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0. 世界についての展望を問います。

これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。

添削をどうぞ。

             

1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。 

  -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:世界への寄り。
                 アニミスム&シャーマニスム
                 世界との未分化なる一体性。

  0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。
                 時間的存在の自覚。 《世界‐内‐存在》。

  +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:二階から世界を寄せる。
                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
                 社会力学上(政治的に) 寄せる。

 
2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。

2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。

3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが生活共同にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。

3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。

3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。

3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。




4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。

4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。
 



5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。

5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。

5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。

5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。
その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。




6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。

6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。

 
6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。




7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。

7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。

7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。

 [スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)]

 つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。

7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。

7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。

8. なおわが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。

  ヨリなる原始心性:縄文人
 
  イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の
           終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに
           あたる300年ごろからを当てる。
           これは やまとの三輪市政であると見る。
           崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。

  ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。
           河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ
           タラシヒメの登場による。
             ・・・

A 回答 (4件)

崇神天皇は二五八年:卑弥呼の時代


応神天皇は三九四年崩御と
古事記干支から出て来る。

倭の5王は仁徳天皇より始まる。

継体天皇は大碓命・隼別皇子とか表の史書には
死んだはずなのに
生きていて子孫を作り、
宮中に戻ってきたことになっている。


義経成吉思汗説もこうした皇室の実績を継ぐものか。
意外と嘘ではなく史実だったりして。
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この回答へのお礼

学問として研究するなら 細かい問題や主題があるんでしょうね。


わたしは もっぱら古代史における・けっきょく国家の成立という問題に特化して考えてきたに過ぎません。


それは 現代における日本社会のあり方についても その同じ史観で認識することができるようにと 中には飛躍しすぎではないかとうたがわれ批判されるような部分をも容れて想像してみたものです。

ですから この趣向と関心のほかには じつはあまり述べるところもないのです。(そういった課題をうかがって勉強はしますが)。



そんな藪にらみ史観の持ち主が何かを言ってよいとすれば わたしは 中国の史書については――卑弥呼にしろ倭の五王にしろ――取り扱い方がびみょうにむつかしい・・・のではないかとは思っています。

史料・資料が単一のものになってしまいますから。

(そう言いながら タラシヒコなどの事例を引き合いに出したりしていますが)。

お礼日時:2023/07/13 21:21

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13529716.html

こんにちは
上のアドレスに行って何か一言書く気ありませんか。

お待ちしています。

ちなみに応神天皇の父親に仲哀ではなく
武内宿禰が演じたという噂有りますね、神功皇后の不倫か。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


一家言あるひと いるんですね。


文字にかんしては 例のイ・エ・オなる母音で甲音と乙音とが区別されて漢字が使い分けられているという事態。これには おどろきですね。

そのほかとしては 関心注意をあまり向けませんでした。だから 今回は パスになります。

お礼日時:2023/07/13 21:07

丁寧なご説明ありがとうございます。


なんとなくですが・・・
分かったような気がします。
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この回答へのお礼

あっ それは よかったです。

なにしろ造語が多いですので おそれいります。

馴染んで行って するどいご批判をお待ちします。

お礼日時:2023/07/07 20:56

すみません、質問文を最後まで読まさせて頂きましたが、理解不能です。


ただ一つ言えることが、世界はどこへ?
それは、恐らく土の中に帰るかと思います。
私自身ついつい大人になっても、ことあるごとに、土いじりをしてしまってます。恐らく人間の本能かと思いますが、することによって、心落ち着き、土と一体化します。なので恐らく世界すなわち人類は土に帰ろうとしているかと思ってます。間違ってますかね?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 理解不能です。
☆ そうですね。次の資料をおぎないます。

▲ (コトバンク:世界内存在) ~~~
△ ニッポニカ
ハイデッガーのいう「世界」とは意味や記号が連関している世界のことであり、たとえば道具が何らかの使用目的のために存在しているように、現存在の配慮に応じて規定される世界のことである。

 ☆ という《世界‐内‐存在》。
  世界と未分化で一体となって感性と理性を用いていたヨリ
  原始心性から自由になった。
  けれど 自然と人間関係から織り成される世界とはバラバ
  ラに離れてしまったわけではない。
  世界は 人間関係が形作るのでもあるのだから。
  分節されたぶん 自由に行動することができる。

したがって、世界内に存在するということは、空間の中に事物のように位置づけられているということではなく、意味連関の総体としての世界に慣れ親しんで内属しつつ、前学問的な存在了解を行いつつ実存しているということである。

△ マイペディア
あらゆる反省に先立って現存し,かつその現存を引き受けながら,何らかの世界の内に,世界を了解しつつあるという人間存在の本質構造を示す。

 ☆ 《前学問的な存在了解を行いつつ実存している》と併
  せて:
  何か存在の本質だとか人生の目的だとかを考えたその思
  考(《反省;学問的了解》)によって存在(ないし人格)
  が成り立つのではなく いまそこにあるというだけです
  でに存在であるということ

△ ニッポニカ
現存在は、こうして世界内存在として、意味連関の総体としての世界に、日常的に気分づけられて存在しながら、もっぱら誰でもない平均的な「ひとdas Man」として非本来的に実存している。
~~~

★ ただ一つ言えることが、世界はどこへ?
それは、恐らく土の中に帰るかと思います。
☆ あぁ。これは 土から土へ 屑から屑へ灰から灰へ還るといった命題でしょうか。


★ 私自身ついつい大人になっても、ことあるごとに、土いじりをしてしまってます。恐らく人間の本能かと思いますが、することによって、心落ち着き、土と一体化します。なので恐らく世界すなわち人類は土に帰ろうとしているかと思ってます。間違ってますかね?
☆ そのとおりです。ただ 《死》ではなく《生》の領域を捉えてみたら?

お礼日時:2023/07/07 13:01

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