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いき、いなせ、はりが江戸気質といわれ、短気で、喧嘩っぱやいのでも有名です。
どうしてこうなってしまったのでしょうか?
江戸っ子=町人だと思いますが、町人文化でこのような気質を育てる要素は何だったのでしょうか?
それとも武士も短気でしたか?
(日払い賃金制が影響していると想像してますが。)

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

江戸っ子は「短気で、喧嘩っぱやい」というイメージは多分は落語で作られた、フィクションの江戸っ子ではないでしょうか?



落語は面白おかしく誇張し、しかも現在演じられる話の運び方の大半は明治時代以降に作られ、大正、昭和、平成とその時代に従って改変され続けてきた。だから時代考証として信用に値しないものです。

実像として参考になる文献が次のHPに紹介されていました
『ごまめの小唄』より
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「江戸っ子の実態」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
 幕末の安政期、紀伊田辺藩の御典医原田某が参勤交代で江戸に滞在し、その見聞を記録したものに、『江戸自慢』がある。同書は江戸っ子について、次のように記している。
 江戸の商人は言葉も物腰もていねいで、和歌山とは大違い。
江戸の人々は道をたずねると仕事をやめて親切に教えてくれるし、その言葉使いはやさしく、ていねいである。
 などなど。
 江戸っ子はけっして荒っぽくはなかった。著者の原田が江戸っ子に見たのは、都会人として洗練された、ていねいな言葉使いとやわらかな物腰だった。
他にも多数の史料を例証としてあげることはできるが、それはくだくだしくなるため、現代の感覚に照らしてみよう。
 江戸は、他の都市に比べて武士の割合が極端に大きかった。武士は生産はせず、税を徴収し、消費するだけの存在である。江戸の経済は幕府や諸藩の、いわば「公共事業、あるいは許認可事業」の存在で成り立っていた。つまり、江戸の商人、職人など大多数の町人は、直接間接に公共事業や許認可事業に依存して生活していたのである。しかも、事業を発注したり認可したりする武士は、身分制度のもとで威張っていた(中略)
 江戸の町人は都会人という側面と同時に、いわば武士階級という監督官庁から認可を受け、事業を受注する企業という側面があった。言葉も物腰も、ていねいになるのが当然なのだ。
 少なくとも落語の「江戸っ子」では、公共事業は受注できないし、監督官庁の認可も受けられないのは確実である。

このほかにも同HPにある
「江戸っ子の差別構造」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「江戸時代、女の『売値』は」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「江戸の美味は危険」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「人情長屋は本当か」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「火事は江戸の華か」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …
「江戸の治安はよかったか」
http://homepage3.nifty.com/motokiyama/nagai/naga …

これらなどにも目を通してみると、いろいろと面白いですよ
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 江戸の生活はめまぐるしい。


 忙しい、皆まで言っているとまだるっこい。
 早飲み込み、時には鵜呑み込み。はやとちり。
 それでもどんどん物事をはこんでいかなきゃ、日が暮れちゃう。
 全部言わなくても判る、判らなければあほ。
 共通の基盤。
 理屈をぐちゃぐちゃ云って居ては、まだるっこしい。標語や皮肉、明喩などのたとえ、言い回しで、びっしときめて伝える。
 歌舞伎のいろんな科白など論理や文法もそうだが、リズムや運びが大事。そういう心性は日本人にあり、江戸びとはそれでことを処理していた。と存じますが。

 俳句や和歌、単価も余韻が、リズムが大事でしょう、運びが。
 江戸の場合はたたみこむようにいわないとしまりがつかない、ない。
 江戸詰め藩士の子孫として、江戸びとのはしくれだけれども、小さいときから法学や哲学、文化などに関心がある私は、うるせぇ、ってね、よくいわれたけれど。
 でも、みんなの捌き(裁きでない)や、仕切りは受け持たされてきた。
 よぅっし、そうしようってね。
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寿命が短かったから。



江戸(東京)の平均寿命が全国平均に追いついたのは、ようやく大正時代。それまでは、都会はまさしく命をすり減らす場所でした。
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 私は、江戸の男性人口が異常に多かったからだと考えています。


   http://www.inagakilaw.com/asof/html/02x05/021005 …

 しかも、田舎から食い潰れて出てきた次男坊や三男坊、そして単身赴任の武士達ですから…。
 (私は、工業高校出身なのですが、数十人に1人という下手に少数の女性がいる環境だと、逆に少数を巡って暴力事件って起きやすいんですよ…。)

 まあ、少数の女性に良い所を見せようと、いき・いなせな文化が出来た面も有ったとは思いますが、つらい環境ですね…。(殆どの人が一生独身なんて…。)
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食生活も問題があったかも知れません。


たとえば脚気はむかし江戸患いと言ったように都市の病気でした。
江戸っ子は「拝み搗きの米を食って」というように白米食であったといいます。
ビタミンやカルシウムなどが不足していたのかも知れません。
ビタミンB1やカルシウムが不足するとイライラしやすくなるといいますから
影響があるのかも知れません。
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本当の江戸っ子は三代続いてのもの。



江戸は地方から移り住んでくる人が多い所でした。彼らは江戸の言葉があまり分らないのであまり喋らない。 ところが、江戸っ子の使う言葉はぽんぽんはじけるように喋る(言葉が直球の様に飛ぶ)ので、地方から出てきた人たちが聞くと、「江戸っ子は短気で、喧嘩っぱやい」という様に見受けられたのだと思います。また、町人は読み書きそろばんくらいの教育しか受けませんから、言葉で説明や表現が出来ない場合、手が先に出て喧嘩になることも多かったと思います。

昭和の集団就職で多くの若者が東京に来たときはやはり、方言を喋るのが恥ずかしい様子で、人前でほとんど喋らない若者が多かったですよ。

私の家のご近所には武士の末裔の方が多く住んでましたが、皆さん、知的で穏やかな人ばかりでしたので、彼らのご先祖もおそらく同じようであったと思います。

月島は関西からの移り住んだ人が多く、東京の諏訪神社と名の付く付近には信州出身の人が多いと聞いたことがあります。

>(日払い賃金制が影響していると想像してますが。)

「宵越しの金は持たね~。」なんてここから来ているのでしょうね。
実際は「持たね~。」ではなく「持ってね~。」で、江戸っ子の見栄なのでしょう。

>いき、いなせ、はりが江戸気質

これらは、当時流行った文学や江戸芝居や歌舞伎、遊郭の影響ではないでしょうか。
また、18世紀には100万人都市となり、世界一犯罪が少なく人口も一番多い所でしたから、そこの流行は地方の憧れだったと思います。
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