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「上総介」は正式に得たものですか、それとも自称ですか。
また、いつ頃から使い出したのでしょうか。
また、上野や常陸ではなく上総としたのには理由があるのでしょうか。

どの点でも結構ですからご存知のところを教えてください。

A 回答 (7件)

 永禄十一年の従五位下弾正少忠、元亀元年の正四位下弾正大弼、天正二年の従三位参議は、系図纂要に記事があり、位がきちんとついているので正式の叙官です。

また天正三年の権大納言以降は公卿補任で確認できますので、これも同様。
 それ以前に信長は上総介(天文十八年)、尾張守(永禄九年) を名乗っていましたがこれは両者とも自称であろうといわれています。なぜ上総なのかはよくわからない。特に近親や先祖で上総介を用いた人もいず(織田家ではだいたい当主になってからは弾正忠、ついで備後守を称する)、根拠は不明です。弾正忠、備後守までの中継ぎということ、本家筋の織田家(守護代)は大和守、伊勢守を通称していること、などから、(1)受領系統の名前が穏当(当時の風潮としても受領名のほうが人気が高かった)、(2)備後、大和、伊勢クラスの国とつりあいをとった(上総、大和、伊勢は上国で守が従五位上、介が正六位下――ただし信長は最初知らずに守を名乗っていたので宗家並みのつもりだったのかもしれない――、備後は大国で守が従五位上)、などの理由によるものではないでしょうか。ちなみに上野、常陸も上国です。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございました。
詳細で分かり易い解説に感心するよりも、返信の速さに驚きました。
歴史に堪能な方なのでしょうが、それにしても全てが頭の中ではないでしようから
資料の確認もなさっていることでしよう。恐れ入った次第です。

お礼日時:2005/07/14 13:44

私もNo.6の方に賛成です。



駿河今川氏の当主の官職は歴代「上総介」でした。

二代範氏、三代泰範、四代範政、五代範忠、六代義忠、七代氏親、八代氏輝、九代義元、十代氏真。ほぼすべての当主が上総介となりました。もちろん治部大輔、修理太夫などをも歴任していますが。

父の代から熾烈な争いを行っていた今川氏に対して上位の上総守を名乗ることによって、改めて敵対心を強烈にアピールしたかったのではないかと思います。ところが上総守が親王しか補任されないことを知り、今川氏と同じ上総介にやむなく変えたのではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご意見のところ有り難く承りました。
各位のご回答で疑問の点を解消していただきましたが、
共に皆さんの博識なことにもつくづく感心しました。私も歴史は
ある程度、接しているので、レベルの高さを勉強させて貰いました。

お礼日時:2005/07/14 14:06

書面に於いて信長が「上総介」を用いたのは天文23年(1554)11月の安斎に宛てた判物が一番古く、その数日前には祖父江五郎右衛門に宛てた判物があり、こちらは「上総守」と記されてます。


また「信長公記」の記述からは天文18年(1549)頃が推察されますが、「信長公記」の記述は時期に不明瞭な点も多々ある事、この頃の文書で「上総介」が用いられている文書が見当たらない事から、概ね天文23年であろうとされています。
また先の方が述べられた様に「上総守」では不味いので「上総介」に変えたのだろうと思われますので、「上総介」の名乗りはこの頃からなのでしょう。

上総を選んだ理由です、わかりません。
織田の家系は備後守・大和守・伊勢守と城主クラスに西国を用いる事が多いのに信長とその弟から武蔵守・上野介・安房守と東国の名が多い事が興味を引きました。
さらに「上総介」は隣国の強敵、今川が代々名乗る受領名です。
天文18年~天文23年であれば今川義元が既に尾張を伺っている事も十分ありえる事です。

あくまでも個人的見解ですが「織田信長の今川上総介(義元)に対する当て付けかな?」と想像しています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
「上総介」の根拠は、平氏がらみの見解と今川氏への対抗意識の説が
考えられる…として良いのでしょうね。いずれも、さもありなんと思われます。
それにしても良くご承知で感嘆いたします。

お礼日時:2005/07/14 13:58

 ANo.4は卓見だと思いますが(織田家は信長の代に藤原氏から平氏に改めた)、現在確認できるなかで信長が平氏を称したもっとも古い文献は元亀二年(当時彼は正四位下弾正大弼)のものです。

信長が藤原氏を用いた最後の文献は天文十八年(上総介を名乗りはじめた年)のものが確認できますので、平氏自称を根拠にするのにはちと不利かもしれません。ただしそういう腹積りがあって上総を選んだという説も一概には否定できないところでしょうか。
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織田家はタテマエ上は“平氏”となっていますから、その平氏(桓武平氏)の始祖とされる「高望(たかもち)王」(将門・貞盛、清盛らの先祖)が平姓を朝廷からもらって臣籍に降った時、最初に任ぜられたのが「上総介」で、その由緒で名乗ったのです。

同じような理由でその嫡男である信忠も“城介”(秋田城介)と名乗っています。
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この回答へのお礼

回答有難うございました。
なるほど、なるほどと拝見しておりますが、皆さん良く知っていらっしゃるなぁと
ひたすら感心しております。

お礼日時:2005/07/14 13:48

織田家は父信秀も朝廷に多額の献金をしており、この時代官位は金を出せば買えたとはいえ、織田家の代々の官名は弾正忠で、元服直後の上総介、尾張守というのは私称です。


その後の官位官名については正式に授与されたものですが。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …
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司馬遼太郎の「街道をゆく33」の中に



尾張の織田信長ははじめ誤って織田上総守と称していたが、物知りがいて、
--上総は親王任国ですから、上総守というのは存在しないのです。上総介を称せられよ。と、注意したらしい。以後、信長は織田上総介にあらためた。

との記載がありますので自称であったと思われます。
「上総」とした理由は判りません。

参考URL:http://www2.harimaya.com/sengoku/kaido/kai_aizu. …
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