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日本史の教科書に書いてある 古代の「史実」には、日本書紀や古事記のなかに書かれた内容に基づいたものはどのくらいあるもんなんでしょうか?

中学・高校の日本史の教科書に書かれた(奈良時代くらいまでの)「史実」についてです。
・何年頃の日本はこうだった
・何年に誰々が○○した
・何年に△△が起きた
などと 教科書にあります。
(ここでは、学者によって見解が分かれているような事柄は除いて、ほぼ通説だとされている事柄だけに限らせてください)

考え方として

1)日本書紀や古事記は あくまで神話の世界や口伝えによるものなので(でたらめばかりかもしれないから)もともとそれらは当てにせず(参考にさえせず)、日本書紀や古事記の存在とは関係なく、客観的・科学的な研究に基づいたものだけが「史実」として教科書に書かれてあるのか

2)または、「日本書紀にはこう書かれている」「古事記にはこう書かれている」と いちいち記述しないだけであって、日本書紀や古事記の内容をもとに、そのなかの 客観的・科学的な検証をへたものが「史実」とされているものが たくさんある

のか、どうなのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    回答内容の的確性のほどは私には判断しかねますので(学者によって諸説あるように、一般のかたの解釈の仕方も様々でしょうから)あえてBAは選ばずに締め切らせていただきます。
    どのかたの ご回答も大変勉強になりました。どうもありがとうございました。
    ただ まぁ、関連知識や周辺知識、あるいは持論 を大展開してくださったかたが多いなかで (偉そうな言い方で申し訳ありませんが、論述試験的に言って)「問いに対する答え」を真正面からくださったのは No.1、No.4、No.5 の3人のかたでした。

      補足日時:2023/05/24 22:17

A 回答 (8件)

古事記の始まりから推古天皇までは


ほとんど検証ができていません。
疑いだらけです。
日本書紀と古事記では登場人物の
登場年代があいまいで
大幅な開きだらけ。
古事記は推古天皇で終わっていて
そこまでの歴史が一番問題。
穴だらけ・謎だらけです。
実在を疑う天皇が多すぎ。
100歳を超える超寿命の人物だらけで
其処がネックで疑いが多く、永遠に
決着のつかない大論争が続いています。
紀元2600年といっても600年サバ読み。
伊勢神宮も2000年は嘘、200年くらいサバ読みね。

日本は神武天皇以来2600年は作り話ですね。
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この回答へのお礼

参考になります。どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:13

まあ、いろんな意味で、質問者のような疑問が出てくるのは、自然なことだと思います。

正史としては、日本書紀や古事記を鵜呑みにし、御用学者、間違っていることが判明しているのにも関わらず、それを古代の歴史として全国民に教え続けている。まったくの茶番です。

例えば

・ 今だに、邪馬台国の場所がわからず、その勢力と大和朝廷や、天皇家へのつながりがみえない。

・ 2~3世紀の大和朝廷の成立の過程があいまいで、通常どの国でも考えうる、土着勢力同士の権力争いが、具体的でない。

・ 欠史十代をはじめ、天皇の在位期間を学術的に検討して、調査すると、2~3世紀以前の既述に、正当性が一切見られない。

・ 万世一系もうそ。少なくとも、数回は王朝は交代している。そして、天皇の初代は、どこをどうひねっても、2~3世紀の話。

・ 神話と言われるなかに、正史にはない具体的な政争や戦争の記録と、合致するエピソードがつまっている。

など不思議がいっぱいです。さらに

・ 乙巳の変による大化の改新で悪者にされた、律令制に反対する蘇我氏(蘇我入鹿)というイメージは、今の研究では事実無根で、彼はむしろ改革派だった。

・ 中大兄皇子は反主流派で、中臣鎌足は百済王・豊璋というのが、御用学者以外の中では常識。つまり乙巳の変は、アウトサイダーによるテロ・クーデター。

・母国百済を救うため、日本に何のメリットもない白村江の戦いの出兵し、新羅・唐と戦う。それは、豊璋が王子として、百済を存続するため。このとき、日本書紀には中臣鎌足は、何故かいなくなる。

・ 蘇我系天武と、中大兄皇子・天智との抗争。壬申の乱では、天武が復活
し、その後、100年抗争は続く。

・ 外国人鎌足をアドバイザーにした、国の乗っ取りの仕上げが、蘇我氏が構想していた大化の改新を使って改革をリードし、律令国家を作った天皇家とそれを支援した藤原の開祖という、大フィクションを作り上げた。

・ 正史には、1世紀から7世紀までの史実(最初の4行の不思議の理由)を神話に閉じ込め、都合よく、万世一系天皇と、藤原の正当性を導くあらゆる仕掛けを書き込んだ。

・ 奈良は、蘇我勢力はのこり、天智天皇VS天武天皇一進一退も、奈良後期で勝ちをおさめた天智系と藤原。平安後期、自然発生した武士が、国を奪い返すまで、傀儡王家と外国人藤原にしゃぶりつくされた。

日本書紀を書いたのは、藤原の不比等。これは、中臣鎌足の息子です。その捏造正史を、大事に抱えて、エセ保守派が、天皇擁護に利用しているのが、今の残念な日本。悲しいかな、古代の日本の歴史です。もっと、広くしらしめることで、私はむしろ古代への愛着が深まると思っています。

ですから、日本書紀のような綺麗な歴史は嘘で、3世紀は卑弥呼がいて、出雲系もいて、大和にも土着勢力がいて、全国をゆるやかにつなげる統一っぽい動きもあったし、百済系、新羅系などが入り乱れていたと思われます。だからこそ、大和にいない神武の東遷で始まるのであり、出雲の国譲りなのであり、日本書紀の神話の多くは、様々な勢力の戦争や、人物、土着勢力を象徴しているわけです。そして、大和朝廷成立後も、いくども政権は交代し、その権力をめぐって、普通の国に起こるさまざまな政変があったわけですね。それらを通じて、宗教取り仕切る権威としての天皇という存在が、国全体に浸透していったというのが、実態だと思います。

律令制成立後、平安中期まではその権威で国をおさめますが、権力の根源の武力をなくして律令制を自ら解体したつけが、武士の自然発生をよび、その後は、権力と権威が微妙なバランスをかなでながら、時代時代で天皇家は生き続けます。

南北朝の時もそう、戦国もそう。江戸時代は地味だけど、尊皇攘夷で復活。明治はむしろそれをシステムとして利用し、統帥権で突っ走って敗戦後は、天皇の戦争責任・・・。そして憲法に象徴とさた中で、今また、国民に愛される親しみある天皇と。

いろいろあったにせよ、時代時代を超えて、古来から受け継がれたこのシステムを、国の象徴として愛するのは自然なことだと思います。たとえ、万世一系が作り物でも、それは大したことではない。日本の歴史とともに、そこに存在したという事実が、大きいのだとと思います。
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この回答へのお礼

詳しく ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:11

因みに一つの案ですが、


古事記の崩御干支をすべて西暦に当てはめて過去へ過去へと遡って
古代天皇の崩御年数を出して出て来る数値と
日本書紀で組み立てた古代天皇崩御年表を
作って両者比較して
如何に違うかですな。
学校の授業は
ここまでやるのかなあ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:10

神代の伝承の時代から現実の歴史に移行するまでのどこからが、(ほぼ)信頼できる歴史なのか?


その線引きは簡単ではないが、およそ推古天皇の時代以降はかなり信頼できると考えられている。

今の歴史教科書がどのように記述されているのかは分からないが、文献史学的には、古代とはいえ推古朝以後については記紀の記述をほぼ信頼する形になっているのではないだろうか。

それ以前については、主に中国の記録と照らし合わせて考察した結果と云うことになるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

質問したことに対して 率直に(真正面から・ストレートに)回答くださっている点で、ベストアンサーのひとつだと思います。
かゆい所に手が届きます。どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:09

最初の神話の時代あたりのことはともかく、後ろのほうの記録はそれなりに確認されていることもあり、何が行われたのかなどは教科書に載っている可能性もあります。


神功天皇(皇后)の話が60年だか120年だか古いものとして書かれていて、史実的には西暦390年ころの話だと考えられるので(注:私説)、西暦500年あたりころからの記録は結構ちゃんとしてるんじゃないでしょうか。ちなみに日本書紀は西暦720年に出来上がったのだったっけ(うろ)。
遣隋使(600~)なんてのは日本書紀に書かれていたものだったと思います。第一回の記録が中国側と日本とで記述の有無が異なっていたりと、いろいろありますが。
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この回答へのお礼

質問したことに対して 率直に(真正面から・ストレートに)回答くださっている点で、ベストアンサーのひとつだと思います。
なるほど、なるほど… どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:07

古事記・日本書紀の描く古代史は政治的意図で


日本を神仙の住む悠久の歴史を持つ神の国に
見せようとして
神武天皇を
紀元前660年1月1日に即位したという風に
当時いた天皇の
寿命や在位年数
実際よりも
長生きに見せかけて
捏造・延長して
歴史を改竄したと
思います。

さらに邪馬台国も
ご当地ソング
よろしく、
研究者の意図も加わって
自分の好きな土地へ
読者を誘導して
百家鳴争ならぬ
百家迷走で
百説乱舞状態ですね。

日本全国さらにエジプトとか
フィリピンとか
あり得ない説まで出て
まさに
混乱のるつぼ

私の学生時代は
高校の授業で
「神武天皇は九州から大和へ東征したことになっているが、
今どき、それを真面目に信じる馬鹿は
おらぬ」と教師が授業で豪語していたなあ。

皆様の今の歴史教育は
どんな形で
行われているのかな。

昭和十五年=1940年=神武紀元2600年ということで、
こんな歌ありましたね。

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この回答へのお礼

なるほど。ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:05

1:歴史は勝者が造る物です、史実が記載されているのでは有りません。


  古事記と日本書紀の原本は消失していて残っていません、写本が
  残っているだけです、古事記の一番古い写本は鎌倉時代の物です。
  日本書紀は平安時代からの写本が有りますが、複数有り、意図的に
  書き換えて写本にした可能性があるので歴史学者の論争の元に
  なっています。
  近代に、なって書き換えられた例として、神功皇后は江戸時代まで
  15代天皇となってましたが、男系を重視する大日本帝国の大正時代
  に天皇の系図から外されました。
  政治の都合で近代になっても書き換えられる様な歴史書は信用
  できないでしょう。
2:古事記や日本書紀の科学的な検証はされてません、というより検証
  が不可能と思いますよ、宮内庁が古墳の発掘を許可すれば、多少、
  新しい事が解るかも知れませんが・・・
*結論、古事記は口述の伝承を纏めた物なので検証不可です。
  日本国の正式な歴史として、編纂された日本書紀も政治の都合に
  より書き換えられているので、史実としては信用できませんのです。
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水戸光圀が大日本史の編纂を命じて、完成したのが明治になって完成
しました。(300年近く要したのです)

仏教が鎌倉時代に庶民に普及してから、歴史の書き手として、寺院が
加わりました。
黄門様に命じられた水戸藩士は、資料集めに全国の寺院を巡りましたが、
門外不出として、情報は得られなかった様ですが、粘り強く交渉した
結果、300年後の明治に大日本史は完成したとの事です。
源氏物語を始めとした古典文学などの写本などが収録されており、
日本の文化遺産として、貴重な物です、史実に近い物が記載されて
いると思いますが、高価なので買えず、読んでません。

大日本史 100冊、243巻は55万円で販売されてます。
県庁所在地の図書館の目録に揃えるべき本と思いますが・・・
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この回答へのお礼

勉強になります。ありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:04

日本書紀や古事記だけではなくて、中国や朝鮮の文献との突き合わせによって、「これに関しては、こうであろう」と裏付けられていることがらが記載されています。



あとは、学説が分かれているものは、学説の紹介です。

新しい発見があれば、簡単に通説が覆る世界ですから、「とりあえず今現在の時点において通説としていること」が中心です。

ただ、日本の天皇は辿っていくと神になりますから、これを事実としたい人達がいるわけです。

こういう人達の影響力によって教科書検定が行われている部分がありますから、結局、教科書検定制度の問題にもなります。
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この回答へのお礼

質問したことに対して 率直に(真正面から・ストレートに)回答くださっている点で、ベストアンサーのひとつだと思います。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2023/05/24 22:03

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