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 以前、古事記や、ヤマトタケルに関する本を読んでいたところ、歴史家の人たちは、その存在を否定していました。
 歴史家ではない人は、実在であるという方が多いように思います。
自分も実在したと思うのです。連歌等の詩も残っているし、妻からの詩もあります。
 どうも、歴史家の言い分を聞いていると、その時代にそれ程の軍事的な天才はいなかったと言うのが根拠のようですが、そんな曖昧な理由で、英雄を葬るのは残念なきします。みなさんはどう思われますか?

A 回答 (12件中1~10件)

#7です。



>ヤマトタケルの存在の疑問も、2世紀頃という時代背景に疑問がある・・

この点に関して私の考えを述べ、追加回答とさせて頂きます。

左翼歴史家に言われるまでもなく、古代の天皇の長寿は異常です。8世紀の日本書紀編纂チームの人々も疑問を持っていたはずです。しかし、次の事を知ればこの疑問は氷解します。

中国の歴史書『魏略』の倭人に関する記述に、「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」とあります。

⇒倭人は・・「その俗(倭人の習俗では)、正歳四節を知らず。ただ、春耕秋収を計って、年紀と為す」

つまり、3世紀ころの日本人は、年齢を数えるのに今の1年を「二年」と数えていました。春が来て1歳、その年の秋が来てまた1歳と。つまり一年経るごとに2歳づつ加齢したわけです。従って、日本書紀には神武天皇の薨去年令は127歳、垂仁天皇は140歳、景行天皇は106歳と書いてありますが、いずれも半分が正しい薨去年齢なのです。神武天皇は63歳、垂仁天皇は70歳、景行天皇は53歳で薨去されました。

次にヤマトタケルの在世年代はいつか。

天皇の即位年についての日本書紀の記述には政治的な思惑が働いているので、私は、古事記に書いてある天皇の薨去年を信用して神武天皇の即位年などを割り出しました。

古事記によれば、第十代崇神天皇の薨去年は戊寅年で西暦318年です。第十三代成務天皇は乙卯年で355年です。ヤマトタケルは第十二代景行天皇の皇子ですから、4世紀前半がヤマトタケルの在世年代だった事になります。大和朝廷はこの時期に、九州に反乱が起ればこれを鎮圧し、その一方で東海、関東への支配圏拡大を急速に推進したわけです。

最後に神武天皇の即位年ですが、西暦190年から210年の間と考えております。(崇神天皇から推古天皇までの平均在位年数から神武天皇の即位年を推定しました。)
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この回答へのお礼

返事が遅れて申し訳ないです。正月は忙しいですね<(_ _)>

>3世紀ころの日本人は、年齢を数えるのに今の1年を「二年」と数えていました。春が来て1歳、その年の秋が来てまた1歳と。
 
 確かに日本に暦が出来るのは、ずっと後のことですよね(詳しくは分かりませんが)この説を聞いて、年齢的な疑問は氷塊しました。hinode11さんは博学ですね。天皇の没年から、在世起源を割り出すとは驚きです。
 ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/05 19:58

No.6です。


あえて私は歴史家としての立場ではなく、オカルティズムの立場をとって投稿しました。
確かに史資料の積み重ねによっての歴史学は必要であろうと思いますが、オカルティズム的な説も無視はできないですし、それが実際当たっている場合も歴史的にはあるからです。いろいろな回答者の方々の投稿をみると両方が入り混じっているような感じになってますね、渡部昇一氏という方は英語学が専門なのですが、本人も曰く、知性には二種類あってインテリジェンスとインテレクトがあると言ってます。インテリジェンスとはダチョウやニワトリの知で足で走れる知識、インテレクトとは、ワシやツバメのように空中を突っ切って飛ぶことのできる知識になりますが氏はインテレクトが強い方なので、歴史家の専門家からみれば何を言ってるんだというような理論がでてきますが、実際はそれが的を得ていることが多いんですね。地学的に言えば、大陸移動説を初めて打ち出した人もインテレクトであったと思いますし、コペルニクスの地動説もヘルメス思想という太陽中心の神秘思想が底流にあるんですね。 話が飛びましたが、私は確かに伝説上のようにいわゆるモデルのようなケースもあると思います。私は神武天皇がそのケースだという説を取ります、オカルティズム的な立場からいうと、紀元前830年頃に実在の人物である天御中主神が出生して高千穂の国を造り、国王と神官とを兼ねた形で日本神道を創設、これが神武天皇のモデルになっていて、実際には神武天皇というのは存在しなかったが、東征の話はヤマトタケルとごっちゃになっています。
いずれにしても、こうしてみると歴史家の存在もやっぱり必要であることがわかります。もしそのころに紙の発明ともしくはしっかりした歴史家が記録の編成を行えば、もっと正確な記録が残っていたでしょう。
しょせん古事記なども、そのころの霊能者が書いたものらしいですからね。
これからは安部政権になって、教育改革なども行われるとマルキシズムも葬り去られて、邪馬台国論争からヤマトタケル実在論争に移っていくかもしれませんね。
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この回答へのお礼

>あえて私は歴史家としての立場ではなく、オカルティズムの立場をとって投稿しました。

 自分は実はオカルティズムは大好きなんです。大好きという言い方はおかしいですが、オカルトとは「神秘的な」という解釈をしています。実際、現代のアニメなんかでもオカルト思想抜きでは見れない物が多いですよね。かといって、それが頭のおかしい人が作ったのかと言えばそうではない。

>歴史家の存在もやっぱり必要であることがわかります。 

 自分もそう思います。
オカルトだけに偏りすぎると、行き着くところは中世ヨーロッパのキリスト教の歴史観になるでしょうから。「マリアの処女懐妊を信じない者は異端」と言った具合に。
 逆にオカルト思想を全く無視した「現代的価値観」だけの歴史もあまりおもしろくないと思うのです。
無神論者の立場から言えば、オカルティズムを書く人は、全て変人読む価値は無いというスタンスですよね。それでは視野が狭すぎるのではないかと思うのです。
 syokizouさんの様な方にも投稿していただいてうれしく思います。ありがとうございました。

 余談ですが、オカルトで言えば、ヤマトタケルの前世は古代中国の「韓信」だそうですね。黄金の法と言う書物によれば。

お礼日時:2007/01/05 20:36

日本書紀や古事記に関してですが、、、。


歴史的事実に関しては、余り当てにならないと思います。
中の記述は、殆ど伝承や伝説の域を出ませんね。
古事記も日本書紀も、日本の「正史」の書として成立しており、また重要視されています。
しかし、「正史」とは国の正統性やアイデンティティを主張するために成立しています。つまり、時の為政者が押しつける訳です。
第二次世界大戦中の日本軍の歴史に関して、日本と中国・韓国との主張が食い違うのは、この「正史」の違いな訳です。
同じように、この2書の真実性についても、歴史家はそれぞれの思想的立場からこの書を「本物」「偽物」に分けるわけです。

では、この二つの書が歴史事実を解明するためにまったく役に立たないかと言うと、そうでもありません。
中には、「真実」も含まれている場合もあるからです。
この「真実」を確定するのが、歴史家の仕事ですが、そのためにはこの二書の記述に捕らわれていては出来ません。
他の史料(中国の歴史書の日本に関する記述とか、遺跡から出てきた遺物など)と相対的に比較して、事実を確定しなければなりません。
歴史家の論説を聞くにあたり、この作業が正当にされているかを考えなければなりませんね。
邪馬台国の存在の史実性も、古事記・日本書紀によるのではなく、中国の史料である「魏書」の中の「倭人に関する記述」(通称「魏志倭人伝」)から認められた訳ですしね。

さて、くだんのヤマトタケルですが、私は伝説上の一人物だと思っています。
ただし、完全な創作ではなくてモデルはあったろうと思います。
そして、複数の地域の英雄伝承や伝説が「古事記・日本書紀」の成立期には一人の「ヤマトタケル」伝説になったんだと思います。
まぁ、イギリスにおける「アーサー王伝説」や、フランスにおける「ジャンヌ・ダルク伝説」の類だと思います。
いずれの例も、国のアイディンティティの象徴ですね。
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この回答へのお礼

 返事が遅れました。
 古事記や日本書紀が作られた頃には、「現代的な日本史」と言う概念が無く考古学なんかも無かったと思うので、実際にあった話ばかりが選ばれたとは考えにくいですね。

 自分がヤマトタケルは実在したと思える大きな根拠は、熱田神宮です。明治頃までは、日本人というのは非常に怨霊を恐れる民族であったのです。怨霊を鎮めるために建てられた神社は数多いですよね。
 大国主命、菅原道真、平将門、最近では明治維新に崇徳天皇のお祀りなども行っています。

 古代の人たちには、非業の死を遂げたヤマトタケルを祀る理由が十分にあったのだと推理できるんです(^_^)

お礼日時:2007/01/05 20:16

 記紀の記述を元にして、忠実に系図を作ると、日本武尊の部分では系図が上下でつながってしまい、ぐるぐる回しになってしまいます。


 また記述では、この時代の天皇の在位期間がとんでもなく長くなるなど、時間経過もかなり大雑把と言えます。

 とはいえ、文面からは、かなり生々しい存在感が感じられます。また、東国にも西国にも出かけて勝利を重ね、残している逸話を全て否定することは、残された最も古い記録を捨て去ることであり、あまりにももったいない話です。
 たとえ、本当の歴史的事実から変容しているにせよ、そこにある時代の雰囲気まで否定しなくとも良いと思います。

 これらの点を踏まえ、その名前である「日本武尊」=「日の本の武に秀でた御子」から考えて、一人の人物ではなく、時代の異なる数人の武に優れた皇子の行動を一人にまとめあげて記述したと考えて、ほぼ間違いないと私は考えています。

 世代の違う数人の皇子の逸話であれば、系図の混乱・数多くの軍事的勝利も当たり前と言えます。
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ANo5の続きです。


日本書紀・古事記によればヤマトタケルの時代は2世紀のこととされています。
残念ながら2世紀の段階でヤマト政権による征討が行われた可能性はありませんし、2世紀段階で熱田神宮が存在した、とするのは現在の考古学的成果からすると根拠がありません。
「古事記以前の資料で説明出来ず」と言われますが、古事記以前の文献は現存していませんし、古事記以前の資料で説明できないというのはむしろ「古事記編纂の段階で熱田神宮の創建縁起が創作された」と考えることもできます。
また地名説話はいくらでも「こじつけ」できるので「焼津」をヤマトタケル実在説の根拠とするのはちょっと弱いでしょう。
それに焼き討ちにあったのは相模国(神奈川県)あるいは相武国造とされているのにそれが静岡にあるという不自然さは否めません。
歴史学は思想云々ではなく史資料の積み重ねによらなければなりません。
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ヤマトタケルは実在の人物です。



(1)古事記に、景行天皇の第三皇子、名は小碓命、又の名を倭男具那命、又の名を倭建命とあります。
(2)日本書紀に、景行天皇の第二皇子、名は小碓尊、又の名を日本童男、又の名を日本武尊とあります。
(3)常陸国風土記に「倭武天皇(※)が東の夷の国を巡察されたときのこと、新治の県を行幸され、国造ヒ那良珠命を遣わされて新しく井戸を掘ると、流れ出る泉は清らかに澄んで心惹かれる美しさであった」とあります。

※やまとたけるのすめらみこと。ヤマトタケルに天皇号が諡られた時期があったようです。

歴史家にヤマトタケルの実在を否定する人が多いのは、歴史学会に左翼の歴史観が蔓延しているためです。その証拠に、中学校や高等学校の歴史教科書のほとんどが左翼史観に基づいて書かれております。

左翼史観とはマルクスの階級史観のことです。マルクス主義者は君主を倒してプロレタリアート独裁の国を創ることを目標としましたから、君主の権威を失墜させることに熱心であり、常に君主の祖先を否定したりケチをつけたりしたのです。

「”その時代”にそれ程の軍事的な天才はいなかった」という歴史家の言い方も、彼らの頭に染付いた階級史観が言わせるのです。普通の頭で考えれば、平安末期には源義経という天才が居たのだから”その時代”に軍事の天才が居たとしても全然おかしくないはずです。
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この回答へのお礼

 マルクス主義者達は、基本的に共産党党首以外のカリスマ指導者はいらないんですよね。最近「ソビエト帝国の崩壊」を読んだところなんですが、彼らの洗脳教育は徹底しているようですね。それが嫌で、特権階級の人までが、亡命しているようですから。

 この質問をしてみたのも、マルキスト達への疑問からなのが大きいのです。
 古事記の五分の一にも及ぶ記述がありながら、あっさり葬るその歴史への態度は、傲慢の様にも思えたからです。

 ヤマトタケルの存在の疑問も、2世紀頃という時代背景に疑問がある程度のようにも思われ、明らかに年表から無視しなくてはならない存在では無いと思います。明らかに、記紀の国史への侮辱でもありますよね。
 熱田神宮もあるし、焼津地方の地名の由来もありますもんね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/26 20:21

実在の人物です。


卑弥呼というのは本来の読み方は日向と書いてひむか、邪馬台国はヤマト国で九州の阿蘇の付近にあり、これが初期の大和朝廷でした。
卑弥呼の実の弟の子供が後の景行天皇でその子供がヤマトタケルになります。
やはりヤマトタケルは軍事的天才で東征を開始、これによってようやく日本に統一の政権ができあがり、そのあと邪馬台国(ヤマト国)は奈良に政権を移した形になります。
3世紀から4世紀の頃になります。
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この回答へのお礼

邪馬台国が、ヤマト国であるとするならば、大和政権と密接に関わがあったとするのもうなずける話です。
 以前、霊言集シリーズを読んでいた頃に、上記のような説があったように思います。太陽信仰があったのは、確実のようですので、指導者であった卑弥呼の名前が日向であったとしても不思議では無いかもしれません。
 記紀によれば、東征を行ったのは神武天皇ですが、こちらの説ではヤマトタケルと言うことでしたね。やはり、大変な事業を行ったんですね。

お礼日時:2006/12/26 20:07

日本書紀や古事記では「実在した人物」として書かれている訳ですから歌や妻からの詩を後世に創作した、とも考えられます。


このような理由で「実在した」というなら明智小五郎や金田一耕助も実在したと主張できます(^^;)
実在しなかったというのは「それ程の軍事的な天才はいなかった」ということではなくヤマトタケルの事跡があまりにも「英雄潭」に過ぎるからではないかと思います。
戦闘というよりはヤマトタケルが相手の首領と一騎打ちで勝って支配する....そんなに簡単にはいかないでしょう。
それに考古学的な成果ではヤマトタケルの時代以前からヤマト王権の支配は全国的に広がっています。
ヤマト王権の全国支配の過程がヤマトタケルという英雄に集約された、と見るのが自然です。
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この回答へのお礼

 確かに、ヤマトタケルは戦争はそれほどしてなくて、謀略によって敵を倒していますよね。
 しかし、ヤマトタケルと父の景行天皇日本史の年表から無視されています。
 渡辺昇一氏の「甦る日本史」で熱田神宮の起源を古事記以前の資料で説明出来ず、「焼津」の、地名の由来もそれ以外に説明できないのは、非科学的だという指摘もあります。
 古事記や日本書紀の内容はそのまま信じるわけにもいかないですが、抹殺してしまうには、あまりにも大きな存在かなぁと思いまして(^_^;)

お礼日時:2006/12/25 23:44

ワタシはヤマトタケルという「個人」は居なかったと思います。


「大和の国の勇者たち」という意味であり、出兵した兵士たちのことを「ヤマトタケル」と呼んだのだと思っています。
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この回答へのお礼

 回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/25 23:08

えっと・・・ほとんど架空の人物であろうと考えられるが不明、としかいえません。



たとえば、あなたは源氏物語や土佐日記を読んで「本当にあったこと」として捉えますか?あの中にも恋歌やらいろいろと入っていますよね?
でも、普通はあれらは「物語」ですね。

古事記でもそうです。人間が130歳以上生きていたりする話です。科学的に考えれば人間の寿命は、相対的に寿命が長い女性であっても125歳あたりが限界ではないか?と言われています。そして、日本でも有名な長寿の方であっても、何世代にもわたって120歳くらいまで生きていると言うのはありません。
当時の衛生状況を考えればなおさら。当時は盲腸でも死にますからね。
そうなると、当時そのくらいまで普通に生きて政務をやっていた天皇は、人外の化け物(もしくは神様)か、架空の存在か、果て又実在の人物を下敷きにした架空の人物か、となるわけです。
でも、神様も化け物も今は実際に生活しているところも見当たらないですしね。
そして、ヤマトタケルは、そういった天皇の子として描かれています。

まあ、おそらく「モデル」はいたのでしょう(光源氏と源融のようなもの)。しかし、モデルはどこまでいってもモデルであってそこから生み出された人物は実在の人物では決してないのです。
そういえば、チャップリンのヒンケルなんかもそうですね。ヒトラーをモチーフにしているのは明らかですが、それでもあれは架空の人物です。

しかし、可能性としては、0とは言い切れないのが実情です。なぜならば、当時、というか古事記以前は日本は文字が実質的に無い世界ですから、記録が残っていないのです。邪馬台国と同じですが、可能性は0ではないけれど存在したという想像は、想像からどう足掻いても抜け出せない。という世界です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/ヤマトタケル,http://ja.wikipedia.org/wiki/景行天皇
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。
たしかに、源氏物語等は架空の話ですね。ただ、古事記の場合は「国史の編纂」でり、あまりにもヤマトタケルという人物に紙数が裂かれているので、後世に伝えたかった人物なのだろうと思ったわけです。
 
 何年頃の話かは分かりませんが、日本平定の国造りが行われ、大変な事業であったことは確かなようです。そんな時代であれば、後の義経のような英雄が出てきたとしてもおかしく無いかなぁとおもったのです。
全て自分の想像ですけどね。(^_^;)

お礼日時:2006/12/25 23:19

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