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江戸時代には現在の千代田区、中央区、江東区、台東区にあたる場所がよく出て来ます。
渋谷は今では非常に賑わっている街ですが、時代劇では聞いたことがありません。どういう街だったんでしょうか? また赤坂や六本木はいかがでしょう?

A 回答 (5件)

江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていました。


渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家がありました。
渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していました。

渋谷の語源についてはいくつかの説がありますが、定説はありません。
•昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
•平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。
河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。
この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。
そこで、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。
このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説。
•この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
•渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。

以上、全て渋谷区のHPから。


赤坂には大昔海が奥深く入り込み、坂の下は海でした。長い間に海が徐々に引いて陸地となり、低地は耕作地となり高台とつなぐ坂道ができて、現在の街の原形ができました。「赤坂」の地名の由来は、その昔、現在の赤坂離宮(旧・紀伊徳川屋敷跡)のある高台で、茜が多く取れたことから茜山と呼ばれ、その坂を茜坂(赤根坂)と言っていました。その「あかねさか」の音が詰まって「あかさか」になり、付近一帯を赤坂と呼ぶようになったと言われています。
赤坂の本格的な始まりは徳川家康の入府に始まります。江戸城の造営に際し、江戸城の西に位置する赤坂台地に紀伊徳川家(現在の赤坂離宮・迎賓館周辺)をはじめ大身の旗本や大名を配置して江戸城西の守りを固めました。低地を流れる川は江戸城外堀として整備し、溜池は一時、江戸の水瓶として利用されていました。その名残が現在も「溜池」の地名として残っています。江戸城入り口に赤坂見附門が置かれ、門を出たすぐの坂下には幕下藩士、城内で働く職人方や庶民が住み、坂の上の高台は大名や旗本の屋敷町となって、その形が現在にも受け継がれています。

以上、赤阪五通り商店街のHPから。




「 六本木 」 という地名の由来には諸説あるようです。


[ 説 : その一 ]
その昔、六方庵という大屋敷があり、その庭に六本の松の木があったためにこう呼ばれたという説。

しかしながら、現在は、この大屋敷も六本の松の木も存在していません。

地名の由来は六本の木があったからだと伝えられるが、位置は不明と、文政11年 ( 1828年 ) に地元の名主が幕府へ差し出した文書に書かれていたそうです。


[ 説 : その二 ]
「 六本木 」 という土地は、江戸城にそう遠くない場所で、武家屋敷が多くあったそうです。

その中に、 「 上杉 」 、 「 朽木 」 、 「 青木 」 、 「 片桐 」 、 「 高木 」 、 「 一柳 」 という大名家があり、どの家も 『 木 』 に関係している苗字を持っていたので、そこから転じて、 「 六つの木の付く名前の家がある 」 から、 「 六本木 」 となったという説です。




ヒント
上杉家は、出羽米沢藩上杉家中屋敷 ( 飯倉片町 )
朽木家は、丹波福知山藩朽木家上屋敷 ( 赤坂今井谷 )
片桐家は、大和小泉藩片桐家下屋敷 ( 麻布鳥居坂 )
高木家は、河内丹南藩高木家中屋敷 ( 麻布笄橋 )
一柳家は、2家あるが、播州小野藩 ・ 伊予小松藩ともに佐久間小路 ( 西新橋 ) に上屋敷があってこれが最も近い。

つまり6大名家の江戸屋敷が揃って六本木地区にあったことはないらしい。


[ 説 : その三 ]
市三坂を登った高台には、昔、五本の榎が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべとなっていたそうです。

この辺りは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げる土地でした。

その土地に、源氏に追われた平家の6人の落武者が逃れて来て力尽き、五本の榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てたが、1人は肯んぜず、さらに落ち延び、一本松に至ってついに力尽き腹を屠して果てた。

そこで村人が供養してやり、五本榎と一本の松を入れ合わせ六本木といったという説。


[ 説 : その四 ]
江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気という言葉が訛り、いつのまにか六本木になった。

六本木という名の起源 ・ 由来については不確かな言い伝えが複数あります。


◯本木という地名
地名は、自然の形態、地形や土地柄、土壌、植物や産業、農鉱業から転じた名前が命名される場合があります。
六本木のように◯本木という地名は、全国各地に点在しているようです。
一本木 ( 北海道、埼玉県、富山県、長野県 )
二本木 ( 新潟県 )
三本木 ( 青森県 )
五本木 ( 東京都 )
七本木 ( 三重県 )
特に二本木、三本木が日本各地に多いようです。

遠方から見て、台地上の六本の松が目立ち、ごく自然に 「 六本木 」 という地名になった可能性があります。


麻布区史には
「 今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる 」 と記されているようです。


“ どこに六本の木があるやら ”
江戸の初期の随筆集に、六本木というが、 “ どこに六本の木があるやら ” と書かれている文献もあったそうです。
“ 木は元々と生えていないのです ”
四つ木にも四本の木は生えていません。
それどころか、古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうです。
馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしいのです。


江戸時代に入ってから 「 六本木 」 が形成
六本木が一つの町として形成され たのは、江戸時代に入ってからのこと。

徳川 秀忠 二代将軍夫人の葬儀に功績のあった僧侶たちが、夫人の火葬場であった六本木の地を寺地として受領して起立したもの。

人気のない寂しいこの地に4つの寺を建て、門前町を開いたことに始まります。


真相は一体どの様なものなのでしょう。



以上、Yahoo知恵袋「 六本木 」 地名 由来の真相は?に対するnsawc_nfwsさんの回答。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/01 13:25

宮益坂の両側は渋谷宮益町と呼ばれるポツポツ人が住んでいる程度の街でした。


この宮益坂は富士見坂と呼ばれていました。
坂の途中に大きな一本松が生えていました。
遠くに富士山が見え、眼下には中渋谷村の風景が広がり向かい側に道玄坂が見えました。
現在の山手線の東側の道路は川でした。
現在の宮益坂との交差点の場所に宮益橋という橋が架かっていました。
高札場がありました
現在の109の辺りは中渋谷村と呼ばれていました
小さな川が流れ、畑や田圃が雑木林の間に広がっているのどかな田園風景が広がっていました。
時代劇の舞台にはなり難い風景ですね。
道玄坂というのは、江戸時代よりも前に、ここに道玄と呼ばれる山賊がいて追い剥ぎなどをやっていたことに由来します。

溜池山王駅の付近は文字通りおおきな溜池でした
現在の特許庁はこの池の中になります
溜池山王から赤坂見附までの道路はこの溜池に繋がるお濠でした。
永田町駅の付近に城門(赤坂御門)がありました。
これが赤坂見附の名前の由来です
付近は赤坂裏伝馬町と呼ばれる町人街でした。
お城の門の前では時代劇を作り難いでしょう。
明治時代以降には、千代田線の赤坂駅から赤坂見附へ抜ける道路一帯には高級料亭が並んでいました。
いわゆる料亭政治の舞台となっていた一帯です。
高度成長期には、赤坂の料亭で食事をして銀座へ二次会で飲みに行くというのが、サラリーマンの憧れの姿でした。
若者や外国人には縁のない街でした。

溜池山王の横の首都高沿いに六本木へ向かう両側は大名の江戸屋敷が並んでいました。
六本木駅横の麻布警察の辺りは御書院与力同心大縄地と呼ばれる今で言えば公務員の官舎団地でした。
現在の六本木から麻布へかけての一帯は大小の大名の江戸屋敷や幕府の役人の公務員団地や旗本の屋敷などがビッシリと建っていました。
これでは時代劇の舞台には不向きです。
六本木界隈が賑やかな街になったのは昭和30年代の後半ぐらいからです。
渋谷に比べれば新しい繁華街です。

江戸時代の地図は下記のサイトで見ることができます。

古地図 - goo 地図
map.goo.ne.jp/history/

蛇足
江戸の街というのはお考えになられておられるほど広い街ではありませんでした。
何分にも移動手段はひたすらテクテク歩くだけの時代です。
「本郷もかねやすまでは江戸のうち」などという川柳が残されています。
渋谷、新宿、池袋など山手線の周辺は、現在で言えば農村の光景が広がっていたとお考えください。
目黒は筍の産地でした。

時代劇の舞台になるご指摘の地域は町人が主体となっていた街です。
赤坂や六本木はいわゆる武家地でした。
武家が占有していた面積は江戸と呼ばれる地域の約六割~七割を占めていました。
全国の大名の江戸屋敷が大半を占めていました。
例えば、現在の日比谷公園は長州毛利家の屋敷でした。
大名屋敷というのは半端な広さではありません。
単に殿様が住んでいるだけではなく、現在で言えば県庁がそっくり存在していて、そこに務める人もその中に住んでいました。
毛利家もここだけではなくあちらこちらに屋敷を構えていました。
他の大名も同様に複数の屋敷を所有していました。
大名屋敷は長い塀で囲まれていますから、武家地へ足を踏み入れると両側に延々と塀が繋がり、通りには猫の子一匹いないような街が広がっていました。
このような街で時代劇をやろうとしても無理でしょう。
ひたすら逃げる奴を追いかける以外に作りようがありません。

明治に入ってこの屋敷地が売りに出されて取り壊されて次々と道路が作られました。
東京は明治維新、関東大震災、第二次世界大戦の空襲、東京オリンピックと何度も造り替えられた町です。
江戸時代の面影はそれこそ虫眼鏡で探す程度しか残っていません。
浅草浅草寺の裏手も浅草田んぼと呼ばれて田んぼが広がっていました。
その田んぼの真ん中に遊郭を作りました。
官許の遊郭を市街地から隔離したということです。

両国橋というのも元々は隅田川が武蔵と下総の国境だったことに由来します。
吉良上野介が殿中で切られた後に屋敷を現在の皇居前から本所松坂町へ移されたのも、幕府が江戸町奉行所の管轄外に放り出したことによるものです。
このままではただでは済まないだろうと考えて取られた処置です。
何が起きても代官一人が腹を切ればいいだけで、幕閣に影響はありません。
本所や深川などの隅田川の東側一帯が江戸町奉行所の管轄に組み入れたのはそれ以降です。

江戸名所図絵と呼ばれる書籍があります。
もしお近くの図書館にあればご覧下さい。天保前後の江戸の風景が詳細に描かれています。
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この回答へのお礼

>現在の六本木から麻布へかけての一帯は大小の大名の江戸屋敷や幕府の役人の公務員団地や旗本の屋敷などがビッシリと建っていました。これでは時代劇の舞台には不向きです。

なるほどー。非常に興味深い話でたいへん勉強になりました。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/01 13:41

落語に「黄金餅」という話があります。

名人といわれた古今亭志ん生の十八番として知られた話です。
これは死人(お葬式)の話なんですが、死んだ人を麻布にある木蓮寺というところに運ぶところの道順の説明がこの落語のハイライトのひとつとなっています。
んでね、この木蓮寺、「麻布絶口釜無村にあった」と説明されるのです。そう、村。木蓮寺は田舎の村の中のオンボロ寺って設定なんです。麻布六本木界隈は、江戸時代は何もない村だったのです。当然さらに郊外になる渋谷なんていったらもう論外です。

渋谷という名前を見ると分かりますが、「谷」ですね。今でも渋谷に行くと分かりますが、渋谷駅周辺が一番低くなっていて、周囲は坂ですよね。宮益坂や道玄坂などは駅の方向に向かって下り坂になっています。NHKも駅より高い場所にあるでしょ。だから昔は水が溜まる場所、つまり湿地帯に近くて日本のような高温多湿な気候の国では決して暮らしやすい場所ではなかったのですよ。湿気がたまりますからね。

だから実は1980年代まで渋谷ってダサかったのです。九州から上京してきたサザエさん一家は、当初渋谷に住みます。その後世田谷に引っ越すのですけどね。その当時の渋谷の描かれ方は、「郊外の東京の外れで、治安も不安な地域」です。戦後の渋谷は愚連隊が仕切っていたというのもあったんですけどね。
最近はちょっと地味ですが、渋谷東急に「東横のれん街」っていうちょっと田舎くさい垢抜けない一角があるのをご存じですかね?かつての渋谷はそういうところだったのですよ。

その「東京の田舎」渋谷がサブカルチャーの発信地となったのは、というのは今回は江戸時代のご質問ですからやめておきますね。江戸時代に話を戻せば、当時の渋谷は窪地であまり人が住みたがらない目立たない村だった、となります。
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この回答へのお礼

>実は1980年代まで渋谷ってダサかったのです。

そうなんです。私は1960年代を渋谷で過ごしましたが、当時渋谷は上野や池袋と同じ普通の繁華街でした。それが1980年代の終わりごろからだんだん若者やファッションの街になりました。109とかスペイン坂とかとなりの竹下通りなどそういうものが影響したんですかね。

先日田園都市線にのったらすごく混んでいたのですが、大半が渋谷で降りてしまい、がらがらになりました。今は極端に若者ばかり集まる街になっていますね。

私としては貴方のご回答が一番ピンときましたが、一つ前の回答者が詳しい詳しい回答をくださったのでベストアンサーはそちらに回します。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/01 13:35

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7% …


現在の東京都渋谷区一帯も領地としており、後には分家が在住した。

現在の神奈川県の有力御家人 渋谷氏の分家が住んでいたので、渋谷。

http://www.geocities.jp/ynycr674/yuisho.html


基本的には大正期に私鉄が作られ、関東大震災を期に西部に移住が起こったので、起点となる渋谷駅周辺が発達した。
ということになります。

※ ちなみに東京の私鉄は川から砂利を運ぶことが初期の主要な資金源だったので、多摩川に向けて、現代人の目では無駄・過剰投資のように私鉄が走っています。
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この回答へのお礼

>基本的には大正期に私鉄が作られ、関東大震災を期に西部に移住が起こったので、起点となる渋谷駅周辺が発達した。

そうですか。震災で西部が発展したんですか。興味深いですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/01 13:24

東京の地名は江戸時代にあったものの名前が場所になってることが多いですね


たとえば お台場ってのは幕府の砲台=台場があったのでお台場だし

六本木は松?だったかな何か大きな木が六本立ってたので六本木だそうです
赤坂は風俗街を示す「赤線」で囲まれた一帯だったので赤坂
渋谷は 渋い谷で昔は湿地帯だったそうです
御徒町は徒歩武者の屋敷があったし秋葉原は葉っぱの茂る原野だったからその名前が付きました(秋葉っ原→秋葉原)
新宿は新しく整備された宿場なので新宿です
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この回答へのお礼

そうですか。
名前のつけかたって昔はシンプルだったんですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/01 13:21

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