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越後が米どころって言うのは江戸時代からの評判なんですか?

A 回答 (2件)

このような記述がありますのでご紹介します。



新潟は古くから水の都として栄えてきました。
奥秩父を水源とし、群馬、長野を経て日本海へ注ぐ、
日本一の大河【信濃川】が流れているためで、人々の生活は、この信濃川によって支えられてきました。

しかし人々の生活に大きな恵みをもたらす信濃川は同時にしばしば大氾濫を引き起こし人々を苦しめる存在でもあったのです。

戦国時代、越後の国を治めていた上杉氏はいち早く治水工事に着手し、それ以後、 江戸時代にも何度か改修工事が試みられたようですが、なかなか洪水が収まることはなく、20世紀に入るまで治水の悪い平野部の開発は遅々として進みませんでした。

新潟県内に~潟という地名が多いのは、そうした場所の多くが、かつては湿地帯だったからだと言われています。
そうした湿地帯での稲作が主流だった昭和初期までは
新潟のお米は出来が悪く、 泥と石にまみれた田んぼで非常な苦労の末、収穫されたにも関わらず「鳥またぎ米」(鳥さえも食べずに跨いで通る)と呼ばれ、マズイ米の代名詞として蔑まれていたそうです。

新潟の農業関係者にとって、この湿地の干拓と川の治水、新潟の気候に合わせた新品種の開発が、長年の大きなテーマとも呼べるものでした。


司馬遼太郎は新潟の治水・稲作の歴史を詳細に掘り下げ、「街道をゆく~潟のみち~」という著書の冒頭で
「農業というものは,日本のある地方にとって、死にもの狂いの仕事の連続であったように思える」と綴っています。

信濃川の水を日本海に逃がすための大河津分水が完成し、現在の田園風景が広がる越後平野の原型が出来上がったのは、1922年(昭和初期)のことで、この治水がもたらした恩恵が、やがて 新潟県の稲作状況を劇的に好転させていくことになります。

したがって、ご質問の江戸時代にはまだまだ評判にはならず、敢えて言うなら「鳥またぎ米」として評判だったのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

江戸時代はいい米の産地として有名ではなかったと言うことですね、ありがとうございました。

お礼日時:2006/06/03 22:20

越後といえば昔は上越が中心。

国府が置かれたのも上越。上杉謙信、景勝、堀、松平忠輝らの居城はずっと上越。新潟市辺りの下越は、当時は下の人の書くような越後の奥にある泥地。
越後は佐渡に金山があり、そこで働く労働者向けに米を輸出(越後以外に売る)する地方としては、有名でした。この米を東京に運ぶために信越線は、東海道線より1年半早く全線開通しています(上越市の辺りは未だに単線だけど)。
古くは船で京都に農作物を輸出していたらしいです。
お米を売っている地方としては古くから有名だったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/06/03 22:18

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