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九州説と畿内説があり論争が続いているというテレビ番組を見ていて思ったことは邪馬台国が九州にあって機内に無いことに何か不都合があるのかと疑問が湧きあがりました。
当時どちらも勢力があり九州のクニ連合が畿内勢力(箸墓古墳は同時代)と対抗する後ろ盾として魏に使者を出したとしたら不都合無いと思います。卑弥呼の勢力が元々大和政権なのか、後に大和政権になったという筋書きってあるのでしょうか。

A 回答 (3件)

お礼について〈東進して大和政権を作ったという証拠あるのでしょうか。

邪馬台国卑弥呼当今の奈良には巨大古墳が建造されていますね。力は大和>邪馬台国かもしれません。弱者が強者を征服する?。ないとはいえませんが。〉

成程。ご質問者は記紀の神武東征神話を否定されているわけですね。

証拠云々はどちらの説もなく、だからまだこの問題は確定していないのはご存じでしょう。それは閑話休題…、

まず、東征神話では、吉備国でかなり長く滞在しています。吉備国は古代から出雲と並ぶ大国ですね。神武軍の主力は精強な薩摩隼人の部隊です。そこに吉備の勢力が加わったとすれば、明治維新時の薩長連合ならぬ、薩吉連合という強力な軍が神武側にあったということになります。
明治維新のときも、兵力に関しては幕府側のほうが大軍でしたが、薩長に江戸無血開城で降伏したことはご存じのとおりです。

次に、当時の畿内の状況です。これは国譲り神話によれば、出雲を出て北陸長野、そして畿内を制圧した大英雄の大国主も年を取り、方々の有力豪族の娘に子供を産ませたこともあって、大国主後の継承権争いが勃発していた状況でした。
つまり大国とはいえ、東征の機内侵攻当時は一枚岩ではなかったということになります。

神武側から考えれば、神武が何年も吉備に居たのは、軍備の拡充と、畿内の大国主勢力が強大だったためですが、その強大な大国主勢力が内部分裂し始めたので、チャンスとみて機内侵攻に出たということかもしれません。
それでも神武軍は緒戦で長髄彦に大敗を喫し、神武の兄の五瀬命が戦死していますね。最終的に神武軍が勝利したとはいえ、大国主の軍勢は、やはり強かったといことでしょう。
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この回答へのお礼

神話とは事実と不都合を隠し権力を美化する真実虚実ない交ぜ物語ですから。
神話を絶対としてはいけませんね。古代史の先生方は科学を知らないのでしょうかね。
再度ありがとうございます。

お礼日時:2022/12/05 12:02

「邪馬台国が九州にあって機内に無いことに何か不都合があるのか」


日本は太古の昔から万世一系の天皇家が治める国という皇国史観と合致しないことです。

「卑弥呼の勢力が元々大和政権なのか、」
これが畿内説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC …

「後に大和政権になったという筋書きってあるのでしょうか。」
九州の邪馬台国が大和に移動したと説くのが東遷説です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC …
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この回答へのお礼

政治的立場で歴史を定めるのはどっかの国レベルですねー。学問じゃありません。
ありがとうございます。

お礼日時:2022/12/05 11:58

私は、九州の宇佐説が有力と思っております。


これは、宇佐神宮の主神である比売大神=卑弥呼=天照大神という図式になっています。
この図式が正しいとすれば、卑弥呼勢力が東進して大和政権になったと考えられます。

一方、天孫降臨したニニギ一派は、南九州に船で向かって上陸し、その地で近隣豪族の娘と婚姻を繰り返して大勢力を築き上げ、神武東進を成功させて畿内に地盤を持つに至る。

神武一行は、最初は船団を組んで航海の旅に出たが、東進を始める前に宇佐に立ち寄っている。
一般的には食料その他の補給のためと解釈されるが、ニニギが卑弥呼の血縁に繋がる人物で、北九州から南九州に船で移動した一派だったとすれば、神武は、東進を始める前に、先祖が祀られている宇佐に立ち寄って支援を受けたということになる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
東進して大和政権を作ったという証拠あるのでしょうか。邪馬台国卑弥呼当今の奈良には巨大古墳が建造されていますね。力は大和>邪馬台国かもしれません。弱者が強者を征服する?。ないとはいえませんが。

お礼日時:2022/12/05 11:03

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