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戦国時代の江戸についてです。
「江戸はかつては土壌の貧しい湿地帯で、未開の地であった。」というのはよく言われる事かとは思いますが、
対して「江戸は各地から物資が集積する経済上の要地で、交通の要所だった。」というのを最近耳にしました。
両者とも決定的な証拠がない、ということでしょうが、有力さで言えば、どちらも同等ですか?

A 回答 (14件中1~10件)

縄文時代の関東地方


https://news.livedoor.com/article/detail/21245840/
河の上流から運ばれる土砂で海面は少なくなっていきますが、江戸時代に大規模な干拓が始まる前まで広大な湿地帯が広がる景色になってたんですね。
こちらのサイトに、江戸時代の埋め立てが始まってからの地形図が出てます。
https://nokurashi.com/hint/11738

大阪はもっとハッキリとわかります。縄文弥生時代は今の大阪市の大半は河内湖という巨大な内海。
https://www.suito-osaka.jp/special/history/histo …
大阪観光されるとき、あべのハルカスから四天王寺を参拝して、四天王寺を背に逢坂を下ってみてください。

動画2分50秒ぐらい。坂を下りきった辺りに通天閣が見えてますね。聖徳太子の時代にはまだ、通天閣の辺りに遠浅の海が広がっていたはず。

東京もそんな感覚で、今はビルディング街になった土地の昔の様子を想像すると面白いですよ。
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明治時代に鉄道網ができるまで、日本国内の輸送は船が主体だった。


人力や馬力では量の限度がある。

船が主体ということは「港」「河川・運河」「海」が重要になるということである。
江戸は海の近くである。
湿地帯だから運河も掘りやすいし川も多い。
港も整備しやすい。

>江戸はかつては
かつての範囲が分からないが、家康がやってきたときは全く不毛の地ではなかった。
後の江戸ほどの規模でないにしろ城もあったし集落もあった。
太田道灌らである。
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時系列の認識がないだけの話なんです。

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未開の地を徳川が開墾して領土を広げその後政治の拠点としたから


年貢が集まり 多くの人が住むのでその人たちが食べる食料を運ぶ開運が発達したのです。
時代が違います
当時でも多くの生産したものは大阪に集められていました
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車や鉄道の無い時代に大量輸送出来るのは船舶輸送しかありませんでした



後の江戸と呼ばれる地域には、旧利根川や荒川など大きな河川が流入していますので関東地方の物資輸送の面での役割としてはそれなりの価値が有ったでしょうね

戦国時代に差し掛かるかどうかという時期
小田原北条氏と安房の里見氏の間では、江戸湾内の水運や江戸湾に出入りする船舶からの通行税徴集の利権をめぐって頻繁に戦いが繰り返されていました

それだけの価値が有るということなので、戦国時代の水運の拠点としての価値は有った
でも農耕や都市を形成するには適さなかったという感じではないかと

太田道灌が江戸に拠点を築いていたという点から考えても
未開の地と言えるのか?商業的な価値は有ったのではないか?
と思いますよ
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戦国時代の江戸は、土壌の貧しい湿地帯であり、未開の地とされていました。



しかし徳川家康が、江戸を本拠地として選び、計画的な都市整備を進め、物流システムを整備したことによって、江戸は各地から物資が集積する経済上の要地で、交通の要所になったのです。
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それ時代がずれてるでしょ。


どっちも事実です。
たいした重機もないのに川を引いたんだからすごいですよね
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江戸時代というのは


約260年続きました

かつて未開の地であったというのは
初期の頃で
経済上の要であったというのは
その後ですね

時代の違いです
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決定的な証拠はどちらにもあります。



貧しい土地だったのは、江戸だけじゃなく、富士山の火山灰に覆われた関東ローム層に覆われた場所ならどこでもそうです。
火山灰は水稲耕作には不向きです。江戸幕府は関東で水田を造ろうと頑張りましたがほとんど失敗し、それでコメは他から搬入することにして関東では野菜作りを奨励しました。「練馬大根」とか「深谷ネギ」「下仁田ネギ」など古くからの野菜ブランドが関東に多いのはそのためです。

物資が集積する要地というのは「江戸」という地名からして明らかです。
大田道灌が江戸城を築いたころには、荒川や利根川といった大河川の河口の近辺に江戸がありました。「江」は中国の長江に使われる文字で「大きな川」を意味し、「戸」はその出入り口です。つまり大きな川が海に出る場所の港町という意味です。
どういう港町かと云えば、利根川や荒川の広大な流域から、鎌倉・小田原、さらには西国に至るまでの物資と人々の流通経路の大拠点だったということです。

家康が江戸に入るまでの江戸は、都市規模はたいしたことはありませんが、北関東を中心とした広大な内陸部から海に出て多くの場所と交易をするための中継基地として、河川流通と海洋流通をつなぐ極めて重要な場所だったのです。
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「江戸」という言葉を聞くと、現代の私達は江戸城と東京駅周辺を思い浮かべるのですが、家康の江戸入部までの「江戸」は今の赤坂大地付近が中心でした。



ちなみに、家康が江戸城建設と城下町開発をするまで、桜田門のところまでは「日比谷入江」と呼ばれた海で、太田道灌が作った江戸城は千鳥ヶ淵と家康の江戸城本丸のあたりに盛り土をして作っていたようです。

つまり江戸時代以前の「江戸」はどちらかというと最高裁判所から靖国神社付近を東端とする街だったようです。この辺りは日比谷付近からみると高台になっていたので、家康以前の時代でも乾いた土地だったはずです。

で、鎌倉幕府の時代に鎌倉道が作られています。江戸を通って今の東北道や常磐道方面に行く道、千葉県の房総半島や鹿島神宮のある利根川の下流から鎌倉に至るが整備されていた、わけです。

となると、やはりそれなりの経済的な要衝として発展したでしょう。特に東海道から東北・常磐に至るルートとして江戸はなくてはならない場所であったといえます。

さらにいえば「だからこそ家康は江戸の発展性を見抜いた」ではないでしょうか。
 江戸に居城を構えれば、鎌倉幕府時代と同様に京都などの西側に知られることなく経済力を発展させられますし、中山道や中央道を整備して、流通を江戸に集中させることも容易かったはずです。
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