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全く宗教心の無い者ですが、先日お墓参りに行った時ふと不思議に感じたんです。

家の仏壇の中には位牌がありますよね?ここに亡くなった方の魂があるから、毎日お線香を焚いたりお供え物をしたりするわけですよね?
するとお墓には何があるのでしょうか?もちろん納骨されているわけだから形が有るのはわかるけど、亡くなったら魂が重要かな?と思うんですが、変な質問でごめんなさい。でも結構真剣なんです。

事情があって母にもしものことがあっても、家に仏壇や位牌を置くことが出来ないので、その時はせめてまめにお墓参りに行こうと思っているのですが、お墓に意味がなければ別の方法を思案するしかないし・・・。

自分の家の宗派も知らないくらい仏教に無知な私にも理解できるように、難解な宗教用語は無しでめいっぱい易しく仏教的解釈を教えてください。

A 回答 (5件)

このH.Pをご覧になれば、違いがわかると思います。



*お仏壇とお墓
http://www1.ocn.ne.jp/~n-kumiai/needm.htm

仏壇はご本尊(仏様)とご先祖様が安置されていて、お墓にはご先祖様が安置されています。

ですので、お墓にお参りして、ご先祖様に手を合わせることも、大事なことだと思いますよ。

参考URL:http://www1.ocn.ne.jp/~n-kumiai/needm.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
母が初代のお墓に入る人&仏壇に入る人なもので悩んでいたのですが、母は死んでも私の側にいると決めて、写真を持ち歩くことにしました。

お礼日時:2002/04/01 09:50

仏教に多少なりともたずさわる者ですが出来るだけ専門的な話をせずに説明してみます。


お釈迦さまは生きとし生けるものは亡くなれば本来「空」に戻ると教えておられます。
「本来何もない」という教えです。

では本来何もないはずですのに何故、人は仏壇やお寺やお墓にお参りするのでしょうか。
ちょっと違いがあるかも知れませんがoobankoban山が尋ねておられる事も、同じ事なのです。
私たちはお仏壇やお墓にお参りいたします。
そしてお線香やお花や、食べ物をお供えいたします。
当たり前ですが実際食べ物やお花はご先祖さまや仏さまは手を付けられませんのでそのままですね。
でもそれらをお供えする事により、私たちが何かすがすがしく心が洗われたような気持ちになるのは何故でしょうか?。
私はそこにこの答があるように思います。
それが残された私たちが今は亡き人に出来る報恩行であり、私たちの理屈のない気持ちの表し方だと思います。

そして、お釈迦さまは人が亡くなればこの身この体が存在しなくなるわけだから、心は解き放たれどこへでも飛んで行く事が出来るのだ。と説かれています。
これは今は亡き人がお参りする人の心にもおられるし、仏壇にお参りするときは仏壇に、お墓にお参りする時はお墓にそれぞれおられるという意味だと思います。
大切なのはそう信じてお参りして手を合わせたり、お線香やお花を手向けたりしうる事に違いないと思います。

私も早々?と両親を見送りましたが、目をつぶればすぐに父母の顔がうかび、その声が聞こえます。
生前こんな事を教えてくれた、こんな事をしていた姿がまぶたにうかびます。
そう思うとこの教えは亡くなられた方の為では無く、残された私たちの為の教えでもあるのかも知れませんね。

こんな答えで少しは御理解いただけましたでしょうか?。
ようは私たちの気持ちの事だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
皆様真剣に答えてくださって「ありがたい」という心持ちを久々に味わいました。

すべての回答を一語一語噛みしめながら読み、自分なりに咀嚼していたのでお礼が遅くなってしまいました、ごめんなさい。

専門家としての意見、しかもとてもわかりやすく書いてくださって嬉しいです。

仏教って仏の教えのはずなのに、どこから形にこだわるスタイルになってしまったんでしょうか、昔から疑問でした。gokurakuyamaさんのように話してくだされば、もっとみんなも理解できるのに。

お礼日時:2002/04/01 09:47

お仏壇は家庭内におけるようにしたミニチュアのお寺の本堂です。


仏教徒ですから、本来毎日お寺に詣でてお参りが出来れば良いのですが、それも出来ませんので、家の中にお寺の本堂と同じ空間を作るのです。
ですから、飾付けもミニチュアの仏具でその宗派のお寺の本堂といっしょです。
お寺の本堂と仏壇は、大きさこそことなりますが、宗教的意味合いからは同じもの
なのです。
その、ミニチュアのお寺の本堂である仏壇に、亡き人がいれば、そのご本尊のおそば近くに、その方の戒名や法名を奉じさせていただくだけです。そして礼拝の対象は、亡き人ではなく、亡き人もそして自分たちをも救ってくださるご本尊さまです。したがって、作法も、その宗派により異なりますが、その宗派のお寺の本堂での作法と同一でもあります。
このように、仏壇は、お寺の本堂を小型化したもので、仏教徒が毎日お寺に行けないから家の中にミニチュアの本堂を置いたものです。

お墓は、故人が最期に残した遺骨を土に戻す宗教上の施設です。お墓は「墓」という漢字を見ても下に「土」とありますように、魚や動物、植物と他の生き物の命を犠牲にして生かさせていただいた私たちは、死後また土に戻ってまたこの地球上の生命の栄養となってこそ意味があるのであり、そのための宗教上の施設であります。

仏壇もお墓も自分たちを貴い仏法に出合わさせてくれる大切な縁となるもので、けっしてそこに故人の魂が眠っているというようなものではありません。仏様になったということは、仏様ですから「いつでもどこにでも」いらっしゃるわけで、いつでも働いてくださっているわけです。佛壇やお墓の中でじっとしているような存在ではありません。
合掌
amida3@坊さん(西本願寺)でした
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
皆様真剣に答えてくださって「ありがたい」という心持ちを久々に味わいました。

すべての回答を一語一語噛みしめながら読み、自分なりに咀嚼していたのでお礼が遅くなってしまいました、ごめんなさい。

もしかしたら!と期待はしていたのですが、お坊さんから回答をいただけて感激です。
仏壇が本堂とは・・・いい加減でだらしない上掃除嫌いなので、もし家に置いたら(-_-;)教えていただいて良かったです。

母をとても愛しています。その日が来たら写真を持ち歩こうと決めました。

お礼日時:2002/04/01 09:40

ご質問の趣旨を端的に言うと、「位牌とお墓のどちらに故人の魂はいるのか」ということですね。

これは難問です。
「お盆にホトケが家に帰っているのなら、お墓に参っても意味がないのではないか?」、「どうして家にもお寺にも同じ位牌をおまつりするのか?」といったような疑問も同根ですね。 

まず始めに、仏教以前の死生観の根本として日本人は「霊魂」というものを厳然と持っています。これを正面きって論じないと腑に落ちる答えは得られないでしょう。仏教は建前としては霊魂を論じ(られ)ないからです。
従ってこの問題は仏教の側からでなく、宗教的な民俗としてとらえないと、特定の宗派の教義の見方に偏ったり、牽強付会なこじつけ解釈になりがちですので、注意が必要だろうと思います。

お答えにあたり、少し歴史的なことを踏まえる必要があるでしょう。
位牌と墓を比べると、当然死体の処理に関わる墓が先行します。
ただし、墓といっても今のようになったのはごく最近のことです。そもそも古来の日本人は、死体に頓着しない民族でした。今昔物語などにも、死体を「棄つ」といった言葉が頻出しますが、肉体は不浄のもと、いわゆる「穢れ」があるという意識が強かったために、身体そのものは棄てるような感覚があり、従って遺体を埋めた場所(身墓、埋め墓などという)はむしろ遠ざけられました。
肉体を「棄てる」一方で、清浄な場所に魂を迎えてまつる場所が必要になります。それが「参り墓」と呼ばれるものです。今はお墓といえば無論ひとつだけ(単墓制)ですが、かつてはこのように肉体用、魂用のふたつの墓がある、というのがかなり一般的だったとされています(両墓制)。

参り墓といっても、当初は木の塔婆や木細工などをしつらえるだけで、石塔になったのは江戸時代前後ぐらいからのものが多いと言われますが、この時代は幕府の制度もあって新寺建立が爆発的に進んだ時代でもあります。
お寺の成立は様々ですが、ひとつの典型として、もともと村の参り墓が集まっていた清浄な場所が寺の建立地に選ばれ、寺が参り墓を適切にまつることが期待された、という成り立ち方が多くあります。
ところが寺が儀式・布教の場となってくると、墓が寺から分離して単墓制の共同墓地ができてきます。その代わりに、本堂の後ろや脇に檀家の位牌をあずかる位牌堂(壇)が設けられるようになってきます。つまり、位牌は参り墓の代わりとして、霊魂をまつる場として発生したのでしょう。
寺で位牌をまつることが段々一般化してくると、それを追って檀家の側でも徐々に各家で位牌をまつるようになってきます。位牌ができる以前から、講や株などで軸物にホトケの名を記したものをもちまわるなど、集団でホトケをまつる素地はあったために、あとの普及は意外とはやかったのでしょう。
各家でまつる方が日常の供養が行き届きますし、江戸時代というちょうど家制度が確立する時期にもあたり、「代々の位牌をまつることが戸主の役目である」という感覚が後押しになって一般化したのでしょうね。

まとめますと、もともと肉体から切り離した「霊魂信仰」が強いわが国では、(大雑把にいえば、ですが)参り墓→寺の位牌→各家の位牌、という風に段々普及してきたのでしょう。重要なことは、墓も位牌も意味としては「参り墓」であること、つまり「ホトケの場所」として受けとめられていることです。
居場所が複数あるのなら、じゃあどこにいるのか?ということになりますが、これも日本人の霊魂観のひとつで、「魂はいろいろな場所にとどまるし、無限にわかれるし、どこへでも飛んでいく」という感覚があるのでしょう。
例えば、交通死亡事故の現場に私達はよく花や線香を手向けます。これも、死に場所に「魂」がとどまっているように感じる私達の意識の反映です。また、事故現場でそうしたからといって、位牌にはお参りしないでおこう、という風には考えないでしょう。むしろあちらにもこちらにもお参りする人の方が多いのではないかと思います。
一般的な感覚として言えば、お墓は遺骨を納める場所で、その遺骨とともにある「魂」をまつる場所であり、家の位牌は日常供養を手向ける魂の座、ということであって、理論的に考えるとおかしいようですが、それがあまり違和感なく受けとめられる事そのものが日本人独自の「霊魂観」、「宗教観」だと言えるでしょう。これが仏教の基底を支えるに本人の感覚だ、ということはもっと肯定されるべきでしょうね。

ご質問の回答になりますが、以上のようなことを考えれば、事情によって位牌は必ずしも持つ必要はないのではないでしょうか。お墓がきちんとあり、そこへの供養を行われる限りにおいて不足はありません。また、事情が好転して位牌を新しく設けることができれば、なお結構なことです。俳人の山頭火のように親の位牌を抱いて放浪した例もたくさんありますから、仏壇がなければまつれない、というものでもありません。古くからの日本人の感覚にのっとれば、受ける側の気持ちと場所があるところにどこでも「魂」はいるはずなのです。

※私は仏教史の専門家ですが、今回のご質問に対する最適な回答資格は「仏教民俗研究家」だろうと思いますので、「一般人」として回答させていただきます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
皆様真剣に答えてくださって「ありがたい」という心持ちを久々に味わいました。

すべての回答を一語一語噛みしめながら読み、自分なりに咀嚼していたのでお礼が遅くなってしまいました、ごめんなさい。

neil_2112さん回答が一番私の心を収まりが良くて、長年の憂いだった位牌を祀れない罪悪感が薄まりました。

母が亡くなったら写真を一枚持ち歩くことにします。

お礼日時:2002/04/01 09:33

えーっと、


亡くなった方は「極楽」に行かれます。お墓や位牌に魂があるわけじゃないですよね。
極楽はどこにあるか、というと、「西方浄土」にあるそうで、秋分、春分という、太陽が真西に沈むのが「お彼岸」です。
しかし、実際のところ、なくなった方はどこにいるかというと、生き残った人々の心の中だそうです。
お墓でも仏壇でも、供える花は、手を合わせる人のほうを向けてある。
仏壇に手を合わせるのは、「修行」です。修行効果をあげるためのステージとして、雰囲気づくりのために極楽をイメージした仏壇が作られていると思えばいいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
皆様真剣に答えてくださって「ありがたい」という心持ちを久々に味わいました。

すべての回答を一語一語噛みしめながら読み、自分なりに咀嚼していたのでお礼が遅くなってしまいました、ごめんなさい。

母が亡くなったら写真を一枚持ち歩くことに心を決めました。

お礼日時:2002/04/01 09:53

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