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厄年とはどういうことで、お払いはしなくてはいけないものなのでしょうか?お払いでは何をするのですか?

A 回答 (2件)

厄年は、一般的には男が42才、女が33才なのですが、昔からいわれていることですから、いずれも数え年で数えます。



それ以外にも多くの年が厄年という考え方もあり、その年齢には、厄払いを欠かさないという人もいるようです。(なんだか、儲け主義の神社やお寺の陰謀のような気もします。(汗)

男42才というのは、人生50年といわれていた頃、ちょうど今の年齢でいうと60才くらいにあたるでしょうか、老齢に達して、病気になりやすかった年齢が、ちょうどこの頃だったということだといわれています。
女33才というのも、昔は10歳代で結婚し、20代で子供を産み終わり、33才くらいで女性としての生理が終わって、体のホルモンバランスが崩れ、いろいろな症状が出やすかったということです。

現在は平均寿命もかなり長くなり、そういう理由はちょっとあてはまらなくなったのですが、厄落としをして、注意して1年を過ごしましょうと、心を引き締めるのは意味がありますから、今でも神社でお払いをしてもらったり、お寺におまいりしたりして、厄落としをされる方がたくさんおられます。

参考URL:http://mondoyakujin.or.jp/html/yak_1.htm
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この回答へのお礼

URLにあるようにこんなにたくさんの厄を意識していたら安心して暮らせるときがないですね。
ありがとうございます。

お礼日時:2005/03/22 00:42

 厄年の起源ついて有力説のひとつです。



 村落共同体社会では特定の年齢に達すると祭礼における神事を司ったり、神社仏閣を守る宮座に加入したりしました。それに加わる年齢になると、通過儀礼の一つとして一定期間の「忌み」。つまり神を祀るために心身を清め、特定の言動を慎むなどの精進潔斎(しょうじんけっさい)を行いました。「厄」ではなく「役」を迎える年であるとの説もあります。またそれらの禁忌を犯すことによる神の怒りが「厄」であるともいえます。現在でも地域によっては特定の年齢に達すと、地域の神社や聖域にお籠もりをしたり、神体を家に迎えるという儀式が残っているところがあります。
 例えば、真言宗の本山である高野山においても、山内寺院の住職は生涯に一度は必ず高野山の鎮守明神のご神体を寺に向かえ一年間お守りします。その期間は「別火精進(べっかしょうじん)」といい食事も他の僧侶や寺族とは別で、また高野山から下りることも許されません。この明神迎えが終わることにより、その後の法会儀式での導師になること資格が与えられます。このような儀式は仏教儀礼というよりも、日本古来からの民俗信仰に基づくもので、それが真言宗の本山である高野山においても色濃く受け継がれてきました。
 このように、「神を迎えるために精進潔斎する年齢」それに伴う「晴れの日」という意味合いが、都市を中心に薄れてはきましたが何らかの神事を行うという形だけが残り、さらに42歳を「死に」、33歳を「散々」などという語呂合わせが生まれ、さらには気軽に旅行ができなかった当時は「厄払い」による神社仏閣への参拝という名目で、物見遊山へと出かけたのかもしれません。

 以上から、厄年の本義に立ち返れば災いが起こる年齢ではなく、神仏に感謝して、今までの生活を改めて社会に奉仕する。そのような責任ある一員になるための出発点です。ですからお祓いを受けるとすれば、「自己中心的な今までの考え」を祓うのだという気持ちで受けてください。
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この回答へのお礼

詳しい説明を有難うございます。厄年とはそんなに怖がらなくてもよいものなのかなとも思いました。だけど他にも説があるんですよね。外人だと厄年なんかないでしょうしね。
有難うございます。

お礼日時:2005/03/22 00:47

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