プロが教えるわが家の防犯対策術!

邪馬台国は九州だと思いますか?
見つかった石棺が卑弥呼のもの、って話しが出来すぎると思うのですが?

A 回答 (5件)

>邪馬台国:「ヤマトノ國」と読める。


後の大和朝廷。
卑弥呼は日の神を祀る巫女
鬼道は神道。
魏志倭人傳は魏の国の陣壽が40年くらい前に日本に行った
日本への使者の昔話を聞いて
書いた書。
陣壽は日本に行ったことない。

当時は今ほど測量技術進歩してないから正確に地理を語れない。
だからうろ覚えの記憶を頼りのもので
どこまで当てになるやら。

日本は祭政一致ならぬ祭政分担統治国家。

卑弥呼とか邪馬台国とかいう翻字は外国人を蛮族と蔑んで
当てた差別漢字表現。

その意味で、きちんと年代や日本の風俗・国情を
日本側の視点に沿った歴史書たる記紀に乗取って
考証分析が必要。

その意味で邪馬台国は
大和朝廷と見るのが
一番妥当な見方。

古事記に合わせれば、当時は崇神天皇の時代。
崇神天皇の崩御干支は西暦258年。
卑弥呼の魏への遣使は239年で一番近い。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答くださりありがとうございました❗️

お礼日時:2023/06/11 19:39

出来過ぎ、というのがどの辺りを指しているのか分かりません。



吉野ヶ里遺跡は2度目の魏使の張政が来て、台与(と難升米)に会った都ですが、ここは南の狗奴国との最前線に行くのに最短経路上にあって魏使を迎えるのに都合の良いところだったので選ばれた可能性が高いのです。
なので今回見つかった石棺は、吉野ヶ里遺跡を治めていた豪族のものである可能性が一番高く、もしかしたら台与のものかもしれないです。

そして卑弥呼の墓の可能性はかなり低いと私は見ています。(可能性ゼロではないのだけれども・・)
    • good
    • 0

以前から規模の大きな遺跡として知られていながら、神社があったために発掘調査ができなかったという経緯で、「たまたま見つかった」というものではなく、むしろ「ソコにあることをわかっていて発掘調査したかった」ということです。



神社があったこと自体、そこに誰かを埋葬していてその被葬者を神格化するために神聖な場所として位置づけられてきた結果、その後に神社を置くような「神宿る場所」として扱われてきたことを意味するといいます。

「出来過ぎ」というような偶然の経緯ではなく、仮説と状況分析と他の事例研究というような総合判断の下、蓋然性が高いという判断を下し、そのために永年にわたって当地に鎮座していた神社の移設を実現させ、今に至るという経緯なのです。

石舞台遺跡の「蘇我馬子」を埋葬していたであろうといわれる石棺と比べて大小を評価しても全く意味はありません。
石舞台遺跡は古墳時代(6世紀頃)の構造物ですが、今回の遺跡が作られたと言われる弥生時代後期というのは2世紀頃のことで、有力者の社会的な支配力・組織的統率力は全く違うと考えられるからです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうだったんですね、勉強になりました。
感謝致します❗️

お礼日時:2023/06/11 13:38

吉野ヶ里遺跡か、四国か和歌山か、または、ほか、、、


邪馬台国はあったらしく



島根か鳥取

天照大神の須佐の尊かもしれないし
    • good
    • 0

卑弥呼の墓にしては小さいですね。


その時代のお偉いさんでは?
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!