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旧日本軍は、兵站・補給という概念を重視しておらず、それが敗北の大きな原因の一つであった、という認識は、広く共有されていると思います。
おそらくそれは事実なのだと思いますが、ではなぜ、補給を重視しなかったのでしょうか?
東條英樹にせよ、山本五十六にせよ、軍人達は近代的な軍事理論を一応は勉強したインテリで、あるものは当時の先進国に留学もし、第一次大戦での戦果も学習したはずです。
そのなかで、補給の重要性が学ばれなかったとは思えないのです。
現地調達主義もあったでしょうが、早々に破綻していたので、その後も補給を軽視し続けた理由が、よくわかりません。
単に「意識が低かった」、とだけ説明されても、やや納得がいかないのです。
なぜ、先の大戦で、勝利に必須であることは明白な「補給」が軽視されていたのでしょうか?

A 回答 (17件中1~10件)

私は、こう考えます。


国家でも軍でも、何が重要で何が重要でないかと言うことと、何が上で何が下かと言うことを混同してしまうと、戦略も戦術も破綻してしまう恐れがあるという悪い例ではないかということです。
靖国神社に代表される明治期にできた新興宗教は、西洋の形だけを取り入れたため、
誰がピラッミドの頂点かということばかりが強調されて、それが軍にも国家にも浸透してしまい、
作戦行動に必要な要素を上か下かという、尺度で計画を練ったために、どの部隊が重要かという視点よりもどの部隊が、一番上か?何が下か?という視点でしか見られなかったため、補給の軽視が起こったと考えます。
独断と偏見ですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
戦略上の重要性ではなく、上下関係で要素を見ていた。
補給は重要だが、立場は下だったので軽視されたということですね。

お礼日時:2005/10/24 02:28

この問題は質問者の方が#8の回答へのお礼で書いたとおり、



> 解釈は、大きく3つに分かれると思います。
> 1.補給そのものを軽視していた
> 2.そこそこ重要だと思いつつも、最重要課題にはならず、後回しにされた
> 3.非常に重要だと認識していたが、補給の困難を承知で戦線を拡大せざるを得ない状況だった

の何れか、またはその複合的なものでカテゴライズ出来そうです。ただ、2.に分類されるものは1.又は3.に分類し直すことが出来そうですし、3.の困難の原因を分けることも出来ますので、

a. 補給を軽視していた
b. 補給能力が追いつかない可能性があっても進軍を続けた
c. 米軍などの攻撃で補給網が破壊され、補給不全になった

という分類になると思います。数えてみると、大体同じくらいの割合の回答があって面白いのですが、私の見るところ、この三つはどれも妥当です。a.に対しては言わずもがな、b.は例えばインパール作戦に代表されるような精神論(一応、作戦の中には水牛を使う等の補給対策は入っている)であり、c.の例は例えばガダルカナルの戦いやニューギニアなどが有名ですね。


とはいえ、ここまでの回答が、ほとんど全て食料や弾薬を対象としていることに疑問を感じます。
例えば航空機搭乗員は、航空機その物よりも貴重です。実際、ミッドウェイ以後、搭乗員不足により終戦まで、まともな航空戦力が構築できませんでした。こういった現象は、消耗の激しい下士官・小隊長レベルの人員にも言えるはずです。軍が軍としての能力を発揮するには、この層が非常に重要なはずですが。
こういった、戦闘力の維持という、より広い意味での補給に関して、旧日本軍は余りにも準備が疎かであった、という面も指摘できるはずです。

この意味でa.が最も妥当な回答だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
結局、軽視していたと言わざるをえない、ということですね。
短期決戦を想定しており、補給への軽視も含めて、あまり長期的な戦争準備をしてこなかったということは決定的でしょうね。
長期戦であれば泥沼化することは自明だったと言えるかもしれませんね。

質問後少し調べたのですが、インパール作戦も補給が難しいという理由で師団長たちから反対論はあったものの、牟田口中将は押し切った、ということらしいですね。そして、成績優秀なものは、兵站参謀にはならなかった、ということです。
陸海軍の組織全体が軽視しているとは感じますが、なぜそこまで軽視したのか、という疑問も消えません。

お礼日時:2005/10/20 18:49

二度目の回答です



何人かの方々が、勝算の無い無謀な戦いに、勢いと体面に任せて、突っ走っていった
とか
どうも、それが国民性のせいだ
と、結論付けていらっしゃるようですが
古来日本では、戦国時代の、武将や軍師だって、キチンと策を練ってから、戦に望みました

わずか60年前の戦で、それぞれの国の軍事力を、分析していないはずがある訳ないじゃありませんか
すべて承知だったはずです
当時の日本でって、工業技術力も、トップクラスでした
事実、空軍機の性能や造船技術は、他の国に遅れをとっていたとは思えません

それから、ひとつ付け加えさせてください
あの戦争は、望んで侵略をしていったと言うよりも、国内の貧困やむりやりの軍縮協定・経済封鎖をしかけられて、心ならずも仕向けられたと言う経緯も、知っておかなければなりません

当時の日本人は、浅はかな、愚行を繰り返す指導者に導かれて、愚かな戦を進めていった
それは
戦勝国が、負けた国を裁くときに、都合のいい論法なのではないでしょうか
事実や歴史は,勝者や時代の指導者の都合によって、簡単にかえられてしまいます

私は、当時の日本軍が、現況や勝算考えず、補給路を軽視するような、作戦を組み立てたとはとうてい考えられません
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
補給路を軽視した作戦を立案したのではなく、米軍によって補給路を予想外に断たれた、ということですね。
あくまで補給路における戦闘上の敗北であって、補給を軽視した進攻ではなかった、ということですね。

お礼日時:2005/10/20 03:18

補給を無視していたわけでも軽視していたわけでもありません。

大東亜戦争で、日本が補給を無視した作戦を展開したように結果として見えるのは「身の丈に合わない戦争を始めた結果としてそうなった」というのが実情に近いでしょう。

実際、補給線が途絶えていず、現地に物資が集積されていた大陸戦線では、それ以外の地域で起きた補給途絶・飢餓などは生じていません。

至る所で補給が途絶え、餓死者が続出したのは、連合軍に制空・制海権を握られて船で補給ができなくなったからです。昭和17年くらいまでは、どの戦線でも補給はできていました。制空制海権を日本が握っていたから、それだけです。

なお、日本の軍艦が一般に「戦闘力本位の装備で建造」されていたのは、アメリカやイギリスの軍艦と比べて、母港に近い海域でしか行動しない前提だったからです。航続力(燃料搭載量)や居住性(乗員の活動力維持)より、攻撃力と防御力を重視した設計になっていました。これは、イタリア軍艦も同様です。

海軍が、輸送船護衛と言う重要任務を全く無視して戦争を始め、戦争を通じて有効な輸送船護衛をできなかったことについては、名著「海上護衛戦」で詳述されています。
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30781835

これは、日本海軍の怠慢・無能に帰するわけですが、根本的な原因は
「帝国海軍は、ハワイ方面から攻め寄せてくるアメリカ艦隊をマリアナ諸島付近で迎撃するために建造・訓練されていた。ニューギニアだのソロモン諸島だの太平洋の島々を占領して陸軍を駐留させるとか、蘭印を占領してそこから本土に石油を送り続けることなど考えていなかった」
と言うことによると考えます。まあ、これも「怠慢・無能」で済まされますけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
戦争初期は、制空権を握っていて、全ての戦線で補給ができていた、また、海軍は南方の戦線をさほど深く想定していなかった、ということですね。

結局、補給の問題は、特に戦争後期の南方戦線で問題になることだと思います。
補給体制を想定していないのに、後半において戦線を拡大した、ということは、すなわり補給の軽視なのではないでしょうか?

お礼日時:2005/10/20 01:10

補給についての陸海軍の連携については、日本海軍は本来攻撃型の構造で、防御については軽視せざるをえませんでした。


艦船も戦闘力本位の装備で建造していました。

従って重装備、トップヘビーで転覆しやすいのを建艦技術で補っていたのです。
船団護衛艦の隻数も不足しており、戦中急遽海防艦というやや小型の駆逐艦のような艦種を建造してこれにあてる始末でした。
急造の為こらの乗員は訓練不足で十分目的をはたせませんでした。

陸軍は海上輸送は素人同然で民間から徴用した輸送船を、これも急遽改造して補給船にするだけでした。

航空部隊も戦闘意識旺盛で偵察飛行に出かけた帰途に敵飛行艇を発見するや、あまり空戦装備もない飛行艇なのに、現敵必殺とばかり空中戦を挑み、防御装備の優れたアメリカ軍機に撃破される始末で本来の任務より戦闘を好む始末でした。

全体として防御に向かない国民性といえましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「攻撃的な国民性」というのが、今の我々の感覚からすれば、違和感がありますね。中国人に比べて、日本人は性格的には守り重視なんじゃないか、と。
でも、ご説明頂いたような具体例を知るにつれ、当時の日本の志向が防御よりも攻撃に向かっていたことがわかりました。
いまから考えれは非常にあやうい話ですね。

お礼日時:2005/10/19 19:15

No9の補足です。


南方資源地帯えの進出は予定の行動でしたが、地勢学上の研究などは不十分でした。
占領後に研究学者を召集派遣する位でした。 少なくとも戦略的に準備不足でした。

日本海軍が敵補給船を攻撃しなかったのは当時の潜水艦が攻撃すると必ずその所在を暴露し警戒され、肝心の敵戦闘艦の攻撃に差し支えるからで、敵の制空権下で浮上移動も困難なためだからです。
潜水艦の隻数も不足、燃料、魚雷の補給能力の不足からやむを得ない選択でした。

山本長官の話は燃料重油の備蓄量が1~2年で底を突くのでそれまでに南方石油資源地帯を確保する必要があるという短期決戦戦略で、実際にパレンバンに海軍空挺部隊を急襲派遣し占領しています。
しかし全体の占領計画は陸軍の担当で、陸軍の進出に補給力が追いつか無かったのです。

早期講和の考えは緒戦の勝利に国民じたい酔ってしまい機会も行動も消し飛んでしまったのです。

アメリカ軍の戦略はドイツ軍後方のイタリアのローマ近郊サレルノに上陸した時十数日を物資の揚陸蓄積に費やし、ドイツ軍の態勢建て直し、防御強化の時間を与えたことで表徴されるように補給重視の姿勢でした。

現地調達というのは補給の負担を軽減する為、現地の民間から調達(略奪と同意義)する事で主に食料、生活物資ですから住民の反感を買い、抵抗を受けゲリラ戦を誘発することが多く、中国でもフィリッピンでも激しいゲリラ戦に悩まされました。

近代戦で補給を軽視する事は必敗の姿勢でしかありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
まず、現地調達は、ゲリラを誘発することが多いので、戦略的に得策ではない、
そして、南方についての研究が不十分で、かつ補給能力が不足していた、ということですね。
そして、早期講和は、緒戦の勝利で、空気としてできなかった。

結局は、早期決戦をめざすものの、講和のタイミングを逸して長引いてしまい、補給は重要だとある程度は認識していたにもかかわらず、補給能力が不十分なまま戦線を拡大した、ということですね。

陸海軍の補給上の連携なども、かなり悪かったという印象がありますが、実際のところどうだったのでしょうかね?

お礼日時:2005/10/19 15:37

前線の職業軍人からしてみたら。


補給部隊は後方で安全な場所にいるという意識が強い。
臆病者。とみなされます。

元々兵卒の頭脳はサル並みです。
自分たちは何時死ぬかも知れない戦場にいるのに、補給部隊は物資を届けたらさっさと帰る。
帰る様が「逃げる」としかうつらないのでしょう。
それに本国に帰りやすいという事がさらに嫉ましくなるでしょう。

敵軍の戦うことに価値を抱く前線部隊の極限の精神状態がかえって補給部隊をおとしめることになってると思います。
こんな目の前の戦場にしか興味の無いサルみたいな兵士たちを納得させることは容易ではありません。
分かってても、一高級軍人といえども兵士を説得できません。
そのサル並みの頭脳に「精神論」が入るともう手がつけられません。

太平洋戦争時の海軍は非武装艦船の攻撃を避けてます。
非武装の敵を攻撃しても武勲では無い。ということです。

敵補給部隊すら見過ごしていた海軍です。
恐らく兵士の心情があったと思います。
仮に非武装の艦船をいくら「命令だ」として撃破しても、後で本営に「卑怯者」として密告されて処罰される危険があったようです。

戦後、ドイツに比べて日本に恨み節が少ないのは、非戦闘艦船を無差別に撃沈しなかった事が要因だそうで。

補足:インドシナ、マレー半島の重要拠点が落とせなかったのは、非武装艦船に隠れて人員軍需補給物資を送っていたからだそうで。
なのでいくら包囲しても落とせないわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
まず、前線の立場から言えば、補給は臆病者に見える、と。
それはその通りだと思います。ただ、どの国の軍隊でも、前線の兵士にとって、その心情は共通するものではないでしょうか。
その心情は仕方がないとして、補給について認識を高めるのは、幹部の仕事だと思いますが。

また、非武装艦船への攻撃をしなかった、と。
それが国際的にどれだけ珍しいことなのかは知らないのですが、
「卑怯」と言われる行為をしてまで、補給しなければ、という意識はなかった、ということですね。現地調達と言われるものは、現地の武装した軍隊からの調達であった、ということですね。

お礼日時:2005/10/19 14:24

3番です。



後から書かれた人の回答を読みまして、後から見た結果だけをみているのではないかと思いました。

そもそも日本は、対アメリカ戦において、長期戦を望んでいなかったであろうし、そんな戦略ももっていなかったでしょう。
長期戦になれば、必ず負ける事が分かっていたため、もてる戦力を出し切って、短期戦にかけたのだと考える事はできないのでしょうか。

補給網の構築には、思いのほか費用と時間がかかります。
そうなれば、当然国力の差が、戦闘の結果となります。
日本の国力が、アメリカに及ばないのならば、戦力の集中により、いっきに敵を粉砕するしか方法がありません。
日清・日露の戦争は、そうやって勝ってきたのです。

開戦時、山本五十六は、「1年ならば戦える」と言っています。
つまり、1年しか戦えない事を理解していたのです。
逆に、アメリカと戦う場合、1年を超えたら、日本は戦う力を無くしてしまう事を理解していました。

日本は、開戦と同時に、南方資源地帯のすみやかな占領が必要でした。
そのためには、ムリをしてでも、戦線の拡大が必要で、補給網の構築をまっていられなかった事も、事実でしょう。
そのためには、100台のトラックより、10台の戦車が必要です。

もし、日本軍が、補給重視の作戦をたてたら、日本の勢力は、インドシナ半島とフィリピンだけで、かんじんのインドネシアの石油や、マレーシアのボーキサイト地帯の占領はできず、かえってジリ貧らなる事は、明白でした。

そのため、補給を無視した、戦闘が必要でした。

ただ、その後の事を考えていなかった事は、問題でしたが。

>つまり、トラックを100台用意するよりも、戦車10台を優先したのでした。
という重要なご指摘についてですが、補給重視のアメリカ陸軍は逆なのですか?

アメリカ陸軍は、必ず第一線の戦力と、補給をセットで考えます。戦線の場所にもよりますが、必ず戦闘部隊が補給を受けられるようにします。
一方、海兵隊や空挺隊は別で、これらの部隊は、補給無しで、2週間程度の戦闘に耐えられる装備が、事前に与えられます。
逆に言うと、これらの部隊は、2週間程度しか戦線を維持できず、それ以後は、陸軍と交代する事を原則としています。

>「陸海軍が協力して、補給路を確保しなければいけない、そのための予算も充分に割かなければいけない」
という意見にならなかったのが、まだ不思議です。

多分その必要性は分かっていたでしょうが、その前にアメリカ軍の反撃に合い、それどころではなくなってしまったのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。米軍の事例も大変参考になりました。

つまり、当時の状況からは、補給網を構築するよりも、
短期決戦でアメリカを叩き、すみやかに南方の資源を獲得する方法しか、勝利への道がなかった、ということですね。
つまり、敢えて補給に頼らない戦略を立てるしかなかった。
残念ながらそれに失敗し、戦闘が長期化した、というわけですね。

短期決戦で勝利するしか道がない、つまり補給を必要とする長期戦は無理だ、という認識があったなら、
短期で勝利できないことがわかった時点で、講和にもちこむことができなかったのでしょうか?
もし補給の重要性を強く意識していたのなら、日本の補給能力が低いとわかっている以上、戦闘が長期化する前に講和すると思うのですが、政治的、世論的に難しかったのでしょうか。

お礼日時:2005/10/19 13:40

この質問は重要な問題提起で既に多くのご回答がありますが私なりの意見を補足させていただきます。



旧軍参謀には1/3理論というものがあり、部隊の1/3は戦場への行軍など戦闘に入る前に消耗する。
1/3は戦闘で消耗する。 従って勝利後残るのは1/3でしかない。
従って補給を必要とするのは1/3の兵力分でよい。

さらにこの量も現地調達により食料などは賄うので、弾薬主体で十分である。 

この思想は甚だ現実的で説得力があります。
しかも工業力に乏しく資源もない我が国にとって魅力的な理論でした。
この延長上に補給を軽視する傾向が生じたのです。

日中戦争のような陸続きの戦場では成立しましたが、海外の島嶼や未開の土地で全てを補給しなければならない事態には総合的に対処する経験も戦略も準備が出来ていませんでしたし日本軍の特徴として即応能力に欠けていました。

近代戦が物資の消耗戦であることの認識がなかったのです。
輸送能力も機械より人力、馬に頼る編成でした。

補給を軽視するよりも、よく戦ったものと言わざるをえません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
陸続きの戦場では、1/3理論に基づく現地調達も可能であったが、
南方の戦線では無理であった、ということですね。

それは南方に進攻する前からわかっていたのでしょうか?
それとも、南方にいって、はじめて無理だとわかったのでしょうか?

お礼日時:2005/10/19 13:21

日本人の国民性として華々しいことは好きだが、地道なことは軽視するという傾向がありました。


それで、陸軍の場合は作戦参謀が優遇されて、情報参謀や後方参謀など参謀のうちに入らないという傾向があり、また作戦参謀は現実を分析することなく大言壮語する人物ばかりでした。そしてそういう人物が陸軍の首脳部に昇進してゆきました。
東条英機が航空隊で少年兵を閲兵したときそして、「敵の航空機をどうやって落とすか」と少年兵に聞き、「機関銃で落とす」とかいったものは不可とし「精神力でおとす」といったものを可としたというくらいです。
ですから、情報参謀や後方参謀が地道に情勢分析しても、それは「敵を過大評価しすぎている」とか「わが軍を過小評価しすぎている」とかいって取り上げませんでした。
もちろん補給能力が足りなかったということもありますが、現実を直視せず願望がそのまま作戦計画になり、無理な戦争に突入してしまったのです。
海軍は軍艦や燃料がなければ戦えないので陸軍よりは多少はましでしたが似たような傾向はありました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
結局、旧日本軍においては、精神論重視で、補給は軽視されていたということですね。軍の人事にも反映されていたと。

今までのご意見をみると、解釈は、大きく3つに分かれると思います。
1.補給そのものを軽視していた
2.そこそこ重要だと思いつつも、最重要課題にはならず、後回しにされた
3.非常に重要だと認識していたが、補給の困難を承知で戦線を拡大せざるを得ない状況だった

いずれにせよ、現地調達が不完全であることがわかり、補給が困難である以上、戦線拡大は無理である、との判断はできなかったのですね。
難しいところですね。

お礼日時:2005/10/19 13:17

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