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他者から信仰を与えられる。
自らの人間精神により信仰を築く。
どちらが真実の信仰といえますか?

質問者からの補足コメント

A 回答 (10件)

何や、既に自身で答えをお持ちなのですか。

じゃあ何故質問したの?特に信仰の態度なんて、人の意見なんか関係ないじゃない。それとも人の意見が気になるほど、あなたの信仰というのは弱いのかな??
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この回答へのお礼

意味分からないっていうから教えてあげただけ。

お礼日時:2024/02/05 12:47

他者から信仰を与えられること。


自分で信仰の真偽は決めれないからです。
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あっそう。

でもそんな既にあるものをなんで持ち出してきたの??それが正しいかどうかなんか自身の中にしか答えはないんじゃないの?やっぱりこんなとこで質問してきた意味がわからん。自分自身に聞けよ。人の意見を聞く問題じゃないだろ?
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この捕捉、なんですか?悪いけど意味がわかりません。

この意味の探求なら自分だ努力して下さい。その意味よりその過程が大事じゃないの?
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この回答へのお礼

与えられたのではございません。
自らの人間精神により築いたものです。
真実の信仰は真理の探究というプロセスをとうして築き上げるものだということです。

お礼日時:2024/02/04 18:38

他者から信仰を与えられる、とは、何らかの宗教についての信仰を教えられたり勧められることでしょうか。

また、自らの人間精神により信仰を築くとは、自分自身の感性や教養・経験則などから、ある宗教について信仰を深めていく、と言うことでしょうか。
であるならば、どちらが真実、と言うより、まず前者の状態があって、やがて後者の状態に変容していく、ということではないでしょうか。その意味では一連の状態の変化であって、どちらが真実と切り分けるのは無理がある様に思います。

もし、自らの人間精神により信仰を築くが、自分自身の感性や教養・経験則などから新しい宗教(個人的なもの、むしろ哲学とか価値観、規範と呼ぶべきかもしれません)を生み出す、と言うことであるならば、少しお話が違ってきます。
他人に勧められる既存の宗教はある程度以上の数の人々に真実であると受け入れられていますが、自分が作り上げた宗教はそうではありません。しかし、多くの人々に受け入れられている宗教であっても、厳密には細かなところでは個々人によってそれぞれ違いがあると思われます。その意味では真実とは呼べないかもしれません。一方、自分で作り上げた宗教は、自分にとっては真実と言えるでしょうが、他人から見ればそうではないことの方が多いでしょう。その意味では、どちらも真実と言えるが、見る立場を変えることで、真実ではないと言えるでしょう。やはり、どちらが真実か、と切り分けるのには無理があると思います。

さらに、同じ宗教を真摯に熱心に信仰していたとしても、個々人によって解釈が異なったり、特定の事象や事件などの対応が異なったりすることは少なくありません。その意味では、それぞれが同じ宗教を信仰しているつもりでも、実際は、それぞれが細かな部分では異なる別々の宗教なのかもしれません。同じ宗教を信仰しているつもり、なのは幻想であって、本当はそれぞれが、自らの人間精神により信仰を築いているだけなのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2024/02/12 08:47

精神の力により、進行を築ける


人てのは多く無いでしょう。

だから、他者から信仰を与えられ
る道を選ぶのです。

人間精神が進化していけば
多くの人も
自ら信仰を築けるように
なると思われます。
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信仰とは、信じ尊ぶ事、教え教訓をもとに自分の人生を生きることなので、信仰を築くという言葉はよく分かりません。


また、信じるのは自分自身で決めることなので、他人から与えられるものでもありません。それはただ他人から教えてもらった紹介してもらったと言うだけかと。
自分の中で真実だと思い、結果的に進行の成果が出ているのが、ある意味では真実の信仰と言えるかとは思います。
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えっと、、あなたの言う「真実」ってなんなのかな?その基準がわからないと厳密にはこたえられないのめすが、それを前提に回答することをお許し下さい。

でもそもそもそんなことを比べることに何の意味があるのかも分かりません。信仰という頂に至る道は人それぞれの縁や運命によって違いので、人と比べることは無意味だとまず感じました。
 それはさておあ、私見を申し上げると、ある宗教に入信する場合、大抵の人ははその教義に完全に納得して信者になるのではなく、自分の尊敬する人や信頼できる人な信者になっているから、という理由でにゅうしんします。つまりあなたの言うところの「他者による信仰」が大部分だと言えます。だからといってそれが真実ではない、とは誰にも言えません。冒頭に述べた通り、その基準は人それぞれで他人が判定できるものではないからです。他方一から自身が真実を求めた末にその宗教に出会い入信するという稀なケースもあるでしょうが、その場合、自己の中だ積み上げた理論に綻びができた場合、脆くもその宗教に対する信仰が崩れ安く、双刃の剣と言えます。もしその綻びが生ぜず信仰に至れるのが理想でしょうが、それが真実なものなのかどうかはあくまでその人の中にしかない基準で図るしか仕方ありめませんので回答不能です。長々と失礼しました。
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まず、前提条件として、神様の恵みを頂きたかったら、自分で、行動したりして、努力しないといけないと思います。

それをしたうえて、神様の恵みが頂けると思っています。だって、諺に、人事を尽くして天命を待つと言う諺があるではないですが。自助努力は、やっぱりしないといけないと思っています。それが、自分によると言うことだと思います。
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他者というのはいわゆる神様のことでしょうか。


神と共に生きるか否かですよね。
神が自分になって合体して生き方もあるかなあ。
神と自分を別にするか
両者一体化の上で生きるか。
後は神と仏とどちらか
神道か
仏道か
キリスト教か
まあ回教もありますか。
日本人は神道か仏道かで選択する人多いかな。
それとも御自分で宗教信仰を開きますか。
まあいろいろあり。信教は個々に異なる。
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