誕生日にもらった意外なもの

不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています。

めくら・つんぼ・おし・きちがい・・・などが差別用語だそうです。

しかし、これらは日本固有の大和言葉であって、これらの代わりに用いられる漢語表現である「盲目」「聾唖」「狂人」などがOKというのがイマイチ納得できません。
もちろん差別される側にとっては、自分や自分の家族、親友のハンディキャップに対して直接的表現を使ってほしくない、という気持ちはわかりますが。
極端に言えば「中国語はOKで日本語はダメ」ってことですか?

最近ではディズニー・アニメの「ノートルダム物語」。あれって昔の人だったら「ノートルダムのせむし男」だとすぐにわかるし、現にアニメの中でも「せむし男」が描かれていますよね。

また、英語圏ではblind, deaf, wordless, crazy といった言葉はよく使われていますよね。これらは彼らにとって「差別用語」にはならないのですか?

テレビや映画の中では、殺人や詐欺や薬物濫用などの「悪いこと」が表現できるのに、これらの言葉が使用できないというのに不自然さを感じています。
これらのメディアの制作者側の人たちだって、差別しちゃいけないから使わないのではなく、使ったことで叩かれたくないから使わないのは見え見えですし。
私たち観客側から見ると、使わないことで不自然さを感じ、むしろそのことを目立たせてしまっているように感じるのですが。

私はどんなに無垢なことを言っていても誰しもが差別意識を持っていると思っていますので、めくら・つんぼ・おし・きちがい・・・などの言葉が最初から単なる事実の描写以外に差別的な意味合いを含んでいたと思います。
しかし、これらの大和言葉を比喩的に用いる場合にも「差別用語だからダメ。外国語ならOK。」というのに引っかかりを感じます。

皆さんのご意見をお聞きしたいのでよろしくお願いします。

A 回答 (19件中1~10件)

>遠慮なく忌憚のないご意見・回答・アドバイスをお寄せ下さい



と書かれておりましたので一言。
「よろしかったらハンドルネームをクリックして下さい」と書かれてましたが、
コメント欄の使い方がみみっちぃ~(←大和言葉かな?・・・機会があれば教えてください)ですね。
あのような事を書いて何とあるのか?と正直感じましたが。

私は思ったことは回答欄で書いていますので、あえて弁解にもなりかねない
あのような内容は「クリックして下さい」と言ってまで読んでもらうようなことでもないと思います。
最近ご友人が増えたとのこと、良いことだと思います。
私は若かりし頃から沢山の友人に楽しい時間を与えてもらってきました。
友人は本当に有り難いものだと思っています。感謝しています。
もしも友人が病に伏した時、私は多少なりとも差別を含んでいる言葉を投げかけたくはありません。
決して「叩かれたくない」からではないし「使わないことで不自然さを感じる」事もないと思っています。
同じような人間が集まるもので、私の仲間はみなその様な人間です。不思議です。

私もこのような議論は嫌いですが、私も自分の意見を単なる「意見」として述べたまでであり、意見を押し付けた覚えも、人間性を決め付けた覚えもないことはどうぞご理解ください。

本題に戻りますが、うちの子供たちは「ちび黒サンボ」の話も全く知りません。
差別的なことはうちでは全く植え付けておりません。
そういう風に育った子供にとっては使わないことが当たり前であって、そこには不自然さも無いということです。
私もそういう人間の一人です。
遣わないことで不自然さを感じる観客・・・はそういう教育を受けた人の話であって、そうでない人間にとってはとても自然なことなのです。
差別感がぬぐえない以上、遣うべきではないのも当然だと思うのですが・・・。

外国語だとOK!は単に訳し方の問題であったり、その言葉が母国においてどのように解釈されているかを知らないだけの話でしょ。
そんなに難しい問題ではありませんよね。
問題なのは、差別意識を拭い切れない言葉を社会やメディアが規制する点にあると思いますが、それはごく当然の事であり何ら問題は無いということだったのですが・・・。

毎回迅速且つご丁寧なお礼有難うございました。
最後にこれだけは言っておかなければ・・・と思うことを書きますね。
私には嫌いな人はおりません。よく「うそやぁ~」と言われますが、本当なのです。
私から言わせれば、何で嫌いになるのかな?ってなもんです。おかしいですか?
このようにお付き合い頂いた事に感謝こそすれ、許せないとか嫌な人だなどとは一切感じていませんよ。
ちょっと皮肉は入ってましたけど・・・その点は本当にゴメンナサイ。
又、どこかでお会いできる日があると嬉しく思います。

これ以上は書き込みしませんが、書きっぱなしとは思わないで下さいね。
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この回答へのお礼

いやあ本当に何度もありがとうございます。

>コメント欄の使い方がみみっちぃ~(←大和言葉かな?・・・機会があれば教えてください)ですね。

いやあ突っ込まれますねえ。やられたって感じです。(笑)←非常に自嘲的な  

あんなこと書くから幼稚だと思われるのかな?もちろんmasa-pata-miyaからじゃないです。言い訳めいてますよね。私のコメント。書くときは素直な気持ちで書いたつもりだったんですが。
ただ、私の感覚では「弁解」や「言い訳」は自分の不備を補うものであると考えておりますので、全く気にしていません。
それと、もっと早くコメントを書き換えようと思っていたのですが、せっかくクリックしてくれと言った手前、masa-pata-miyaさんが読んだことが確認できるまで、長い時間恥を曝しておりました。もうすぐ書き換えます。(汗タラタラ)

>最近ご友人が増えたとのこと、良いことだと思います。

ありがとうございます。本当に不思議なくらいです。以前は人に嫌われたくないという気持ちが強かったので、なかなか友達ができませんでした。最近なぜかある程度自分を曝け出せるようになってきたようです。最近の友達に「昔は神経質でシャイだった」と言っても誰も信じてくれません。(ある意味、悲しい)

>本題に戻りますが、うちの子供たちは「ちび黒サンボ」の話も全く知りません。

ああそうですか。そう言えば私の世代でやっと知っているくらいですかね。

>差別的なことはうちでは全く植え付けておりません。

では、世間から受ける影響には・・・と突っ込みを入れるつもりは全くありません。逆に親御さんがどういった考えにせよ、信念を持って子供たちを育てることは非常に大事なことだと思います。世間からいろいろな影響を受けるからこそ、そういった教育の精神が必要なんですね。

>外国語だとOK!は単に訳し方の問題であったり、その言葉が母国においてどのように解釈されているかを知らないだけの話でしょ。

ええそうです。しかし、何度も書いておりますが、私の疑問は「どのように解釈されているかを知らない」から沸いてきたのです。

もうひとつ、言い訳を。質問の中で私は、「これらのメディアの制作者側の人たちだって、差別しちゃいけないから使わないのではなく、使ったことで叩かれたくないから使わないのは見え見えですし。」と書いていますが、これはその人たちを非難したものではなく、自分がその人たちの立場だったら同じようにするだろうと想像したから、「見え見え」と言えるくらいにわかるのだ、と言う意味です。
言葉が足りなくてすみませんでした。

本当に私の稚拙な質問に付き合っていただいてありがとうございました。

>どこかでお会いできる日があると嬉しく思います。

私もそう思います。本当にお会いできたら、と思います。
最後にmasa-pata-miyaさんの皮肉に対抗して私から突っ込みを。

>・・・私達子供に対してその様な“言葉を慎んだ”教育をしてきてくれたことに今さらながら感謝し、誇りに思う今日この頃です。

それでも皮肉で相手をやり込めようとできるのは社会の影響によるものですか?

引用文を一部加工してしまったことをお許し下さい。やり込めようとしているなんて嘘です。すみません。冗談がきつかったですかね。それとも冗談がわかっていないと言われそう・・・。
また言い訳になりますが、私は回答者の方の人格を文面だけから判断するつもりは毛頭ありません。できれば、笑って流していただければ、と切に思います。

それから、皮肉が入ってしまったことは全く気にしていませんので、大丈夫です。最初は皮肉だと気付かなかったくらいほとんど「軽く流して」いました。

全くこんなアホに(あっ差別用語か)付き合ってくださり感謝しております。

>これ以上は書き込みしませんが・・・

を撤回なさっても結構です。
明日いっぱいまで開いている予定です。m(_~_)m

お礼日時:2002/05/04 13:02

こちらを拝見していますと少し混乱してきましたので、私の感じとったことを…。



trunkmanさんは結局のところ、
・差別的表現とよばれる言葉の中で、外来語に対する規制が甘いのは、表面的な差別現象を一時的に抑えているだけで、かえって弊害がある。
・差別問題を解決するためには、すべての人々が、自分の中に差別感情があることを認め、正面から取り組んでいかなければならない。
というお考えをここで主張してらっしゃるのでしょうか。

でしたら、日本と欧米の文化的差異や、差別用語と呼ばれる言葉のひとつひとつについて説明されても、きっと納得されないと思います。

以前教育現場で仕事をしていたときに、差別用語と呼ばれる言葉に対する過度な反応にしばしば驚かされました。
そこで気づいたことは、みんなが「自分は差別者になりたくない」という感情を持っているということです。
その感情を特に強く持っている人たちは、次のような方が多いです。
・差別の実態を知らない、あるいは知りたがらない
・「差別語」をこの世から根絶しようと考えている
前に述べられている方がいらっしゃいますが、一部の人権擁護団体や左翼団体の方に顕著に見られます。
trunkmanさんの苛立ちはこのあたりから発しておられるのではないか?と思いました。

たとえば、近頃の小学校・中学校には、養護学級のあるところが少なくなっています。
ハンディキャップを持っている子どもたちの多くは、主に養護学校に通うことが多くなりました。
養護学級のない学校の子どもたちの喧嘩を聞いてみると、相手を挑発するのに「ヨウゴ」という言葉を使うことがあります。「差別語」の誕生です。
身近にハンディキャップのある仲間がいないと、理論や感情をいくら駆使して教えても、彼らの差別感情は根本的には変わりません。
逆に、養護学級のある学校では、学級名を「おおぞら学級」「たんぽぽ学級」と呼び、ハンディキャップのある子どもたちを「おおぞらの子」「たんぽぽの子」とフォローしあう雰囲気があります。
(「おおぞらへ行け」と喧嘩の中に出てくるときもありますが、不思議と深刻な差別感情は伴いません)
ハンディキャップのある仲間とともに過ごし助けあい理解しあうことで、子どもたちの感情には確実な「他者共感」の土台が培われます。
また、外国人が多く住む地域ですと、自然と多文化に触れる機会が多くなり、同じく「他者共感」の土台が養われます。
このような経験を積んでこなかった子どもたちは、「差別者になりたくない」という観念的で強迫的な感情が強いように思われます。
ただ残念ながら、現代の日本ではそのような環境がどんどん少なくなってきていて、差別問題も目に見えにくく姑息なものに変容しつつあります。

知らないでいることは、trunkmanさんのお考えになっているように、弊害の方が大きいと私も考えています。
しかし現状は、「自分は差別者になりたくない」という個人的感情が「差別はなくさなければならない」という大義名分と巧妙にすりかえられているために、世論も混乱しているのだと思います。
かつての開放同盟がやった「糾弾」のように、人間の感情を無視した啓蒙活動は、人々の反発を買うばかりです。

「差別用語は、大和言葉はNGで外国語ならOK?」という問題提起は、差別問題を真っ向から取り組むには表面的にすぎるかもしれません。

この回答への補足

お礼を書いて今日中に締め切るつもりでしたが、風邪をひいてしまい、書くのがしんどいので明日また調子がよくなってから改めて書きますので、ご了承下さい。

補足日時:2002/05/05 22:13
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。
そして『お礼』が大変遅くなりまして申し訳ありませんでした。

>・差別的表現とよばれる言葉の中で、外来語に対する規制が甘いのは、表面的な差別現象を一時的に抑えているだけで、かえって弊害がある。

いいえ、そうではなくて「外来語はその意味するところが間接的に伝わるので日本人にとっては都合のいい表現であるが、英語圏の人たちにとってはそのものズバリの表現にも関わらず、日常で普通に使われているようであるし、Four-Letter Wordのような放送禁止用語でもなさそうだ。でも日本では日本語での元来の呼び方である表現がなぜ差別用語として実質禁句とされているのか?その違いはどこから来ているのか?」という疑問です。

>・差別問題を解決するためには、すべての人々が、自分の中に差別感情があることを認め、正面から取り組んでいかなければならない。

「・・・なければならない。」というほど強い主張を持っているわけではありませんが、「すべての人々が、自分の中に差別感情があることを認め」ることは非常に大事なことであり、かつ難しいことであるとも思っています。これは父親の世代に問うと猛烈な反発が帰ってくる場合が多いのでそう感じます。

以前、戦後50年の1995年に某市の市民講座の『日本がアジアの国にしてきたこと』という普段ではなかなか聞くことのできないレクチャーに3ヶ月間通い、朝鮮大学校の教授を始めとする在日韓国人・在日朝鮮人の方たちの話や南京事件や従軍慰安婦の研究者の方たちの話を直に聞いて目から鱗が落ち、自分の心の中にも充分に差別心があることに気付き、その問題が自分とは関係のない話ではないどころか自分たちを含む現在進行形の話であることがわかり、さらに「差別問題」や「民族問題」や「問題」が善悪や敵vs味方というように単純に線引きできる問題ではないことを知りました。

その後、自分の身内や知人の中にも「あんなにいい人が~」と思える人ほどその人の心の中の「差別感情」がはっきりとしたコントラストを伴って見えるようになり、一時期人間不信にもなりましたが、よく考えてみると「差別意識がない=善良な人」という図式が如何に幻想であったかを思い知ったのでした。

当初、私の疑問は何度も言っていますが、「blindやdeafという言葉はそれを使うネイティブの人にとってどういう印象の言葉なのか?日本人にとってのめくらやつんぼとどう違うのか?」ということでした。しかし、回答者のほとんどが日本人であるこのサイトにそれを求めるのは無理がありました。よく考えれば私にはドイツ語圏とヒンドゥー語圏と英語圏にそのような質問を投げかけることのできる知人がいました。今度その人たちに聞いてみます。

>そこで気づいたことは、みんなが「自分は差別者になりたくない」という感情を持っているということです。
>その感情を特に強く持っている人たちは、次のような方が多いです。
>・差別の実態を知らない、あるいは知りたがらない
>・「差別語」をこの世から根絶しようと考えている

私の想像していたことそのままです。

>trunkmanさんの苛立ちはこのあたりから発しておられるのではないか?と思いました。

苛立ちというほどのことでもありませんが、そう思ったからこそこういう質問をしようと思ったのです。

また私自身、小学校~中学校と劣等感の強い根暗な子供だったので、当時からひねくれており、何十年も経った今でもこういった楽しくもない質問をしてしまうのかなとも思ってしまいます。かといってわたしの質問に付き合って下さった回答者の皆さんまでひねくれているとは思っていませんので悪しからず。

いずれにしても、OKWebってたまに嫌なこともありますが、こんなに勉強になったのも初めてです。
回答者の皆さん、本当にありがとうございました。
また、このサイトで会えることを楽しみにしております。
ポイント分配までしばらくお時間をいただきます。
それでは。

お礼日時:2002/05/07 15:07

 私の作文能力が拙くて、伝わらなかったかもしれませんので、再び....。


俗にいう『差別用語』に関する私の見解は、trunkman さんとほぼ同様です。
質問のカテゴリー、社会>言語 から逸脱しないように、私見を述べます。

 俗にいう『差別用語』は、「刃物」と同様、無神経に用いてはいけませんが、
事の本質はあくまでも人の「心」に潜む蔑みと差別ですから、言葉の言い替えは、
事の本質を包み隠すことは出来ても、「心」までをも変える事は出来ません。
 『土方』や『百姓』を取り払ったところで、職業蔑視が消えないように、
TVや新聞等のメディアが特定の言葉の使用を控えたところで、
一障害者を取り巻く環境には、何らの変化も起きないと思うのです。

 『子持ちよりテンボウ雇え』、『メクラ撃ち』、『ツンボ桟敷に置く』、……
これらの言葉の中に、少なからず蔑みと差別が含まれているとしても、
それらを単純に言い替える事で、一体何が解決するのか、私には解りません。
 例えば『中村俊輔がビッコをひいてるぅ~』という実況中継があっても、
私は、そこに「下肢障害者」に対しての蔑みも差別も感じません。
片足でピョンピョンと跳ねている俊輔に対して「足を引きずっている」と、
事実と違う表現をする事のほうが、よほど弊害が多いように感じてしまいます。
 ・・・一昨日のキリンカップでの出来事です。怪我、大丈夫かなぁ・・・

 善男善女、多くの人々が、真に障害者の事を思いやってくれるのならば、
メディアでの表現に、腹を立てたり注文をつける事で費やす労力を、ご自分の
周囲の数人の心から、蔑みと差別を取り払う事に振向けて欲しいと願うのは、
天邪鬼の私だけでしょうか??


「いずれ頭髪に恵まれなくなる、体重に恵まれ過ぎた上肢機能不自由者」(苦笑)
による戯言と、笑ってくれても結構です。
「いずれハゲる、デブの『かたわ』」と表現するほうが、よほど事実を言い表すと
感じる私は、やはり天邪鬼なんでしょうねぇ......(^^;;)

この回答への補足

お礼を書いて今日中に締め切るつもりでしたが、風邪をひいてしまい、書くのがしんどいので明日また調子がよくなってから改めて書きますので、ご了承下さい。

補足日時:2002/05/05 22:11
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

最後の4行が事実であるかどうかはわかりませんが、ご自分を表現なさったふたつの言い方、いずれも私にはonkelさんに面と向かって言える表現ではありません。しかし、仮にonkelさんを情緒的に揶揄しようとする者はそういう言い方をするかもしれません。
私はそういう言い方は決していいとは思いませんが、そういう権利を奪ったり、言えないような社会的雰囲気を作ったりすることには反対です。
この世から差別感情が消滅していないのに、さもないかのように取り繕った社会はまるで抗菌処理を施した家屋に抗菌処理を施した家具や生活用具と一緒に暮らし、一歩も外へ出ないのと同じように無気味な感じがします。

自分のことを考えてみても、生まれたときから一度も差別的な扱いやイジメなどを受けてこなかったら、今のように差別問題という楽しくもないものに関心など抱かなかったでしょう。
例えは悪いかもしれませんが、一見害毒のように見える雑菌だってその抗体を作ることには役立っていると言えるでしょう。

人は憎んだり蔑んだりするから人間なのではないか、と思うわけで、憎しみや差別のない社会なんて最初からあれば別ですが、異次元の世界を想像するくらい私にとっては難しいことです。
ですからonkelさんが天邪鬼だなんて思えません。むしろ実にノーマルな人だなあという印象を受けます(もちろん文面だけから判断してはいけないことは百も承知ですが)。

私は差別用語を聞いたり見たりして傷付く人にも、その言葉を発した相手も同じ人間であり、その立場から言っているのだという肯定的な姿勢で受け止め、このサイトでのやり取りと同じように文面だけから短絡的に悪くとるのではなく、よい方に受け止める態度があれば、もし発言者に本当の悪意があったとしても……いやもうやめましょう。

結局、私もこのように自分の意見を途中でやめてしまう、臆病者であるし、信念のない奴と思われても仕方がないのです。
しかし、信念がなくては人間ではないわけではないし、仮にそう言われたり「偽善者」とか「差別主義者」などと言われても本当の自分が変わるわけでもないし、かと言って槍玉に挙げられれば、「恐ろしい」と感じる一般的な人間です。
障害者の本当の気持ちがわからなければいけない必要もないと言い切ってしまいましょう。なぜならいつも一緒にいる健常者の妻の本当の気持ちだって正直言ってわからないんですから。

私は最近このサイトでいわれのない中傷にも取れる扱いを受けました。でも死ぬわけじゃないから平気です。もちろんそれに対してどんな手立てを打ったかは言えませんが。

私の感覚はこんなものです。どうか反論のある方はどしどしお願いします。
健康上の都合からもう一人の方に『お礼』を書く時間がありませんので、締め切りは明日の正午くらいにします。

お礼日時:2002/05/07 01:14

私の意見の一体どこが人格攻撃なのですか?私には分かりません。


もしtrunkmanさんを「きちがい」と表現したことでその様に思われたのでしたら、trunkmanさんご自身も、やはりそういった言葉を軽く聞き流す事が出来ずにいらっしゃるのではないですか?
全く平気でしたか?

私は自分自身が毅然とした態度でその言葉を遣うことが出来もしないのに、

>これらのメディアの制作者側の人たちだって、差別しちゃいけないから使わないのではなく、使ったことで叩かれたくないから使わないのは見え見えですし。
私たち観客側から見ると、使わないことで不自然さを感じ、むしろそのことを目立たせてしまっているように感じるのですが

と自分と大して変わらないと思える人や行動を非難することに疑問を感じます。
メディアが様々な感性の人間を思いやる行為のどこがそんなにいけないのかな?と思いますよ。
それにどうして「叩かれたくないから使わない」と言い切れるのですか?
私のような人間にはメディアの行いは、ごく自然な事としてしか受け止められないのですが。
どこが見え見えなんだろう・・・?
どうしてそんなに裏を探ろうとするのかな?疑問だらけです。
日常生活でtrunkmanさんなりに自然にお遣いになればよいわけで、
そういう社会の風潮を指摘するのはどうかと思います。

こういう意見もあるということです。

最後の(笑)はお祈りもむなしく、完全なる皮肉でした。
しかし、こんな事くらい軽く流せない人が、本当に精神的な病気になり「きちがい」という言葉を耳にした時、本当に平気なのか、疑問が残ります。
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この回答へのお礼

またまた回答ありがとうございます。

始めに誤解のないように書いておきますが、私の「お礼」文や「補足」文の中には決して皮肉として語っている文はないつもりですし、もちろん今回のこの「お礼」文の中にもそういった内容の表現はしていないつもりです。
ですから、

>私の意見の一体どこが人格攻撃なのですか?私には分かりません。

とおっしゃっておられることも私にはピンと来ません。
念のために私のこの質問での「お礼」「補足」の内容を全てチェックしましたが、masa-pata-miyaさんが「偽善者」であるとか、人格攻撃をしたとか、あるいはそういうことを遠まわしに言って非難したように誤解されるような表現はみつからなかったのですが、一体どの部分がmasa-pata-miyaさんにとって不快(これもあくまで私の推測ですが)なのか本当にわかりません。私はあくまで自分の意見や回答者のご意見に対する反論をしただけです。
でも、もしかして私が全く気がつかないところでmasa-pata-miyaさんを傷付けているのかな?とも思ってしまいました。もしそうであるなら、これ以上この場で議論することはお互いにとって不愉快な結果を生むだけだと思いますが、いかがでしょうか?

はっきり言いまして、ここにこういうことを書き続けることも私の質問の当初の主旨から乖離してしまうことであると思います。結局、私の書いている文章もだんだん自分の言い訳になってきている感じがしてきて、自分でも少々嫌気が指してきました。すみません、こんな弱気を言って。

ただ、私としてはmasa-pata-miyaさんの揚げ足を取ろうと思ったり、議論に勝ちたいと思ったり、自分だけが「いい子」になろうと思ってはいないことは確かです。でも良く考えれば、このサイトは顔も見えなければ、相手がどこの誰かもわからない、言ってみれば「文章だけの世界」です。ですから、私も相手に誤解を受けるような言い方(書き方)はしてこなかったつもりですが、それでも私の本音とは別の形で文章だけが一人歩きしてしまったのかもしれません。
こういうことに気が付かないのも差別用語を理解できない
ひとつの原因であるのではないかと・・・・なんと言ったらいいのでしょうか。私が議論の場ではあくまでも相手の言ったことに反論はしても、意見の内容だけで勝手に相手の人間性まで決め付けることはできない、と理想論めいたことを思っていること自体が甘いのでしょうか?

結局、言葉が足りない人間はここでこういう質問を立ち上げる資格もないのでは・・・と今さらながら感じてしまうのです。
何気ない言葉で相手を傷付けてしまう。
私はそういう人間ではない、いやそういうことには敏感な人間だと思ってきましたが、少し反省の必要があるようです。
いろいろ、お手数をおかけして申し訳ありませんでした。

masa-pata-miyaさんを始め他の回答者の皆さんからは、いろいろなご意見をいただき本当に感謝しております。
年齢の割には未熟な私のような人間の質問に真剣に回答して下さり、ありがとうございました。

近いうちにこの質問を締め切ろうと思いますが、私が言いっぱなしで終わるのは失礼だと思いますので、2~3日は開けておきます。その間の駆け込み回答はおおいに歓迎いたします。僭越ですが、私は自分にかかわる全てのことは勉強だと思っていますので、遠慮なく忌憚のないご意見・回答・アドバイスをお寄せ下さい。(全く来なくても平気・・・じゃないかな)

もし皆さんとどこかでお会いできることがあったら、ぜひ友だちにしていただきたいですし、お互いの本音の意見をぶつけ合える関係になれたら、いいだろうなと思うのですが。

とにかく皆さんありがとうございました。
本当に本当に勉強になりました。

お礼日時:2002/05/04 00:32

>もしそうなら「くそ」とか「うんこ」とか「げろ」とか「げりっぴい」とかいう言葉は使ってはいけないのでしょうか



このような言葉のどこに差別意識がありますか?
全く主旨がずれてしまっています。結構幼稚な発想でしたね(笑)。

>私は「音楽きちがい」であり、「ビートルズきちがい」であり、「バイクきちがい」でした

私からすれば「何故いちいち『きちがい』と言うのかな?」という感じです。
なんか面倒臭いですね。「好き」でいいんじゃないのかな。
4文字が2文字になって言いやすいですよ~。

確かに育った環境が違うようですが、だからといってそういった言葉を遣わない人間が「偽善者」であるかのような発言は気になるところです。
そういう環境で育っていなければ「失礼な言葉」としか受け取れないのです。

これからの社会には、私のような人間は確実に増えるでしょう。

(先の回答者の意見から・・・)
>今日の新聞によれば2002年の国際競争力が30位に後退したそうですが、丁度戦前の頑張る教育を受けた人間がいなくなる
時期に符合しているのは、戦後アメリカによってもたらされた厄病のような教育効果が示現する時期に合致しているのでしょうか?

まさに私はその中の1人でしょう(笑)。

trunkmanさんのような方も大勢いらっしゃるでしょうが、私のような人間もおります。
生理的に受けつけない人間は私だけなのでしょうか?

で、個人的にお遣いになることは全く問題無しだと思います。
ただし、そこまで仰る以上は、障害のある方や病気の方に面と向かって遣ってくださいね。
ご自身の評価が下がる・・・なんてことは一切気にせずに。
本人に向かって言えない様なら、trunkmanさんも偽善社会の立派な一員です。

「きちがい」の正しい定義、教えていただいて有難うございました。
大変勉強になる質問でした(笑)。

この回答への補足

すみません。すっかりお礼を言うのを忘れておりました。

本当に何度も回答ありがとうございます。

先ほど書きましたように、私は意見に対する反論は相手に対する人格攻撃だとは思っていませんので、私の書いた内容にご意見やまた新たな回答・アドバイス等ありましたら、懲りずにまたお願いいたします。

補足日時:2002/05/02 17:48
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この回答へのお礼

>このような言葉のどこに差別意識がありますか?
全く主旨がずれてしまっています。結構幼稚な発想でしたね(笑)。

そうですね。masa-pata-miyaさんの発言の一部を取り上げて、さも差別的な意味合いが全くないかのように「きちがい」という言葉を都合よく「くそ」とかという言葉に例えてしまったのは申し訳ありません。

>確かに育った環境が違うようですが、だからといってそういった言葉を遣わない人間が「偽善者」であるかのような発言は気になるところです。

いえ全くそのつもりはありません。私はいくら意見が違ったとしてもそのことで相手の人格を決め付けたりすることはしていないつもりです。もし私の文面でそう受け取らざるを得ない部分がありましたら、指摘して下さい。私はあくまでもmasa-pata-miyaさんの回答文に対して所見を述べただけであって、masa-pata-miyaさんの人格攻撃をしたつもりは毛頭ありません。
私は少なくともmasa-pata-miyaさんのことをそんな風には思っていません。会ったこともない方をそういう風には決め付けたくありませんから。(よろしかったら私のハンドルネームをクリックして下さい。ただし、22時までです。)

私にとって「~きちがい」というのは「~ずき」というより自然です。なぜなら、「私はビートルズがすきです」というよりも「私はビートルズに狂ってる」=「ビートルズきちがい」の方が事実に近いからです。要するに単に「すき」なだけではなくて「きちがい」と言われるくらいに「すき」の度合いが大きいからです。
先ほど私が挙げた英語の例も、「僕はビートルズに狂ってる、と言ってもいいほどすきだ」ということです。
英語圏の人たちが普通にcrazyという言葉を日常の会話の中に用いているのに日本では何故そうではないのか?その文化的・歴史的背景は何なのか?が私の知りたいところであって、日本の文化が間違っていると決め付けているわけではありません。
ただ、私の感覚からすると「きちがい」のような言葉を気にする人がいるからと言って安易(じゃないのかもしれませんが)に封印してしまうのはどうかな?ということなのです。
それは私の感覚です。だからと言ってmasa-pata-miyaさんが私と同じ感覚を持つべきだと言っているわけではありません。

>trunkmanさんのような方も大勢いらっしゃるでしょうが、私のような人間もおります。
>生理的に受けつけない人間は私だけなのでしょうか?

ええ、そのことは重々承知です。ですから敢えてmasa-pata-miyaさんの前回の回答に反論めいたことを書いたのです。要するにmasa-pata-miyaさんのお気持ちは良くわかるけれども、前回の回答の内容については私はこう思うということを書いたのですが、それもいけなかったでしょうか。

>本人に向かって言えない様なら、trunkmanさんも偽善社会の立派な一員です。

実は私もなかなか言えません。それは何故なのか?そのことも疑問なのです。こういう話題を質問に出したからといって、私が毅然として正義を曲げない強い人間と思わないで下さい。私にもたくさんの迷いや戸惑いはあるのです。
しかし、今回の質問はいつかは誰かに聞いてみようと思ってたことで、今までなかなか機会がなかったのです。私に確固たる自信があるわけではありません。
私の質問や意見は私の人格そのものではありません。あくまで質問であり意見です。それはもし機会があったら直に会ってみればわかります。(実現はできないでしょうが)
こういった未熟な人間はこういう質問もしてはいけないのでしょうか?

>「偽善社会」

わ~もう私の手に負えないです。「偽善社会」というのはどこにあるのですか。私はそういう抽象的なことはよくわかりません。でも思っていることと実現できることが一致していないと「偽善社会の立派な一員」なのですか。残念ながら、私も含めて私の周りの人間はそういう人ばかりです。

masa-pata-miyaさんの文章の最後にある(笑)はなんでしょうか?
全く笑うところではないと思うのですが。
それとも皮肉でしょうか?
もしそうだとしたら、私は少なくともこの質問を真正面から問いかけていると思っていますし、masa-pata-miyaさんもそのように回答されていると思っていますので、不思議な感じがします。そうでないことを祈ります。
それに、

>「きちがい」の正しい定義、教えていただいて有難うございました。

と書いておられますが、私は正しい定義と思っているわけではありません。私の感覚では「きちがい」というのはこういう場合に使うような言葉ですよ、と言っているだけです。
とにかくmasa-pata-miyaさんのことを「偽善者」などとは決して思っていませんから気を悪くなさらないで下さい。もし、私の今までの「お礼」や「補足」に言葉が足りなかったら謝ります。

少なくとも「議論」や意見のぶつけ合いは喧嘩や中傷ではないので、そのところをご理解なさって下さい。もちろん、この場が議論の場ではないことも重々承知の上です。

すみません、管理人さん。

お礼日時:2002/05/02 17:13

無知な者が再登場するのはなんですが・・・「きちがい」について。



どの範囲をそう呼ぶのですか?
私は今まで実際に使ったことが無かったのでどのように遣えば良いか分かりません。
母の時代には精神面で何らかの問題がある場合に使用していたそうです。
ですから9年間も鬱で病んでおられたtrunkmanさんも母等に言わせれば「きちがい」なわけです。
お気の毒に思います。

今は昔と違って医学も発達し様々な病気が解明され、きっちりと治療をすることで治る病気も増えてまいりました。
「きちがい」はまさに“無知の剥き出し”みたいな言葉です。
それに何と言っても「美しく」ないし、「品性」も無い。

古いもの全てに趣があるわけではないし、より良いものがあるならば、それに変えていくほうが自然で美しいと思いませんか?

昭和一桁生まれの両親ですが、私達子供に対してその様な言葉を慎んだ教育をしてきてくれたことに今さらながら感謝し、誇りに思う今日この頃です。

この回答への補足

すみません。言い忘れました。

鬱病はその症状において「きちがい」と言われるような病気ではありません。むしろ「病気」とは認識されず、「怠けている」とか「気力がない」とか「消極的」とか言われるような状態が続きます。ですから「きちがい」という言い方は合っていません。
ときどきイライラ感から異常に激しく怒るときがあります。そのときはまさに「きちがい」の状態と言ってもいいでしょう。
ただ、masa-pata-miyaさんのお母様の世代の方が「精神的な病気」を全てひっくるめてそう言われるのなら、「ああ誤解してるなあ」と思うだけです。

要するに「きちがい」という言い方が事実誤認であるというだけで、そう言われてショックだから「きちがい」という言葉を封印して欲しいなんてこれっぽっちも思わないです。

ある女性が見た目が男っぽいからといって、「そこの男の人」と呼ばれてショックだったとしても、何かを封印して解決できる問題ではないはずです。
それとこれとは違うと言われるかもしれませんが、その女性にとっては重大なことですから。

お時間が許せば、また回答をお待ちしております。

補足日時:2002/05/02 13:48
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この回答へのお礼

またまた回答ありがとうございます。

「きちがい」について。

私は結構使います。
私が鬱であったときもその前も、またときどき今でも短気で「きちがい」を起こすことはよくあります。もちろんこの場合は「極端に激しく怒る」ことです。この「きちがいを起こす」という言い方は私にとって特別なものではありません。今よりもっと気が短かった若いころは両親に「そんなにきちがい起こすもんじゃないよ!」ってよく注意されました。
また、私は「音楽きちがい」であり、「ビートルズきちがい」であり、「バイクきちがい」でした。英語でも I'm crazy about the Beatles. (僕はビートルズがだ~い好き。)という言い方をします。
ですから「きちがい」という言葉を使ったことのないmasa-pata-miyaさんとは生まれ育った環境が違うのだと思います。

>「きちがい」はまさに“無知の剥き出し”みたいな言葉です。それに何と言っても「美しく」ないし、「品性」も無い。

そのとおりです。しかしだから「きちがい」という言葉を封印していいのでしょうか?もしそうなら「くそ」とか「うんこ」とか「げろ」とか「げりっぴい」とかいう言葉は使ってはいけないのでしょうか。もちろん、それらの言葉を使う情況を考えないといけないのはわかりますが、もし使ったとしても使ったほうの品性を云々されるだけで、それによって重大な社会的な不都合が生じるわけではありません。
すべての言葉が美しい社会は私にとっては気味が悪いです。

>古いもの全てに趣があるわけではないし、より良いものがあるならば、それに変えていくほうが自然で美しいと思いませんか?

それは個人の考え方の問題です。そう思えばそうすればいいし、そう思わなければ変える必要はないし、増して社会的圧迫によって変えさせられるなんてまっぴらです。

私の父は大正生まれ、母は昭和一桁生まれ。私の両親は特に言葉を慎んだ教育はしてくれませんでしたが、少なくとも真っ当な人間に育ててくれたと感謝しています。

すみません。また持論を書いてしまいました。
ただ、あくまで私は質問者ですので、回答者の方と意見が違っても充分にそれを尊重し、参考にさせていただく姿勢に変わりはありません。
言い過ぎがあったら、指摘していただいて結構です。

お礼日時:2002/05/02 13:44

 長い文章を読んでいただいたようで感謝します。



>それは「障害者」であればその意見は全て正しいのか?

 とは限りません。間違った意見であれば指摘すればよいし、あまりにひどい言動をもつ者なら、集団から自然に排除されてしまうことになります。

 また、公共の場などでたまたま障碍者がそばにいたからと言って、頼まれもしないことをする必要はありません。何かで困っている様子が見られるなら、声をかければいいし、そうでなければ普通にほっとけばいいと思いますよ。

 それは障碍があるからないからとか、男だから女だから、出自がどうだから、国籍がどうだからということよりも、単に個人差の問題にすぎません。みなさんの周囲には障碍などなくてもおかしな奴がいると思いますが、対応はそういう人に対するものと全く同じでよいのです。中には自分の立場を利用して、対立する相手に不当な攻撃を加える輩もいますが、近づかないことです。

 ただし健常者と同じように非常にエキセントリックな家庭環境で育ってしまった人もいますので、善意をもって説得する、相手の意見が正しい部分があるのならそれを認めてその部分は歩み寄るなどの努力が必要かと思います。自分の方が立場が上なら特に相手にうまく社会に適用してもらうように努力すべきでしょう。何度も言うようですが、単に個人差の問題です。

>では何故日本語の「~」はそういう道を歩まなかったのでしょう

 それは現状ではあまりに露骨で攻撃的な言葉だからでしょう。普通の社会生活の中では、他人を人格的に攻撃する言葉など全く必要ありません。職場でそれを行うと結果として生産性を落としますし(偉い人ほどよく使いますが)、学校や家庭ですと、結局使った本人がダメージをおいます。しかし誰しも経験するように実際は多くの場面で感情的な悪口は飛び交っています。でも「それをいっちゃおしまい」「しゃれにならない」という言葉がやはりあります。例示された言葉はそういう位置にある言葉だと思います。

>今まで健常者でいた人が突然病気や怪我で障害者になったとしたら、すぐに障害者全ての気持ちがわかるようになるのか?

 自動的にそうなるとは限りません。その人の資質を含めた生き方の問題です。

>健常者の中にもずるがしこいと言われる人がいるように障害者の中にもいたとしてもおかしくないのではないか?

 その通りです。しかしこれも単に個人差の問題です。中には仕方のない生い立ちを持っている人がいますが、例えば職場ですと、生産性を落としますので排除されますし、教育の現場ですと個別に粘り強く的確な指導が行われることが望ましいと言えます。しかし、それほど深い仲でなければどうしようもないこともあります。友達つきあいはなくなるでしょうね。

>blind や deaf はどうなのですか

 辞書を引いてみると例えば"blind"には、「盲目の」の他に「理性がない」という意味があるようです。現代では特に視覚障害と理性とは関連がありませんので、その言葉を使われたほうは、不快な印象を持つおそれがあると思います。この単語に限らず状況によっては使わない方が無難でしょう。時間をかけて過去の文芸作品を探してみたのですが、うまく説明できるような例にあたりませんでした。

>差別意識を多くの人が持っているからといって、それが問題だと言っているわけではないのです…

 自己の内面と誠実に対峙し、自分でも気がつかない自分の感情的特質を認識することは確かに大事です。たぶん私自信も不覚にもいつでも差別者になり得るでしょう。しかし、そのような問題提起ができるのは徹底した人間性肯定の立場からのみだと思います。ご質問の文章からそこまで判断する材料は読みとれませんので、その点に言及したのは私の誤解であったと思います。

 

 障碍者とどう接するかということに限らず、その状況をどう見切ってどんな言葉を使うかは、例えば営業の現場、好きになった娘をくどくとき、などなどこれから何度でも直面します。ひとつひとつの言葉にこだわるより、その場の状況をどう正確に判断するかが問われると思います。また人間ですから誰でも感情的になることがあります。それを乗り越えてよりよい人間関係を築けるかどうかは、人生の質そのものに大きく関わってくる問題です。

 私は思うのですが、社会には障碍のあるなしに限らず、いろいろな立場や考え方を持った人がいます。法や制度やマスコミがどんな言葉を使って、そんな言葉を使わないかという些細なことに至るまで、社会全体とそういうさまざまな属性を持った個人との関係をどう保つかと言うことに関してたくさんの論点があり、その一つ一つにその立場から生じる「正当な」主張があります。それぞれが、その立場を理解し尊重しあっていれば少なくともおかしなことにはならないと信じます。またこのような価値観はきれい事などでは決してなく、自分自身が意図しない悪意を周囲にふりまくことによって孤立してしまう危険を回避するための生活上の大事なテクニックでもあります。

(「碍」という字は中村正三郎氏の主張に共感して「害」と区別するため使っています。下記のサイトにはその下りはないようですが…)
http://www.asahi-net.or.jp/~ki4s-nkmr/
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この回答へのお礼

>長い文章を読んでいただいたようで感謝します。

いいえこちらこそ、何度も回答いただいて恐縮です。
私はまだまだ自分が成熟していないせいかもしれませんが、障害者の方に普通の人と同じように接するということがまだよくわかりません。

>それは障碍があるからないからとか、男だから女だから、出自がどうだから、国籍がどうだからということよりも、単に個人差の問題にすぎません。みなさんの周囲には障碍などなくてもおかしな奴がいると思いますが、対応はそういう人に対するものと全く同じでよいのです。

それはよくわかるのですが、相手が障害を持っていると知っているのに、そのことを無視して付き合うことはできないのも自然だと思います。
その場合でも普通の人と全く同じように接していいのか?喧嘩して「お前なんかもう二度と顔を合わせたくない!」と言ったり、罵声を浴びせたりしてもいいのか?(普通の人間関係ではよくあること)という疑問が浮かびます。
もちろんその人の障害に向けて攻撃するのはよくないことだとはわかります。それは健常者であっても自分の欠点を指摘されたくないのと同じように。

再三すみません。blind や deaf の件は日本でどのように扱われているかではなくて、それを母国語としている国では日本の「めくら」や「つんぼ」のように差別語だから使ってはいけないとか放送禁止用語にされているという話を聞いたことがないので、その文化的背景の違いは何なんだろう?という疑問なのです。

>障碍者とどう接するかということに限らず、その状況をどう見切ってどんな言葉を使うかは、例えば営業の現場、好きになった娘をくどくとき、などなどこれから何度でも直面します。ひとつひとつの言葉にこだわるより、その場の状況をどう正確に判断するかが問われると思います。また人間ですから誰でも感情的になることがあります。それを乗り越えてよりよい人間関係を築けるかどうかは、人生の質そのものに大きく関わってくる問題です。

そうですね。おっしゃるとおりだと思います。このようにしなければいけないからそうする、のではなくて自分や相手の資質の問題、あるいは手探りでもいいから良い人間関係を築いていこうという心構えの問題なのですね。

>「碍」という字は中村正三郎氏の主張に共感して「害」と区別するため使っています。

お気持ちはわかります。
しかし、「障害」の「害」という文字が悪印象を与えてしまっている現実があるから、敢えて代替として「碍」という文字を使うのでしょうが、たぶん大部分の人にとって「障碍」と書かれても読めないでしょうし、ピンと来ないでしょう。で、読みと意味がわかったときには「何だ障害と同じじゃないか」ということになって、結局はこの表現を使ってもわかっている人はわかっている、でもわからない人はわからない、ということにはならないでしょうか。つまり、「障碍」という言葉が読めて、意味がわかる人にとっては「障害」でも問題ないのでは?
もし「障碍」という言葉が一般的になったときには、また「障害」と同じような印象を持たれるのではないでしょうか。
もちろん私は「害」には「わざわい」という意味があり「碍」にはそれがないことはわかりますし、「さまたげる」という共通の意味があることは知っています。
ですから、私は「障碍」という言葉に代表される「言い替え」「書き替え」の表現というのは、事実に一時的にモザイクやボカシをかけているとしか思えないのです。いくらやってもイタチごっこのような気がします。ただ、それが障害者にとっての当面のプロテクションになっていることは否定しませんが。

私は感情的なことで言いたいことも言えなくなってしまう情況が好ましくないと思っていますので、敢えて言いたいことを言ってしまいました。
もし、失礼があったらお許し下さい。

お礼日時:2002/05/02 10:41

 やや質問のニュアンスは異なりますが、以前に私が回答した質問です。


  http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?qid=217645
 放送で用いられても、苦情の来ない言葉で言い表せば『上肢機能障害者』、
平たく言えば、『てんぼう』・『かたわ』・『びっこ』ですが(苦笑)、
安易な言葉の『言い替え』には、賛成出来かねる立場の者です。

 いわゆる『差別用語』の件に関して、周囲の友人や知人達と話す際に、
私自身は『刃物』と『傷害事件』の関係に例えて話しています。
 刃物によって傷つけられるのですが、他人を傷つけようとする人間は、
刃物が無ければ「石」でも「金属バット」でも用いるのだと....。

 世の中に蔑みと差別が存在し、日々傷ついている障害者がいる事は事実です。
これまで蔑む側だった者が、病気やケガで蔑まれる側になったら....やはり、
『刃物』を無くそうとするのではないでしょうか。
 人の心も、世の中の風潮も、そう容易く変えることが出来ないのであれば、
せめて、目の前にチラつく『刃物』を無くして欲しいと願いたくなる気持ちも、
解らないではありません。 障害者の家族は、これが一層強いのだと思います。
でも、『めくら』・『きちがい』はダメで、『blind』・『crazy』なら良し、
というのは、ちょっとというより、だいぶ筋が違うように思えます。

 差別というのは、人の心に潜むものですから、真正面からこれを糾弾すれば、
即ち、少なからぬ視聴者や読者を相手にしなければならなくなります。
故に『差別用語』を使わない事が、本質を追求しないメディアの『免罪符』に
なっているようにも思えます。
 『思想・信条の自由』を守るあまり、『差別する側の思想』を尊重して....
というのは、皮肉が過ぎるでしょうか・・・???
 とにかく、言い替えで済まそうとするメディアの姿勢には、納得しかねます。
単なる言葉の言い替えには賛成できないという障害者は、少なくないですよ。


>もうひとつの疑問。それは「障害者」であればその意見は全て正しいのか?
>今まで健常者でいた人が突然病気や怪我で障害者になったとしたら、
>すぐに障害者全ての気持ちがわかるようになるのか?
いうまでもなく、『NO!!!』です。 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>刃物によって傷つけられるのですが、他人を傷つけようとする人間は、
>刃物が無ければ「石」でも「金属バット」でも用いるのだと....。

まさにそのとおりだと思います。
私は質問の中でも「誰しもが差別意識を持っている」と言いましたが、それに気付いて自らの理性によって障害者や弱者の気持ちを理解しようと試みたり、傷付くような言葉をに対して慎重になったりする人もいれば、自分の中にある差別心を省みることなく、あからさまに蔑んだ態度を取る人も中にはいることも事実です。

>目の前にチラつく『刃物』を無くして欲しいと願いたくなる気持ちも、解らないではありません。

そうですね。ですが、障害者に対してその障害の状態を直接的にいう言葉を口に出しにくい社会通念を作れば、一時的に障害者の心の負担を減らすことはできても、却って健常者の目を障害者の方から遠ざけてしまい、差別という暗い問題に少しでも光明を見出す機会を奪ってしまうものなのではないかと思うのです。
むしろ「めくら」や「つんぼ」というもちろん元々差別的意味合いを含んでいる言葉であっても、差別用語として封印していなければ、今ほど差別的な意味合いの度合いは強くならなかったのではないかと思うのです。

「あなたはめくらですか?」と障害者に言ったとして、もちろん言われた方はショックを受けるでしょうが、本当に差別心のある人が障害者に対してそういう言い方をするでしょうか。むしろ差別心のある人は言えないと思います。もちろん「そんな言い方しなくたって、目がお悪いのですか?という言い方があるじゃないか」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、そのどちらの言い方でもその後に「ああそうですか。それで、なにかご不自由はないですか?」という言葉から会話が生まれ健常者が障害者を避けることなくコミュニケーションが取れる社会になってもいいんじゃないかと私は思うのですが、いかがでしょうか?そのときには「めくら」という言葉は差別用語でもなんでもなく、英語圏の人たちが使っているような blind と同じように実態を表現する言葉になっていると思うのです。

そんなに甘いもんじゃない!と思われたらご意見を聞かせて下さい。

お礼日時:2002/05/01 09:01

まだ,出ていないと思いますので、ひとつ書かせていただきます。



私が書かせていただくことの要点は、
差別用語はだれが決めたのか?
-->
差別用語は、左翼によって仕分けられ、選別されたものである
ということです。

まずは、回答らしきものを・・
>極端に言えば「中国語はOKで日本語はダメ」ってことですか?
これは、NOだと思います。

支那の例を見ても、そうですが、左翼思想が指定するものは、いくつかあります。また、英語圏のblindはじめ英語表現は、日本の左翼による「言葉狩り」が盛んであった時点でポピュラーではなかったために網の目を潜り抜けただけです。もちろん、シナチク、支那そばなどもしかり。

私の考えでは、先の方がおっしゃるように、「人を差別し傷つける(意図を持って発せられた)言葉」が、本当の「差別用語」ですので、外国の子女が日本の小学校で「ガイジン、ガイジン」とはやし立てられたなら、「外人」は差別用語であることになると思います。

しかし、左翼(特にマスコミに浸透した自称反権力の権力者)はそうしなかった。一定の言葉の「基準」を作ってしまったのです。そしてそれは、放送禁止用語集として、大成され、踏襲されてきています。
用語集の継承者たちは、「むしろ目立たせようが、たたかれたくないと思われようが」関係なく、単にはみ出さないことで「良識ある自分」を守っているだけです。

そして、その用語集が問題の「差別用語」の定義書であり根源なのです。

ですから、ご質問の
>これらの言葉が使用できないというのに不自然さを感じています。
というのは、きわめて当たり前の感覚であると思います。

>日本固有の大和言葉
にも多少の恨みがあったのでしょう(○教組は特に・・)

左翼人権派の「言葉狩り」では、本当の差別が潜伏し、より陰湿になって行くだけのように思います。

うまく言い表せないのがじれったいのですが、ハンディキャッパーをどのように呼んでも、真の意味で差別しない人々が大多数になる日を願っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

差別用語は左翼および自称左翼によって作られたのですか。なるほど、そういう見方もあったのか、と驚いているところです。

ただ、blind, deaf 等の件は日本でどう扱われたというよりも英語圏の人たちにとってどうなのか、差別的ではないのか、それとも障害者が聞いてもただの「そういう状態」や「そういう状態の人」を表す単なる言葉でしかないのか、ということなのです。
これらの言葉は映画や小説などにも出てきますし、日本語では直接的な「めくら」、「つんぼ」に当たる言葉だと思っていますので、日本と何が違うのだろうという疑問が自然と湧いてくるのです。
日本は閉鎖的、欧米は開放的と一概には言えないと思うので。
それに、英語でも障害者のことをいうときに defective, deformity などと言う代わりに婉曲的に disable person や handicapped person が使われていますが、これは一般市民的レベルで常識化していることであって、日本の情況とちょっと違うようです。

また日本では「臭い物には蓋」的に一時的に結果オーライであっても、それぞれの言葉に関して充分な論議がされていないと思っているのは私だけでしょうか。

お礼日時:2002/05/01 01:33

「めくら」「つんぼ」などの言葉は,


「目の見えない状態」「耳の聞こえない状態」を指すのではなく,
「目が見えない人」「耳の聞こえない人」を指していませんか.

他にも,「ハゲ」「デブ」「ブス」「短足」なども状態ではなく,
人を指して使う場合は差別(侮蔑)的な意味が感じられます.

また,「めくら滅法」という言葉は,
「目の見える人が,まるで目が見えないかのように,
めちゃくちゃな振る舞いをする」という意味だと思いますが,
「目が見えない人はめちゃくちゃな振る舞いをする」という決め付けが
言外に含まれています.本当はそんなことはないのに.
それらの言葉が,慣用語句として使われる場合は,
このような使い方が多いように思います.他の例は思いつきませんが.

等と書いてみましたが,
|しかし、これらは日本固有の大和言葉であって、
|これらの代わりに用いられる漢語表現である「盲目」「聾唖」「狂人」などが
|OKというのがイマイチ納得できません。
この答えにはなっていませんね.すみません.

差別用語とされている言葉を使うべきではない理由の参考にはなったかな.
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この回答へのお礼

どうも回答ありがとうございます。

>「めくら」「つんぼ」などの言葉は,
>「目の見えない状態」「耳の聞こえない状態」を指すのではなく,
>「目が見えない人」「耳の聞こえない人」を指していませんか.

もちろん、それはわかっています。私は「めくら」=「目が見えない人」、「つんぼ」=「耳の聞こえない人」を指すものだと思っています。でもそれらが「目の不自由な人」、「耳の不自由な人」と言い換えても事実描写としては変わらないどころか、却って事実を曖昧にしているだけとしか思えないのです。

>「目が見えない人はめちゃくちゃな振る舞いをする」という決め付けが
>言外に含まれています.本当はそんなことはないのに.

それもそう思います。それは私が質問の中で書いた「めくら・つんぼ・おし・きちがい・・・などの言葉が最初から単なる事実の描写以外に差別的な意味合いを含んでいたと思います。」のように差別的な意味合いが含まれているのは理解できます。
ただ、それを「差別用語」だから使ってはいけない、あるいは使わない方がいいという結論に達するまで、充分に議論がされたのかが疑問です。
私の推測では、障害者に対しても「健常者」に対しても「思い遣り」の精神が働いて、本音をぶつけ合う議論を避けてきたとしか思えません。「思い遣り」といえば聞こえはいいですが、全てをなあなあで済ます日本的な悪癖ではないでしょうか。

お礼日時:2002/05/01 01:08

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