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藤尾慎一郎が、古墳が近畿中枢部で最初に出現する理由について、次のような説を一つとして挙げています。

<2000年を過ぎると、筑前・吉備・出雲・讃岐の集団指導体制のもと、大和に古墳をつくることになったという説が有力になる。近畿の優位性などは存在せず、大和はただ土地を貸しただけという位置づけである。>

質問は、“ただ土地を貸しただけ”とは、どういうことですか?

A 回答 (4件)

いいえ、違います。


命じたのは、筑前・吉備・出雲・讃岐です。というのが著者の主張です。
常識外れの主張なので飲み込みにくいかも知れませんが。
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
筑前・吉備・出雲・讃岐が、大和政権に古墳をつくることを命じた、と解釈するのですね。したがって、4政権の方が大和より優位に立っていた、ということになりますね。

お礼日時:2022/06/24 18:11

古墳と墳丘墓の違いについてはご存じでしょうか?


古墳時代に作られたから古墳、弥生時代に作られたから墳丘墓、というとんでもなくアホな理由で分けられています。墳丘墓は弥生時代の北九州に多く見られます。
「古墳が近畿中枢部で最初に出現する」などという言葉遊びのようなことをやっているのが日本の考古学の現状ですよ・・。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/06/28 10:40

モノは大和にあるけど、大和の権力、経済力によって作られたのではなくて、作った主体はあくまでも、筑前・吉備・出雲・讃岐ということです。


新東京国際空港を千葉に作ったようなもの。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
徳川幕府は、諸国の大名に命じ、江戸城の築講を手伝わせましたが、
このように、当時近畿政権は各地の地方政権より優位に立ち、実質的に古墳の造築を命じたのですね、

お礼日時:2022/06/24 09:57

つまり、聖徳太子の頃から都を大阪に移して大阪の港から大陸に出航したり、大陸の使節を大阪の港に迎えた訳です。


その時に、大陸からの使節が大阪湾に入って来た時に、船から多くの大きな古墳を見せる事で日本が大陸に負けないくらい発展した国である様に見栄を張っていたんですよね。

今で言えば、東京湾に入って来た船から、汐留の高層ビル群が見えて、すごいなと思う様なもんですよね。
だから、あそこに並べて作る必要があった訳ですね。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。

お礼日時:2022/06/28 17:35

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