その始まりにおいて人殺しであり、真理の内に 堅 く 立 ち ませんでした。真実さが彼の内にないからです。」
(ヨハネ8:44)

ここから、サタンはかつては真理の内にいたのに、それを捨てたことが分かります。その天使は、神に敵対する道を選び、最初の人間夫婦を唆して自分に付かせました。義にかなった完全な始まりから罪と堕落の道へ逸脱したのです。そのようにして自ら悪魔になったのです。

この事態をもたらした過程は、次の言葉に描写されています。

「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は、はらんだときに、罪を産みます。そして罪は、遂げられたときに、死を生み出すのです」
(ヤコブ1:14、15)

神だけにささげられるべき崇拝を渇望するようになり、人間を神の支配下から自分の支配下に置けるかもしれないと考え、支配できる可能性を頭から振り払うのではなく、考え続けることにより、ついに行動に出るまでになったのです。

悪魔には「中傷する者」、またサタンには「反抗する者」という意味があり、新約聖書中にそれぞれ36回、33回出てくるそうです。また他の名前や称号によってもその実態が明らかにされています。悪魔またサタンをと表すことのある名称には、ベエルゼブブ、べリアル、ディアボロスなどがあります。

しかし、悪魔となる以前の天使本来の名前は知られていません。ルシファーは、聖書中のイザヤ書に1回、一部の聖書翻訳にだけ出てくる名で、悪魔の別名であるという説と、天使ではなく一人の人間、バビロニア王朝に向けて述べられたその予言の中の、ある王を指して用いられているとする説などがあり、見解が分かれています。

それに関してはどちらにせよ、罪を犯したために堕落し、天から放逐されたということには疑問の余地はありません。また悪魔サタンの他にも、「自分本来の立場を保たず、そのあるべき居所を捨て」サタンの反逆に加わった「堕落した天使」たちがいることを聖書は明らかにしています。

「まさに神が、罪をおかしたみ使いたちを罰することを差し控えず、彼らをタルタロスに投げ込んで、裁きのために留め置かれた者として濃密な闇の坑に引き渡された」
(ペテロ第二2:4)

とあり、それらの悪を行った天使たちはタルタロスと呼ばれる状態、つまり、天の神の前で持っていた栄光のある立場や特権のない、霊的に最も低められ卑しめられた暗闇の状態に置かれており、前途には神による裁きがあります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>神は盲目的に至高であったり、また盲目的な専心を求めたりはしません。
それゆえに、被造物に自由意思を与え、倫理的に自由な行為者として造られました。

初耳です。

>人が様々な特質や、善悪を自発的に選択する力を持つものとして造られたと理解できます。

ただ、この「善悪」が何か?ということまで「被造物」である人間の「自由意思」に委ねたわけではありませんよね?
これは偽の「自由意思」と言えるのではないでしょうか。
こうした論拠に基づいていかなる論を展開しても虚しいと思うのですが、いかがでしょう。
「人間に自由意思はあるが、あくまで神の御心に沿う範囲内でそれは許される」というのでしたら、まだ、わかりますが。

>天使も同じです。より神に近い存在として天に造られたとはいえ、個性があり、神に従うかどうかも自ら選択できます。

ということは、要するに、神が気に入らなかったから悪魔と位置づけた、ということになるのではありませんか?

>「その者は、その始まりにおいて人殺しであり、真理の内に 堅 く 立 ち ませんでした。真実さが彼の内にないからです。」

その始まりにおいて、人殺しであることを神は見抜けずに天使として扱っていた、ということでしょうか。

>ルシファーは、聖書中のイザヤ書に1回、一部の聖書翻訳にだけ出てくる名で、悪魔の別名であるという説と、天使ではなく一人の人間、バビロニア王朝に向けて述べられたその予言の中の、ある王を指して用いられているとする説などがあり、見解が分かれています。

非常に興味を惹かれるお話です。
他も含め全体的に、理路整然としていて非常にわかりやすいお話だと思います。
ただですね、
>それに関してはどちらにせよ、罪を犯したために堕落し、天から放逐されたということには疑問の余地はありません。

とのことですが、これは、むしろ『堕落したために罪を犯し、天から放逐された』と表現するのが適切だと思うのですが、いかがでしょうか。
なぜ、これが重要かと申しますと、この場合、『では、なぜ(ルシファーは)堕落したのか?』という点が問題として浮上することになるからです。
聖書では、この点に関して言及はされているでしょうか。

お礼日時:2015/12/31 00:08

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