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良く江戸時代までは、国といえば藩だったと言いますが、江戸時代に藩を超越しった日本という国家という概念はどこまであったのでしょうか?

A 回答 (4件)

少なくとも為政者と彼らにアドバイスする知識階級は「国家」という概念をもっていたといえます。



それがいつからかと言うと、隋の煬帝に国書を送ったときぐらいからで、この国書には「日いずる国の天子」「日没するところの天子」と「天子」という言葉が二つでてきます。

「天子」は今でいえば君主でつまり「日本は中国(隋)とは違う統治権を有している」という宣言で、だからこそ煬帝は「天子が二人とはけしからん→日本は中華の冊封に入らないって宣言している」と怒ったわけです。

当時の中国は皇帝が統治者で各地の王は皇帝の配下、冊封をうける近隣民族も、皇帝が「王と認める」というお墨付きを統治の正当性に使っていたので、日本のように「うちは独自で国家としてやっていくから」という内容は華夷秩序ではありえない、国家観であったといえます。

なので日本の為政者は聖徳太子の時代から「日本国という独立国家」を認識していたといえます。

また、秀吉が征夷大将軍ではなく関白を選んだのは「明に出兵するためだった」という説があります。
 征夷大将軍はあくまでも国内の夷を討伐する軍事政権で、軍政として国内統治をすることができる資格でしかありません。

しかし関白は天皇の代理として、国内政治も国際政治も行うことができる役職で、明や朝鮮など他の国家を占領して統治権を宣言するとか交渉して講和条約を結ぶには、関白である必要があったわけです。
 それが本当かどうかは疑問の余地はありますが、当時は西洋列強が世界進出して、西洋的な国家観を押し付けていたという事実がありますので、日本もそれに対抗するため、スペイン王やイギリス王と同じ国家的代表権として関白を選んだ可能性はあります。

逆に家康は征夷大将軍に任ぜられ、最終的に鎖国体制を作るわけで、秀吉と家康の政策は真逆だとはいえ「世界には国家があり、国家間戦争も行う」という認識はあったと考えていいと思います。

また、幕末になると黒船が圧力をかけて、日米和親条約が結ばれます。この条約は幕府が勝手にやったものではなく、天皇の許可を得て「幕府が日本国の代表政府」として締結したものですから、当時の幕府にも「日本国は天皇が君主である」という認識は持っていたといえます。

>日本という国家という概念はどこまであったのでしょうか?

知識階級は平安時代ぐらい、大和朝廷が成立した時期ぐらいから幕末まで「国家」という概念はあったといえます。

庶民に関してはわかりませんが、現代だって「国際基準では天皇は国家元首」という常識レベルの国際秩序を知らない日本人はたくさんいるので、そこはあまり重要ではないと思います。
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天下、という概念があったので


それが似ていると言えるかもです。

幕末から明治にかけて、日本は列強に
対抗するため、日本国、という概念を
一般人に植え付けようとしました。

それで山県有朋と西周が相談し
天皇を持ってくることにしました。

お前等は、会津藩人、薩摩藩人という
以前に、天皇が治める、日本と言う国の
国民、つまり日本人なのだ。

これがまあ、成功した訳です。
象徴の設計です。

これが出来なかった中国、韓国は
日本に遅れを取りました。

こういうことから考えるに、江戸時代の
知識人はともかく、一般庶民には天下の
概念はあっても、国家の概念は無かったのでは
と考えます。
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現代的な「国民国家」の概念は、近代ヨーロッパで、前近代と近代以前の国家観は異なるものです。

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鎖国してたので、一般人にはなかったでしょう。

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