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世界にいろいろな曲がありますが、それぞれ

「これはいい曲だ」「傑作だ」「すばらしい」

とか

「この曲は終わっている」「駄作だ」「無味乾燥だ」

などとよくいわれたりしますよね。

これは、何を基準に言っているのでしょうか??
当然、人によって全然違うとは思いますが、その判断基準となるのは何か教えてもらいたいです・・・。
ヨロシクお願いします。

A 回答 (5件)

こんにちは。

大変に奥の深い質問だと思います。

質問者さんもおっしゃる通り,感性は人により千差万別で,この感性をもとに,「傑作だ」「駄作だ」と個々の人が思い,発言するのは,完全に自由だと思います。ある人にとっての「名曲」が他の人にとっての「駄作」であったとしても,何ら不思議はありません。

しかし,好き嫌いとは別に(実際には,切り離すのは大変に難しいですが),曲の良し悪しを決める基準もやはり存在するように感じています。

例えば,ある部分は#3さんがおっしゃるような切り口で説明できると思います。旋律,ハーモニー,リズム,形式などに対しての,職人芸的な精緻さ,革新性,などです。そしてさらに,もっと深いところでの,理屈では説明できない「普遍的な(全ての人に共通な)基準」も存在するようでもあります。

例えば,我々はなぜほぼ例外なく,「ドミソ」の和音(長調の曲)を「明るく楽しい」と感じ,「ラドミ」の和音(短調の曲)を「暗く悲しい」と感じるのか,理由を説明できるでしょうか?
あるいは,モーツアルトの音楽(の一部)は天国的だから名曲だ,とは言えますが,モーツアルトの音楽を聴くとなぜ我々は天国的と感じるのか,これはなかなか説明できませんよね。

私にとっての名曲の基準とは,上記のような「音楽の持つ(見えない)普遍性」に対し,作曲家が,才能と努力でどこまで切り込んでいけたのか,という事になるのかな,と,何となくですが感じています。
*その「普遍性」を言語化することは,大変に興味深いことながら,私の能力を超えてしまっています。今の私は音楽に実際に触れる事の方を楽しみたいです(笑)。

あまり答えになっておりませんし,ご参考になりましたら幸いです。
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こんにちは。


極端に述べるとただのリスナーの勝手な判断だと思いますよ。専門的に分析して「駄作」「傑作」のレッテルを貼ることも可能でしょうが、「有名」であるかないかとは全く別の次元であり、優越の判定はあまり意味がないと思います。

「乙女の祈り」という有名なピアノ曲ありますね。曲としては変奏曲の形式をとっているようですが、その変奏には特筆すべきような展開はなく、一本調子でいわゆる駄作の部類に入ると思います。しかし、あの可憐で純心無垢なメロディーでピアノ曲として横綱級名曲として不動の地位を保ち続けているんです。

駄作の判定はまあ個人でやっていればいいでしょう。傑作の判定が個人の感性レベルででも出来ることのほうが重要ではないでしょうか。たとえ専門的な分析を前提にしなくても、誰でもなぜか心に残るメロディ、和音、リズム、たった一つだけの音、があるでしょう。ドミソという単純な和音でも楽器の組み合わせや音色効果によって単なるドミソ以上の深い響きがでたり、不協和音においても耳障りではなく、印象的に響く不協和音もあります。その一瞬一瞬に心を奪われ、その人にとって忘れがたい曲になるのであれば、たとえ音楽評論家が口をそろえて駄作だと言い張っても、あなたにとっては「傑作」である、といっても何ら恥ずかしいことではないでしょう。
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こんにちは。

質問者さんのおっしゃることは誰もが一度は気になるところだと思います。問題はずばり、ポップスの価値観をそのままクラシックに当てはめようとすることによって生じるのだと思います。

どこらへんがポップスの価値観かというと
>当然、人によって全然違うとは思いますが
という部分です。ポップスの世界ではとりあえず売れれば商業的には成功といえますよね。「でも人気あるけど私あの曲気に入らないんだよね。だから駄作だと思うんだ」ということは往々にしてあります。しかもそれに反論することは難しい。これはいい曲、悪い曲の判断を最終的に個人に任せてしまっている、つまり客観的価値基準が存在しないことを示す例だといえます。客観的に良し悪しが決定できるのであればこんなことは起こらないはずですよね。だからポップスでは批評というジャンルがあまりメジャーではないのでしょう。

ところがクラシックにおいては質問者さんがご指摘の様に作品の価値に優劣が付けられ、価値ある作品とそうでない作品が分けられています。そしてその評価が世間一般にまかり通っています。最終的な価値判断を個人に委ねるポップスの感覚からは理解し難いものかもしれません。

では、なぜクラシックでは作品に優劣を付けられるのか?それは音楽には定まった文法、形式があるのだという共通認識があるからです。たとえば「ソナタ形式」というものはご存知ですか?ソナタ形式は大雑把にいうと主題の提示、その展開、再現からなる楽曲の形式のことです。一般に有名なクラシックの作曲家が交響曲、協奏曲、ソナタなどという曲を書いていることはご存知かと思いますが、これらは適当に書かれているのではなく「ソナタ形式」という形式に沿って書かれているのです(もちろんこれはちゃんとした説明ではありませんし、例外も多々あります)。

文法、形式といった採点基準が用意できれば採点も可能ですよね。たいていの場合は形式への合致とそこからの逸脱が採点の対象になると思います。完全に形式から外れていたら単なるルール違反だし、創意工夫が何もなければそんなものは価値がありません。これらの基準に照らして名作、駄作は基本的にわけられているのです。他にも歴史的に新しい時代の先駆けとなった作品(印象派の仕事や12音技法の開発など)なども価値ある作品ということになるでしょう。

当然、作品がポピュラリティを獲得するか否かを考えるときに美しいメロディや和声進行を無視するわけにはいきません。誰も聞きたくない音楽は誰も演奏しませんから採点対象外ということになりますね。

以上のように私は考えています。

偉大だ、天才だといわれる作曲家のどこが偉大で天才的かというと、作品に形式美を保ちながら絶妙の逸脱を与え、そして心に訴えるメロディの美しさを兼ね備えさせていることなのです。
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傑作か駄作かの判断基準は人により異なるでしょう。


人によって異なる判断基準の一例として、私が思いつくのは感性です。
感性も人によって異なりますから、同じ曲を聴いても、聴く人によって傑作と思う人もいれば、駄作と思う人もいると思います。

感性以外には思想でしょうか。
例えば、「この曲は確かに人に感動を与えるが、その厭世観は納得のできるものではない」。といった具合に、曲に感動していても、思想的には厭世的でよくないので、駄作と判断する人がいるかもしれません。
他の例で言えば、レクイエムやミサ曲などのキリスト教の儀式に使われる曲は、音楽としては傑作だが、思想的にキリスト教は問題があるのでよくない。よってこの曲は駄作である、とか。
賛美歌は美しいと思うが、イエスの死からの復活や天使などは形而上学的なおとぎ話だ。それを考慮すると駄作と言わざるをえない、とか。

感性と思想ですかね。

あと、無味乾燥といってもギーレンの指揮するエロイカが無味乾燥であっても名演とする向きがあるように、無味乾燥が一概に悪いというわけでもないと思います。
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聴く人に感動を与えるかどうかではないでしょうか。

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