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豊臣家は関ヶ原後にはわずか六十万石の大名とされたようですが、関ヶ原以前の直轄領はどの程度あったのでしょうか?

A 回答 (4件)

全国各地に蔵入地として代官を置き、二百万石以上ありました。

なお代官といっても、石田三成や加藤清正など、大名クラスの人たちです。
秀吉が死ぬと、徳川家康の工作により、朝鮮出兵の出費で苦しむ大名たちに、ほとんどが恩賞代わりに分配されました。
豊臣家の主な収入源は、全国各地の鉱山から上納される金銀で、年に金3万3970両、銀79万4150両。荒っぽい計算をすると、一年に日本全国で取れる米(1851万石)を、まるごと買い取れる金額とイメージすれば、わかりやすいかもしれません。
金銀の上納も、秀吉の死後、家康によって停止されました。
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この回答へのお礼

ケチで有名な家康にしては関ヶ原後の配分で豊臣恩顧の大名に随分と気前良いなと思っていましたが、豊家の所領が恩賞代わりに分配されていたのですね。

豊家は領地よりも金山銀山の上がりを重視していたのですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/18 22:05

豊家全盛期の石高は、約230万石だったと言われています。


関ヶ原の合戦の後に所領を各大名に分け与えて60万石ですから、
およそ170万石もの領土を削り取られたわけですね^^;
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この回答へのお礼

230万石、意外と少なかったのですね。
鉱山はいつ枯渇するかしれないのに、秀吉はどうして直轄領に興味を示さなかったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/20 14:46

豊臣家の蔵入地が諸大名へ分配されたのは、関ヶ原より前です。


家康による人気取りでしたが、関ヶ原で東軍につく動機になった家も多かったのでは。
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この回答へのお礼

関ヶ原前にばら撒いていたのですね。さすがタヌキ親父、抜け目ないです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/02/20 14:43

秀吉はどちらかというと商工業や鉱業重視でしたので直轄領は200万石あまりだったようです。


しかもこれらの直轄領も、近畿以外はほとんど近辺の大名に預けて支配させていたので関が原戦後のどさくさまぎれに失われてしまいました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
商工業や鉱山重視で直轄領は家康よりも少なかったのですね。
関ヶ原のどさくさでたった60万石になってしまったのですね。

お礼日時:2007/02/18 21:59

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