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世の中は弱肉強食で強者だけが生存を許され、弱者は切り捨てられるのが当たり前ですが、
ではなぜ人は困ってる人や苦しんでる人に対して助けたり守ってあげようとするのでしょうか?

A 回答 (7件)

人の脳には、ミラーニューロンという


のがありまして
これがあるので、他者と共感することが
出来るのです。

共感出来るので、困っている人を助けたり
もするわけです。

これを、実験で証明したインドの経済学者
センは、ノーベル賞を受賞しています。


人間には、こうした能力があるので
団体、社会、企業、国家を作ることが
出来るのです。

人間は、単体では非力です。
しかし、組織化された人間は、神も驚く
力を発揮します。

ヘーゲルも、これぞ神としたぐらいです。


つまり、人は、競争原理を採りながらも
一定の限度で助け合うように
デザインされているのです。
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『強者だけが生存を許され』は誰かが決めた絶対的な決まりなんでしょうか?



強者の強は、何か特別な要素の『強さ』は示していません。

それに、相対的な強さのことですが、その尺度は何も示されていません。

たとえばライオンがシカを捕食することを言う場合でも、ライオンがおなかが満腹なら小さな動物を助けることは YouTube にもたくさん例があります。

あなたが言ってることは何か違いませんか?
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困っている人や苦しんでいる人が助けられるわけではありませんよ。



以下は興味があればお読みください。

人の中には謎の性質?があり、ある性質を持つ対象に対しては「命をなげうってでも助けたくなる」と言う力があるようです。この性質を持つ人物を古代では「王」と呼びました。この頃に王権が成立し、その謎を探った集団がりました。この性質について古代中国(インドでも検討されています)で検討がされ「徳(カリスマみたいなモノ)」として要素が抽出されています。

これらの要素を意識して高めると、一般の人でも王と同じパワーを発揮できるとされています。この力は魅力の力です。自らの命を投げうってでも守りたいと思わせる。そういう本能に訴えかける凄まじい制約(契約)が人の脳の中にあるとされています。

そのため人間社会においては多くの人の助けを集めた人が強者であり、それが出来ない人が弱者となります。困っている人を助けるというのは同じ徳の一つである「仁」の力です。なのでやはり謎のパワーの一つなのです。いずれにしろこの王の力、すなわち「徳」を使えば「他の人の助けを無償で集める」事が出来ます。この魔法の様な力が人間の中での強者の証なのです。

これの形骸化したものが権力です。実際は王と同じ力を持っているわけではありません。つまり無償で助けを求める事が出来ません。結局のところ政治取引や経力済力、暴力を背景とした軍事力などの別の力で代替されています。

一方でゼレンスキー大統領などが活用したのが「徳」と言われるパワーです。これに対してG7各国の首脳が抵抗できずに協力を申し出たことになります。徳の中でも「正義」「大義」と呼ばれる「義」の力です。「義」は「元にあった場所に戻すとスッキリする」という人の特別な性質から生じています。

「なんだか落ち着かない」

こういう不快感は意外とキツイ。「義」は何か落ち着かない事が起きているという感覚に対して訴えかけるものです。元に戻しませんか?と言う提唱にはしぶしぶと皆が従うものなんです。この場合は王と同じ力ですから無償になります。西側諸国が無償の支援を際限なく行っているのは王権と同じ「義」の力が働いているからです。

適者生存の話を持ち出してくれている方がいますね。この適者生存の能力は「義」という概念とかなり近いです。暴力が「義」であった時代は暴力に優れたものが生き残ります。つまり多くの選択をした者の中でその時代の「義」に沿った人に力が集まるんです。これに反したものが弱者となり淘汰されれるという事です。時代により「義」が何処にあるのか変わりますので、これに関して敏感じゃないと行けません。

また「正義」は王の力の中ではかなり強力です。特に何かを淘汰するときに表面化します。普段は雑多に協調しているわけですが、突然、ヒステリーを起こしたように発生し、それまで生存を許されていたものが切り捨てられ滅びます。この(無情な切り捨てが生じる)ため勝ち負けを競う場合は「義」がどこにあるかを探すのが一番重要なんです。

「ロシアが勝つと思ってロシアを応援していた人は驚いたろう。
 義によってウクライナを支援すべきと思っていた人は、奇跡
 が起こったと思ってハッピーだろう。しかし、これは必然で
 あり出来レースであった。古代の武将ならばすぐに気が付い
 ただろう。義の無い側が生き残る事は無いのだと」

力による現状変更を認めない。この合言葉はすさまじいなあと思っています。「義」の本質を突く言葉(元に戻さないと落ち着かないぜ)をそのまま言い当てています。これは義を体感で知っている人達(つまり人間社会で言う所の強者)の力を集めてしまいます。

この「義」には平和と言う概念ですら勝てません。「和」と言う発想は日本特有の発明ですが、徳の中でも巨大な要素である五常(仁義礼智信)まで及ぶとは思えません。つまり和を訴えても、義に反する場合は淘汰されるという事に成ります。

世界の強者が自らの身を切っても無償で支援しようとしています。「義」の凄まじさが伺い知れますよね。これくらい徳の力(古代の王の力)と言うのは本当に強力なんです。これを使う物が強者であり、これに逆らうものが弱者となります。

社会的な弱者であっても「仁(思いやり)」があり、「義」に背かず、「礼」を重んじ、「智」に長けていて、「信」がおける人は王と同じ力を発揮します。ガンジーみたいな人ですね。しかし「適者生存」の考えで行くと、現代の社会的な弱者の性質は反道徳的な性質を持つはずです。

「他者への思いやりがなく、他者の成功を妬み嫌がらせやイチャモ
 ンをつけたがる。義に反し悪が栄える状況を痛快だと思う。
 誰に対しても失礼な態度を取り不遜である。基本的な知識ですら
 調べようとせず、誰かの不信感を煽ることで得ができると浅はか
 な事を考える」

こういう性質が必ずあるという事です。ちょうどG7の成功を妬んで色んな人がパニックを起こしていますよね。やらんでいいのに色々とやらかしています。彼らは予想に反する敵の成功に驚き、敵にだけ奇跡が起きる事に対して納得がいかないのです。

「なんでお前の時だけご都合主義の物語みたいにうまく行くんだよ。
 そんな都合よく現実が変わるなんて狡いよ。俺が頑張って生きて
 いる事が無駄に思えるよ。否定したい。間違いだと認めさせたい。
 そうじゃないと俺が滅ぶ気がしてならない」

G7の成功を奇跡だと満面の笑みで喜んでいる人もいれば、必死の形相で無しにしたいと思う人もいるわけです。

この様に真っ二つに分かれる理由は何か?

「義」を侮ったという事です。

ガチ勝負から逃げて安全なところから石を投げている人は、勝負勘というのが養われていません。つまり弱者ということです。私は正義の使者でも何でもありませんが淘汰される側にいるのだけはごめんです。そのため「義」が明確に立っている場合は逆張りしません。今回のウクライナ侵攻では「大義も正義もない」とはっきりと訴えているYoutuberもいました。良く分かってるなあと私は思いました。義に反する側につくのはマゾいんですよ。ごめんこうむります。

自然界での力は暴力です。弱肉強食と言うとこちらを思い描く人がいます。しかし人間種にある力は「徳」として明確化されています。科学の力は「智」ですね。仁義礼智信の一つです。ウクライナ侵攻でゼレンスキー氏が発揮しているのが「義」です。特に淘汰を判定される場合は「義」の方が強く「智」が負けます。

ロシアには「智」だけはあったんですが、義、礼、信でウクライナのゼレンスキー氏に負けています。各国は「智」を無償で供給するとして新型兵器の供与をしたわけです。これによりロシアは衰退の道を明確に歩み始めました。同時に逆張りをしていた人はパニックを起こし、ヒステリックな逆張りを主張を止める事が出来なくなっています。流石に世界的に見ても奇跡的なイベントですから、ここで水を差そうとする人はどこか可笑しいと思われますよ。こうやって徳を侮った人が一緒に沈んでいくわけです。

人が持つ力の本質は他の強者の力を集めることです。その強い動機になるモノに注意を払っていれば、先読みが可能です。しかし徳に反する方向で自らを置いていると、力の流れが読み切れなくなります。そのため、敵側にばかり奇跡が起きて、自分たちはいつもガッカリするという成り行きになるんです。

という事で質問者さんが思っている弱肉強食の強い弱いが道徳に関する徳の高さで強弱が決まり、困っている物が助けられるのではなく、徳の高いものが助けられるのだと置き換えてみてください。特に不思議な事が起きているわけでは無いと分かるはずです。

弱者ほど自分の道徳観念について検証が必要であり、勝負勘や生き残りと言うのが何処で生じるのか今一度考え直すべきであると思います。

以上、ご参考になれば。
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人は単独では生きられず、集団で生きていくもの。


だから個という考え方よりは全体でという思考もあって、集団の弱い部分に対して切り捨てるというよりは守る事で、自らの存在意義をも見いだせたりするものじゃないでしょうか。

よく「ありがとう」って言われて、こんな自分でも人の役に立てて嬉しいって意見も聞くじゃないですか。
嫌な見方かもしれませんが、承認欲求が満たされるというか。
または、もし自分がこういう状態であったら・・・という想像力が働いて、情が湧いてくる事もあるでしょう。

とにかく個別でなく集団で生きるという習性が関与しているのではないかと思います。
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ええとですね、


そもそも「弱肉強食」って間違いなんです。正確には自然界は「適者生存」です。

別に強い奴が生き残るとは限らなくて、多様な生物を存在させておいて、環境に応じてどれかが生き残る、ですね。例えばホッキョクグマって一頭いるだけでアザラシの群れを恐慌状態に陥れるほど、物凄く強いですけど、温暖化が進むと死に絶えます。

今回は倫理面は排して、単純に生存戦略だけに絞って回答しますね。


人間の社会も、基本的には多様性を保持しよう、という方向に社会は行きつつあり、その中に弱者(正確に言えば、現在の環境において弱者とされている人たち)を救済することももちろん入っています。これも合理的な生存戦略です。何故ならば、現在の環境において「弱者」である人が、環境が変わった途端生存を勝ち取るかも知れないからですね。

逆に「弱者を切り捨てる社会」って弱いんですよ。強さの軸が収束していくので、その強さが通用しない環境が現れたらそこまでです。
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当たり前ではないです。


だから弱者や困ってる人が救済されます。
例えば戦後の日本の復興は日本人の底力以上に、
海外からの無償の援助があったからです。

この事実、あまり語られないんだよね。
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それは宗教の教えだからです


弱肉強食は経済や生存の倫理
心を支配するのは宗教の教えだからだと思います
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