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室町時代、足利義政のとき干ばつや長雨で都では餓えや疫病で8万人の死者が
出たと聞きました。
そこで質問なのですが、1.たびたび昔はあったようですが、歴史上干ばつによる農作物の不作などで被害(死者の数など)がもっとも大きかった時代はどのあたりなのでしょうか?
2.現代においてあてはめるとしたら、どのくらいの気候で干ばつなどと言えるのでしょうか?また、現代はさほど被害がないのは、温室栽培や、輸入物、豊富な食材がある為と理解していいんでしょうか?
まとまりのない質問で申し訳ありません。よろしくお願いします。 

A 回答 (6件)

現代では、ダム、放出水量や取水量制限などで干ばつは少なくなっています。


また、干ばつ、冷害に強い品種改良などで昔よりは不
作になりづらいようです。

現代でも、日照不足による冷害はなかなか解決出来ないのが現状のようです。

現代では、取水制限は、
企業への制限レベル、市民への制限レベル。
この2種類があります。

市民への制限レベルで、水圧を下げる。(使用量量制限)の次に、時間制限(ある時間以外圧力を上げない。)があります。

ここまで来ると。干ばつは間違い無いと思います。
川や地下水脈は干上がっていますから、スプリンクーラーで散水しなければ大きなダメージを受けます。

天明の大飢饉は、実質は11年連続で起きたそうです。
太陽の周期と景気不景気も11年です。

もし、これが太陽の脈動で氷河の時と似たものだとしたら、今後十分考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
皆さんの御意見とても参考になりました。

お礼日時:2005/08/26 07:04

No.3です。

見落としました。スイマセン。↓
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM
[1]1180~81年(治承4~養和1)大旱ばつ
[4]1420~21年(応永27~28)大旱ばつ
[14]1784年(天明4)旱ばつ
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最近の天候による被害は.結構頻繁にあります。

ただ.「不作になると商社が海外から大量に輸入してくる」ので消費者にはわからないでしょう。

「異常気象」という報道があったらば程度の差は荒れ被害が出ています。
「梅雨明けが観測されなかった」(年忘却)では.東北地区で翌年の種の収穫すら困難。試験所に残っていた種を沖縄県八重山(地名疑問)に輸送して5月に収穫し.東北地区に輸送.いつもの年よりも1ヶ月遅れで田植え。等という方法を使って1-2年しか被害が出ないようにしているから作高に関しては江戸時代のようにはならないのです(借金が払えなくて離農等はあります)。
米国からとうもろこしの種を輸入していますので.輸入が止まるととうもろこし農家は壊滅的打撃を受けるでしょう。

なお.頻繁に起こるところでは「3年に1回は飢饉状態」であるが.漁業資源(鮭の密猟・鮭の養殖等)で生きていられるなんて所もあります。
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(飢饉)なら


1.
享保17年(1732):虫害ー西日本を襲ったイナゴの被害、しかし東国は豊作
天明4年(1784):低温(この年前後は種々の天災のオンパレード)
天保8年(1837):多雨

2.
当時各藩は藩内米価の高騰を避けるため”細民救済の御仁政”称し米の移出を禁止、他地方の不作を救済しない。天領(幕府領)内での不作は幕府の支援が受けられた。
以上のことも鎖国から明治期に入り国内物資の自由化と交易(主に中国米)により解消。
明治38年、昭和9年の凶作被害は深刻だったとされていますが餓死者の記録は余りない。
「陸羽132号、農林1号」等病冷害に強く高冷地栽培適格の増産品種が開発されたことで寒冷地(主に奥州以北)冷害の犠牲は緩和された。

以上、生産技術向上と機構の改善(内外貿易自由化)が被害の回避に役立っている訳ですが、「品種改良」も加えてください。

(干ばつ)なら”被害無”?
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM
[4]1420~21年(応永27~28)”大旱ばつ”と戦乱のため,大飢饉となる。
↑によると”戦乱”付で1つしかなく、被害は無いかも?
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歴史上の干ばつについては、他の方がお答えになっているので、現在について回答しますね。



これまで長年にわたる公共投資のおかげで、1990年頃より、日本では干ばつの恐れはなくなりました。20年確率の日照りの年でも農業用には十分な用水が確保されるだけの、農業インフラを作ったのです。

各地で、飲料用の水が不足して、給水制限が行なわれていますが、農業では干ばつにはなりません。それほどまで、農業インフラを作ったのです。
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>1.たびたび昔はあったようですが、歴史上干ばつによる農作物の不作などで被害(死者の数など)がもっとも大きかった時代はどのあたりなのでしょうか?



どの時代と一概に言えず、また、よく知りませんが、知っていることだけでお知らせします。
〇源平合戦の時期安康4年~養和元年(1180~1181)にかけて諸国大飢饉であり、特に西国がひどかったようで、源氏の平家追討も兵粮米調達もままならなく源範頼の軍も四苦八苦したことを読んだ事があります。
〇江戸期は、たびたび飢饉や天災が起きあまたの人々が亡くなっており、それも記録に残っています。特に被害の大きかったのが天明期のようです。
・天明二年(1782)
 九州より東北に至るまでの全国的な凶作
 小田原あたりを震源地とする大地震(7/15)
・天明三年
 前年に引き続き凶作の様相であったが
 四月浅間山の連続噴火は、大噴火の噴煙の影響で地 表の温度を下げ全国的な大飢饉を決定づけた。
  浅間山の噴火による死者は、二万人余といわれて  いる。有名なのは、鎌原村の597人中466人  が死亡。92町歩の田畑の内5反歩を残して泥に  埋まったそうです。
 この年は、全国的に暑気がくるのが遅く、夏になっ  ても冷気が強かったようで、稲の実りが悪く東北  地方は大飢饉となった。
  南部藩は、飢餓者・病死者が6万人以上。
  八戸藩は、三万人余。
  仙台藩は、30万人(疫病もはやって)
・天明五年
  仙台藩、55万石(実高は100万石以上です)の  損毛で凶作
  関東地方一円に大雨、両国橋・新大橋・永代橋が  流れ、本所あたりは巨海の如しいわれた。
・天明六年
  仙台藩、大雨洪水で53万石の損毛で凶作

天明五年に秋田大舘が弘前へ通った橘南渓の「東遊記」に「牛・馬・犬・猫の肉が食料として売られ、中には行き倒れとなった死者の肉をたぺ、あるいは人を打ち殺してその肉を食べた記録が残っている。
        集英社版「日本の歴史」(14)から

2については、お金のある国=日本そうなんでしょう。しかし、無い国はやはり飢餓状態になると思います。今のアフリカ諸国がそうのようです。江戸期も対策を採り手当てが十分であった、藩は飢餓者を出していません。やはり、為政者の先を読む力か必要なのでしょう。いまの政治家?ではどうなのでしょうか。郵政・郵政だけで明け暮れていていいものでしょうか・・・思うのです。余分でしたかな???。
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