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織田信長は長島攻略にあたり一揆勢2万余を皆殺しにしたといいます。
長島は3つの大川の合流するデルタ地帯ですから多くの島から形成されていました。
このような地勢で2万余もの虐殺を行えば無人地帯となったでしょう。

当時の農本社会で農耕人口の消滅は生産の断絶を意味したと思いますがこれらの土地が生産に復帰したのはどのようにして可能だったのでしょうか?

なんらかのシステムのようなものがあったのでしょうか?

強制移民などは当然考えにくいのですが・・・
自然な人口移動では長時日を要したとおもわれます。

同様に坊主の持ちたる国加賀の平定時、1万余の一向宗徒を皆殺ししていますが、この場合は近所の山野に逃げ込み隠れる道があったでしょうが、農耕の復活には時間がかかったでしょう。
領主の前田氏は収入減にどう対処できたのでしょうか?

戦争に殺人は付き物ですがこのような徹底殺人が繰り返されたからにはそれに対するシステムが存在したのではないでしょうか?

A 回答 (4件)

信長は一向宗が嫌いです。

仏を絶対とするその仕組みを嫌ってました。
だからこそ、対抗勢力としてキリスト教を認めたのです。

しかし一向宗は坊主であるにも関わらず、武装し歯向かう姿勢にも嫌ってました。
そこで始まったのが、尾張の真隣の伊勢長島です。
当時、本願寺顕如は各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし
「本願寺に協力しない者は浄土宗の門徒を破門する」
として、門徒衆に対し信長戦争への働きかけたのです。

宗教の親玉がそれを絶対と叫べば、どうなるかは、オウムの件や韓国エロ教祖の話でも
お分かりでしょ。道理の無い事でも信じてしまうと言うのは現在でもありえることなのです。

当時の一向宗の教えは、

「南無阿弥陀仏」と唱えていれば、極楽浄土に行ける

と言う教え。顕如の言葉に従っていれば極楽に行けると言う信じてました。
それが狂信的な武装集団になったのです。それは死を恐れない集団です。
武士にとって、それほど怖いものありません。

だからこそ信長は徹底的に排除したかったのでしょう。
長島に人一人居なくなっても「皆殺し」することで、死以上の恐怖があることを
日本中に知らせたかったのでは無いでしょうか。

確かに土地は荒れて屍骸化するかも知れません。
それは長島が見せしめの地として、そうすべきと判断かも知れませんね。

土地が復帰したことについては、そこに誰も住んでいなければ、
自然と人が住み暮らしを始めるのが、自然の摂理では無いでしょうか。
ここに細かい理由は無いと思います。
特に織田領になれば、楽市楽座ですから人の行き交いは自由ですよね。

また領主の収入云々よりも織田家にとって一向宗は根絶やしにすべき存在だったんでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。
確かに信長は既存宗教に憎悪ともいうべき思想を抱いていた事を感じます。

兼如がそれに対し恐怖を感じたのもどうりです。

信長が皆殺しという手段を見せしめとして執ったことは理解できます。
土地の生産力を無くしてもあえて実行したのですから。
やはり復旧のシステムはなかったのですね。  放置して自然に任せる方法をとったのですか。

太閤検地帳の記載で確認できるとよいのですが・・・
その後この地の領主となった人は頭を悩ませた事でしょう。
有り難うございました。

お礼日時:2006/12/16 12:14

戦国時代、どこの村々も自衛のために武装していましたが、その程度の武力では織田軍とまともに戦えません。

戦えるとすれば、土佐の一領具足のような屯田兵システムですが、当時の長島に存在していたとは初耳です。輪中による共同体の成立は、江戸時代のことかとイメージしておりました。
長島の地は外敵が侵入しにくく、落人が集まりやすい環境でした。美濃を追われた斎藤龍興を筆頭に、多くの武士が長島におり、織田軍と戦ったのは事実です。本願寺教団に養われていたということで傭兵と書きましたが、傭兵という表現がまずかったでしょうか。
一般論として、軍役を課せられた村は農耕に支障のない範囲でしか男手を出せません。いかに宗教的な情熱があろうと、農民の大多数に農耕を放棄させてまで戦わせるのは、無理ではないかと考えます。
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この回答へのお礼

再度のご回答有り難うございます。

戦国期の寺内町は一種の自治団体で土地と住民を囲い込む組織でした。
長島も特殊な寺内町のようなものであったとおもわれます。
しかも度々の水害に備える土木工事は規模も大きく当然に連帯意識や動員力が必要です。

このような環境は当然意識の改革を生むものです。
この自主独立の精神に信仰が加わって、信長に対抗したのでしょう。

当時の戦場での敗者の戦死者は放置されたようで、彼らの武具武器は近在の民衆が盗み、保有するか売却して流通したものです。
これらが民衆の自衛の為に利用されました。 
落ち武者が長島に流入したことは十分考えられますし、鉄砲衆などは恐らく傭兵的存在でしたろう。
長島が富裕だったとしても多数の徒食者を保有し続けられたとは考え難いとおもいます。 2万余のすうには到底達しないと思います。
傭兵というのは忠誠心のうすいものです。

一般論としての戦時動員は農耕には支障はなかったとされるのは解りかねます。 農繁期の合戦は避けたこと、長島は籠城戦のような状態で当時住民は全て城内に避難するのが常でした。
 

お礼日時:2006/12/14 13:07

信長は、民政家としてかなり過小評価されていますが、当時の中小規模の百姓(自営の農民や商人、漁民、流通業者たち)から絶大な一種の信仰的な支持を得ていました。


事実、領内の治安の良さや、領主階層から受けていた横暴への停止措置、流通の自由の確保、公平・公正な市の奨励、イベントの提供などなど、現代でもそのまま応用できる政策ばかりでした。
一向宗徒の数は、見かけとして万単位ですが、これは家族も含む人数です。当時の尾張地方の人口の詳細は分かりませんが、江戸時代の尾張徳川家が62万石弱ですから、概算で62万人が得られます。2万人は3.2%ですから、入植を奨励すればすぐに回復したと思われます。
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この回答へのお礼

信長が合理主義者であったことは承知しています。

質問の趣旨は信長の皆殺し戦略は事実ですから、その後の処置がシステムとして存在したのか、自然に任せる放任であったかという点です。

尾張徳川家の時代まで放置されていたのでしょうか?

ご教示有り難うございます。

お礼日時:2006/12/14 12:36

伊勢長島の顕証寺は、尾張・美濃・伊勢の門徒に指令を出す司令部の役割を果たしていました。

一揆勢が二万もの大軍になったのは、この三国から人を集めたから、かと思われます。
なお、一向一揆の主力は、本願寺の財力が集めた傭兵です。一般農民が村単位で戦争に出てしまったら、農地は荒れ、一揆を指導する寺自身が困ってしまうでしょう。もちろん、一般農民の参加もあったでしょうが、戦後の農耕に差し支えるような事態にはならないかと思います。
結論としては、根切り(皆殺し)にされても農業生産に影響がない人々が参戦していた、ということになります。
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この回答へのお礼

ご回答有り難うございます。

長島は輪中とも呼ばれる独特の団体で、水害に備えて自治の意識も高く、当時の農民は兵農分離以前ですから農民といえど予備役の兵士で召集されれば兵士に早変わりする存在でした。
各戸に武器武具を常備し、長島では各戸に避難用の小舟をそなえ、連帯感が強く、その上信仰から「退くは地獄に堕ち、進むはみ仏に近ずく」という特攻精神の塊のような集団でした。

老若男女を問わず戦士に成りうる環境といえます。
攻撃側としては最も遭遇したくない相手です。  信長側は数次の長島攻めで主な武将の戦死や手痛い敗北を喫している位です。
また兵農分離をおこなっていない地方では農繁期の戦争を避けて、長期に故郷を離れることはありませんでした。

長島が殆どが傭兵と見るのは無理があるのではないでしょうか。  鉄砲衆などは傭兵だったと思いますが・・・

私はこのような前提で一向一揆の皆殺しの必要性があったと見ています。
従ってその後がどうなったかが疑問です。

お礼日時:2006/12/13 12:20

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