プロが教えるわが家の防犯対策術!

今年の桜は咲き急いでいますが、今年施行の「ゆとり」教育は学問の遅咲きを願うものだと解釈してます。

「ゆとり」である以上学力は当然低下します。
これを愚民教育と評する人も多いですけど、そういう大人達の今の学力はどれほどあるのでしょうか。
大人になるとパッと忘れてしまうような知識で、受験競争をいつまでも続けている事の方が愚かな行為ではないでしょうか。

学問も料理や工芸の職人と同じく、30歳ぐらいで資格の取れる社会を構築するべきではないかと思います。
子供の頃から知識を詰め込んできた東大生より、アルバイトをしながら、人と対話しながら自主的に一日2時間ほどの学習を長く続けてきた人の方が、同じ知識量でも何か人間的な面で違いが生まれるように思います。

競争も大切ですが、それと同じぐらい「ゆったり」と時間を過ごすのは大人にも子供にも大切なものではないでしょうか。
人の知性は緊張の時生まれるものもあれば、緩和の時生まれるものもあるでしょう。

小学校の徒競争で、トップで走って来た生徒がゴール前立ち止まり後ろを振り返って、全員が手を繋いでゴールするという授業があります。
皆が一斉に批判するこの授業ですが、僕にはこれが羨ましいのです。

トップを走って来た生徒がゴール前立ち止まって後ろを振り返ります。
まるで大切な落し物を探すかのように。

お暇あらば、貴方の教育論「ゆったり」と聞かせて下さい。tiger-ryuji

A 回答 (24件中1~10件)

『ゆったり』と話す能力に欠けていますので、私の意見の要点のみ書かせていただきます。



『ゆとりの教育』を肯定される方々は、将来の日本が今のように豊かであると勘違いされているのではないでしょうか。
どこに今の日本の豊かさを将来にまで保障してくれるところがあるでしょう。

今の日本の経済的豊かさはひとえに科学技術によるもので、観光や天然資源などの輸出における外貨獲得によるものでは決してありません。
農業大国であるアメリカやフランスやドイツなどよりもはるかに科学技術に頼らざるを得ない日本の子供たちの理科や数学の学力は、既に先進国の中でかなり低いレベルまで落ちてきています。
中国や台湾や韓国にかなり離されてしまったのです。

このまま行けば100年も経たないうちに中国や韓国の『下請け』的技術しか持ち得ない国になってしまいます。
言い換えれば収入が下がり満足に輸入もできなくなり、かと言って自国で農産物を増産する条件にも恵まれておらず八方ふさがりになってしまうということです。
既に半導体技術などでは日本では追いつけない分野もあるのです。

日本の経済力は経済学者や商社が作り出した物ではないのです。
経済学者や商社がどんなに知恵を絞っても、国際競争力の無い商品は全く売れないのです。
その競争力の一番の要因が『技術力』です。
そしてその『技術力』を支えるのが数学や理科の学力だということを理解できない人の見識を疑います。
学力は若いうちに高める必要があり、30歳になってから勉強しても追いつくのは至難の業です。

どうして落ちこぼれを無くすために学習内容のレベルを下げるのか理解できません。
既に数十年にわたり数学などの学習レベルを落としてきた弊害が顕著に現れているにも関らず、また大幅に下げるのですから何をか謂わんやです。
なぜ高いレベルの学習を望む生徒の機会を奪うのでしょうか。(高いといっても世界的に見れば普通のレベルですが)

今までの教育で足りないところは、トップを走る生徒が他の生徒と対等であることを教えないことと、どうしてもできない学習を回避して個々の生徒に合った学習を選択する機会が無いことです。
トップを走ってきた生徒がそのスピードを緩めることなく、他の生徒と対等であることを教えることを怠ってきたのです。
対等や平等を重んじるが故にトップの生徒のスピードを落とすことが、本末転倒であることに気付かない人がいることに驚きを隠せません。
トップを走る生徒はその分野で才能を伸ばし、その才能で国や世界の発展に貢献する広い意味での責務を負っているのだし、他の生徒も自分でできる範囲での社会貢献をするためにさまざまな勉強を続ければいいのです。

横並びにレベルを落とすことの愚かさに、文部科学省が早く気付いてくれることを祈るばかりです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

僕は子供の頃、数学の勉強をコツコツやってました。
中学の時には周りから一歩抜けた感じがしましたが、その事で未来が明るくなったわけではありませんでした。
トップを走るのは肩に力が入ったロボットのように思えてきたのです。
それで高校は数学は辞めて朝から晩まで野球の練習です。
浪人して今度は文系の受験勉強です。

数学は大人になってから学び直しました。
僕は数学への愛着を持ち続けていたのです。
この時、数学は初めて僕に未来を見せてくれました。

この質問の主旨は、若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないかと言うことです。
今の子供達にはそういう「ゆとり」の発想から学ぶ楽しさが生まれてくるのではないかと思うのです。

お礼日時:2002/03/30 21:17

 どれほど本を読むかは、学のあるなしのひとつの目安になると思っています。

北杜夫がその著書の中で、50年前の高校生は「ダフニスとクロエ」を読んでいるのが当然だったと書いています。私は約20年前高校生でしたが、読んでいませんでした。決して読書家とは言えなかったけれども、そんなタイトルさえ聞いたことはありませんでした。私の頃の常識本を挙げれば、「老人と海」「異邦人」「雪国」「沈黙」といったところで、「坊ちゃん」は常識以前の問題であり、「三四郎」「それから」「門」あたりを読んでいるかどうかが読書家へのハードルでした。
 今はどうなんでしょうか。もっと読まなくなっていませんか。

 大人の学力というくだりがありますが、大人にペーパーテストを受けさせるつもりではないでしょうね。学校で習うことはまずは広く浅くの基礎部分です。やがて社会に出て仕事をするようになると、程度の差はあれ、ほとんどの人がその中の何かひとつの分野に特化していくのです。自動車修理工が徒然草の冒頭の文句を忘れているからといって責められることはないでしょう。多くの人は学校で学んだ知識のうち一部を役立てることになるのです。
 ですから学校で勉強した中で使わなくなる知識が多いのは当然です。だからといってきわめて早い時期に分野を限定して専門教育を行うのは危険です。
 ひとつの理由としては、専門バカを養成することになりかねないということ。社会に出ても与えられた仕事をするだけの人ならそれでもよいでしょう。しかし、自分で何かを作り出さなくてはいけない立場になる人は、一見何の関係もないような知識が柔軟な発想をもたらすということを知っておくべきで、その意味からよろしくありません。

 また、ひとつの分野に特化しない人もいます。ゼネラリストという言葉を使うようですが、要は経営者とか政治家など社会の中枢に関わる人に求められる資質です。こういう人は広い範囲の知識を持つことが絶対に必要です。広範囲にわたる決断を下さなくてはいけないからです。はじめは広く浅く、そしてだんだんと広く深く知ることが大切になります。不足している部分を補うためにはブレインとなる人も必要になってくるかもしれません。しかし、最終的には自分が判断することになります。
 こういう人にとっては、学校の勉強では不足です。しかも無駄な分野は存在しません。特に大学では自分で学ぶことを覚えて、それを実行してこないと社会で通用しません。極端に言えば、ダシの取り方から原爆の製造法まで知識として知っているか、もしくは調べる方法を知っていること。
 現にそういう資質を満たしていなくても、政治家にも官僚にもなっているではないかと問われるかもしれません。しかし、問題を起こしてみたり、問題を解決できなかったりしているのを見てみれば、やはりそういう人は政治家として、官僚として不適格であると考えることも出来ます。日本はそういう人が社会の中枢にいることも出来るわけですから、非常に将来に不安がある国だと思います。

 現在、多くの文系大学生は社会で求めるレベルに達しないまま大学を出てきています(理系は少なくとも専攻分野では社会に追いついているようです)。資格がどうのといった問題ではありません。簿記の2級を持っていても、まず経理で即戦力にはなりえません。それよりも、手紙をきちんと書ける人のほうが使いでがあります。
 何よりも問題発見能力の低さは嘆息すべきです。また、問題解決能力にも問題があります。どういうことになるかと言うと、仕事を与えてやらないと、自分では見つけられない。仕事のやり方を1から10まで教えてやらないと、自分でやり方を見つけられないといった具合です。大卒がこれでは、高卒を雇ったほうが悪癖を覚えていない分だけましではないか、と思わざるを得ません。一方、今の大人はそこまで無能ではありません。少なくとも自分で考える能力はこの木っ端大学生よりは確実にあります(暴言になってきた)。
 これは典型的な、教育による効果の表れと思います。自分で考えるには想像力が必要で、こういったものを身につける訓練が欠けているからこそ、揃いもそろって仕事を与えてくれるのを待っている、まるで犬みたいな新人が社会に出てくるのに違いありません(また暴言だ)。

 競争については、やはり教えておくべきことです。社会は日々競争の連続で絶えることはありません。商売の多くは決まった総数のパイを奪い合っており、実績の上下はゼロサムゲームです。しかし、どうもこういう説明では夢がありませんね。
 では別の言葉で。ヘミングウェイはこう言っています。
 「スポーツというやつは、正々堂々と戦って勝つよろこびを教えてくれるし、また、負けた者に対する思いやりも教えてくれる。つまり、スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ。」(うろおぼえで主旨のみご理解ください)

そういったことを知るのに小学生では早すぎるとは思いません。勝つこと負けることを経験する。いろんな個性・長所を持つ子供たちにそれを生かす機会を与える。必要なことだと思います。

 なお、文部科学省がどう考えているのかいま少し調べたところ、昨年の国会の文部科学委員会の中で、行き過ぎた結果平等主義はよろしくない旨の副大臣の発言があります。そして、順位をつけない徒競走といったものは、すでに過去のものになりつつあるとの報告があります。URLはその会議録です。

参考URL:http://www.shugiin.go.jp/itdb_main.nsf/html/kaig …
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この回答へのお礼

こんばんは。

質問の最後に、教育論を「ゆったり」聞かせて下さい、の一文を入れたのは、文部科学省の形式的な見解には興味なく、貴方の教育への思いを気楽に語って下さいという意です。

(スポーツは人生ってやつを教えてくれるんだ)
ホンマ僕にとってはその通りでした。
子供の頃スポーツマンシップを学んでいなければ、社会や教育について特に考える事もなかったでしょう。
スポーツは小学生全員に是非やって欲しいと思ってます。

ところが監督やコーチは大会で勝って結果を残したいと思うでしょう。
しかし生徒にとっては、その大会での結果はそれほど重要なものなのでしょうか。
僕は20歳過ぎてから結果に拘る選手であって欲しいし、そういう制度であって欲しい。
学問は更に遅く、25歳、30歳過ぎてから結果を残そうとする人間であって欲しいし、そういう社会制度であって欲しい。

それが正々堂々と競い合える条件のように、僕のスポーツマンシップが感じてしまうのです。

お礼日時:2002/03/31 17:59

 ひとりひとりの幸せが大切か、日本という国家が大切か、という問題になりますね。

ゆったり教育というのは、前者の考え方です。また国家の安泰とか隆盛とかが、けっきょくは個人の幸せにつながるのだ、というのは後者ですね。
 しかしいま問われている、ゆったり教育論は、個人と国家をどちらを先にするか優先するかの問題ではなくて、損得とか勝負とか成長とか向上とか国力とかいうような、いわば今まで絶対の価値を持つと思われていたものが、どうやら変わり始めている、そういう価値観が崩壊しようとしている、一種の兆候であると見るべきでしょう。日本と日本人が変わろうとしているわけですね。
 わたしの個人的な考えでは、とても結構な時代が来ようとしているように思えます。経済国家から文化国家へ、競争社会から、のんびり社会へ、一等国から三等国へ、世界で一番ダメな国だが、国民は世界で一番幸せ、などなどという国へ、わが日本国は軌道修正に入っているらしいと感じています。
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この回答へのお礼

こんばんは。

変わり行く日本。
貴方はこれを感性で捉えられたのですか。

僕が日本社会がはっきり変わる方向に流れたと思ったのは、阪神大震災の後です。
ここで国民は政府のあり方にハッキリ不信感を持ったように思えます。
日本人が変わろうとしている気持ちに、もう後戻りはしないでしょう。

日本の構造改革もゆとり教育も、その結果はどうあれ、もうサイは投げられてしまっているように思えます。

お礼日時:2002/04/01 16:01

再投稿です。



お礼の欄に書いて頂いた、「若い時は将来の職業に直接役に立たない事もやるべきではないか」ということについては当然そうあるべきです。
しかしその事と才能ある子供を子供のうちにもっとその才能を伸ばしてやることが、どうして両立しないと思ってしまうのか不思議です。
将来の職業には役に立たない様々なことをやりながらも、小学校で高校の数学をやりたい子供にはやらせて上げられるというのがどうしていけないのか理解に苦しみます。
なぜ難しいことを学びたいのに、『それは悪いことだ』などと言って足を引っ張るべきなのか。

バスケットで言えば皆均等にシュートを決めないといけないのでしょうか。
皆がポイントゲッターにボールを集めて、チームワークの良さでより多くの得点を入れることが素晴らしいことではないのですか?
ドリブルが上手な人、シュートが上手な人、パスが上手な人、リバウンドを拾うのが上手な人など、それぞれがお互いを理解して尊重するように教える事が正しい教育だと思います。
たとえそれが小学生であってもです。
能力が欠けているのにそれを知らされず、『みんなと同じ』と思ってしまうことこそ悲劇です。

もう一つ、『三等国家でも皆が幸せ』という意見がありましたが、発展途上にある国家ではそういうことも有り得るかもしれません。
しかし、一度豊かになった国が貧困に向かうとき、『清貧』などと言う言葉は存在しませんよ。
豊かさを知らないからこそ『清貧』でいられるのです。
たとえその中に『清貧』があったとしても、それは知的レベルの高い一部の人間にしか存在しません。
豊かな国から貧しい国へ移行するとき、必ず暴力や富の一極集中が起こります。
そして国全体がスラム化してゆくのです。
このときに歴史教育で豊臣秀吉や聖徳太子の偉業を話して聞かせても、盗みを働かないと生きてゆけない子供たちの耳に入ってゆくでしょうか。

日本は既に後戻りのできない所まで来てしまったのです。
貧しくなることは許されない状況だということが分っていない『楽観主義者』のために、日本全体が危うくなろうとしている事に気付いている人が、もっと大声で発言してもらいたいと思っています。

もう一度言わせて貰いますが、数学や理科が国際的に低いレベルのままで、科学技術立国である日本の経済が維持できることは100%在り得ません。
このことは断言できます。
そして貧しくなればなるほど、教育に掛ける国家予算も無くなっていくのです。
軽々しく『貧しくても心の豊かな国』などといって欲しくはありません。
『貧しい国』は一部の富裕層を除いて、辛く住みにくい国であることに早く気付いて、生命線である科学技術を活かし経済的に豊かなままで心も豊かになる道を選択するべきだと思います。

最後にもう一つ、日本の今までの教育で一番の間違いは、記憶力に重きを置いたことです。
記憶などは大して重要ではないことに、多くの人が気付いていません。
大切なのは『思考力』です。
物事につじつまを合わせ総合的に理解し、それを使って新たな物を創造する力です。
カブトムシは蜜を吸うと覚えているだけの子供と、蜜を吸うのだから砂糖水を染ませた綿を木に置いておけばカブトムシが集まってくるかも?と考える子供とでは雲泥の違いがあります。
『知っている子供』ではなく『考える子供』になってもらいたいのです。

Dejimaさんも書いておられるように文系の大学では英語や社会や国語というほとんど記憶以外は必要のない科目だけで入学してしまいます。
そしてその人たちが社会に出て人の上に立っているのです。
もちろんその中には非常に優れた『思考力』も持ち合わせている人もいますが、かなり多くの人がテレビとビデオデッキやパソコンとプリンターの接続などという、説明書を読めば小学生でもやれることすらできない『低能力』であることは否定できません。
内部のシステムと違い電線は眼に見えるのですから、何をどこにつないだらいいか説明書を見れば明白です。
これは文系、理系とか得手、不得手とか専門、専門外の問題ではなく『常識』です。
この程度のことを『難しいこと』などと思うこと自体が、『学問的』にではなく人間の基本的な部分に於いて『低能力』『常識外れ』の証なのです。
その『低能力』を省みることもせず『ゆとり教育』などと言っている官僚などには『何様のつもりなのか』と言ってやりたい気持ちで一杯です。

Dejimaさんが仰るように、人の上に立つ人は総合的な知識と能力(思考力)を備えた人でなくてはならないのに、テレビとビデオを接続するだけで電気屋を呼ぶ人間が、どうして人の上に立てるでしょうか。
こういうところに日本の教育の矛盾があります。

考える教科を子供のうちにしっかりとやり、十分な『思考力』を身に付けてから覚える教科をやるべきだと思うのです。
その為にも数学や理科は小学校の頃からその割合を増やすべきだと思っています。

以上、長々と書かせて頂きました。
お読み下されば幸いです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

日本人の数学や理科の学力が低下していいとは言っていない。
しかし10代の成績に拘る事はなかろう。

周りより高度な数学を学ぶ事は勿論悪い事ではないです。
では数学を学ぶのを一旦辞めて、別の事に熱中する事は悪い事なんだろうか。
18歳で結果を出さなければいけない今の受験体制では、大抵の親御さんにとってそれは悪い事になってしまうだろう。
しかし10代の時は勝ち続ける事をするより、負けるだろう勝負に向かって行く勇気が大切だと思わないか。

学力の向上と人間の成長が両立できれば、それが理想の教育でしょう。
しかし今の受験体制でそれが不可能であるのは、お役人達が立証してくれています。
こないだ文部科学省は「ゆとり教育」の説明をどっかの体育館でやってました。
これは子供の頃からカラーテレビを見てきた若い世代にとって滑稽な光景でしかありません。
何かの理念があるなら何度でもテレビに出て来て説明してくれればいいだろう。
たとえそれが凡人には理解できない高尚なものであるにしても、自分のプライドのために国民にグッと向かって来るべきなのだ。
つまり彼らは勉強ばかりやってきて、説明能力も説明責任も持つ事ができなかったのでしょう。


数学は目の前の勝ち負けよりも、自分の将来の指針を示してくれるじゃないか。

お礼日時:2002/04/02 21:08

日本の経済成長は大量輸出を許す国際政治経済情勢があったためで、


メリットシステムや高度教育機関による人材の供給・選抜は
国際政治経済情勢に比べては重要ではないような気がします。
つまり、冷戦がなければ日本の高度成長は有り得なかったということです。
こういった私のような立場の人間からすれば、
経済成長の名目で子供の貴重な青春をお勉強一色にするのは賛成できません。

個人的にはゆとり教育には賛成ですが、国をあげて子供を教育する理由を
はっきりさせていない段階では、ゆとり教育の是非を問うのはまだ後のような
気がします。
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この回答へのお礼

こんばんは。

「王様は裸じゃないか」少年が立ち上がって叫びました。
そして民衆はざわざわし始めました。

「日本の経済成長はもう終わってるじゃないか」誰かが叫んだのでしょう。
国民は今ざわざわし始めている状態です。

誰が叫んだのでしょうか。個人ではないでしょう。
日本を取り囲む空気が叫んだのではないでしょうか。

「ゆとり教育」は誰が叫んだのでしょう。
今は中身がはっきりしていませんが、この言葉の中身を構築するのは僕ら国民の責務なのではないでしょうか。

お礼日時:2002/04/03 20:48

何度も書き込んで議論になってしまうのもどうかと思いましたが、もう一度だけ私の意見を書かせていただきますね。



仰るように勉強を一時中断して他のことに熱中した後、また勉強を再開することになんら反対ではありません。
しかし勉強を中断せずに努力を続けた人との能力の差に目をつむり、同じ扱いをすることには疑問を感じます。

日本の社会が終身雇用を完全撤廃し、完全能力主義になることは私の理想です。
そうなればいつ勉強しようともその能力をもって評価されるのですから、30歳の入社でも40歳の入社でも能力に見合った評価をされるでしょう。
子供の頃にしかできないことをたくさんやる、あるいは一つのことに打ち込んで集中的に時間を費やした後から勉強をすることもできるでしょう。

しかし私の『数学や理科は他の教科よりも子供の頃にやるべき勉強』だという考えは不変です。
勉強時間を増やすのではなく他の勉強を削ってでも数学や理科を子供のうちにやるべきだと言ってるのです。
taiger-ryujiさんは大人になってから数学をやり直したそうですが、世の多くの人は大人になってから数学を理解することはかなりの困難を伴います。
逆に歴史などは大人になってから覚えたほうが、子供の頃の勉強で覚えるよりはるかに的確に時代考証などを把握できます。
このことからも限られた子供の勉強時間で、どちらが優先されるべきかは自明です。
それとも高校や大学ではじめて歴史や地理を学んだ人は、子供の頃に学んだ人よりも偏っているとでも言うのでしょうか。

私自身は俗に言う進学校へ進学しましたが、努力をしなかったこともあり完全に落ちこぼれでした。
たいした努力をせずに東大や国公立の医学部へ行く友人もいましたが、賞賛こそすれ妬んだりしたことなど一度もありません。
バスケット部の主将として頑張ってはいましたが、中学時代の県大会上位入賞とかのことを考えるとやはり物足りないものがありました。
しかしその全てを受け入れ自分の能力を悟ったわけです。
決してトップレベルの友人に勉強を止めてもらってる間に追いつこうなんて思いませんでした。
逆に全国模試で一桁を取るような友人が自慢でもあり、もっといい成績を取ってもらいたかったですね。

勉強ができる人とできない人がいるのは当たり前で、その能力に応じた社会貢献をすることが必要だと思うのです。
そして勉強ができない人の割合が多い職業(俗に言う職人など)を、医師や弁護士などと同列に扱うことができれば、勉強ができないことを恥じる風潮もなくなるでしょう。

実際に無形文化財になったような職人なら敬意を払われるでしょうが、普通に腕のいい職人に多くの敬意が払われることは稀です。
弁護士や医者なら実績の無い20代の『若造』でも非常に多くの敬意を払われるのにです。
弁護士や医者なら国家資格もあるので良しとしても、銀行員などにいたっては大工や左官と何が違って社会的地位も収入も違うのか教えて欲しいものです。
今の日本社会や教育が抱える一番の問題点はそこにあると思います。

決して現在の学校での勉強時間が多過ぎるわけではなく、塾やテレビゲームなどに費やす時間が『ゆとり』を無くしている主な要因であると考えている人は少なくないと思います。
『ゆとり』と称して授業時間を減らしても、子供の『勉強時間』は変わらないでしょう。
それこそますます受験勉強一色で『ゆとり』のかけらも無い塾に通う時間が増えるだけです。

勉強をせざるを得ない一番の理由は、大卒などが高収入を独占している社会構造にあるのです。
職人になっても『腕次第』では銀行員よりも高い給料を貰える(事業主としてではなく給料として)ような社会であれば、能力も無い子供に無理やり勉強を押し付ける必要もなくなると思います。
こういう社会を築くことが勉強時間を減らすことよりも大切だと思うのですがどうでしょうか。

まぁ、官僚や一部の特権階級はその既得権益を手放すわけはありませんから、職人や単純作業従事者と銀行員などの高所得者との社会的地位や賃金格差是正に前向きであるはずがありません。
せめて課税の累進率を上げて是正して欲しいものですが、逆に自民党は累進率を下げて高所得者に有利な社会を作り上げようとしています。(実際に東大入学者の親が高所得者である割合が驚くほど高い)
持つ者と持たざる者の二極分化が進行しているのです。

勉強ができる一部の人や金持ち以外は努力してもなかなか報われない社会であることが、子供たちの『ゆとり』や『夢』を奪っていることに多くの人が気付いてもらいたいものです。
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この回答へのお礼

こんばんは。

後半の社会構造の部分は僕も同意であり、貴方が丁寧に説明してくれてます。

受験体制について互いの意が伝わらないのは、感性の違いでしょう。

貴方が真面目に勉強を続けてきた東大生を称賛する気持ちにウソがないように、僕が東大生に別に能力を感じない気持ちにウソはありません。

そして「ゆとり教育」を構築していく上で、この感性の違いの認識というのが重要なものになりそうです。
「毎日勉強一生懸命して立派な大人になりなさい」と言っても、「その立派な大人とは誰なんだ」と感じてしまう子供もいるでしょう。

爽やかな「ゆとり社会」とは自分の感性を相手に押し付けない、個人の余裕から生まれるのではないでしょうか。

一度子供達や親達全員に聞いてみればどうだろうか。
「貴方は本当に東大生に知性を感じますか」と。

お礼日時:2002/04/04 16:32

こんにちは、de88ともうします。


議論が白熱しているようで、書き込みには躊躇してしまいます。
また、tiger-ryujiさんのご質問の回答になれるかどうか心配です。
的はずれでしたら、お許しください。

私は、専門家と書かせていただいたように教育に携わるものです。
一般と自己紹介されている方々が教育論争をされているときに、
時々、割り込ませていただいております。
さて私の意見ですが、基本的にはnaoppeさんの意見に大賛成です。
以下、項目別に意見を述べさせていただきます。

1.>小学校の徒競争で、・・・・まるで大切な落し物を探すかのように。
   との、比喩についてですが、
極端な例として書かれていることはわかります。
しかし、やはり、とんでもない!!、やっては行けない教育事例でしょう。
比喩をもちいて意見を述べさせていただけば、
 ⇒最後の1人が来るまで誰もゴールできないというのは大問題です。
なんのゴールか?にもよりますが、たった1人のために全員を待たせるとしたら、
待たせたその1人は、一生涯その贖罪で苦しむでしょう。
こちらに回答を寄せている皆さんなら、ご理解いただけるイメージかと思います。

2.sterstyle007さんの、
  >日本の経済成長は・・・人材の供給・選抜は・・・
   重要ではないような気がします。 
とのご説についてですが、
たしかに、冷戦下に日本経済が保護された故の発展は事実だと思います。
しかしながら、「性能の良い車を作る」というのも事実であり、
瀬戸大橋・明石海峡大橋のレーダー波吸収ペイントは、
それだけで、あらゆる軍事バランスに不均等をもたらす素材です。
これほどの科学技術を生み出す力の背景は、
国際情勢だけではなく、戦後復興のために、
国(国民)をあげて努力した結果であり、教育の一助もあるかと思います。

3.ただ、気になるのですが、naoppeさんには、
  文系で、機械ものが苦手な人への偏見があるようです。
  理数系上位のような発想です。
  Dejimaさんの意見にも見受けられます。
★それにしても、
 >英語・社会・国語・・・記憶以外は必要のない科目・・・
 というのは、あまりにも暴論ですね!
 >そしてその人たちが社会に出て・・・小学生でもやれることすらできない・・
 これも、ひどい言いがかりではないでしょうか?
▲確かに、コンピュータの操作など情報通信技術を中心に、
 『空間思考』が苦手な人がいます。
 しかし、それは文系理系に限らずの話で、
 文系は機械の操作などに問題があるかもしれませんが、
 理系はコミュニケーション能力に問題が多いと思います。
◆自分のプロトコルでしか会話が出来ず、
 他者の会話の論理や話法作法を享受できず、
 適切なコミュニケーションが成り立ちません。
 言外の意や行間などを理解できず、表層の語だけにたよります。
 合理的な言語活動であるかのように論をすり替えるのですが、
 自己と近親関係者のみのプロトコルでしか会話できないという
 能力の限界を認めようとせず、
 自分より理解度が低いものへ詳しくわかるように説明する能力に欠け、
 自分より理解度が高いものに簡略に要点だけ伝える能力に欠けます。
●文系は機械【物(合理的な物)】に弱いが、
 機械が使えないことを問題だと思っていません。
 それはご指摘通りでしょう。
●理系は人間【心(不合理な物)】に弱いけれど、
 コミュニケーションがとれないことを問題だと認識できていません。
 自分より低位の者へのコミュニケーションは相手の力不足だと怒り、
 自分より高位の者とコミュニケーションが出来ないことは、
 相手が自分を理解しないと憤慨します。
■面白いのは、文系理系互いに相手の欠点を嫌悪するところでしょう。

4.少し話題がそれました。本題に戻します。
さきほど、『空間思考』と表現しましたが、
自分の視野だけで判断を下すのは、「平面思考」のものの考え方です。
記憶力だけの勉強はまさにその通りですが、
公式や記号を道具としてもちいて、解を導くのに長けているだけなのも、
所詮、「平面」であり、「考える力」とは言い難いと思います。

★文部科学省のいう『ゆとり』は、
 記憶により「道具や材料」を増やす詰め込み教育や
 訓練により「少ない道具や材料」を使う術を鍛錬する教育を見直し、
 両者の重要性を均等に認識し、自分の視野以外からも物事を考えられる
 『空間の思考』を育てるという発想です。
 これを持って、【生きる力】と表します。
 二一世紀新しい時代を「強く生きる」「共に生きる」「長く生きる」
 「明るく生きる」「活き活きと生きる」などなど
 をねらうものです。
 詰め込み過ぎ、鍛錬・訓練・修練の激務に「ゆとり」をという意味です。
 どうぞ皆さんお間違えの無いように

5.ただし、最後に申し添えますが、
  以上の教育環境を整え、目指すところは、エリート育成であります。
  この部分は長くなりますので、また、次の機会に
  なお、本文は最新のnaoppeさんの意見には対応しておりません。
  【時間差でした】

大変長くなり失礼致しました。
文面で、失礼もしくは不快な表現がございましたら、お許しください。
以上
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この回答へのお礼

こんばんは。tiger-ryujiといいます。

この順位をつけない徒競争は、やってはいけない授業ではありません。
貴方個人が日本教育の責任を取れる訳ではないでしょう。
僕はここの会員さんだけでなく、もっと多くの人に向けて語りたい気持ちです。

この授業を取り挙げたのは、これが今の教育の変化を象徴しているからです。

生徒達は授業を選ぶ権利がなく、興味がなかったり理解できなかったりしても、机にジッと座ってなければいけませんでした。
嫌いな授業は受けずに図書館で本を読んでも、誰にも迷惑をかけていないはずです。
大人達は子供のマナー違反をよく取り挙げますが、これまでの授業姿勢は実は大人側のマナー違反なのではないでしょうか。

そうした疑問から生まれたのが、この順位をつけない徒競争でしょう。
僕は例え陸上選手を目指していたとしても、この授業には何の不満も持っていなかったと思います。
実際に集中力が発揮できるのは一日2時間くらいが精一杯だからです。

手を繋ぐのなら男女混交で走る事を提案するだろうし、旗の色が当てられずフラフープ回している間に後続に抜かれていくなら、「どうだ、この動きはカッコイイだろう」と僕は笑顔でフラフープを回すでしょう。

お礼日時:2002/04/05 21:39

ゆったりと詰め込みの2択ではないとおもいます。


両方が極論なので、両方ダメなのでしょう。
本当にやる気がある人に対して、ゆったりではその人のやる気がうまく生かせないのでだめでしょう。
やる気がある生徒に対しては、やる気があるなりの対応が求められます。
心底やる気がない生徒に対してはやる気を出させること、あるいは目を転じて、スポーツでもやってもらう手もあるでしょう。

私の教育論としては、勉強はすべて一人でやってもらうというものです。教材を充実させて一人で効率的かつ意欲的に学習できるようにする、あるいはそうした環境をまずつくる。
そうして、教師は生徒たちの質問相手として常にスタンバイする。
自宅からの質問も受け付けられるような体制が今では可能です。

勉強したいときにやりたいだけやってもらうというこの方法ならば、すべての生徒が意欲的に取り組んでくれるでしょう。
どうしてもやる気がない生徒には、無理して勉強させるよりも、動機づけが必要です。十分な時間をとってじっくり動機づける。やる気がないときには、スポーツや社会見学でもやってもらう。
運動もまた学習の一部です。

そうすると、人と会うのが苦手になるとか、いう人がいそうですが、コミュニケーションの時間というものを別枠で設けます。なれてきたらディベートでもやるといいでしょう。

これを自発的学習システムとでも名付けます。おそらくうまく行くでしょう。もちろん、このシステムではすべての生徒が対象で、例外視している人々はいません。

子供のことを考える際には、その将来のことも重要ですが、いま充実しているのかどうかもまた重要です。
このシステムならば、将来、現在両方を考えることになります。やる気がない生徒を動機付ける→やる気をもってもらう→やる気がある生徒を全力でサポートというのが手順です。

授業についていけない生徒が出ることはおそらく無くなるでしょう。授業そのものをなくすのだから。

従来教育といえば、子供の将来のことだけを考え、子供のいまを考えないということになりがちでした。それが詰め込み教育でしょう。それにより、生徒たちを強いストレスにさらしてきたとおもいます。そのムリヤリ教育が良くなかったといえるでしょう。
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この回答へのお礼

こんばんは。

貴方の根源的な教育改革論、楽しく拝見致しました。

僕が思いつくのは、義務教育は午前中で終了し、午後からは自分のやりたい教科ができる場を設ける事です。
午前中は基礎的な仲良し教育に徹して、午後からは個人の才能を思いっきり伸ばしてもらえばいいのです。

しかしこれでは文部科学省の意向と同じになってしまい、お金持ちの子が有利になってしまいます。
そこでもう高校や大学は終わってもらって、義務教育の次は義務アルバイトというものを全員に課します。
一日4時間くらいのアルバイトをして、そのお金で家庭教師を雇うのです。
アルバイトは社会を学ぶ事もできるし、仲間とのコミュニケーションもできます。
そして22歳以降に、何かの資格が取れるような社会であればいいと思います。

今の受験体制では18歳までに詰め込み教育になってしまい、大人になって学ぶ意欲を失ってしまうように思います。
大人になっても学習というものが、テレビを見たり、風呂に入ったりするのと同じように毎日習慣づいてしまうのが、僕の「ゆとり」教育の理想形です。

勿論僕は今も学ぶのが大好きです。
今夜は今から僕が最も好きな競馬予想の学習なのです。Good-luck!

お礼日時:2002/04/06 18:08

>これほどの科学技術を生み出す力の背景は、


>国際情勢だけではなく、戦後復興のために、
>国(国民)をあげて努力した結果であり、教育の一助もあるかと思います。
まったくその通りですね。自分もそこまで書こうとしたのですが長くなるのが
嫌だったのでやめました。「比べては」にその意図を読み取ってください。
ただ、インドのように科学エリートの供給は学校教育の規模が小さくとも可能だという点で、
(準)公的教育の経済発展への影響力は日本の場合は国際政治経済情勢に比べれば
それほど重要ではないのではと考えました。

私が問題だと思うのは、教育の意義ですね。なぜ教育をするのかです。
言語や空間への思考力、コミュニケーション力(EQまで含む?)などは
疑いようがないくらい人生の楽しみを増やしてくれますが、
日本の学校教育はただ経済発展のためだけに存在してきたのでは?という
疑問があるんです。
「勉強ができる=人生が楽しい」だとは経験的に思えませんよね。

ゆとり教育は教育の意義について考える絶好の契機ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

正確には学校教育は年功序列社会を築くために存在し、それが経済成長に繋がっていたから国民はそれで納得していたのでしょう。
今の受験競争を勝ち抜いていくためには、社会や人生に対して思考力を持たない事が必要みたいです。

IQとEQの違いは外務省官僚と田中真紀子さんの違いが分かり易いです。
IQが高くてEQの低い人は真紀子さんを嫌いますけど、そういう人には人間的な魅力を感じないですよね。

お礼日時:2002/04/07 22:54

個人的には「ゆとり教育」賛成ですね。


ただし、運用が非常に難しいと思います。
優秀な教師が行えば大きな成果を挙げられるでしょうが、能力に乏しい教師が
行えば、ただの「授業時間削減」にしかならないでしょう。

tiger-ryujiさんは、
>「ゆったり」と時間を過ごすのは大人にも子供にも大切なものではないでしょうか
と述べていますが、子供に時間を与えたところで塾に通う時間が増えるだけです。
現在、既にそうなっているでしょう。


私が「ゆとり教育」に賛成なのは、画一教育の弊害を減らす効果が期待できるから
です。人間には個性があり、異なった才能を持っています。それを無視して、同じ
教育内容を教えるやり方には、限界があると考えています。
「ゆとり教育」で教師の裁量範囲を広げることで、地域・あるいは個人に即した
教育をすることが可能になると考えていました。

しかし、ここで教師の能力が大きく問われます。現在「ゆとり教育」に批判の声が
高まっているのは、結局は現場の教師が「ゆとり教育」のメリットを引き出せなく
て、授業内容が削減されるデメリットばかりが目立っているからだと思います。


戦後の教育は、平均的な能力を持つ人を大量に育成するためのシステムです。
ですので教育内容は画一的です。優秀な人を伸ばせるようになってなく、また
その反面、落ちこぼれ(よくない表現ですが)を救済せず、基本的に切り捨てる
仕組みになっています。

日本が「追いつき追い越せ」の時代は、それでも何とかなったんですね。
最先端の学問・技術は欧米から学べば済んだため、既存の知識を暗記すること
に重点が置かれました。
しかし戦後数十年たって経済大国になった時、日本はいつのまにかトップグループ
の一員になっていました。他の国に引っ張ってもらうのではなく、自分の力で
走らなければならなくなりました。

そういう時代に、既存の知識を詰め込むだけの「暗記教育」は弊害が多いと思い
ます。むしろ自分で何かを考える、創造性を伸ばす教育が必要です。

実のところ「ゆとり教育」をうまく運用すると、この「自分で考える」教育を
していくことができるんですよ。ただし子供の創造性を伸ばすというのは、
教師の才能が問われます。暗記重視の教育と違い、マニュアルなど役に立ちません。


>小学校の徒競争で、トップで走って来た生徒がゴール前立ち止まり後ろを振り
>返って、全員が手を繋いでゴールするという授業があります。
>皆が一斉に批判するこの授業ですが、僕にはこれが羨ましいのです。

tiger-ryujiさんは「結果の平等」を重視していますね。
しかし、これは子供の才能を確実にツブします。
子供に限りませんが、才能を伸ばすには「ほめる」ことが大事なんですよ。
しかし、どんなにがんばっても「結果は同じ」であれば、子供はやる気を確実に
失います。

かけっこで一等になった子供を褒めれば、その子は次にもがんばろうとします。
テストで100点になった子を褒めれば、次のテストに備えてしっかり勉強します。
そして、子供の能力を評価する場をどんどん増やせばいいのです。
人間、一つくらいは取柄があるものです。勉強が得意な子、運動が得意な子、
勉強や運動がダメでも絵がうまく画けたり、楽器を上手に弾けたりする子もいます。

結局は「機会の平等」が重要だと思うのです。
子供一人一人の能力を発揮する場を設けることで、子供の才能を引き出せるように
なるでしょう。自分の才能が評価されれば、子供は自分に自信を持てるようになり
ます。結果として、教育現場に活気が戻り、次世代を担う将来が有望な子供が多く
社会に出てくるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

こんばんは。

「結果の平等」より「機会の平等」が重要であるのは当然です。

その「機会の平等」を生み出す事こそが、マニュアルのない創造力の領域に入っているという事です。
教育改革に踏み込むのは、日本が世界の先陣を切る事になります。

「順位をつけない徒競争」自体は別に意味のある授業ではなく、まあちょと外に出て運動しようかという程度のものです。
そんな暇があるなら英単語の一つでも覚えるべきだと思う大人達がこの授業を批判する訳です。

しかし「機会の平等」を創造するためには、それを考える「ゆとり」の時間を必要とします。
大人達だけではなく、子供を含めて皆が一丸となって考えて見る価値があるのではないでしょうか。

「順位を就けない徒競争」の授業は、「機会の平等を考える社会科」の授業を生み出すステップとなるでしょう。

お礼日時:2002/04/08 19:59

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