
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
とある2人の男の・・・ひいては歴史の分岐点です。
当時の状況を説明すると・・・
1
秦帝国の成立とそれによる戦国時代の終焉
当時の大陸は日本の戦国時代と良く似ていて(というよりも日本の方が似ているのですが)それまで権威としてのみ機能していた周王朝の決定的な滅亡と最後まで残った七つの強国が秦によって打倒される過程です。
2
始皇帝の過酷な統治と死後の反乱勃発
始皇帝はその後の漢や宋等の王朝と同様に中国の歴代王朝のシステムを構築しています。(万里の長城・度量衡・文字の統一等)しかし数々の重税や労役(各種土木作業の無料奉仕)は民衆に利益をもたらす前に相当な負担を強いる事になりました。もっとも始皇帝が存命中は睨みが効いていたので反乱の一歩手前で抑えられていたようです。
3
秦帝国滅亡とその後の再統一への道程
この頃になると滅亡した国々の王家の血筋を引くものや、そう名乗る人物を王として擁立し独立する気運が高まりました。質問にある鴻門の会は丁度その頃のエピソードです。
少し詳しく説明すると、南方の大国楚はついに秦討伐の大軍を編成し進軍することになりました。その際二方向からの同時作戦となります。
一つ目は楚の名門貴族の末裔の項羽率いる主力部隊と叩き上げの将軍の劉邦率いるオトリ部隊と考えてもらって結構です。
その際に楚の義帝(当時はまだそう名乗っていなかったのですが)は2人の将軍に「関中(秦)を征した者を関中王とする」とはっぱをかけました。その後色々と紆余曲折があるのですが、劉邦が関中に一番乗りを果たした訳です。そうして激昂したのが項羽で劉邦が彼の陣営に赴き事情を説明し成功した・・・という次第です。
何故、劉邦がそんな事をしたのかというと、彼と項羽との実力差が関係しています。まず軍の兵力が圧倒的に違います。勿論その質も段違い。更に将軍としての実力も可哀相になる位に項羽が上であり、その当時ではそもそも勝負にさえなりませんでした。
その時には項羽の軍師は劉邦が近い将来の脅威となる事を察知しており、鴻門の会の直前まで抹殺を提案し項羽も同意していました。しかし鴻門の会で劉邦の弁明が巧みであった事と卑屈な態度で急に気が変わってそうはならなかったのです。項羽にしてみれば「こんな男は殺す価値すら無いな」とでも考えたのでしょう。
しかし殺意を持った項羽が劉邦にここまで肉薄したのはこれが最初で最後の機会であり、そして最もその成功率は高かったでしょう。その後も項羽が劉邦を追い詰めるシーンはいくつかあるのですが悉く失敗し遂には劉邦に敗れ去ったのです。
鴻門の会の詳細については史記を読んでもらう他はありません。古典の簡潔さと詳細さ、人物の言動はもとより思惑が滲み出る史記のなかでも最も有名で手に汗握る名シーンの一つであり、私程度の文章力では表現できないのです。

No.6
- 回答日時:
#4さんにさらに注釈。
4)項羽のおじ(項伯といいます)が恩義をもっていたのは張良(劉邦の参謀)です。このことを奇貨とした劉邦が助けを求めたのです。
6)項羽は自分に絶対の自信をもっていたので、劉邦をとるに足らないものとみなして放置したのです。
7)垓下で、項羽は虞美人を捨て遁走しました。自害したのは烏江のほとりです。また、劉邦は漢の皇帝となりました(漢王になったのは、鴻門の会のあとの戦後処理においてです)。
No.4
- 回答日時:
中国の歴史上、有名な項羽と劉邦の話です、
1)BC210年秦の始皇帝が死ぬと、諸侯の盟主であった、楚王」が秦 を完全に崩壊するため、当時有力な武将であった「項羽」と「劉 邦」に当時秦の都であった関中に先に入った者を次の王にすると宣 言しました
2)当時「項羽軍」と「劉備軍」は4対1で項羽軍が圧倒的に勝ってい ました、少数で機敏な「劉備軍」は「項羽軍」より先に「関中」に はいりましたが、このままでは「まずい」と郊外に陣を構えました
3)この行動をみた項羽の軍師は劉備に大志有りと感じ「項羽」に「劉 備」を直ちに殺すよう進言しました
4)このことを聞いた「劉備」に恩のある項羽のおじが、劉備にただち
に謝罪するよう連絡しました
5)これを聞いた「劉備」は圧倒的に戦力の違う「項羽」に謝るしかな いと、項羽の陣に駆けつけ、這い蹲って謝罪し、先に関中に入った
のは、たまたまで大意はないと謝罪しました、
6)項羽軍サイドでは謝罪している劉備の殺害を項羽に促したのですが
先に関中に入ったものを王にするという約束を反故にし殺しては
項羽が信義にかかわると思い部下の強い進言にもかかわらず殺害を 中止してしまいました、
7)この間に劉邦は逃走してしまいました、このことが両者の運命を
分け、後の涯下の戦いで「四面楚歌」となった「項羽」は「虞美人
」とともに自害し、戦いは終了し、劉備は漢の王となりました、
No.3
- 回答日時:
司馬遼太郎さんの「項羽と劉邦」ん・・
逆だったかしら「劉邦と項羽」ん・・
ともかく、そのような題のものを読むとよく分かります。
二人の性格や能力を上記の小説では見事にかき分けています。
ぜひ、お読みになることをお勧めします。
すみません、ボケが始まーっているようなので・・・
No.2
- 回答日時:
下記がわかりやすいと思います。
ようは、劉邦が秦を打倒した後、皇帝になろうとしていた項羽に謝罪した会合です。
項羽としては、劉邦に出し抜かれて手柄を横取りされた…と思ったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD% …
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8A%E5%99%B2
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