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中央アジアにいたフン族が360年頃西進を開始し、その行く手にいたゴート族は押し出されて西進を開始したといいますが
ゴート族といえば尚武の民族と聞いています。
フン族の圧力に抗しきれなかったのは何故ですか?

ゴート族のその後はローマ帝国とも互角以上の勢力を築いたのでかなり強力、且つ有力であった筈なのに世界的な民族移動を引き起こす程フン族が強力だったのは何故でしょう?
アッチラ出現前既に世界一強力であったのは何故?

A 回答 (4件)

No1です。


>彼らも騎兵は有していたと思うのですが・・・
についてですが、
まずゴート族に騎兵があったとしても、どうやってフン族の行動を察知して迎撃に向かうかという問題があります。生活圏丸ごと移動する遊牧民は、拠点が固定化していないので捉えること自体が困難です。逆に農耕民であったゴート族は土地を守らなければならないという制約があるため、好き勝手に軍隊を動かすわけにはいかず、どうしても主導権は遊牧民側にいきます。遊牧民側としては、強そうな敵が出てきたらいくらでも逃げて、敵の少ないところを狙って急襲する、というやりかたができますが、土地に縛られた農耕民には無理な芸当です。No3の方も仰ってますね。
更にいえば単純なスピードでもゲルマンの騎兵は追いつけないでしょう。フン族の騎馬は軽装ですし、乗馬と生活が密着しているため騎手の錬度も高いです。また一人あたり何頭も馬を連れ、それを換えながら走ったといいます。

遊牧民が攻めてきたときに対する有効な手段は、焦土戦略と言いましたが、物資も人も皆、城壁を巡らせた都市の中に入れてたてこもるというものです。大規模な準備が必要な攻城戦は遊牧民の苦手とするところで、略奪する物が手に入らなければ引き返さざるをえません。遊牧民の略奪によく遭う中国の防御方法は基本的にこれです。
しかし、当時のゲルマン人は、農村を中心にした農耕社会であったため、都市が発達していませんでした(ゲルマン人の、自前の都市が発達するのは11世紀以降だそうです)。なので有効なたてこもりがしづらい、というのも、フン族の餌食になった理由の一つだと思われます(中国と違って略奪され慣れていない、よって対処法をよく知らなかった、ということもいえるかもしれません)。

>村単位に征服されていったのでしょうか?
このあたりの具体的な経緯はちょっとわかりませんが、ゴート王国は完全に征服されたのではなく、ある程度の自治権を持った属国あるいは一方的な同盟国あつかいだったという説もあります。ゴート側にしてみれば予測不可能な略奪を受け続けるくらいなら、物資の供出を伴う臣従でも予測可能なだけまだまし、という選択をするのは奇異ではないと思います。
もちろんその選択を嫌がった者たちも大勢いたわけで、そういった人たちが避難のために西に向かいました。
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この回答へのお礼

重ねてのお答え有り難うございます。
確かに守勢にたっては不利だったと思います。
私が騎兵に言及したのは騎兵は本来偵察が本務であると思ったからです。
遊牧民と正面から戦闘したのではひとたまりはないので襲撃を予知して防御の準備が出来たのではないかと思ったのです。
籠城は当時は無理だったのは理解できます。
ご指摘のように東ゴートはフンに組み込まれたようですから黒沢映画の「七人の侍」みたいな展開だったのでしょう。  
皆さんのご回答でよく解りました。

お礼日時:2005/06/04 12:03

フンに限らず、遊牧帝国というものは農耕主体の帝国と同列には論じられません。

自分たちの勢力範囲みたいなものは持っているのですが、土地を耕しているわけではないのでここからここまで、という境界線は彼らにはない。また支配体制というものもかなり定住的な発想とは違います。モンゴルのときでさえ、支配層のモンゴルたちは遊牧生活をおくるものがあり、また野営したり、移動宮廷をもっていたりしたくらいです。ということで守る必要のない戦い、主に勢力圏(といっても馬なを養う草原があれば十分)とあと略奪相手がいる、それだけですから。
方や自分の土地を守る、という場合逃げる、という選択がしにくい。また戦士の数がちがいます。遊牧民は略奪となるとみんなが戦士になります。でも定着民は戦士とそれ以外が分かれてしまい、専業の兵士が意外に少ないのです。
そういうもんだいもある、ということで。
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この回答へのお礼

お答え有り難うございます。
確かに生活態度の違いは大きかったと理解します。
モンゴルはかなり後世でフンを真似た所もありそうです。
戦士の数以外に戦法の相違の影響も見逃せませんね。
黒沢映画の「七人の侍」のようなものだったのでしょうか。

お礼日時:2005/06/04 11:48

フン族の実態というものが、よく分かっておりません。


中央アジアの遊牧民族の連合体であろうと推測されるだけです。

このような遊牧民族は、たまたま強大な支配者を得ると、短期間に強大化しますが、その支配者を失うと、簡単に分裂してしまいます。
フン族では、たまたま2代有能な族長が続いただけだと思います。

後世のモンゴル帝国が、チンギスハン一代で巨大帝国を創ったこと、匈奴の冒頓単于の場合も同じです。

フン族は、そのような性格を持つ遊牧民でしたから、アッティラの死後簡単に崩壊してしまいます。

このころのゴート族ですが、ゴート族としてまとまった行動は全く有りません。
東ゴート、西ゴート、バンダル、ブルグンド、ランゴバルド、フランク、サクソン、などなどの部族が小規模の抵抗をするだけです。

さらに、フン族の侵攻を口実に、積極的にローマ帝国への進入を図ったのではないかとも思えます。

フン族の末裔と言われるのが、ハンガリーのマジャール人やブルガリアのブルガール人です。
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この回答へのお礼

お答え有り難うございます。
強力なリーダーが必要であったのは承知していますがアッチラ以前に既にフンの西進が開始されていたので、組織されていないのにゴートが抵抗できなかったのが理解し難かったのです。

確かに東ゴートはフンに組み込まれたようですからご回答のようにバラバラだったとおもいます。

お礼日時:2005/06/04 11:39

前近代においては、中央ユーラシアの騎馬遊牧民はその周辺の農耕を主体とした諸勢力に対して軍事的にはおおむね優勢でした。


アケメネス朝に対するスキタイや、漢に対する匈奴、グプタ朝やササン朝に対するエフタルや、モンゴル帝国などなど。フン族もそのパターンの一つに数えられると思います。

まず騎馬民であるフンと農耕民であるゲルマン人の軍隊では機動力が違いすぎます。ということで、戦略的な主導権はフン族が握りっぱなしということになります。
高性能な合成弓による騎射戦術などもあり、遊牧民の軍を捕捉撃滅するのは容易なことではありませんでした。
反面、軽装備なだけに打撃力には劣るわけで、一大会戦でフン族がゴート族を粉砕したわけではありません。好きなときに好きな場所で小規模の戦闘(と略奪)を繰り返し、フン族はゴート族を分断してしまったわけです。

ゴート人の国が大帝国であれば大規模な焦土戦略(騎馬民は略奪が目当てなのでその手段を封じる)などで押し返すこともできたでしょうが(実際ローマ帝国はそうした)、そこまでの国力もない集団にとってその方法は不可能でした。
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この回答へのお礼

回答有り難うございます。
ゴート族が農耕民族というのは理解できますが彼らも騎兵は有していたと思うのですが・・・

村単位に征服されていったのでしょうか?
アッチラが組織してからなら判るのですがそれ以前のゴートの当時の村の規模は小さかったのでしょうか?

お礼日時:2005/06/03 19:00

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